精々、海の上で立派なトマトを育てるんだな。
七月の西アーカムは、独立記念日を控えた熱狂の余波で、夜になっても空気がねっとりと肌にまとわりつくようだった。だが、ミスカトニック大学の一角、文化人類学研究室の空気は、それとは異なる異質な「冷たさ」を帯びていた。
きっかけは、カイが持ち込んだ「中国の薬膳酒」にカニンガム教授が難色を示したことだった。西アーカムの政情不安を理由に販路を断たれたカイに対し、教授は「君たちの真の価値は、物そのものではなく、それを運べる『経路』にある」と指摘したのだ。
それを受け、カイは覚悟を決めたように一枚の古びた海図を取り出し、教授たちの前に広げたのである。
「……ワシントン州沖、水深三千メートル。そこに、私たちの街がある」
カイが海図を指差した瞬間、コーエン教授は絶叫に近い声を上げた。
「君たちにしか行けない場所じゃないか! なんという羨ましい……!
三千メートルといえば、現代の物理学では死の領域だ。そこを生活圏にしているというのかね!?」
教授の興奮を余所に、密輸に協力している学生たちは「通りでヒナタさん以外の日本人を見かけないわけだ」と、パズルの一片がはまったような顔で頷いている。
彼らにとって、ヒナタの常識外れな能力を散々目撃してきた今、海底に都市があるという話は、もはや驚くべきことではなく「納得すべき事実」だった。
「海底都市って、割と有り合わせの物で作れるんだね。沈没船とかの再利用で材料が足りるなんて」
ヒナタが感心したように呟くと、カイは少しだけ得意げに笑った。
「言葉で説明するより、見てもらったほうが早いかな。……少しだけ、頭を貸して」
カイが指先を軽く振ると、室内の電球が不自然に明滅した。
次の瞬間、その場にいた全員の視界が、強烈な水圧を感じさせる深い「青」に塗りつぶされた。
――そこは、暗黒の深海だった。
だが、巨大なガラスのドームが闇を切り裂き、内側からは地熱発電による温かい光が漏れ出している。
沈没船の船体を骨組みにした「つぎはぎのビル群」が並び、その間を中性的な容姿の若者たちが、地上の流行から数年遅れた服を着て、穏やかに行き交っている。
家々の窓からは、ラジオから流れるノイズ混じりの日本の歌謡曲が聞こえ、粗末ながらも電球の灯った「日常」がそこにはあった。
「……信じがたい。本当に海底都市があるとは……」
記憶共有の魔術から解放されたカニンガム教授が、眼鏡を拭いながら深く溜息をついた。
「科学が追いついていないのか、魔術が科学を追い越したのか。
……どちらにせよ、そこに巨大な『市場』があるという事実は変わらない。
排日移民法で国から拒絶された連中が、海の底で我々の商品を待っているというわけだ」
教授は机を叩き、力強い笑みを浮かべた。
「いいだろう。海底都市への支援をさせて貰おう。『ウエスト・アーカム・イレギュラーズ』にも『日本人達の協力を取り付けた』と言って手伝って貰おうか。
……諸君、これは単なる慈善事業ではない。我々は、日本を除けば世界で唯一の『深海貿易商』になるのだ」
カニンガムの宣言に、その場の全員が異論なく頷いた。
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カニンガム教授は、手帳と万年筆を机に置き、期待に満ちた表情で身を乗り出した。
「さて、カイ君。未知の文明との貿易には、まず何が必要かな? 」
周囲の学生たちも、何を要求されるのか想像できずに固唾を呑む。
カイがカバンから罫線が引かれた安っぽいノートの切れ端を取り出した。
「ええと……それじゃあ、海底都市の運営委員会からの第一希望リストを読み上げるね」
