貝が自慢なんだって
西アーカムに戻ってから数日。○○○が直面したのは、地上の酷暑よりもさらに逃げ場のない「包囲網」だった。
ヒナタの住む寮の部屋には、海底都市「リュウグウ」に行く前からいつの間にかカイが当然のような顔で居座るようになっていた。
本来なら「ヒナタとその元カノ」であるはずの二人が、今や○○○という共通の彼氏を囲む、共犯関係を結んでいるのだ。
「○○○、シャツのボタンが緩んでる。直してあげるね」
「あ、こっちの袖も汚れてるよ。脱いで。私が洗っておいてあげる」
部屋に入った途端、二人から左右同時に手が伸びてくる。
甲斐甲斐しく世話を焼かれていると言えば聞こえはいいが、その実態は「マーキングを隠せているか」の検閲と、逃がさないための物理的な拘束に近かった。
「……二人とも、そんなに構わなくていい。自分のことは自分でできるから」
「だーめ。ここの治安の悪さは知ってるでしょ?私かヒナタと行動するようにしないと危ないんだから。
海底都市の連中からも、君のことはしっかり見張っててくれって頼まれてるんだよ」
カイが背中から抱きついてきて、首筋に唇を寄せる。その隣でヒナタが、当たり前のように○○○の膝を枕にしてくつろいでいた。
「ヒナタとカイ……その、仲良くするのはいいんだが、俺の立場はどうなるんだ」
「何言ってるの? ○○○が真ん中で、私たちが両端。これ以上バランスのいい形はないでしょ?」
ヒナタが触手を一本、器用に動かして冷えたレモネードを○○○の口元へ運んでくる。
二人の間には、留学してからの記憶を共有したことで生まれた、奇妙な連帯感と「優先順位の合意」が出来上がっていた。
ヒナタはカイの存在を「○○○を守り、人間の女に目を向けさせないための戦力増強」として歓迎し、カイはヒナタを「共通の目的を持つ、信頼できる愛おしいパートナー」として認識している。
そこに嫉妬の火花はなく、ただただ甘く重い「包囲」だけがあった。
○○○は冷たいレモネードを飲み込みながら、天井を見上げた。一対二。それも相手はどちらも「人外」だ。
社会的な倫理や二股の罪悪感など、彼女たちの前では意味をなさない。
「……父さんと母さんにどういえばいいんだ、これは」
溜息をつく○○○の耳元で、二人が同時に「愛してるよ」と囁いた。
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○○○が私生活での「包囲網」に頭を抱えている一方で、カニンガム教授がばら撒いた「深海の宝石」は、西アーカムの社交界に静かな、しかし確実な狂乱を巻き起こしていた。
熱水鉱床で形成された結晶は、地上では見られない複雑なプリズムを生み出す。それが「東洋の秘術で浄化された幸運の守護石」という触れ込みで、ボストンやニューヨークの富豪たちにまで噂が広まっていた。
「○○○。あの方には敵わないな。ヒナタちゃんみたいな日本人達の協力に加えて、こんなに小さいのに札束一つになる宝石を手に入れられるツテを手に入れるとは思わなかったぜ」
ウエスト・アーカム・イレギュラーズ傘下のスピークイージー。
イレギュラーズのボスが膝に乗ったまま動こうとしない猫を困った顔で撫でながら机の上に一束のドル札と、小さな宝石を放り出した。
カニンガム教授は約束通り、貿易に関わった者たちに相応の報酬と、口封じのための「現物」を配っていた。
イレギュラーズの面々にとっては、密造酒を運ぶよりも遥かに安全で、かつ実入りのいい「美味しい商売」だった。
だが、金と宝石の輝きは、それ以上に鋭い「鼻」を持つ連中を惹き寄せる。
「だが最近、この界隈で妙な連中を見かけるようになった。
……背広を着ているが、堅気じゃない。カジノの用心棒か、どこかのマフィアの回し者か」
ボスの側近が、窓の外を警戒するように見やる。
西アーカムの路地裏では、ウエスト・アーカム・イレギュラーズが「何かとてつもない儲け話」を掴んだという噂が独り歩きしていた。
更に、その背後にはミスカトニック大学の教授たちが絡んでいるという推測もまた同じように広がっていたのだ。
