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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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変な混ぜ物なんて入れてないのになあ……

 1926年12月25日。


 クリスマスの浮かれた余韻が、冷え切った朝の空気に白く霧散していく頃だった。


 西アーカムのミスカトニック大学は、休暇に入った学生たちの姿もまばらで、静まり返った校舎にはただ冷たい冬風が吹き抜けていた。

カニンガム研究室の扉を叩いたのは、イレギュラーズの連絡員でもなければ、大学の使い走りでもなかった。

それは、空間の震えと共に脳を直接揺さぶる、リュウグウからの「思念」だった。


「……あ、今、リュウグウから連絡。向こうの陛下、引退するってさ。

それと、日本が太平洋の真ん中に新しく作った海底都市と連絡が取れたって。シオサイって名前みたいだね」


 ヒナタが、朝食のコーヒーを淹れていた手を不自然に止めた。

少年の姿をした彼は、虚空を見つめたまま、まるで遠くの潮騒に耳を澄ませるような仕草を見せる。

カイもまた、白人少女の姿のまま、椅子の上で背筋を伸ばし、「へー、代替わりなんだ。じゃあ新しい元号の名前は何になるの?」と、まるで近所の隠居のニュースでも聞くような軽さで応じた。


「『昭和』だってさ。光り輝くやわらぎ……。素敵な響きだけど、なんだか少し、僕たちの知らない世界へ行ってしまうみたいだね」


 ヒナタの呟きに、○○○は思わず手元の資料を置いた。


 アメリカという異国の地において、日本人は法的に、そして物理的に「消失」したことになっている。

しかし、彼らの血脈が繋がる「深海のネットワーク」は、地上のどの電信よりも早く、時代の終焉と始まりを告げていた。


「引退……? 何か難病を患ってしまったのか?」


 ○○○が疑問を口にすると、ヒナタは首を傾げて苦笑した。


「違うよ。僕たちの種族にとって、天皇陛下は『神職』だからね。

神とより深く繋がれる後継者が現れたらその人に交代するものなんだよ」

「ローマ法王みたいな物か?」

「宗教的立場としては近いけど、日本に幸運を呼び込む儀式の担い手で、日本の象徴って所が大きいから権限らしい権限は無いよ。」


 ○○○の疑問にヒナタがあっさりと答えた。

 ヒナタは「さようなら、大正。よろしく、昭和」と祈るでもなく呟き、○○○のカップに温かいコーヒーを注いだ。

その指先には、時代の変化を惜しむような繊細な震えなど微塵もなく、ただ「新しいカレンダーをめくる」ような淡白さが宿っていた。


「……でも、こうして年号が変わると、僕たちが地上で日本人として生きた記憶が、また一つ、歴史の地層の下へと沈んでいくような気はするね」


 ヒナタの言葉と共に、研究室の暖炉の火がパチリと爆ぜた。


---


 数分後、研究室にカニンガム教授とアーサーがやってきた。

二人の外套には、先ほどまで外を歩いていた名残の雪が白く付着している。


「おはよう、諸君」


 ヒナタは改元の事実は伏せたまま、研究者である彼らが興味を惹きそうな話題を選んで口を開いた。


「教授、アーサーさん。今朝、故郷のリュウグウから連絡があったんです。太平洋のさらに深い場所に、新しい海底都市『シオサイ』が完成して、無事に通信が確立されたそうです」


