……死ぬことなんて、絶対に考えないでくれ。
八月の中旬。西アーカムを覆う熱気は一向に引く気配を見せず、街全体が陽炎に揺れていた。
だが、その暑さ以上に街を熱狂させていたのは、カニンガム教授が放出した「深海の宝石」にまつわる噂だった。
事の始まりは、教授が流した宝石を購入した西アーカムの富豪夫人が、夜会でそれを披露したことだった。
熱水鉱床が育んだ未知の結晶体は、シャンデリアの光を浴びて、地上ではあり得ないほど深く、神秘的な青紫の輝きを放った。
それが「東洋の秘術で浄化された幸運の守護石」という触れ込みで紹介されるや否や、有閑階級の間で爆発的な羨望の的となったのである。
「……困ったことになった。宝石の価値が上がりすぎて、もはやコントロールが効かん……
それに、私がホームズだと思い込んだ連中まで出てくるとはね……」
カニンガム教授は、自室に届けられた山のような手紙や電報を眺め、苦々しく吐き捨てた。
その多くは「その頭脳で宝石の入手経路を探し出して欲しい」という依頼の打診だったが、より厄介なのは、宝石の原産地を特定して独占しようと目論む資本家たちの動きだった。
西アーカムの路地には、高級な背広を着た見慣れない男たちが溢れ始めた。
彼らは地質学者を雇い、一攫千金を狙う山師のように、海岸線の岩場を金槌で叩き、砂を掬っては血眼になって「出所」を探している。
彼らにとって、西アーカムはもはや単なる港町ではなく、未発見の鉱脈が眠る「約束の地」に映っているのだ。
「教授。イレギュラーズの連中からも苦情が来ています。
余所者の調査員がうろちょろしていて、商売の邪魔だって」
○○○が冷えたコーヒーを運びながら報告すると、教授は深いため息をついた。
裏社会の連中なら力で黙らせることもできた。だが、彼らは法に守られた正当な調査を装っている。
「最初の入荷分を捌くだけでこれ程の騒ぎになるとは……。
これでは『リュウグウ』との航路に気づかれるのも時間の問題だ。
……おまけに、この騒ぎを聞きつけて、ついに『本物』が動いたらしい」
教授が手元のカードを○○○に差し出した。
そこには重厚な活字で、連邦政府の紋章と共に一つの名前が刻まれていた。
『アメリカ合衆国財務省・特別捜査官 エドワード・ミラー』
「……連邦捜査官、ですか。やっぱり密輸の容疑で?」
「いや、カードの裏を見てみたまえ」
○○○が裏返すと、そこには流麗な手書きの文字で、簡潔にこう記されていた。
『カニンガム教授。インスマスの真実を白日の下に晒した貴方の勇気に、心からの敬意を表します。
この不可解な宝石騒動の沈静化と、我が国の安全保障のため、是非とも貴方の知徳を拝借したい』
「……敵意があるようには見えませんが」
「ああ、そこが一番の問題なのだよ、○○○君。彼は、心底から私を信じ、この街を救おうとしている『真っ当な人物』らしいのだから」
カニンガム教授の表情には、これまでの怪物との対峙では見せなかった、深い困惑の色が浮かんでいた。
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その日の午後。西アーカム分校の研究室に、ノックの音と共に一人の男が足を踏み入れた。
糊のきいたシャツに地味なネクタイ、そして手入れの行き届いた靴。
エドワード・ミラーは、絵に描いたような「誠実な公務員」を体現したような人物だった。
「カニンガム教授! お会いできて光栄だ。私はエドワード・ミラー。財務省から参りました」
ミラーは、教授のデスクに歩み寄ると、心からの尊敬を込めて力強く握手を求めた。
その瞳は澄んでおり、裏社会の人間が持つ濁りや、野心家のぎらつきなど微塵も感じられない。
「インスマスの忌まわしい事実を暴くきっかけとなったバス暴走事件と半魚人の標本作成は、ワシントンでも高く評価されています。
あの勇気ある告発がなければ、今頃わが国の沿岸部はさらに蝕まれていたことでしょう」
「……はあ。過分なお言葉、恐縮ですよ。ミラー捜査官」
カニンガム教授は、いつものシニカルな笑みを浮かべる余裕もなく、どこか居心地悪そうに生返事を返した。
ミラーは持参した鞄から、数枚の資料を取り出し、真剣な面持ちで○○○と教授に示した。
「現在、この西アーカムを席巻している『宝石騒動』。
これ自体が治安を乱しているのはもちろんですが、政府が危惧しているのは、この未知の結晶が『敵対勢力の資金源』になっているのではないか、という点です」
「敵対勢力、ですか」
○○○が思わず聞き返すと、ミラーは深く頷いた。
「はい。この宝石の成分は、既存のどの鉱山とも一致しません。
つまり、我々の関与できない『未知の領土』……あるいは、極秘に開発された技術の副産物の可能性がある。
これを独占しようとする輩が、ポートランドから来たような武装組織と結託し、西アーカムを戦場に変えることは阻止せねばなりません」