「奴ら、どこでこいつが取れたのか、誰が運んでいるのかを嗅ぎ回っている。
……○○○、お前さんも気をつけろよ。特に、お前の後ろについてるヒナタと新入りの女の子だ」
「……彼女たちが、どうかしたのか?」
「噂じゃ、あの石は『日本人の魔術師』が深海から呼び出しているってことになってる。
欲に目が眩んだ連中は、その『源泉』を独り占めしようと企むもんだ」
「ボス、先週上映された映画にそんな台詞がありましたね」
○○○は呆れた顔で返し、ボスは照れ隠しに頭を掻いた。
それはそれとして、カニンガム教授が演出した「東洋の神秘」というプロモーションが、裏目に出ようとしていた。
強欲な連中にとって、ティーンエイジャーの少女に見えるヒナタやカイは、脅せば「金の卵」を産む場所を吐く、格好のターゲットに映っているに違いない。
「背広の連中、何日持つと思う?」
「わざと別れて行動しておいて何言ってんだ。連中、今日中に死ぬんじゃないか?」
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夕闇が西アーカムの路地を濃く塗りつぶし始めた頃。
ヒナタとカイは、意図的に○○○と別れ、人気の少ない倉庫街へと続く道を選んで歩いていた。
背後からは、革靴が砂利を踏む無遠慮な音が二つ。
「おい、お嬢ちゃんたち。ちょっと面を貸せ」
不意に前を塞ぐように、背広姿の屈強な男が現れた。
同時に背後からももう一人。彼らの手には、夕闇に鈍く光る拳銃が握られている。
「お前らの親玉……カニンガム教授だっけか? 随分と羽振りがいいらしいな。
あの宝石の出所を、俺たちのボスに教えてもらいたいんだよ」
男たちは、相手がただの東洋人の少女だと信じて疑っていなかった。
脅せば泣き出し、抱え上げれば簡単に拉致できる「獲物」だと。
だが、カイは退屈そうに欠伸をし、ヒナタは夕食の献立を考えるような気軽さで隣の親友に問いかけた。
「カイ、どっちが右でどっちが左にする?」
「じゃあ、私が手前。ヒナタは奥の担当ね」
「……あ? 何をブツブツ言って――」
男が引き金に指をかけた瞬間だった。
ヒナタとカイの豊かな黒髪が、重力を無視して生き物のように跳ね上がった。
それは髪などではなく、人知を超えたしなやかさと硬度を持つ「触手」の擬態だった。
鋭い金属音が響き、男たちの手から銃が弾き飛ばされる。
何が起きたのか理解する暇さえ与えず、触手は鞭のようにしなり、男たちの手首と足首を正確に捉える。
「あ、がっ……!? な、なんだこれ、離せっ……!」
「暴れると余計に痛いよ?」
カイが冷ややかに微笑み、触手を軽く締め上げる。
次の瞬間、静かな路地裏に、乾いた木の枝が折れるような破壊音が響き渡った。
「ぎ、あああああぁぁぁ!!」
両手両足を無残な方向に曲げられ、男たちは地面に転がった。
魔術など使うまでもない。圧倒的な質量と膂力による、生物としての格の違いだった。
そこへ、一台の黒塗りの車が音もなく近づき、街灯の影からイレギュラーズの男たちが姿を現した。
「お疲れさん、お嬢ちゃんたち。あとは俺たちが引き受ける。
……しかし、派手にやったな」
ボスに命じられて控えていた男が、地面に転がる「元・刺客」を見て呆れたように笑った。
「命までは取ってないよ。しっかり尋問して、どこのどいつが手を出してきたのか吐かせてね」
ヒナタが髪を撫でつけ、何事もなかったかのように微笑む。
「分かってますよ。……こいつらは俺たちの『仕事場』でじっくり可愛がってやる」
イレギュラーズの連中が、ゴミ袋でも扱うように男たちを車に放り込んで去っていく。
再び静まり返った路地裏で、ヒナタとカイは顔を見合わせた。
「さて、○○○を待たせてるし、レストランに行こうよ。なんてお店だっけ?」
「ラ・コキーナってお店だよ。貝が自慢なんだって」
二人の少女は手をつなぎ、スキップでもしそうな足取りで、愛する人の待つレストランへと帰っていった。
西アーカムの熱帯夜。強欲に目が眩んだ人間たちの悲鳴は、遠く上がる夜の花火の音に消えていった。