カイは咳払いを一つして、読み上げ始めた。
「第一に、高品質な化学肥料。特に窒素とリン酸が多めのもの。今の魔術だけじゃ、トマトの味がどうしても薄くなっちゃうからって。
第二に、最新の品種改良された野菜の種。トウモロコシ、ジャガイモ、あと大豆を多めに。
第三に、✕✕✕社製の電球を五百個。自作のやつはすぐフィラメントが焼き切れるから、地上の『既製品』の頑丈さが欲しいんだって」
読み進めるにつれ、研究室内の熱気が、急速に「世知辛い生活感」へと冷え切っていく。
「……第四に、最新の科学雑誌と、できれば少年向けの漫画雑誌を数冊ずつ。それと、地上の流行歌のレコード。」
「……待て。そんな物で良いのか?」
学生の一人が耐えきれず尋ねると、カイは不思議そうに小首を傾げた。
「そんな物が良いんだよ。あっちには沈没船から拾った金銀なら腐るほどあるけど、お腹は膨らまないし、明かりは暗いまま。
彼らが今一番欲しがっているのは、地上の人間が当たり前に使っている『安定した品質の品物』なんだ」
「……なるほどな」
○○○は、思わず苦笑した。三千メートルの海底で暮らす人外たちが、実はトマトの味の薄さと電球の予備がないことに悩んでいる。そのギャップが、あまりに人間臭くて胸を突く。
カニンガム教授は一瞬だけ呆気にとられていたが、すぐにクツクツと喉を鳴らして笑い出した。
「面白い。実に面白いじゃないか。……我々が雑誌や安物の肥料を運ぶだけで、彼らは沈没船の銀を差し出すというわけだ。
これほどコストパフォーマンスの良い商売は、アヘン貿易以来だろうね」
「笑えない冗談はやめてくださいよ、教授」
○○○が釘を刺すが、カニンガムは既に計算を終えていた。
「いいか、諸君。彼らが求めているのは『文明』だ。我々はそれを独占供給する。
肥料の袋一つが、深海ではダイヤモンド以上の価値を持つ。……カイ君、そのリストは全て預かろう。
人数の関係上、肥料は密造酒作ってる農家に金を出して発注させよう。
他の大量に必要な物は……独立記念日の騒ぎに乗じて、西アーカム中の電器店から必要なものを『研究費』で買い占めてくるとしよう」
「助かるよ。……あ、追加で、美味しいイチゴの種は私への手数料ってことでお願い」
カイが茶目っ気たっぷりに笑う。
こうして、未知の深海文明とのファースト・コンタクトは、あまりに所帯じみた「お買い物リスト」の受け渡しによって成立したのである。
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七月四日。西アーカムの街は、建国百五十周年を祝う狂騒に包まれていた。
午後から始まったパレードの喧騒は夜になっても収まらず、至る所で爆竹が弾け、星条旗を振る市民たちが禁酒法など忘れたかのように浮かれ騒いでいる。
「……よし、今だ。積め!」
その喧騒を遠くに聞きながら、港の倉庫裏では異様な光景が繰り広げられていた。
カニンガム教授が農家から掻き集めた大量の肥料袋、そして✕✕✕社のロゴが躍る電球の木箱が、次々とコーエン教授の漁船から新調された調査船へと運び込まれていく。ヒナタはカイとバケツリレーのようにひょいひょいと重い肥料袋を積み込んでいた。
「ヒナタ、カイ、急げ!そろそろ一発目が上がる!」
○○○が甲板から声をかける。
そこへ、一台のパトカーが砂利を跳ね上げながら近づいてきた。
「おい、そこで何をしてる!」
降りてきたのは、前回の密輸騒動には関わっていなかった若手の警官だった。○○○の背中に嫌な汗が流れる。トラックの荷台には、まだ積み切れていない肥料の袋が山積みだ。
○○○が船から降りて応対する。
「……これは、その、大学の研究資料でして」
