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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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69/72

さあ、冷え込む前に帰りな

 十一月に入ると、西アーカムの空気はナイフのように鋭く冷え込んだ。

 ハロウィンの狂乱の余韻が残る街では、重武装した警察のパトロールが例年以上に強化されていた。

 「ジャック・ザ・カウボーイ」がカニンガム教授の差し金による物という暗黙の了解があり、治安維持が楽になった事もあって西アーカム警察は歓迎していたのだが、吊るし上げられた若者たちの多さに市民から当局に苦情が来た為、八つ当たりに近い一斉検挙を繰り返していたからだ。


「……あーあ、ひどいもんだね。警察の檻(ブタ箱)は今、入り切らないほどの季節労働者で満員御礼だってさ」


 カイが新聞を放り出し、呆れたように呟いた。

 そのツケは、意外な形で巡ってきた。西アーカム南部沿岸に広がるクランベリー農場の収穫作業が、完全にストップしてしまったのだ。


 そこへ、青い顔をしたイレギュラーズ(マフィア)の幹部が研究室を訪れた。


「カニンガム教授……助けてくれ。エロイーズの婆さんが『ヒナタを連れてこい、さもなくばお前らの樽を全部湿地に沈めてやる』と息巻いてるんだ」


 農場主である老婦人、エロイーズ。

 彼女はこの土地で代々クランベリーを作ってきた頑固者であり、同時にカニンガム教授の「古い知人」でもあった。


 かつてヒナタが、湿地での事故に巻き込まれた彼女を「人間離れした力」で救い出したことがあり、彼女はヒナタの正体が何であれ、最高の信頼を寄せていた。


「労働者が全員警察に持っていかれたんだ。

このままだと、十一月の冷雨で実がすべて腐っちまう。

イレギュラーズにとっちゃ死活問題だ」


 カニンガム教授はパイプを咥え直し、ヒナタを見た。


「どうするね、ヒナタ君。彼女は君ならできると見込んでいるようだが」

「……エロイーズさんの頼みなら断れないよ」


 ヒナタが立ち上がると、マフィアの幹部は安堵の溜息を漏らし、テーブルの上に分厚い札束を置いた。


「これは前払いだ。本来、数百人の季節労働者に支払うはずだった賃金の半分――それでも君一人には破格の額だろう? それと……エロイーズの婆さんから伝言だ。

『仕事を完遂したら、うちの家系に伝わるリキュールのレシピを教えてやる』と」


 その言葉に、ヒナタだけでなくカイと○○○の目も輝いた。


---


 翌朝、西アーカム郊外。海からの寒風が吹き抜ける湿地帯には、見渡す限りの「赤い海」が広がっていた。


 水を張った畑の表面に、完熟して浮き上がったクランベリーの実が敷き詰められているのだ。


「よく来てくれたね、坊や。……それに、あんたたちも」


 長靴を履き、古びた散弾銃を杖代わりにしたエロイーズが、研究室の一行を迎え入れた。

彼女の視線は、少年の姿をしたヒナタの「中身」を見透かしているかのように鋭く、それでいて温かい。


「人手が足りないどころか、全滅さ。あの馬鹿げた警察どもめ。

……さあ、始めておくれ。雨が降る前にこの『赤い宝石』を全部回収するんだ」


 ヒナタは頷くと、コートを脱ぎ捨てて湿地の縁に立った。通常なら、大勢の男たちが木製の「手梳き」で数日がかりで行う重労働だ。


 だが、ヒナタが印を結び、低く呪文を唱え始めると、静かだった水面が生き物のように脈打ち始めた。


「……すごい」


 同行していたアーサーが、息を呑んでその光景を注視する。


 ヒナタが指を操るたびに、水面に小さな渦がいくつも生まれ、散らばっていた赤い実を一箇所へと集めていく。


 わずか数時間。本来なら不可能と言える速度で、山のようなクランベリーが次々とコンテナへ吸い込まれていく。

その圧倒的な光景を前に、アーサーの顔から色が消えていた。


(……何なんだ、これは)


 アーサーは震える手でノートに筆記を試みるが、ペンが動かない。

 彼はオカルト雑誌の情報を集め、彼らを「守るべき隣人」だと思い込もうとしていた。

だが、目の前で展開されているのは、地上の物理法則を軽々と蹂躙する「異質」そのものの力だ。


(これほどの力があるなら……この国を、いや、人類を支配することだって容易いはずだ。

それなのに、なぜ彼らは『日本人』という弱い立場に擬態し、横暴な警察や差別に耐えているんだ……?)