ミラーは一歩踏み出し、カニンガム教授を真っ直ぐに見据えた。
「教授。貴方の明晰な頭脳と、この土地の歴史への造詣を貸していただきたい。
この宝石が一体どこで『掘り出されている』のか。それを特定し、正当な法管理下に置くことで、この街を暴力から救いたいのです。協力していただけますね?」
そのあまりに真っ当な正義感を前に、研究室に沈黙が流れた。
教授はチラリと○○○に助けを求めるような視線を送ったが、彼もまた、ミラーの「非の打ち所のない善意」に圧倒され、言葉を失っていた。
「……ええ、もちろん。我々も、街の平和を願う気持ちは同じですから」
カニンガム教授がようやく絞り出したのは、嘘ではないが真実でもない、苦し紛れの同意だった。
ミラーは満足げに微笑むと、「ありがとうございます!」と再び強く手を握った。
彼にとって、カニンガム教授という「英雄」を味方に付けたことは、この難事件解決への最大の進展に思えたのだ。
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打ち合わせを終え、ミラー捜査官が研究室を後にしようとしたその時だった。
ドアが開くと同時に、冷たいコーヒーの補充と新刊の雑誌を持ったヒナタとカイが入ってきた。
「おや……」
ミラーは足を止め、二人の少女をじっと見つめた。○○○は一瞬、彼女たちの不自然な戸籍や「人外」としての気配を悟られたかと思い、背中に冷たいものが走った。
しかし、ミラーの表情に浮かんだのは、警戒ではなく深い「悲哀」だった。
「教授、失礼だが……彼女たちは、ここの学生さんですか?」
「ええ、私の手伝いをしてくれているヒナタ君と、友人のカイ君です」
教授の紹介を聞くと、ミラーは脱いでいた帽子を胸に当て、二人の前に歩み寄った。そして、驚くほど穏やかで真摯な声で語りかけ始めた。
「ヒナタさん、カイさん。辛い状況の中、本当によく頑張っていますね。
……今、この国は、君たちの同胞に対して決して寛容ではない。
排日移民法という理不尽な壁のせいで、正当な権利を奪われている君たちの境遇、私は一人のアメリカ人として、非常に心苦しく思っています」
突然の熱い言葉に、ヒナタとカイは顔を見合わせた。
いつも自分たちを「怪物」として恐れるか、「よそ者」として排斥する人間ばかりを見てきた彼女たちにとって、これほど真正面から「同情」を向けられるのは初めての経験だった。
「……ありがとうございます、捜査官さん」
ヒナタが困惑しながらも頭を下げると、ミラーはさらに表情を曇らせ、周囲に聞こえないような低い声で警告した。
「いいですか。実は去年から、アメリカ中で日本人の失踪が恐ろしい勢いで増えているんだ。
君たちは知らないかもしれないが、統計上、あり得ない数字だ。……おそらく、生活に困窮した彼らを狙う悪質な犯罪組織が動いている。
あるいは、もっと凄惨な事件に巻き込まれているのかもしれない」
ミラーは知らない。その「失踪者」たちの多くは、地上の過酷な差別を避け、自分達で作り上げた海底都市「リュウグウ」へ移住しただけだということを。
「だから、お願いだ。決して一人で出歩かないでほしい。必ず○○○君や教授のような、信頼できる誰かと行動するんだ。
どんなに働く場所がなくて辛くても、自暴自棄になってはいけない。
……死ぬことなんて、絶対に考えないでくれ。君たちの命は、この国の法が守るべき大切なものなんだから」
ミラーの手が、励ますように二人の肩に添えられた。その掌は熱く、嘘偽りのない善意に満ちていた。
カイは、自分たちを本気で「守るべき弱者」として扱うこの男を、どうからかっていいのか分からず、珍しく言葉を飲み込んだ。
「……私たちは、大丈夫です。○○○が、いつも一緒にいてくれますから」
カイがそう答えると、ミラーは安心したように微笑み、○○○の肩を叩いた。
「○○○君、彼女たちを頼んだよ。君が彼女たちの騎士だ。
……教授、私は一度、港の警備状況を確認してきます。また明日、詳細な調査方針をご相談に伺います!」
清々しいまでの正義感を振りまいて、ミラーは去っていった。
後に残された四人の間には、何とも言えない奇妙な沈黙が流れた。
「……ねえ、教授。あの人、本気で言ってるんだよね?」
カイが呆れたように、しかしどこか調子を狂わされた顔で呟いた。
「ああ。純度百パーセントの善意だ。
……厄介だぞ、真っ当過ぎる善人というのは……」
カニンガム教授は、深く、この日一番の溜息をついた。
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ミラー捜査官の「善意」は、翌日から具体的な行動となって現れた。
彼は宝石の出所を調査する傍ら、宣言通り「日本人の少女たちを犯罪から守る」という義務を勝手に背負い込み、驚くべき頻度で○○○たちの前に姿を見せるようになったのである。
