……正気なの? これ、お酒じゃないよ
Q.密造酒に普通、食料品に入れようとすら思えない物が入っているのですが……
A.この時代の密造酒に本当に入ってた物らしいです。
現代でもアメリカの密造酒の中でも質の悪い物からは鉛や漂白剤が検出されるのだとか。
1927年、1月中旬。
西アーカムの空気は、雪の冷たさよりも「絶望」という名の重苦しい湿り気に支配されていた。
政府によるメタノール添加の開始からわずか二週間あまり。
街の病院は、激しい嘔吐に身を捩る者や、突然視界が真っ白になったと泣き叫ぶ「毒酒」の犠牲者で溢れかえっていた。
しかし、人々はそれでも酒を諦められなかった。その執着が、さらなる地獄を呼び寄せる。
「いいか、よく聞け! このジャガイモの絞り汁を混ぜてから三時間置けば、毒は全部抜けるんだ!」
「馬鹿を言うな。一度沸騰させて、浮いてきた泡を掬い取れば安全だって新聞(の怪しい広告)に書いてあったぞ!」
闇市の路地裏では、根拠のない民間療法を叫ぶ者たちが群れを成していた。
彼らは科学的な知識など持ち合わせていない。
ただ「飲みたい」という渇望と「死にたくない」という恐怖の板挟みになり、藁をも掴む思いでデマを信じ込んだ。
結果、ジャガイモ汁を混ぜただけの猛毒を煽り、翌朝には冷たくなって発見される犠牲者が後を絶たなかった。
さらに醜悪なのは、その混乱を餌にする「偽物の救世主」たちだ。
道端では、どこかの工場の廃液を瓶に詰め、「教会の聖水で清めた毒抜きの粉」を高値で売りつける詐欺師が、藁をも掴む思いの主婦から金を巻き上げていた。
あるいは、中毒を起こした患者に対し、さらなる劇物を飲ませて「毒を毒で制する」などと嘯く闇医者が、苦悶する患者のポケットから最後の数ドルを抜き取っていた。
西アーカムは、まさに「狂乱の時代」の頂点に達していた。
人々は、政府に殺されるのを待つか、詐欺師に騙されて自死するかという、究極の選択を日々迫られていたのだ。禁酒するという選択肢は無い。
ミスカトニック大学の門前にすら、中毒で倒れた浮浪者の死体が放置されるようになり、学問の府としての威厳は、腐臭にかき消されようとしていた。
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そんな狂気の余波は、厚い石壁に守られたミスカトニック大学の、カニンガム研究室にまで及んでいた。
イレギュラーズの連絡員が持ち込んだのは、市中に出回っているという三種類の瓶だった。
「完璧な毒抜き済」を謳うそれらは、安っぽいラベルに手書きの文字が躍り、中には澱のようなものが沈殿している。
「……流石に専門外だ。化学科のウィンスロップ教授に回そう。
彼は熱烈な飲酒派だからね。
喜んで……いや、嫌な顔をしながら調べてくれるだろう」
数日後、カニンガム教授の手元に届いた分析報告書を読み上げる指先は、不快感からか微かに震えていた。
報告を聞くために集まった○○○、ヒナタ、カイの三人も、その内容に顔を顰める。
「……酷いな。メタノールが抜けていないのは当然として、これは……苛性ソーダか?
それにガソリンの添加剤まで検出されている。
味を誤魔化すために、さらに劇物をぶち込んだらしい」
「……」
報告書を覗き込んだヒナタは、いつになく深く眉をひそめ、実物の瓶から漂う異臭に鼻を突いた。
「本物」を作り続けてきたヒナタにとって、それは生理的な嫌悪感を呼び起こす代物だった。
「……正気なの? これ、お酒じゃないよ。ただの液体洗剤に毒を混ぜたようなものじゃないか。
売る方も、これを信じて買う方も……狂ってる」
「全くだ。ウィンスロップ教授のメモには『これを飲んで生き延びるのは、胃袋が鋳鉄でできている化け物だけだ』と書かれているよ」
教授は皮肉げに笑ったが、その目は笑っていなかった。
人外であるヒナタやカイですらドン引きするほどの「毒」。それは宇宙的な怪異がもたらす恐怖とはまた別の、人間の剥き出しの強欲と、死に物狂いの渇望が生み出した醜悪な泥濘だった。
「ねえ、○○○。この国に禁酒という選択肢は……無い人は無いよね……」
カイが諦めたようにに首を振り、○○○の袖を引く。
「……残念ながら、絶望が深いほど、人はその場凌ぎの夢を見せてくれる毒を求めてしまうものなんだよ」
○○○が力なく答えると、ヒナタは忌々しそうにサンプル瓶を袋に詰め直した。
「こんなものを本物だと言い張る連中に、僕の造ったお酒が同じカテゴリーで見られるなんて、耐えられないな」
ヒナタの嫌悪感が滲んだ言葉が研究室に響いていった。
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その日の夕刻、イレギュラーズの連絡員が再び研究室に現れた。