 アーサーの心の中に、純粋な好奇心とは別の、深い畏怖と疑問が芽生えていた。

彼らが友好的であることに救われているが、もしその「気分」一つが変われば、人類に抗う術はないのではないか。


「……アーサー、顔色が悪いぞ。寒いのか?」


 ○○○に声をかけられ、アーサーは弾かれたように我に返った。


「い、いえ。……ただ、少し考え込んでしまって。

彼らの……ヒナタ卿の優しさが、僕にはまだ少し、怖すぎるのかもしれません」


 絞り出すようなアーサーの言葉を、エロイーズは満足げに収穫された実を眺めながら、鼻で笑って聞き流していた。


---


 収穫作業が信じがたい速さで終わる頃、西アーカムの空には冬を予感させる冷たい星が瞬き始めていた。


 エロイーズの古い木のキッチンは、薪ストーブの熱気と、運び込まれたばかりのクランベリーの甘酸っぱい香りで満たされていた。


「約束だよ。これがうちの曾祖母さんの代から伝わる……クランベリー・リキュールの作り方さ」


 エロイーズが差し出したのは、油染みのついた古い革装のノートだった。

 ヒナタとカイ、そして○○○がそれを熱心に覗き込む傍らで、アーサーは大きな鍋いっぱいの実に砂糖をまぶす作業を手伝っていたが、その手元はどこかおぼつかない。

 先ほど見た「人外の力」の残像が、どうしても頭から離れないのだ。


「……あの、ヒナタ卿。一つ伺ってもいいでしょうか」


 アーサーは意を決して、煮え立つ鍋を見つめたまま声を絞り出した。


「卿のような……人知を超えた力を持つ方々にとって、我々人間は、あまりに脆弱で不合理な存在ではありませんか?

 警察に不当に扱われ、理不尽な差別に晒されてまで、なぜ……わざわざ『人間』として、こんな窮屈な暮らしを選んでいるのですか?」


 もし自分にその力があれば、不実な警察も差別主義者も一瞬でひれ伏させ、自分のための王国を築くだろう。

そんなアーサーの内心の揺らぎを察したのか、ヒナタは鍋から上がる湯気越しに、きょとんとした顔でアーサーを見返した。


「え……? そんな面倒なこと考えた事無いよ?私達は社会的に脆弱だし、異文化って不合理に見える物だからね。

僕はただ、みんなでお酒を飲んだり、こうして美味しいリキュールを作ったりして暮らしたいだけだよ」


 ヒナタは事も無げに言って、ベリーを潰すヘラを動かした。


「僕たちにとって、人間との違いなんて……そうだな、髪の色や目の色が違うのと同じくらいのことなんだ。

力が強いとか、姿を変えられるとか、それはただの『特徴』であって、支配する理由にはならないよ。

僕たちは、ただ普通に、この世界で生きていたいだけ」

「普通……ですか。その『普通』が、我々人類にとっては最も困難なことなのに」


 アーサーは力なく笑った。ヒナタの言葉には、神のような超越的な傲慢さも、被害者としての卑屈さもなかった。

ただ、隣り合って生きる隣人としての、あまりに素朴な「願い」があるだけだった。


「ほら、アーサー。考えすぎるとせっかくのリキュールが苦くなるよ。今は手を動かして」


 カイに促され、アーサーはようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 人知を超えた怪物が、人間を支配するためではなく、ジャムを煮るためにその力を使う。

 それはオカルト雑誌のどんな怪異譚よりも、アーサーにとっては驚くべき「真実」だった。


---


 仕込み作業を終える頃には、深夜特有の凛とした静寂が農場を包み込んでいた。

エロイーズは、ヒナタたちが瓶詰めしたばかりのリキュールの原液を愛おしそうに眺め、最後の一瓶を「これはあんたたちの分さ」と言って手渡した。


「さあ、冷え込む前に帰りな。

……ヒナタ、あんたのその『普通』が、いつまでも続くよう祈ってるよ」


 老婦人の言葉を背に、一行は夜の海へと続く湿原の道を歩んだ。

 海岸の岩陰には、リュウグウから派遣された数名のメッセンジャーが、深い影となって待機していた。

彼らはヒナタのように中性的なティーンエイジャーのような見た目をしており、ヒナタたちを見ると親しげに、かつ恭しく頭を下げた。


「……よし、これを。ワダツミの連中への、西アーカムからの贈り物だ」


 ○○○が、リュウグウで防護魔術をかけられた数個の樽を差し出す。

 中にはクランベリーリキュール等の酒類に地上のレコード――NBC放送の最新ヒット曲や、ハリウッドの映画雑誌――が詰め込まれている。


 さらにアーサーは、自らの手で書いた一通の手紙をそのケースの隙間に滑り込ませた。

 そこには「地上の狂騒」についての無味乾燥な報告ではなく、今日、真っ赤な湿原で一人の老婦人と異形ともたちが笑い合いながら果実を煮たという、あまりに「普通」で温かな日常の断片が記されていた。


「……お願いします。大西洋の向こうにいる方々へ、地上にはまだ、彼らと友人になれる人間がいると伝えてください」


 アーサーの真剣な言葉に、メッセンジャーの一人が静かに頷いた。彼は巨大なケースを背負うと、一切の迷いなく、十一月の凍てつく黒い海へと滑り込むように潜っていった。


 泡一つ立てず、彼らは深海へ。

これからパナマを越え、南米の海底火山「アメノウズメ」の建設予定地を経由し、数ヶ月かけてワダツミへと辿り着く。


 それは地上のどんな通信網よりも遅いが、どんな電波よりも熱を帯びた「絆」の運び手だった。


「……さあ、僕たちも帰ろう。明日は大学の講義があるしね」


 ヒナタが伸びをしながら歩き出す。


 頭上には、無数の凍て星がワシントン州の空を飾っていた。

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