……冷たい。そして、驚くほど静かだ
リュウグウの司令室――かつての沈没船の操舵室。
ミラー捜査官は、使い古されたタイプライターを前に、カニンガム教授と○○○が用意した「証拠品」をじっと見つめていた。
それは、海水の塩分でボロボロに朽ち果てた、一冊の革表紙の手帳だった。
もちろん、教授の指示でイレギュラーズの工作員が数日かけて「偽造」した、名もなき密輸業者の遺品である。
「……なるほど。この『手記』を、捜査の唯一の手がかりとして提出するわけですね」
ミラーが手帳のページをめくる。そこには、震える筆致でアラスカ沖の絶海の孤島――荒れ狂う嵐の中で偶然見つけた「光る石の洞窟」の記録と、二度とその場所に辿り着けなかった男の絶望が綴られていた。
「そうだ。下手に捏造した地質データを並べるより、こうした『個人の記録』の方が、官僚たちの想像力を刺激し、かつ失望させる。
彼らがこの手記の真偽を確かめるには、北洋の荒海へ大規模な調査船団を派遣しなければならない」
カニンガム教授が、パイプの煙をくゆらせながらニヤリと笑った。
「当然、議会はそのための莫大な予算を承認しない。
供給源は不明だが、すでにルートは途絶え、現地も特定不能。
……これで、この件は『迷宮入り』として処理されることになる」
ミラーは深く息を吐き、タイプライターに報告書の用紙をセットした。
『……本官は、西アーカムにて宝石密売に関与したと思われる者の遺品を回収。
手記に記された座標は極めて曖昧であり、北太平洋の過酷な環境下での再調査には数万ドルの予算と年単位の期間を要すると判断される。
現状、西アーカムにおける宝石の流入は止まっており、本件の捜査継続は国益に資するところが少ない――』
カタカタと、規則正しい音が部屋に響く。
法を重んじるミラーにとって、これは自らのキャリアを賭けた最大の背徳だったが、その指に迷いはなかった。
「……終わりました。これで、ワシントンの目がここへ向くことは二度とないでしょう」
ミラーが最後の一打を終え、椅子の背もたれに深く体を預けた。
その顔には、職務を全うした後の充実感と、それ以上に重い、秘密を共有した者特有の安堵が混ざり合っていた。
「お疲れ様です、ミラーさん。……資料作成で喉も渇いたでしょう。
下の広場でソーダを飲みませんか?
ちょうど、皆が『祭り』を始めたところなんです」
○○○が声をかけると、ミラーは少し照れたように笑い、重い腰を上げた。
司令室の窓の下。ドームの広場では、限られた物資の中で住人たちが工夫して作った提灯が灯り、遠く日本の盆踊りを模した、どこか懐かしくも奇妙なリズムが響き始めていた。
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ドーム中央の広場には、地上で手に入れた廃材や古いシーツを染めて作った、ささやかな紅白の幕が揺れていた。
三千メートルの水底に届くはずのない太鼓の音が、魔術的に増幅されて響き渡る。
住人たちは普段の作業着を脱ぎ、大切に保管していた着物や、手製の半纏を羽織って、ゆっくりと輪を作っていた。
ミラーは広場を一望できるソーダファウンテンのカウンターに腰を下ろし、○○○が差し出した琥珀色のソーダを一口啜る。
「……冷たい。そして、驚くほど静かだ」
背後で聞こえる盆踊りの喧騒をよそに、ミラーは巨大なガラス窓の向こう側に広がる漆黒の海を見つめていた。
「あの暗闇の先に、彼らを飲み込もうとする差別や暴力が渦巻いている。
……私は今まで、地上の光こそが正義だと信じてきましたが、こうして彼らの笑顔を見ていると、この深い海の底にある平和こそが、今の私には尊く感じられますよ」
「……ミラーさん、あんたも共犯者ですからね」
○○○が少し意地悪く笑うと、ミラーは「手厳しいな」と苦笑し、グラスを軽く掲げた。
「ああ、承知している。……だが、不思議と気分は悪くない」
少し離れた場所では、ヒナタとカイが住人の子供たちに囲まれていた。
二人は祭りの雰囲気に合わせ、髪にささやかなリボンを飾り、弾けるような笑顔で踊りの輪に加わっている。