「研究? こんな祝日の夜にか?」
警官が不審げに懐中電灯を向ける。光が照らし出したのは、泥に汚れた肥料の袋と、山のような電球の箱だった。
「肥料に電球……? 密造酒の樽じゃないのか」
「ええ、見ての通りです。コーエン教授の海洋調査で、夜中に電球で海を照らして魚を呼び寄せて捕まえるついでに、海上での人工栽培の実験に使うんです。教授がどうしても『今日中に積み込め』とうるさくて」
○○○が必死にでっち上げた言い訳を聞き、警官は呆れたように肩をすくめた。
「……ミスカトニックの連中は、どいつもこいつも仕事中毒だな。独立記念日くらい休めばいいものを。火薬でも積んでるのかと疑ったが、農作業の準備か。ご苦労なこった」
警官は、電球の箱を一つ叩くと、皮肉めいた笑いを浮かべてパトカーに戻っていった。
「精々、海の上で立派なトマトを育てるんだな。邪魔したな!」
パトカーが去っていくのを見送り、○○○は深く息を吐き出した。
その直後、西アーカムの空を震わせるような轟音と共に、巨大な大輪の花火が夜空に弾けた。
「ふぅ……危なかった。でも、彼にとってはこれが一番信じがたい『積荷』だったんだろうな」
ヒナタが最後の袋を運び込むと、船は静かに桟橋を離れた。
空に咲く極彩色の花火を背に、科学と魔術、そして「切実な生活」を積み込んだ調査船は、深海へと続く闇の向こうへ向けて舵を切った。
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港の灯りが遠ざかり、船は花火の閃光に照らされる暗い海へと滑り出す。
新調された調査船のエンジン音は驚くほど静かで、魔術によるサポートもあって先月までのボロ船とは比べものにならない安定感で波を切っていく。
甲板の上、○○○は潮風に吹かれながら、ようやくネクタイを緩めた。その隣では、大仕事を終えたヒナタとカイが、積み上げられた肥料袋の山に腰を下ろしている。
「お疲れ様。……さあ、冷えてるうちに飲もう」
ヒナタが取り出したのは、六月の初めに仕込んでいた「イチゴのワイン」だ。
瓶の蓋を開けると、夏の夜の空気に、甘酸っぱいイチゴの香りと、熟成した強めのアルコールの香りがふわりと混じり合った。
カイは、渡されたグラスの中の赤い液体を月光に透かし、嬉しそうに目を細めた。
「綺麗な色……。ヒナタ、これって『魔術』で発酵させたやつ?」
「ちょっとだけね。でも、一番の隠し味は特別な酵母かな」
三人は静かにグラスを合わせた。一口飲むと、甘美な酸味が喉を通り、積み込み作業の疲れがゆっくりと溶けていく。
「……ねえ、○○○。さっきの警官、『海の上でトマトを育てろ』って言ったでしょ?」
カイが、夜空に弾ける最後の一発――ひときわ大きな黄金色の花火を見上げながら呟いた。
「彼には冗談に聞こえただろうけど、数週間後には本当に、水深三千メートルのガラスのドームの中で、地上のトマトや大豆が芽を出すんだ。
……それって、ちょっと素敵なことだと思わない?」
「ああ、そうだな。……誰にも邪魔されない、海の底の楽園か」
○○○は、カイの記憶共有で見せてもらった「青い街」を思い返した。
そこには、アメリカの悪法からも、人種差別の荒波からも逃れ、ただ静かに文化を繋ごうとする人々がいる。
自分たちが運んでいるのは、単なる物資ではなく、彼らの「明日への希望」そのものなのだ。
「次は、もっと美味しいおつまみをリクエストされるかもね」
ヒナタが笑い、残りのワインを三人のグラスに注ぎ分けた。
空に咲く祝祭の花火が終わる頃、船はワシントン州沖へと続く長い航路へと入った。
暗い海の底で待つ失業者たちへ、西アーカムの夏を、種を、そして未来を届けるために。




