酒を捨てろ! 法に従え!
三月の初旬、新設された連邦禁酒局の捜査官たちは、その「初手柄」を求めて西アーカムの路地裏を猛り狂った猟犬のように駆け回っていた。
彼らが狙いを定めたのは、入り口を小綺麗な「理髪店」に偽装したスピークイージー、カニンガム教授達の行きつけだ。
ガセネタではない。確かに昨夜、この扉から赤ら顔の男たちが吐き出されるのを密告者が確認している。
キィィッ、と激しいブレーキ音を立てて二台の捜査車両が店を囲んだ。
斧をひっ掴んだ捜査官たちが、意気揚々と車から飛び出す。
「そこだ、踏み込め!」
彼らが店の前に一歩踏み出した、その時だった。
軒先に吊るされた、鉄製の風鈴――ヒナタが「おまじない」と言って配り歩いた代物――が、風もないのにチリン、と乾いた音を立てた。
次の瞬間、捜査官たちの目に映る景色がグニャリと歪んだ。
「……ん? おい、どこだ。理髪店はどこに行った!」
「何を言ってるんです、そこにあるのは、ただの古いレンガの壁ですよ」
「バカ言え、地図ではここが……。おい、どけ!」
捜査官達のリーダーは目の前の空間に「あるはずの扉」を探し、隣の建物の無機質なレンガ壁をペタペタと必死に触り始めた。
目を見開き、壁の隙間に爪を立てて、「隠し扉があるはずだ!」と叫ぶその姿は、端から見れば狂人の儀式にしか見えない。
一方で、理髪店のガラス越しには、髪を整えていた客と店員が、外で壁を撫で回して騒いでいる男たちを冷ややかな目で見守っていた。
「……おい、ジョー。外の連中は何をやってるんだ? 壁に恋でもしたのか?」
「さあな。禁酒局の新入りだろ。仕事のストレスで変な薬でもキメてるんじゃないか?……関わらない方がいい」
結局、捜査官たちは「クソッ、偽情報か!」と毒づきながら、隣の建物の壁を執拗に蹴飛ばした後、捨て台詞を残して去っていった。
彼らが去った後も、鉄の風鈴だけが冷たい三月の風に揺れ、酒を求める意志のない「不純物」を拒絶するように、静かに鳴り続けていた。
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三月十日。
「いつものスピークイージー」のカウンターには、いつものようにカニンガム教授、○○○、そしてヒナタが並んでいた。
バーテンダーはグラスを拭きながら、数日前に店先で起きた「喜劇」を愉快そうに話し始めた。
「いやあ、笑いましたよ。禁酒局の連中、斧まで担いで乗り込んできたってのに、店の前で急に目が泳ぎだしましてね。
隣の空きビルの壁を『入り口はどこだ!』なんて言いながら必死に撫で回してるんですよ。
しまいには仲間にまで『壁しかないじゃないか』なんて言われて、顔を真っ赤にして帰っていきました」
話を聞いていた店内の客からも、ドッと笑い声が上がる。
バーテンダーはニヤリと笑い、カウンターの下から一本のボトルを取り出した。
「おかげで店は無傷だ。……なあヒナタ、まさかこの間お前さんが『おまじないだ』って言って吊るしていった、あの変なベルのおかげじゃないだろうな?」
冗談めかした問いかけだった。バーテンダーは、この風変わりな少年が時折見せる奇妙な言動を面白がっていただけだ。
だが、ヒナタはカクテルチェリーを口に運びながら、事も無げに返した。
「そうだよ。あれ、お酒を飲みたくない人……つまり、お酒を憎んでる人の目には、入り口が見えなくなるようにしてあるんだ。
そういう人は、自分で自分を納得させて通り過ぎちゃうんだよ」
店内が一瞬、静まり返る。バーテンダーは数秒の沈黙の後、大笑いしてヒナタの肩を叩いた。
「ハハハ! そいつは最高だ!