やがて、二人は○○○とミラーの姿を見つけると、楽しげに駆け寄ってきた。
「○○○、ミラーさん! 踊らないの? 面白いよ」
カイが少し上気した顔で、○○○の袖を引く。
「カイ、ミラーさんは報告書を書き終えたばかりで疲れてるんだ。
……それに、私はここで○○○と一緒に、この景色を見ていたいな」
ヒナタがそう言って、自然な動作で○○○の隣に寄り添った。
広場を照らす提灯の温かいオレンジ色の光が、三人と、一人の捜査官を優しく包み込んでいた。
地上の八月は、もうすぐ終わる。暴力的な驟雨も、焼けるような熱気も、この深海までは届かない。
「……九月になれば、少しは涼しくなるだろうか」
カニンガム教授がどこからか現れ、ミラーの隣で独り言のように呟いた。
「どうでしょうね。ですが、どんな季節が来ようと、私は私の職責を自らの善性に従って果たすつもりです。」
ミラーのその言葉を、海底の闇が静かに飲み込んでいった。
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九月に入った途端、西アーカムを焼き尽くしていた暴力的な熱気は、潮風に混じる冷ややかな湿り気に押し流されていった。
大学の裏手にある貯蔵庫では、昨年の好評を受けて今年もパンプキン・ワインやカボチャブランデー「ジャック・ザ・カウボーイ」の仕込みが始まっている。
大きなカボチャが山積みにされる傍らで、○○○はヒナタとカイの手を借りながら、近隣の農場から届いたばかりの大量のリンゴを大桶にぶち込んでいた。
「今年はリンゴが豊作だってさ。これで『アップルジャック』を仕込めば、冬の間、海底都市のみんなも温まれるだろう?
それに、今年はイレギュラーズから『アップルジャック』も作って欲しいって要望が来たから一杯作るよ!」
「賛成! リンゴの甘い香りが、アルコールに変わっていくのを見るの、魔法みたいで好きだよ」
カイがリンゴを一つかじり、ヒナタが丁寧にリンゴを砕いていく。
甘酸っぱい香りが秋の訪れを告げる中、貯蔵庫の入り口に長い影が落ちた。
「……お忙しいところ、邪魔をしてしまったかな」
そこに立っていたのは、旅支度を整えたエドワード・ミラー捜査官だった。
その手には、あの「偽造された手記」と捏造された報告書が収まった、重厚な革の鞄が握られている。
「ミラーさん。……今日、発つんですか?」
「ええ。州都へ戻り、この報告書を提出してきます。
これを読めば、ワシントンの官僚たちも西アーカムという『不毛な田舎町』に興味を失うはずだ。
……君たちの平和を乱す連邦の手は、私が責任を持って引き剥がしましょう」
ミラーはそう言うと、自嘲気味に、だがどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
法を裏切った背徳感よりも、守るべきものを守れたという充足感が、彼の表情を今まで以上に男らしく見せている。
「カニンガム教授には先ほど挨拶を済ませました。○○○君、そしてヒナタさん、カイさん。
……君たちと過ごしたこの数週間、私は『法』が何を保護すべきかを、改めて教えられた気がするよ」
「……ミラーさん。困ったことがあったら、いつでも戻ってきてくれ。
ここのソーダ、いつでもあんたの分は冷やしておくから」
○○○が右手を差し出すと、ミラーはその大きな手で力強く握り返した。
「ああ。もしワシントンで変な動きがあれば、すぐに『友人』として手紙を書こう。
……さあ、あまり長居をしては名残惜しくなる。九月の霧が深くなる前に、私は行きます」
ミラーは帽子を深く被り直し、一度だけ振り返って短く手を振ると、霧が立ち込め始めた西アーカムの駅の方へと歩いていった。
彼の背中を見送りながら、ヒナタがそっと○○○の腕に触れる。
「……いい人だったね。地上の人たちが、みんなああいう人だったらいいのに」
「本当。……さて、おセンチな気分はここまで! リンゴがまだ山積みだよ、○○○。
最高の酒を造って、ミラーさんにいつか飲ませてあげなきゃ」
カイが空気を換えるように快活に笑い、再びリンゴの粉砕作業に戻っていった。