例えば、○○○がヒナタとカイを連れて、リュウグウへ届けるための物資をイレギュラーズの倉庫へ引き取りに行こうとした時のことだ。
「やあ、○○○君! 今日も彼女たちのエスコート、ご苦労様!」
街角から、眩しいほどの笑顔でミラーが手を振って現れた。
「……ミラー捜査官。お仕事中ではないのですか?」
「これも仕事のうちだよ。港の周辺は治安が乱れているからね。君一人では不安だろうと思って、私が先の方まで見回りをしておいた。さあ、安全なルートを私が案内しよう」
悪意など微塵もない。彼は本気で、か弱い少女たちが凶悪なマフィアに拉致されるのを防ごうとしているのだ。だが、彼の「エスコート」があるおかげで、密造酒の樽に隠した炭酸ガスボンベを受け取ることができず、○○○たちはただの「街歩き」を強いられることになった。
その日の夕方。三人はようやくミラーの「保護」から逃れ、カニンガム教授の研究室に逃げ込んだ。
「……もう限界。あの人、いい人すぎて逆に怖いよ……」
カイがソファに倒れ込み、ぐったりとした声を上げた。
「あんなに真正面から心配されると、逆に落ち着かない……」
ヒナタも眉を下げ、渡されたばかりの「防犯用ホイッスル(ミラーからのプレゼント)」を机に置いた。
「教授、どうにかできませんか。このままだと、リュウグウへの補給が完全に止まってしまいます。
彼らの死活問題……とまでは行きませんが、かなりまずいです」
○○○の訴えに、カニンガム教授は指先でこめかみを揉みながら答えた。
「分かっている。だが、彼は地上の法と秩序の代行者であり、なおかつその根底にあるのは『無私の善意』だ。
……暴力で解決すれば我々が真の悪党になり、魔術で操れば彼の誇りを汚すことになる。ミラー捜査官という男は、今の我々にとって、どんな組織や怪物よりも攻略しがたい難敵だよ」
教授は机の上の地図を広げた。そこには、ミラーが独自に作成した「西アーカム治安維持パトロール経路」がびっしりと書き込まれていた。
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数日後。ミラー捜査官の「保護」によって西アーカムでの活動が完全に麻痺したカニンガム教授たちは、ついに一つの決断を下した。
「教授、本当に連れて行くんですか? もし彼が『法』を優先して政府に報告したら、リュウグウは終わりですよ」
ボロ漁船の甲板で、○○○は不安げに囁いた。
「○○○君、彼は鋭い。嘘をついてもすぐバレるだろう。
ならば、賭けになるが彼のその巨大な正義感の『拠り所』を、我々の側に移してもらうしかない」
教授はそう言うと、タラップを上がってくるミラー捜査官を笑顔で迎えた。
「やあ、ミラー捜査官。今日は君に、ぜひ見てもらいたいものがある。
君が心配していた『日本人の失踪』……その答えが、この海の下にある」
「……答え、ですか? 教授、それは一体……」
ミラーが困惑しながら乗船すると、ヒナタとカイが呪文を紡ぎ、船体は静かに海中へと沈み始めた。
初めて見る魔術の結界、窓の外を流れる深海の絶景。ミラーは言葉を失い、ただ窓ガラスに手を触れて驚愕していた。
「これは……夢か、それとも私は天国へ向かっているのか……」
「いいえ、ミラーさん。行き場のない人たちが作った、海底都市ですよ」
ヒナタが静かに告げる。
やがて、巨大なガラスドームが輝く海底都市「リュウグウ」がその姿を現した。
ハッチを通り、ミラーが桟橋に足を踏み出した瞬間、彼は立ち尽くした。
そこには、彼が「誘拐された」「殺された」と信じて疑わなかった日本人たちが穏やかに笑い、醤油の香りが漂う食堂で談笑し、子供たちが元気に走り回る「平和な日常」があったのだ。
「ああ……なんてことだ……」
ミラーの瞳から、一筋の涙が溢れた。
「君たちが探していた宝石は、彼らがこの過酷な深海で生き抜くための交易品なんだ。
ミラー捜査官。もし君が『法』に従い、ここを政府に報告すれば、彼らは再び地上の差別に晒され、この楽園は国家の管理下に置かれて消滅するだろう」
カニンガム教授が、ミラーの隣に立って静かに問いかける。
「君の正義は、どこにある? 国家の法か、それとも目の前の人々の幸福か」
ミラーは、駆け寄ってきた幼い日本人の子供から「こんにちは、おじさん」と声をかけられ、震える手でその頭を撫でる。
しばらくの沈黙の後、彼は帽子を深く被り直し、○○○たちを振り返った。その瞳には、今まで以上の強い決意が宿っていた。
「……私は何も見ていません。
……ですが、ワシントンへの誤魔化し方は思いつかないので一緒に考えていただけますか?」
ミラーは腰のホルスターに手を当てた。
「私には連邦捜査官としての職責がありますが、フェアを投げ捨てた悪法の前に善良な市民を差し出す程、盲目にはなれません。
鉱脈の誤魔化しにつきまして全面協力させてください。」
ミラーはカニンガム教授の手を堅く握った。




