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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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……魚が泳いでいる

 2月初旬。


 西アーカムを襲った記録的な寒波は、雪解けと共に粘りつくような泥濘ぬかるみを街に残していった。

政府がアルコールに毒を混ぜ、粗悪な密造酒を煽った市民たちが次々と病院へ担ぎ込まれる暗いニュースが紙面を踊る中、ミスカトニック大学海洋生物学研究室の主宰、コーエン教授は溜息と共にカニンガム研究室の扉を叩いた。


「カニンガム、もう限界だよ。新聞を開けば毒酒と銃声の話ばかりだ。学生たちもこの寒さと閉塞感でノイローゼ気味だよ。

……どうだろう、気晴らしを兼ねて、例の改造漁船で『リュウグウ』へ行かせてもらえないだろうか?」


 コーエン教授の切実な訴えに、カニンガム教授は面白そうにヒナタとカイへ視線を送った。

折よく、ヒナタとカイの脳内には、太平洋の深淵に座する海底都市群から「シオサイ」の最新技術を導入したという思念が届いていたところだった。


「ちょうどよかったです。シオサイから技術提供を受けて、リュウグウに新しい農場ができたって連絡が来て、僕たちも気になっていたんですよ」


 ヒナタの快諾に、コーエン教授と、背後に控えていた研究室の生徒たちは子供のように顔を輝かせた。


 数時間後。港から出港した改造漁船に、○○○、カニンガム教授、コーエン教授一行が乗り込んだ。


 海面を割って潜航を始めた船を包むのは、ヒナタとカイが展開した「結界」の魔術だ。船体にかかる凄まじい水圧を物理法則の場から切り離し、深海へと滑り落ちるその軌道は、深淵へと続く見えないエレベーターのようだった。


 窓の外の景色が、プランクトンの発光をかき消すほどの漆黒に染まり、やがて遠方に人工的な光の塊が見えてくる。

人類の文明からは隔絶され、地上とは別方向に高度な技術を宿した海底都市「リュウグウ」の威容が、泥にまみれた二月の地上を忘れさせるほどの静謐さで、一行を迎え入れた。


---


 リュウグウのドッキング・ベイを抜け、一行が案内されたのは都市の外壁にせり出した広大な展望デッキだった。


 そこは、天井から床までが魔術によって強化されたガラスで構成されており、訪れる者に「深海の中に身一つで放り出された」かのような錯覚を抱かせる空間だ。


「おお……見ろ、これだ! 地上の醜い争いが届かない、真の神秘がここにある!」


 コーエン教授が狂喜し、鼻先をガラスに押し当てるようにして外を凝視した。


 漆黒の深淵の中、リュウグウが放つ微かな人工光に誘われ、異形の「影」たちが次々と姿を現す。


 透明な肉体の中に虹色の神経束を明滅させる巨大なクラゲ。

数メートルの長さがある触手の先端に、見たこともない色彩の生物発光を宿した未知の深海魚。

それらは優雅に、あるいは不気味に、ガラスのすぐ向こう側でダンスを踊っていた。


「教授、既存のどの分類群にも当てはまらない奴がいます!」

「すぐにスケッチだ! カメラの露出も調整しろ! 一瞬たりとも見逃すな!」


 海洋生物学研究室の生徒たちが、熱に浮かされたようにスケッチブックとペンを走らせる。

彼らにとって、この窓の外は神話のページが開かれたも同然だった。

人類がまだ名前すら与えていない生命が、そこには無数に息づいているのだ。


 その熱狂を背中で聞きながら、ヒナタは退屈そうに指でガラスをトントンと叩いた。

その微かな振動に反応して、一際大きな深海魚がギョロリとした目をこちらに向ける。


「……あの模様が鮮やかなやつ、脂が乗ってて美味しいんですよ。お刺身にすると最高なんですけどね」


 学術的な感動に満ちた静寂を、ヒナタのあまりに即物的な一言が切り裂いた。


「ヒナタ君、自分が平気だからって毒入りかわからないのに食べたくなるような事を言わないでくれ。

味が気になって来るじゃないか。」


 コーエン教授が困った顔で振り返るが、ヒナタはどこ吹く風で、隣のカイと頷き合っている。


「だって、リュウグウに来るときの楽しみって、獲れたての深海魚を食べることがメインでしょう?