酒飲みの意志を試す『聖なる鐘』ってわけか。面白い冗談だ、坊主。
礼にライムジュースを一杯奢らせてくれ!」
バーテンダーが陽気にシェイカーを振り始める中、カニンガム教授と○○○だけは、互いに顔を見合わせていた。
二人は知っている。ヒナタという存在の根源を。そして、彼が「冗談」を言うような性格ではないことも。
(あの小さな鐘を配る許可を出したのが私とはいえ……)
((大体のトラブルを殴って解決してきたヒナタ(君)がスマートに物事を片付けてると違和感があるな……))
教授と○○○の視線に気づいたヒナタは、ストローをくわえたまま、不服そうに首を傾げた。
「殴って片付く問題ばかりだから殴ってるだけで、ちゃんとこの手の魔術も使えるんですよ?」
カニンガム教授は、冷めた紅茶を一口飲み、小さく溜息をついた。
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三月十一日。
いつものスピークイージーの奥に設けられた個室には、カニンガム教授とイレギュラーズのボス、アルが向き合っていた。
カニンガム教授の傍らには○○○が控えている。
テーブルの上には、数日後に迫った「聖パトリックの祝日」に向けた計画書が広げられている。
「教授、例の『緑のビール』の件だ。アイルランド野郎どもは、この日ばかりは噴水からだって酒が出るはずだと信じてやがる。
今年もいつも通り売らないつもりだが……教授の意見を聞かせてくれ」
アルは葉巻を燻らせながら教授を伺った。
緑色に染めたビールを街中に溢れさせるのは、この祝祭の伝統であり、マフィアにとっては絶好の稼ぎ時だ。
しかし、緑色の染料は大体、毒か酒の味を台無しにする物なのでイレギュラーズは取り扱っていない。
教授は眼鏡の縁を指先でなぞり、冷徹な一言を放った。
「アル、素晴らしい判断だ。禁酒局の新任たちは、実績を求めて飢えている。
彼らはアイルランド系の古い慣習……警察が祝祭日だけ目をつぶるという『暗黙の了解』を、真っ先に、そして最も残酷な形で踏みにじるだろうね」
「……そこまでやるか? 祭りの最中に一斉摘発なんてやりゃ、暴動が起きるぜ」
「彼らは市民の怒りなど恐れてない。
むしろ暴動が起きれば、それを理由により強力な武力行使を正当化するだけだ。
アル、今年の『緑』も、ほうれん草のキッシュとかツマミだけにしてくれ」
教授の予測は、単なる推測を超えた確信に満ちていた。
傍らで控えていた○○○は、教授の言葉を聞きながら、寮や研究室に押し入った捜査官達の姿を思い出していた。
あの男のように、自分の信じる「正解」のためなら、他者の楽しみも、歴史も、伝統も一切顧みない人間が、今この街には溢れかえっている。
「……わかった。今年のパレードもいつも通りに行こう。
その代わり、店の中はいつものように酒を溢れさせてやる」
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三月十七日、聖パトリックの当日。
アーカムの街は、緑色の服を身にまとった市民たちの熱気で沸き返っていた。
しかし、その熱狂を冷淡な「鉄の規律」が切り裂いた。
パレードの最中、伝統に則って「緑のビール」を屋台で出していた他組織の露天商たちが、地獄を見る羽目になったのだ。
禁酒局の捜査官たちは、祝祭のムードなど一顧だにせず、群衆の中に斧と警棒を持って突入した。
「酒を捨てろ! 法に従え!」
悲鳴と怒号が飛び交い、伝統の「緑の液体」が排水溝へと虚しく流れ落ちる。
抗議した店主は路上に組み伏せられ、見せしめのように引きずられていった。
新任捜査官たちの目は、まるで獲物を追い詰める猟犬のようにぎらついており、市民の怒りさえも自らの「正義」を証明するスパイスであるかのように愉悦を感じていた。
そんな惨状を横目に、アルは自らの拠点であるスピークイージーの窓から外を眺め、背筋に冷たいものを感じていた。
「……教授の言った通りだ。あいつら、本当に加減ってものを知らねえ」
イレギュラーズの配下たちは、教授の忠告に従って表での商売を一切控えていた。
おかげで、他組織が次々と壊滅的な打撃を受ける中で、彼らの被害はゼロだった。
それどころか、店の前までやってきた捜査官たちが、軒先に吊るされたヒナタの「風鈴」がチリンと鳴った瞬間に、まるで見えない壁に阻まれたかのように視線を逸らし、別の路地へと去っていく様をアルは目撃した。
「なあ教授……あんたには、あいつらがどう動くか、最初からチェス盤でも見てるみたいに分かってたのか?」
カウンターの隅で、○○○が淹れた紅茶を啜っていたカニンガム教授は、視線も上げずに淡々と答えた。
「ツテでドライ(禁酒派)の特別過激な面々が捜査官として配置されると聞いていたからね……セイラムが全米で起こるような物だと考えれば、ある程度の予想は付く」
その隣で、ヒナタとカイは「緑色」のバジルソースをかけたカナッペを美味しそうに食べていた。
「セイラム?ねえヒナタ、それってよくわからないけど、そんなにヤバかったの?」
「ヤバいよ。『あいつは魔女だ』なんてテキトーな訴えだけで、証拠が無くても即座に死刑判決が出る裁判がセイラムって所で何度も起こったって事件だからね」
うわぁ……とドン引きするカイを他所に○○○は、窓の外でなおも続く摘発の喧騒と、魔術の風鈴に守られたこの静かな聖域の対比に、形容しがたい薄気味悪さを感じていた。
カニンガム教授の底知れぬ智謀と、ヒナタとカイがもたらす人外の理。
禁酒局という巨大な権力が牙を剥けば剥くほど、それらを手玉に取るこの研究室の面々の方が、よほど恐ろしい存在に見えてくる。
しかし、話の通じない狂信者より話の通じる危険人物のほうが遥かにマシなのだ。
「さあ、祭りはまだ続く。……だが、今日でこの街の『旧いルール』は完全に死んだ。
明日からは、さらに歪んだ時代が始まるだろうね」
教授の呟きと共に、三月の風に揺れた風鈴が、また一つ、招かれざる正義を深淵へと遠ざけた。




