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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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57/61

プランBだ!

 六月の湿り気を帯びた夜。アーカムの地下にひっそりと佇むスピークイージーでは、蓄音機から流れる気だるげなブルースが、客たちの低い話し声に混じっていた。


「……にしても、ヒナタ。お前さん、去年のハロウィンであれだけの報酬チップを色んな組織から貰ったんだ。しばらくは遊んで暮らせるだろうに、よく働くねぇ」


 カウンターの向こうで、バーテンダーが呆れたように笑いながらグラスを拭いた。

 隣では少年の姿をしたヒナタが、ジンジャーエールを片手に、寮から持参したおつまみを器用にクラッカーへ乗せている。


「うーん、金のある無しに関わらず、働かないでいると落ち着かないんだよ。

 仕事がないと、腕が鈍っちゃう気がして」

「真面目だな。……まあ、お陰でこっちは助かるがね」


 ヒナタのブレない労働観に、○○○は妙な感心を覚えつつ、自分のカクテルを啜った。


 その時、店の重い扉が開き、夏の到来を告げるような白い麻のスーツに身を包んだカニンガム教授が姿を現した。彼は周囲を確認して、気心のしれた口の堅いメンバーだけである事を確認すると、迷いのない足取りで二人の隣に腰を下ろす。


「いい夜だね、諸君。……さて、本格的な夏が来る前に、喉を潤す準備をしようじゃないか」


 教授は声を潜め、テーブルに一枚の海図を広げた。


「実は、カナダの密輸業者に大量のビールを発注した。

 これを海洋生物学研究室のコーエン教授に受け取ってもらう計画を進めているんだが……少しばかり問題があってね。

 そこで、君たちの力を借りたい」


 教授の説明によれば、ワシントン州警察が港での大規模な検挙を予定しているという。陸路が封鎖されるなら、残された道は「海」しかない。


「海洋調査の名目で船を出す。君たちはその『調査員』だ。……ヒナタ君、君には文字通り、一肌脱いでもらうことになるが、構わないかね?」

「いいですよ。任せてください」


 ヒナタが不敵に笑い、作戦は決まった。禁酒法の壁を越える、大掛かりな密輸作戦の始まりだった。


---


 翌日、ミスカトニック大学の海洋生物学研究室の一画。コーエン教授も合流し、作戦の最終確認が行われた。

 カニンガム教授がペンで海図の一点を指し示す。


「カナダ側の密輸船は、国境ギリギリのこの海域でビールの樽を海へ投下する。波に流された体裁にするためだ。だが、普通に回収しようとすれば、港で手ぐすね引いて待っているワシントン州警察の餌食になる」


 そこでカニンガム教授が提案したのは、ヒナタの身体能力を前提とした、二段構えの「プランB」を含む密輸ルートだった。


「まずヒナタ君。君には調査船から潜水してもらい、海中に漂う樽を確保してもらう。確保した樽は、船で曳航するフリをしつつ、実際には君が海中から船を後押し、あるいは牽引して進んでくれ。これなら船のエンジンに負荷をかけず、不自然な航跡を残さずに済む」

「了解」


 ヒナタが事も無げに頷く。彼にとって、ビールの樽など羽毛のようなものだろう。


「そして○○○君。君の役割は重要だ。港の防波堤で『釣り人』になりすまし、警察の動きを監視してくれ。もし警察が臨検の準備を始めたら、身につけている帽子やタオルの色で、沖にいる船へ合図を送るんだ。白なら『安全』。だが、赤や青が混じれば……」