 その言葉に、教授の目が爛々と輝いた。


「シオサイ……。また新しい都市を! 素晴らしい。

しかし、以前から不思議に思っていたのだが、君たちの同胞は何故、今になって急激に海底都市を建設をしているんだい? 潜水技術自体は古くからあったのだろう?」


 アーサーも身を乗り出す。人類がようやく鋼鉄の箱で潜り始めた時代に、都市を築く。

その「進化のトリガー」が何であったかは、学術的にも非常に興味深いものだった。

しかし、ヒナタから返ってきたのは、あまりにも世俗的で脱力するような「真実」だった。


「……あー、実はですね。母さんたちの世代までは、海底に空気の層を作る魔術なんて海の中に『エロ本』を隠すくらいしか使い道がなかったんですよ」

「……は?」


 高名な文化人類学者と、前途有望なイギリス人学生の動きが同時に止まった。


「本当ですよ。地上で見つかるとお母さんやおばあちゃんに怒られるから、海の中に空間を作ってこっそり隠す。それくらいの個人的な遊びだったんです。

でも、ヨーロッパから伝わってきた科学――特に火力発電の仕組みをヒントに、地層や火山の熱を利用した発電……いわゆる地熱発電の理論が確立されてから、話が変わりました」


 ヒナタは淡々と、しかしどこか誇らしげに語る。


「海底火山かそれに近いエネルギーが確保できれば、海底でも地上と同じくらい……いえ、地上より快適な生活が送れる。余った電力を電線で地上に送れば地上も助かるし、資源採掘も現地で加工して効率良く送り出せる。

それに気づいた連中が、こぞって『自分たちのエロ本隠し魔術』を拡張して、大きな都市作りに利用した。それが今の海底都市建設の真相です」

「……エロ本隠しの魔術と、近代科学の地熱発電。それが結びついた結果が、巨大都市『シオサイ』だったとは……」


 カニンガム教授は額に手を当て、天を仰いだ。人類の至宝とも呼べる知恵と魔術が、結局は個人的な欲望と利便性の追求によって「都市」へと昇華された。

そのあまりに人間臭い(あるいは人外臭い)経緯は、学術論文に書くにはあまりに生々しすぎた。

元から論文にできる内容ではないが。


「でも、おかげで故郷は今、とても活気付いています。新しい時代に向かってね。

エネルギーさえ確保できれば、どこにでも自分たちの居場所を作れるんですから」


 ヒナタが○○○に目配せをする。地上の日本は「引退」という一つの節目を迎えたが、深海の日本は「エネルギーの革命」によって爆発的な拡大を続けている。

その対比に○○○は、ボタンを掛け違えていたら自分たちの隣にいるこの少女(少年)たちが、もはや地上の法や倫理では測りきれない強大な「文明」の先兵になり得ることを改めて実感し、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。


---


 大晦日を目前に控えた西アーカムの夜は、まさに嵐の前の静けさと、爆発寸前の狂乱が入り混じった奇妙な熱気に包まれていた。

一月一日の「毒入りアルコール」解禁まであと数日。

街のスピークイージーには、今のうちに「安全な酔い」を確保しようとする人々が雪崩れ込んでいた。


 文化人類学研究室の一行もまた、いつもの潜り酒場へと足を運んでいた。店内は身動きが取れないほどの混雑ぶりで、ジャズの旋律さえも人々の騒がしい話し声にかき消されそうになっている。


