コンパスも狂ってやがる
八月の初め。西アーカムの空を重く垂れ込めた雲が、暴力的な驟雨を街に叩きつけていた。アスファルトから立ち上る熱気と雨が混ざり合い、視界を白く濁らせる。
「……吐いたよ。隣の州、オレゴンはポートランドを拠点にする組織の連中だ」
カニンガム教授の研究室。冷えたレモネードのグラスが結露してテーブルを濡らす中、ウエスト・アーカム・イレギュラーズのボスが、苦々しい表情で報告を口にした。
彼の背後には、ヒナタとカイによって「再起不能」にされた刺客たちの尋問記録が置かれている。
「奴ら、あの宝石の利権を簡単に手に入れられると思っていたらしい。ついでに、それ以上に価値のある禁制品の市場とルートもな。ポートランドのシンジケートは、西アーカムの弱小組織……つまり俺たちを叩き潰して、北西沿岸の利権を丸ごと乗っ取るつもりだ」
「わざわざポートランドから、あんな野心家どもがこの湿気た港町に軍隊を送り込もうというのかね?」
カニンガム教授が、扇子を仰ぎながら退屈そうに尋ねた。
「ああ。陸路じゃない。警察や州兵の目を盗む必要のない海路だ。
武装した輸送船を一台、直接西アーカムの港に乗り込ませて、重機関銃で街の『秩序』を書き換えるつもりらしい。
予定では数日中……この嵐が止む頃には沖合に現れるだろう」
○○○は隣に座るヒナタとカイを見た。二人は、届けられたばかりのファッション雑誌を眺めながら、まるで他人事のように会話を聞いている。
だが、ヒナタの手元にあるレモネードの氷が、彼女の感情に呼応するように、パキリと小さな音を立てて砕けた。
「海から来るなら海底都市のみんなに沈めて貰おうよ。事故死に見せかけるのが一番良さそうだし」
カイが、雑誌から目を離さずに呟いた。その声は、地上の猛暑を凍りつかせるほどに冷ややかだった。
「カニンガム教授、奴らの船は、海底都市がカナダとの間で行っている『密輸航路』を横切るつもりなんだよね?許せる物じゃないよ。
私とヒナタ、海底都市のみんなは、自分たちの食い扶持と、何より恩人である教授達やイレギュラーズ達の顔に泥を塗られるのには耐えられないからね」
続けて飛び出したカイの言葉にカニンガム教授は、ニヤリと口角を上げた。
「……ヒナタ君、カイ君。彼らに伝えておきたまえ。地上を掃除するのは私の役目だが、海の上を掃除するのは、主である君達の特権だ、と」
「了解。……○○○、明日の夜は海が荒れるから、港には近づかない方がいいよ」
ヒナタが○○○の肩に頭を乗せ、甘えるように微笑んだ。
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その夜。西アーカムの激しい雨風を避けるように、ヒナタとカイは旧漁船に設置された「深海通信機(魔術的な共鳴石を用いた連絡手段)」の前にいた。
地上の熱気とは無縁の冷ややかな共鳴音が響き、受話器の向こうから海底都市の責任者である一人の男の声が届く。
彼はかつて日本で将来を嘱望された若い技術者であり、今は深海で「密輸航路」の管理を担っている男だ。
『……なるほど。ポートランドの武装船が、我々の航路を荒らしに来るか』
「そう。カニンガム教授への無礼もそうだけど、カナダからの大事な荷物が通る道を土足で踏み荒らされるのは、私たちも我慢できないでしょ?」
カイが冷淡に告げると、通信の向こうで男が短く笑った。
『了解した。我々は養われているだけの居候ではない。恩人たちの顔に泥を塗る不届き者には、深海の流儀で退場してもらおう。……幸い、この嵐だ。海流を少し「調整」すれば、彼らは自分たちがどこで座礁したのかさえ気づかずに済む』
海底都市側の対応は迅速だった。彼らにとって、カナダから届けられる物資や、カニンガム教授を通じて得るアーカムの最新情報は生命線だ。
それを脅かす隣州のシンジケートは、もはや交渉の余地もない「排除対象」に過ぎない。
深海の闇の中。海底都市から数名の工作員が出撃した。彼らが運ぶのは、魔術を増幅する為の術具だ。
「○○○。みんな、やる気満々だよ」
通信を終えたヒナタが、○○○の腕に自分の腕を絡めながら言った。