「……『プランB』への移行ですね」

「その通り。港での荷降ろしが不可能だと判断した場合、ヒナタ君に海中で樽を切り離して貰い、船はそのまま港に戻って貰う。

ヒナタ君はそのまま港から遠く離れた指定の岸辺まで、自力で樽を引っ張って上陸させてくれ。そこにはイレギュラーズの連中を待機させてある」


 ○○○の合図がなければ、樽はヒナタの手によって「裏口」から運び込まれる。

 船は空荷を装って堂々と帰港し、警察が船の甲板をどれだけ調べようとも、証拠は一滴のビールすら残らないという算段だ。

 コーエン教授が愉快そうに笑い、作戦の全容が確定した。進めてください。


---


 作戦当日。六月の強い陽光が海面を叩き、眩い反射が目を開けているのも辛いほどだった。

 沖合では、コーエン教授の指揮する海洋調査船が、悠々と波間に浮かんでいる。

 潜水服も着ず、水着のような格好で甲板に立つヒナタは、遠くから見れば単なる泳ぎの得意な学生にしか見えない。


「それじゃ、行ってくるね」


 ヒナタは軽やかに海へ飛び込んだ。水飛沫もほとんど立てず、彼はそのまま深い蒼の中へと消えていく。

 海中では、カナダ側の船が「投棄」したビールの樽が十数樽、潮流に乗ってゆらゆらと漂っていた。

 ヒナタはそれらを手際よくロープでまとめると、人間には不可能な発音で呪文を詠唱した。

 樽周辺の海流の流れが変わり、樽が動き出した事を確認すると、樽をまとめたロープを引いて片手で船まで牽引する。

 ロープを船に固定すると船底を掴み、再度詠唱して船の動きをアシストするように海流を操ると船を押して港へ向けて泳ぎ始めた。船のエンジン音は一定だが、ヒナタと魔術の推進力が加わることで、船は重い荷を引いているとは思えないほどスムーズに、かつ波を切る音を最小限に抑えて進んでいった。


---


 一方、港の防波堤。

 ○○○は麦わら帽子を深く被り、釣り竿を構えていた。傍目には、休日をのんびり楽しむ学生の姿そのものだ。

 だが、その視線は足元の浮きではなく、港の詰所に集まるワシントン州警察の動向を鋭く追っていた。

 詰所の前には、サイドカー付きの大型バイクやパトカーが数台並び、制服を着た警官たちが落ち着かない様子で海を睨んでいる。


(……やはり、情報は確かだ)


 ○○○は、手元のクーラーボックスに忍ばせた、合図用の「赤いタオル」に指をかけた。

 その時、背後から砂利を踏む靴音が聞こえた。


「よう、学生さん。いい陽気だな。……釣果はどうだ?」


 声をかけてきたのは、腰に拳銃を下げた初老の警官だった。

 ○○○は心臓の鼓動が跳ねるのを感じたが、努めて冷静に、少しだけ困ったような笑顔を作って振り返った。


「さっぱりですよ。今日は潮の流れが悪いのか、魚もバカンスに行ってるみたいです」


 警官は○○○のバケツの中を覗き込み、不自然に空っぽなそれをじっと見つめる。


「そうか……。だが、こんな暑い中、長時間ここに座っているのは感心しないな。何か、魚以外を『待っている』ようにも見えるがね?」


 警官の鋭い眼光が、○○○の麦わら帽子の下を射抜いた。

 沖では、ヒナタを伴った調査船が、水平線の向こうからゆっくりと姿を現し始めていた。


---


「……いえ。待っているのは、あそこの船の帰港ですよ。私の指導教授たちが乗っているんです」


 ○○○は、遠くに見えるコーエン教授の船を指さした。警官は不審げに鼻を鳴らし、制帽を直しながら双眼鏡を取り出した。


「ふん。海洋調査、か。あんなボロ船で何を調べてるんだか。だが、今からあそこへ臨検に入る。何か怪しいもんを積んでたら、学生のあんたも事情を聞くことになるぞ」


 警官は無線で仲間に連絡を入れ始めた。○○○の背中に冷たい汗が流れる。このまま合図を送れば、この警官に「合図の内容」を悟られる危険がある。

 だが、沖の船の上では、コーエン教授が望遠鏡を覗き込んでいた。彼は防波堤に佇む○○○の隣に、制服姿の警官が張り付いているのを即座に確認した。


「……○○○君が動けないようだね。プランBだ! 」


 教授の合図と同時に、船に乗ってる学生達が動いた。

 学生の一人が船に固定していたロープを斧で一瞬にして断ち切り、もう一人の学生がナイフで結び目を切ってロープの切れ端を海に投げ捨てた。


 十数個のビールの樽は、海流を操るヒナタの術によって、船から離れてもなお一塊のまま、水面下で不気味なほどの速度を保って港の喧騒とは反対の方向へと滑り出した。

 ヒナタ自身も、船底を離れて樽と共に深い海へと潜っていく。

 数分後、調査船が港の桟橋に接岸した際、待ち構えていた警察官たちが血眼になって甲板や船倉を調べ上げた。しかし、そこにあるのは採取されたプランクトンのサンプルと、泥だらけの観測機器だけだった。


