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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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72/75

あんな、狂気じみたことを

 1927年1月1日。

 西アーカムの空を揺らした新年の鐘の音は、祝祭の合図ではなく、静かなる虐殺の開始を告げる弔鐘であった。


 政府がアルコールへのメタノール添加を強行してから数時間。

昨夜、日付が変わるのと同時に各地の「安酒場」で開けられた樽の中身が、牙を剥き始めていた。


「助けてくれ、目が見えない! 何も、何も見えないんだ!」


 灰色の雪が降り積もる路地裏で、一人の労働者が虚空を掻き毟りながら絶叫していた。

彼の周囲には、再処理が不十分な工業用アルコール――通称「死の酒」の入った小瓶が転がっている。


 失明、激しい嘔吐、そして臓器を焼かれるような苦悶。

病院の救急窓口には、昨日まで新年を祝っていたはずの男たちが次々と運び込まれ、廊下まで悲鳴と毒液の臭いで満たされた。


 西アーカムの住民たちは、一夜にして「酒」という快楽が「確実な死」に変貌した事実を突きつけられた。

人々はパニックに陥り、街中の看板や壁に、自分たちを生かしてくれる「安全な酒」の目印――すなわちイレギュラーズのレードルの刻印や、信頼できる大手組織の紋章を求めて、血眼になって彷徨い始めた。


 一方で、この事態を冷徹に予測していた裏社会の大手組織たちは、即座に動いた。


 スネークアイズのガードマンたちは、自前の醸造所の周囲を自動小銃で固め、許可のない者が近づけば即座に引き金に指をかける。


 イレギュラーズの配下たちは、供給網を守るために「毒酒」を売り捌く小規模なギャングたちを路地裏で文字通り叩き潰し、市場の浄化という名目の縄張り拡大を開始した。


「……始まったね、死の新年が」


 霧深い街の片隅で、血の匂いを嗅ぎつけた黒いカラスたちが群れを成して飛び立つ。

 地獄の幕開けにふさわしい、真っ白で、残酷な一月一日の朝だった。


---


 外界が阿鼻叫喚の地獄と化しているその頃、ミスカトニック大学のカニンガム研究室には、時が止まったかのような平穏が流れていた。


 パチパチと暖炉の火が爆ぜる音に混じって、フライパンで何かを温める香ばしい音が響く。


「はい、お待ち遠さま。昨日の残りのエビと、カボチャだよ」


 白人少年の姿をしたヒナタが、皿をテーブルに置いた。

昨夜のパーティーで余った天ぷらを温め直したものだが、衣はまだ十分にサクサクとしており、湯気と共に豊かなオリーブオイルの香りが立ち上る。


 カニンガム教授、○○○、そしてアーサーの三人は、昨夜カニンガム教授が「物理学の勝利」として完成させた強炭酸水の残りで、薄めのハイボールを作り、静かな新年の食卓を囲んでいた。


