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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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77/80

……いやあ、信仰を守るのも大変だね

 三月の初旬。ワシントン州南部からアーカムへと至る沿岸部では、新設された連邦禁酒局と沿岸警備隊による、かつてない規模の「ラム・ライン」掃討作戦が展開されていた。


 海面には最新鋭の高速艇が何隻も配備され、白波を立てて不審な船を追い回している。

実際に、逃げ遅れた数隻の密輸船が拿捕され、船倉から大量の密造酒が押収される戦果も上がっていた。

しかし、捜査官たちがどれほど目を皿のようにして水平線を監視しても、イレギュラーズの所有する「本命」の貨物が姿を現すことはなかった。


 彼らが空の水平線に苛立ちを募らせていたその頃、海面下数十メートルの暗い深淵では、地上の物理法則をあざ笑うような光景が広がっていた。


 荒れ狂う三月の冷たい奔流の中を、数十個もの酒樽を引き連れて「潜航」する影があった。

それは重い潜水服を着たダイバーでも、ましてや潜水艦でもない。

擬態を解き、髪を触手に戻したリュウグウの日系人たちだ。


 彼らは海流操作魔術により、周囲の海流を自在に操作し、巨大な樽の群れをまるで羽毛のように軽々と牽引していた。


「……上は随分と騒がしいようですね」


 一人が水中で微かに思念を飛ばす。彼らにとって、海流は逆らうものではなく、己の意志で編み上げる道に過ぎない。


 海面で高速艇がどれほどエンジンを吹かし、サーチライトで暗い波間を照らそうとも、水深数十メートルを魚よりも速く泳ぎ去る「運び屋」を捉える術は、人類の科学にはまだ存在しなかった。


 イレギュラーズの最高級品は、新任捜査官たちの足元を悠々と通り抜け、誰にも気づかれることなく指定の受け渡し場所へと届けられている。


---


 海上の喧騒を余所に、アーカム近郊の渓谷は静謐な春の訪れに包まれていた。

雪解け水が流れ込む川面は青白く透き通り、その冷たい奔流を突き進む「鋼鉄の鱗」――スチールヘッド(マスの仲間)たちが産卵のために遡上を始める時期だ。


「いいかい、○○○君。三月の冷水に耐えて川を上る彼らの強靭さは、我々人類が見習うべきバイタリティの結晶だよ。

まあ、今日は単に私の息抜きに付き合ってもらうだけだがね」


 カニンガム教授は、上機慣れした手つきで愛用のロッドを振っていた。

傍らには、○○○が手慣れた様子でキャンプの準備を進めており、少し離れた上流では触手でスチールヘッドを熊のように川から弾き飛ばしている少年の姿のヒナタがいる。

ヒナタを見なければ、厳格な教授と教え子たちによる、のどかなフィールドワークの一幕にしか見えない。


 だが、その平穏を、少し下流の岩場から注がれる粘りつくような視線が汚していた。


(……噂には聞いていたが、あの学者、なんて化け物を飼っているんだ……)


 岩陰で安物の釣竿を握りしめていたのは、連邦禁酒局の新任捜査官、ヘンダーソンだった。

彼は「地元の釣り人」を装い、数時間にわたって一行をマークし続けていた。


 しかし、その変装はあまりに稚拙だった。卸したてで折り目のついたフィッシングベスト、不自然なほどピカピカなリール、そして何より、一度も水面を見ようとせず、不器用に竿を振り回しながら教授たちの会話を盗み聞きしようとする挙動。