「ポートランドの連中は、自分たちが最新の重機関銃を持っているから無敵だと思っているみたいだけど……水圧と、海流を自在に操る私たち相手に、弾丸が何の意味を持つのか、明日になれば思い知るはずだよ」
嵐の風音に混じって、遠い沖合から重い咆哮のような波の音が聞こえてきた。
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翌晩。激しかった嵐は去ったが、西アーカムの海には、前が見えないほど濃い「不自然な霧」が立ち込めていた。
ワシントン州沖、コロンビア川河口北方を航行するポートランド・シンジケートの輸送船『アイアン・デューク号』の甲板では、背広に重いレインコートを羽織った男たちが、苛立ちを隠せずにいた。
彼らの手元には、最新式のトンプソン短機関銃。それらは西アーカムの「金づる」たちを震え上がらせるための暴力の象徴だった。
「クソッ、この霧は何だ。コンパスも狂ってやがる」
「構うな直進しろ。西アーカムの港に入ったら、見せしめに波止場をハチの巣にしてやるんだ」
リーダー格の男が毒づいた。彼らは、自分たちの船の真下で数人の「影」が海面に触れ、呪文を紡いでいることなど気づく由もない。
海底都市の工作員たちが術具を起動させると、穏やかになりかけていた海面が突如として煮えくり返るように波立ち始めた。
「……おい、揺れが酷くないか?」
次の瞬間、アイアン・デューク号を襲ったのは、自然界ではあり得ない周期の「三角波」だった。
右から、左から、そして真下から。意志を持っているかのように叩きつける衝撃に、数トンの船体が木の葉のように舞い上がる。
「うわあぁっ! 捕まれ!」
「銃を、銃を流されるな!」
男たちが叫ぶ。魔術によって局所的に高められた海流が船底を突き上げ、アイアン・デューク号は無残な音を立てて横転した。
冷たい夜の海に、背広姿の男たちが次々と投げ出される。
彼らの多くは泳ぎ方を知らない「都会のならず者」たちだった。
重い靴、革のコート、そして何より彼らが誇りとしていた「鉄の武器」が、今は容赦なくその体を深淵へと引きずり込む重りと化している。
「助け……がぼっ! 苦し……!」
霧の中に、必死に助けを求める手だけがいくつか突き出し、そして泡と共に消えていく。一発の銃声も、火薬の匂いもない。ただ、重く暗い水の音だけが、ポートランドの傲慢を飲み込んでいった。
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翌朝、西アーカムの港を覆っていた不自然な霧は、朝日が昇るのと同時に跡形もなく消え去っていた。海は昨夜の惨劇などなかったかのように穏やかで、ただキラキラと眩しい光を反射している。
「……死体一つ浮いていないとは。彼らの『掃除』は実に徹底しているね」
ミスカトニック大学西アーカム分校のテラスで、カニンガム教授が優雅にコーヒーを啜りながら呟いた。
手元の新聞には「ポートランドの輸送船、消息を絶つ。嵐による遭難か」という小さな記事すら載っていない。
一隻の船と数十人の武装集団が、公的な記録にも記憶にも残らず、ただ「消えた」のだ。
「海底都市の人たちが、船の残骸も沈没船の一部として回収しちゃったみたい。鉄資源は貴重だからって」
ヒナタが隣でトーストを齧りながら、事も無げに言った。
「ポートランドのボスも、これで少しは学習するだろう。
アーカムの海には、自分たちのルガーやトンプソンよりも、ずっと深くて冷たい『ルール』があるということを」
カニンガム教授はそう言うと、満足げに新しい宝石の鑑定作業に戻った。一方、○○○は二人の少女に挟まれ、逃げ場のないソファで微かな溜息をついていた。
「ねえ○○○、海も片付いたし、今日は街へ出かけようよ。買いたい本があるんだ」
「私も! そろそろ追っかけてるコミックの新刊が出るんだよね。」
カイが○○○の隣に座り、ヒナタが人数分淹れたコーヒーを配って回る。
○○○は渡されたコーヒーを片手に「暑いし、帰りにソーダファウンテンにも寄って行こうぜ」と答えた。
八月の陽光は依然として強く、地上の熱気は止むことを知らない。
「……本当、親父たちにどう説明したものかな」
○○○の呟きは、二人の少女の楽しげな笑い声にかき消された。