「……来年こそは!」


 アーサーが、琥珀色のハイボールが注がれたグラスを勢いよく掲げた。


「来年こそは、この西アーカムという街の底に流れる真実、その深淵を解明してみせます。

教授、○○○さん、そしてヒナタにカイ。僕は、この街に来てから世界の見方が変わりました。

1927年は、さらなる飛躍の年にしてみせますよ!」


 若さゆえの純粋な決意表明に、カニンガム教授が「期待しているよ、アーサー君」と優しくグラスを合わせる。

○○○は、アーサーの言う「深淵」の一端が、今まさに隣でデビルドエッグを口に運んでいる「擬態した人外」たちであるという事実に、苦笑いを浮かべるしかなかった。


 そこへ、店内の喧騒を割って、イレギュラーズのボスが側近を引き連れてこちらへ歩み寄ってきた。

威圧感のある佇まいに周囲の客が息を呑む中、彼はヒナタと教授の前で立ち止まり、穏やかに、しかし重みのある口調で告げた。


「こんばんは、カニンガム教授。今日はヒナタに用があって来たんだ。

ヒナタ、例のアップルジャックだが、大量発注に無理を通して応えてくれて感謝するよ。

……おかげで、この不穏な年末に、うちの店は他所が羨むほどの盛り上がりだ」

「どういたしまして。でも、そんなに急いで売らなくても良かったのに」


 ヒナタが首を傾げると、ボスはニヤリと口角を上げた。


「お前さんは自覚がないようだが、以前流れた『ヒナタのポートワイン媚薬説』は、今や西アーカムの裏社会じゃ伝説だ。

お前さんが手掛けた酒は、不純物がないどころか、飲む者の心を解きほぐす不思議な力があると信じられている。

……今回、アップルジャックにも手を出したと広めたら、『今度の媚薬はリンゴの香りか』と、血眼になって買い求める連中が後を絶たんのだよ」

「変な混ぜ物なんて入れてないのになあ……」


 困り顔で繰り返すヒナタに、ボスは「結果がすべてだ」と愉快そうに笑った。

政府がアルコールに「死の毒」を混ぜるこの時代、ヒナタの作る「あまりに丁寧で、一切の毒を含まない酒」は、人々の目にはそれ自体が魔術的な奇跡に見える。

皮肉なことに、ヒナタが誠実に作れば作るほど、それは「媚薬エリクサー」としての神秘性を増し、イレギュラーズの金庫を潤していくのだ。


 銃声と毒が支配する一九二七年の足音が、すぐそこまで迫っていた。


---


1926年12月31日。深夜。


 西アーカムを覆う深い霧は、降り積もった雪の冷気と混ざり合い、視界を乳白色の闇へと変えていた。

街の喧騒から逃れるように研究室へと戻った○○○は、窓辺に立ち、無意識のうちに首元の琥珀のペンダントに指を這わせていた。


 指先から伝わるその温もりは、冬の夜気とはあまりに対照的な、生温かく、しかし確かな鼓動を宿しているかのような錯覚を抱かせる。


(……1926年が終わるのか)


 大学生になってからの3年間、自分の世界はあまりにも劇的に作り替えられてしまった。

 政府が国民に毒を盛り、マフィアが「誠実な酒」を売り物にする。

そして、目の前で愛らしく微笑む少女と少年が、太平洋の深淵から来た人外の怪物であるという事実。

入学前の自分が見れば狂気と断じるであろう光景が、今や○○○にとって唯一の「正気」であり、逃れようのない安息の場所となっていた。


「○○○。何をそんなに難しい顔をしてるの?」


 背後から、ヒナタの柔らかな声がした。


 振り返ると、そこには大きな毛布を抱えたヒナタとカイが立っていた。

二人は○○○の両脇に滑り込むと、その毛布で彼の体を包み込み、そのまま重力に身を任せるように寄り添ってきた。


 カイが○○○の腕に額を預け、満足そうに瞳を閉じる。ヒナタもまた、○○○の手を自分の両手で包み込み、琥珀のペンダント越しにその胸の鼓動を確かめるように強く握りしめた。


「明日からは、もっと騒がしくなる。

……政府の毒と裏社会の銃声が、この街をもっと深く、暗い霧で包むだろうね。でも、心配しないで」


 ヒナタが、○○○を見上げて微笑む。その瞳の奥には、どんな吹雪にも消えない、捕食者特有の冷徹で深い情愛が揺らめいていた。


「君がこの琥珀を離さない限り、僕たちが君を離さない。どんな時代になっても、どんな地獄になっても、君の居場所はここにあるんだから」


 遠く、西アーカムの教会の鐘が、1927年の訪れを告げるために鳴り始めた。


 それは地上の人々にとっては、公式に「毒の時代」が始まる不吉な合図だったが、三人が身を寄せるこの部屋では、ただ穏やかな子守唄のように響いていた。


「……ああ。よろしく頼むよ、二人とも」


 ○○○は二人の体温を全身で受け止め、強く抱きしめ返す。降り積もる雪の下、新しい年が始まった。

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