カニンガム教授達からすれば、その「正体」は、あまりにもわかりやすかった。


 ヘンダーソンは、震える手でリールを巻きながら教授たちの動向を書き留める隙を窺う。

だが、彼はあまりに「獲物」の監視に集中しすぎるあまり、自分自身の背後に漂い始めた、強烈な野獣の体臭に気づいていなかった。

三月の凍てつく森で目覚めたばかりの、飢えた獣の殺気が、すぐそこまで迫っていることにも。


「……おや。○○○君、あっちの『釣り人』さんは、どうやら魚以外に好かれているようだね」


 カニンガム教授が、釣竿を動かさずに視線だけをヘンダーソンの背後へと向けた。


 ヘンダーソンのすぐ後ろの茂みでは、冬眠明けの空腹に苛立つアメリカクロクマが、その巨大な質量を音もなく持ち上げようとしている。


 背後の茂みで「パキリ」と乾いた枝が折れる音がした時、ヘンダーソンはそれを風の悪戯だと思い込んだ。

次に漂ってきた、腐ったゴミと獣を混ぜたような強烈な悪臭も、泥の匂いだと言い聞かせた。


 しかし、すぐ背後で「グルル……」という、地響きのような唸り声が聞こえた瞬間、彼の背筋に氷水が流れた。


 ゆっくりと振り返ると、そこには立ち上がって二メートルを優に超える高さになったアメリカクロクマがいた。

飢えで落ち窪んだ眼光が、新任捜査官を「法を司る人間」としてではなく、単なる「動く肉」としてロックオンしている。


「あ……ひっ、あ……」


 腰のホルスターから銃を抜こうとするが、指が凍りついたように動かない。


 その時、上流で火を熾していた○○○が、立てかけていたライフルをひっ掴んで立ち上がった。


「ヒナタ、危ない! あそこに――」


 ○○○が叫び、銃口を向けようとしたその刹那。


「そぉい!」


 横をすり抜けていったのは、銃弾よりも速い「影」だった。


 ヒナタの声が響くと同時に、彼の髪……いや、頭部から一部露呈した「触手」をしならせ、弾丸のような速度で大きな石を放った。


 ドゴォッ! という、肉と骨が砕ける鈍い音が響く。


 ヒナタが上流から投げつけた石は、正確にクマの眉間を撃ち砕き、その巨躯を即死させた。


 地面を揺らして倒れ伏すクマ。唖然として腰を抜かすヘンダーソンの目の前までやって来たヒナタは「よっこらしょ」と呟きながら、自分よりも遥かに重いクマの巨体を触手で軽々と持ち上げた。


「……新鮮だね。血が回る前に川で冷やして解体しちゃうよ」


 ヒナタは擬態の一部を解いたまま、ヌルリと動く触手を使ってクマを川へ放り込んだ。

 凍てつく川面に赤い血が広がり、彼が迷いのない手つきでクマの腹を裂き始める。


 法と正義を執行しに来たはずのヘンダーソンは、返り血を浴びて鼻歌交じりに「解体」を進める少年の姿を、ただ震えながら見つめることしかできなかった。


 「……大丈夫ですか? 捜査官さん」


 足腰が立たなくなったヘンダーソンに、○○○が苦笑まじりに手を貸した。


 ヘンダーソンは震える手で○○○の肩を掴み、ようやく立ち上がったものの、その視線は川べりで一心不乱に「作業」を続けるヒナタに釘付けになっていた。

少年の握るナイフと、不自然な角度でうねる触手が、巨大な獣を瞬く間に「肉の塊」へと変えていく。


「あ、あの……彼は、一体……」

「カニンガム教授の優秀な助手ですよ。少しばかり、野生児なところがありますが」


 ○○○はそう適当に受け流すと、ヒナタが解体したばかりの肉を、手際よく枝に刺して炙り始めた。


 ジュウ、と脂の弾ける香ばしい匂いが漂う。

冬眠明けで締まった熊の肉は、野性味に溢れ、空腹の胃袋を刺激する強烈な誘惑を放っていた。


「さあ、焼けましたよ。釣りの途中に熊に遭うなんて災難でしたね。

ここで会ったのも何かの縁です、一緒に熊を食べて行きませんか?」


 ヒナタが炙ったばかりの心臓ハツと赤身の肉を刺した木の枝を伸ばした触手で掴み、そのままヘンダーソンの鼻先に差し出した。


 ヘンダーソンは一瞬、拒絶しようとした。自分は連邦禁酒局の人間だ。

違法な酒、不衛生な食品、そして何より目の前の「不気味な連中」を監視するためにここへ来たのだ。

だが、極度の恐怖と寒さに晒された身体は、その純粋な栄養を本能的に拒むことができなかった。


「……あ、あぐ……」


 熱い肉を口に運び、咀嚼する。

 街で売られている保存料まみれの肉や野菜とも違う、暴力的なまでに力強く、清浄な生命の味。


「どうです? 毒なんて入ってませんから、安心してください」


 ヒナタが屈託のない笑顔で笑いかける。その背後では、カニンガム教授が悠然とスチールヘッドを釣り上げ、「いい型だ」と満足げに頷いていた。


 結局、ヘンダーソンは法と正義を語る余裕すらなく、警戒対象であるはずの学生たちに囲まれ、夢中で熊肉をかじるしかなかった。


 夕暮れ時。泥だらけのフィッシングベストを揺らしながら山を降りる彼の背中には、新任捜査官としての威厳は微塵も残っていなかった。


「……いやあ、信仰を守るのも大変だね」


 カニンガム教授が、釣果の詰まった籠を片手に静かに呟くと、三月の冷たい風が、焚き火の煙をさらっていった。

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