「……信じられません」


 アーサーが、大学の掲示板に貼られていた「工業用アルコールへの厳重警戒」のビラを思い出したように、沈痛な面持ちで口を開いた。


「今朝、大学に来る途中で見ました。目が見えないと叫びながら救急車に運び込まれる人たちを……。

政府は本当にやったんですね。あんな、狂気じみたことを」


 アーサーの震える声に対し、ヒナタは温かいお茶を啜りながら、窓の外の雪を眺めて淡々と答えた。


「狂気、かな。彼らにとっては『法を守らせるための教育』のつもりなんだよ。

ルールを破って毒を飲む方が悪い、っていう理屈かな。

……飲酒派(ウェット)が死ねば禁酒派(ドライ)が選挙で勝ちやすくなるっていうのもあるかもね」


 ヒナタの言葉には、どこか突き放したような冷ややかさがあった。

人外であるヒナタからすれば、持論の為に人を殺す人間たちの姿はどこまでも愚かに見えるのかもしれない。


「……アーサー君、これが『新時代』の幕開けだよ」


 カニンガム教授が重々しく付け加えた。


「政府が死を撒き、我々のような特権階級やマフィアの庇護下にある者だけが、こうして安全に食事を取り、酒を飲んでいる。

皮肉なものだが、知識とコネクションがなければ生き残れない世界が、いよいよ本格的に始まったのだ」


 ○○○は、手元のカボチャの天ぷらを口に運んだ。甘く、温かく、そして「毒」の気配など微塵もない。


 窓一枚隔てた先では人々がのたうち回っているというのに、この部屋の中だけは絶対的な安全が保たれている。

そのあまりに不条理な格差に眩暈めまいを覚えずにはいられなかった。


 ラジオからは、毒酒パニックの速報を遮るように、能天気なダンスミュージックが流れ続けていた。


---


 陽が傾き、研究室に長い影が落ち始めた頃、静寂を破る激しいノックの音が響いた。


 現れたのはイレギュラーズの連絡員だ。いつもの軽薄な笑みは消え、防寒具にはすすと、微かに乾いた返り血がこびりついている。


「……教授、ボスからの緊急伝言です。新年早々、西アーカムの空気がひっくり返りました」


 連絡員は息を切らせながら、テーブルに一枚のメモを置いた。

そこにはスネークアイズとイレギュラーズが共同管理していた「安全な醸造所」の番地と、そこにいた職人たちの名が記されていた。


「昨夜、我々が囲っていた腕利きの職人が三人、何者かに拉致されました。

現場には自動小銃の薬莢が転がっていたそうです。

犯人は、自前の醸造技術を持たず、手元に『毒入りアルコール』しか残っていない焦った弱小勢力の残党――おそらくは『ウルフ・パック』の生き残りでしょう」

「職人を、さらったのか……」


 ○○○の言葉に、連絡員が苦々しく頷く。


「ええ。彼らにとって職人は、今や金塊を生み出す機械と同じです。監禁して、無理やりにでも毒抜きをさせるつもりでしょう。

……そしてボスからヒナタに、伝言です」


 連絡員はヒナタを真っ直ぐに見据えた。


「『お前さんは○○○と離れず、絶対に表に出ないでくれ。

研究室や寮から一歩も出るな』とのことです。

今、街のハイエナどもは、酒以上に『酒を造れる人間』を血眼で探している。

ヒナタ、お前さんの腕前は既に知れ渡っている。

○○○を人質に取るためにここを襲撃してくる連中すら現れかねないからだ」


 ヒナタは感情の読めない顔で「……わかった。ボスの言う通りにするよ」と短く答えた。

その隣で、カイが当然のように○○○の袖を掴み、一歩も離さない構えを見せる。


「……職人が奪い合いの対象になるか」


 カニンガム教授が重い溜息をついた。


「これは単なる酒の奪い合い以上の泥沼になるぞ。

一九二七年……この街は、さらなる野蛮に退行していくわけだ」


 連絡員が去った後も、部屋には重苦しい沈黙が居座り続けた。


 ヒナタの「安全で美味い酒」がもたらす利益が大きくなればなるほど、この研究室という聖域が、裏社会の欲望の標的となるリスクも高まっていく。

ヒナタとカイの視線が、示し合わせたように○○○へと向けられた。

二人にとっての最優先事項は「酒の利権」ではなく、その渦中でこの「大切な人間」をいかに損なわせないか、それだけであるようだった。


---


 夜が深まるにつれ、西アーカムの静寂はかえって不気味なものへと変質していった。

 研究室の窓の外、霧の向こう側でオレンジ色の光が断続的に明滅している。

それは新年を祝う焚き火などではなく、行き場を失った暴力が引き起こした火災の光だ。


 時折、凍てついた空気を切り裂くように「乾いた音」が響く。それが自動小銃の掃射音であることは、この街に長く住む者なら誰にでも分かった。


「……また、どこかで爆発があったみたいですね」


 アーサーが震える声で呟き、窓から離れた。

 上の階や隣の部屋からも、窓を閉める音や、驚きと不安の入り混じった学生たちの話し声が微かに漏れてくる。

1927年の幕開けは、文明の崩壊を予感させるには十分すぎるほど血腥いものだった。


「……○○○、こっちにおいで」


 ヒナタが静かに椅子を引き、○○○を自分の隣へと促した。

その反対側からは、カイが流れるような動作で○○○の腕に自分の腕を絡める。


 二人とも、連絡員の警告を受けてからというもの、物理的な距離をさらに詰めていた。彼らの瞳には、外界の騒乱に対する恐怖など微塵もない。

ただ、自分たちのテリトリーに「獲物」を狙うハイエナが近づくことを警戒する鋭さが宿っている。


「僕たちはどこにも行かないよ。……君も、僕たちの側から離れないで」


 ヒナタの細い指先が、○○○の首元で琥珀のペンダントをそっと弄んだ。

その琥珀は、周囲の不穏な熱気に当てられたのか、あるいは持ち主の緊張に反応したのか、ランプの光を吸い込んで微かに赤く発光しているように見える。


「大丈夫だ、○○○。ここにはカニンガム研究室の、そしてイレギュラーズの目が光っている。

野蛮な連中に、この部屋の敷居を跨がせるような真似はさせんよ」


 教授はそう言ってブランデーのグラスを置いたが、その表情には隠しきれない疲労が滲んでいた。


 遠くで再び、建物が崩れるような重い衝撃音が響いた。


 1927年、朔日ついたち


 毒入りの酒が街を殺し、酒を造れる「知恵」が暴力にさらわれる、野蛮な日常が幕を開けた。

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