あとは、今日見に行く農場の野菜とか。ね、○○○?」


 ヒナタに同意を求められ、○○○は苦笑するしかなかった。


 コーエン教授たちにとっての「深淵の神秘」は、この街の住人たちにとっては「いつもの献立」に過ぎないのだ。


 ○○○は、ガラス越しに自分を見つめる深海魚の冷たい瞳を見つめ返した。

その向こう側には、どこまでも深く、暗い海が広がっている。


---


 展望デッキを後にした一行が案内されたのは、居住区のさらに深部、シオサイの最新技術が試験導入された特別区画だった。

重厚な気密扉が開いた瞬間、一行の視界を埋め尽くしたのは、漆黒の深海にはおよそ存在するはずのない、暴力的なまでの「みどり」と眩い光だった。


「……信じられん。ここは本当に海底3000メートルなのか?」


 コーエン教授が喘ぐように声を漏らした。

そこには、シオサイから提供された特注のUVランプに照らされ、見渡す限りのレタスやトマト、さらには青々とした稲穂までもが棚田のように整然と並んでいた。


 だが、教授の目を一際引いたのは、作物の根元を流れる循環水システムだった。


「ヒナタ君、これはただの水耕栽培じゃないな? 作物の下の水槽に……魚が泳いでいる」


「はい。最新の水耕栽培システムです。名前はえーっと……『アクアポニックス』だそうです。

……水槽の魚の排泄物を微生物が分解して、それを植物が栄養として吸い上げる。

浄化された水はまた魚のところへ戻る……。

土いらずで、肥料もそれほど使わない循環農法ってやつみたいですね」


 ヒナタがパンフレットを見ながら指差す先、透明な水槽の中を悠々と泳いでいたのは、深海魚ではなく、地上で見慣れたはずの「鯉」達だった。

深海の闇の中で、淡水魚が泳ぐ光景は、あまりも生理的な違和感を伴っていた。


「鯉か……。淡水魚である彼らを、この気圧と環境で繁殖させているのか」

「ええ。シオサイのみんなが、地上を追われてここに来た日系人のために海底都市用に改良した品種をくれたんです。

彼らが自給自足で、誰にも頼らずに生きていけるように……という技術支援です」


 ヒナタの言葉通り、農場内では数人の日系人たちが、慣れた手つきでトマトの収穫を行っていた。

彼らはアメリカ社会から「汚いアジア人」、「人の皮を被った怪物」として排斥された人々だが、この深海では、最先端の科学と魔術に守られ、地上よりも遥かに豊かで清浄な食生活を謳歌している。


「土を使わず、太陽も使わず、魚を育てながら糧を得る……。

これはもはや、農業の終着点ではないかね?」

「うーん……どうなんでしょう?

アメリカでも同じような物を研究してるって話ですよ。

日本は海底都市の食料自給の為にアメリカより力を入れていたから、こうして使えるってだけですし」


ヒナタからの情報にコーエン教授は驚きながら震える手で、水槽から跳ねた一滴の水を拭った。


---


「……どうぞ、食べてみてください。冬の盛りに生野菜が食べられるなんて……こっちに引っ越そうかな?」


 ヒナタがニコニコしながら、枝からもぎたての真っ赤なトマトをコーエン教授と○○○に差し出した。


 二月のアーカムであれば、食卓に並ぶ蕪やジャガイモ以外の日持ちしにくい野菜は萎びてるか、染料漬けの貯蔵品か、輸送中に泥と排ガスにまみれた代物ばかりだ。

ましてや今の地上は、安酒の毒に蝕まれた不健康な身体が、新鮮なビタミンを渇望している時期でもある。


 コーエン教授は、宝石のように輝くその実を恐る恐る口に運び、前歯で薄い皮を弾かせた。


「……っ! なんという瑞々しさだ……」


 溢れ出した果汁は、一切の雑味がない。

染料の臭いも、鮮度の不安も微塵も感じさせない、暴力的なまでに純粋な生命の味がした。


 生徒たちも次々とレタスを齧り、そのあまりの甘みに「これが、本当に電球育ちのレタスなのか」と驚愕の声を上げている。


「皮肉なものだな」


 カニンガム教授が、自身の眼鏡に反射するUVランプの不自然なほど白い光を見つめながら呟いた。


「地上の人類は、広大な大地と太陽を独占しながら、互いに毒を盛り合い、飢えに怯えている。

一方で、太陽の届かないこの深淵の底では、社会から排斥された者たちがこの上なく清浄な果実を享受しているとはね……」


 その言葉に、○○○は喉の奥が微かに熱くなるのを感じた。


 この農場を支えているのは日本で研究された農業技術だ。完璧に管理された循環、完璧に計算された栄養液。

ついアメリカの酷い状況と比べてしまい、白豪主義がいかに欺瞞に満ちた物なのかを目の前に突きつけられた気持ちになる。


 日系人の農夫が鯉に餌を投げた。その波紋が、静かな水面に広がっていく。


「あ、それと教授。帰りにお土産として鯉の甘露煮もお土産に頂けるそうです。ここの鯉は、変な泥臭さがなくて絶品ですから」


 ヒナタのどこまでも明るい声が、深海の静寂を破った。


 帰路につく改造漁船の窓の外では、再び漆黒の闇が支配を始めた。

○○○は、口の中に残るトマトの鮮烈な甘みと、アーカムの泥濘へと戻らねばならない現実に、言いようのない眩暈を覚えた。

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