彼の報告によれば、拉致された腕利きの密造職人たちの行方がようやく判明したという。
「職人の一人が、西アーカムの外れにあるスローターハウス(屠殺場)の跡地に監禁されています。
犯人は『ウルフ・パック』の残党ですが、彼らも必死です。手元にある毒入りアルコールを何とかして製品化しようと、職人を文字通り『絞り器』のように扱っているらしくてね」
「屠殺場か。あそこはコンクリート造りで堅牢だし、叫び声が漏れても誰も気にしない。監禁にはうってつけの場所だ」
カニンガム教授が忌々しそうにパイプを噛み締める。
連絡員は声をさらに潜めた。
「正面からカチコミをかけるのは被害が大きすぎます。
何せ、相手はオールインしたから引くに引けない。
毒酒で狂った連中が自動小銃を乱射してくる。そこでボスが立てた作戦は『内部からの崩壊』です」
監禁場所の警備を担当しているのは、ウルフ・パックが雇った落ち目の弱小組織。
彼らは給料も支払われず、支給されるのは「例の毒酒」だけという劣悪な環境に不満を募らせている。
ボスはその中の一人を、金と「安全なヒナタのアップルジャック」で既に買収したという。
「……ボスからの伝言です。『ヒナタ、お前さんは絶対に動くな。
カニンガム教授と○○○もだ。これは、イレギュラーズが組織の威信をかけて片付ける』と」
連絡員は、ヒナタを強く牽制するように見据えた。
「最近、裏社会じゃ『イレギュラーズは大学の研究室頼みだ』なんて悪口を叩く奴がいる。
ここで俺たちが自分たちの力だけで職人を奪還し、敵を根絶やしにしなければ、今後さらにお前さんたちが狙われることになる。
だから、今夜は黙って吉報を待っていてくれ」
ヒナタは少し不満げに口を尖らせたが、カイがその手を握り、「……わかった。僕たちはここにいるよ」と短く答えた。
彼らにとっても、イレギュラーズの面子は守られなければならないという判断だろう。
「……野蛮な新時代の解決法というわけか」
教授が窓の外の闇を見つめる。
「職人を人間扱いせず、ただの機械として奪い合う。
そんな連中が支配する場所に、知恵の居場所はないのだな」
研究室には、ヒナタが淹れた紅茶の香りが漂っていた。
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深夜。研究室の窓から見える西アーカムの空が、一瞬だけ不自然なオレンジ色に染まった。
直後、腹に響くような重い爆発音が、窓ガラスを微かに震わせた。
「……始まったようですね」
アーサーが緊張した面持ちで、窓の外を凝視する。
屠殺場跡地では今、買収された内部協力者の手引きにより、イレギュラーズの精鋭たちが闇に紛れて雪崩れ込んでいた。
落ち目の組織が支給した「毒酒」で視力と判断力を奪われた警備兵たちは、統制の取れたイレギュラーズの自動小銃の掃射に対し、まともな抵抗すらできなかっただろう。
断続的な銃声が夜の静寂を切り裂く。それは「知恵」を暴力で支配しようとした者たちへの、裏社会からの冷徹な回答だった。
一時間後。再び研究室の扉を叩いた連絡員は、肩で息をしながらも、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
その手には、救出された職人の一人が書いた無事を確認するサインがある。
「片付きました。ウルフ・パックの残党は、自分たちが造らせようとした劇物を浴びて全滅です。職人も無事に保護しました」
連絡員は、誇らしげに胸を張った。
「これで、裏社会の連中も思い知ったでしょう。
イレギュラーズは『知恵』を守るための牙も、十分に持っているのだとね。
これからは、安易に大学を狙おうとする阿呆も減るはずです」
「……お疲れ様。職人が無事でよかったよ」
ヒナタは安堵したように微笑んだが、その視線はすぐに手元の紅茶へと戻された。
しかし、○○○は、首元の琥珀が先ほどから微かな熱を放っているのを感じていた。
政府が法という名の毒を撒き、その毒が人々を狂わせ、狂った人々が互いを喰らい合う。
一九二七年の幕開けは、そんな終わりのない円環をより鮮明に描き出していた。
「……さあ、○○○。もうすぐ夜が明けるよ」
ヒナタとカイが、左右から○○○の腕をとり、寄り添うように立ち上がる。
窓の外、雪に埋もれた屠殺場からは、もう銃声は聞こえない。
Q.工業用アルコールにメタノールってこの時に入ったの?
A.史実でも12月中旬にアナウンスされ、1月1日に施行されました。
当時は工業用アルコールに味付けしただけの密造酒もあったので、政府発表の工業用アルコールによる死者数以上に死んでいるでしょうね。
政府としてはアナウンスはしたから、それでも飲む馬鹿の事なんて考える義理は無いって考えだったらしいです。