「……何もないだと? 馬鹿な」


 先ほどの初老の警官が、空っぽの船底を見て呻いた。○○○はその横で、わざとらしく大きく息を吐いて釣り竿を畳んだ。


「ですから言ったでしょう、教授たちは真面目な研究中だって。……さて、ボウズのままで帰るのも癪ですし、私も失礼しますよ。コーエン教授、お疲れ様でした!」


 ○○○は動揺を隠して明るく声をかけ、警察たちの苦々しい視線を背に受けながら防波堤を去った。

 その頃、港から数マイル離れた、鬱蒼とした森に面した人目のない岸辺。

 海面が盛り上がり、十数個の樽が次々と砂浜に打ち上げられた。その後を追うように、水滴を弾きながら少年の姿をしたヒナタがひょっこりと顔を出す。


「お待たせ。冷えてるうちに運んじゃって」


 手ぐすね引いて待っていた「ウエストアーカムイレギュラーズ」の面々が、驚愕と歓喜の声を上げて樽をトラックへ積み込み始め、ヒナタにバスタオルと着替えを手渡した。

 警察が港で空振りに終わっている間に、ビールの樽は「裏口」から鮮やかにアーカムへと運び込まれたのである。


---


 その日の夜。再び訪れたスピークイージーは、昼間の緊迫感が嘘のような熱気に包まれていた。

 奥のボックス席には、カニンガム教授とコーエン教授、そして作戦に従事した海洋生物学研究室の学生たちが顔を揃えている。


「諸君、お疲れ様。……そして、乾杯」


 カニンガム教授の控えめな音頭と共に、グラスが軽く打ち鳴らされた。中身はもちろん、ヒナタが文字通り「一肌脱いで」カナダから運んできたばかりのビールだ。よく冷えた琥珀色の液体が、六月の蒸し暑さを吹き飛ばしていく。


「いやあ、あの時の警官の顔! 双眼鏡に噛み付くかと思ったよ。何も積んでいないボロ船を三十分もかけて調べるなんて、彼らも熱心なことだ」


 コーエン教授が愉快そうに笑い、パテを塗ったクラッカーを口に運ぶ。

 その隣で、ヒナタは自分専用に用意された特大のジョッキ(中身はジンジャーエールとビールのハーフ&ハーフだ)を無邪気に煽っていた。


「海の仕事はやっぱりいいよね。涼しいし、みんな喜んでくれるし。……でも次は、もう少し美味しいパテを用意しておいてよ、カニンガム教授」

「ははは、善処しよう。君の『運送賃』としては、これでも安い方だからね」


 ○○○は、ビールの苦味でようやく肩の力が抜けるのを感じていた。

 あの防波堤での警官との対峙は、今思い出しても背筋が寒くなる。だが、そんな日常の瀬戸際にあるスリルこそが、今の自分たちを繋ぎ止めているのかもしれない。


「ねえ、○○○。明日も休みでしょ? 帰り道に、安売りしてたイチゴをたくさん買っていこうよ。

 シーズンで安いからイチゴのワインを作ろうって言ってたじゃない」

「そうだな、帰りに寄ろう。」


 ヒナタは満足げに頷き、今度は厚切りのベーコンに手を伸ばした。


 禁酒法という理不尽な法律の下、大人たちが右往左往し、警察が虚空を睨む。そんな狂った時代の中で、彼らの生活は不思議なほどに健全で、そして少しだけ不穏な幸福に満ちていた。

 六月の雨が降り始める前の、短い凪の時間。

 アーカムの夜は、密かな祝杯の音と共に更けていった。

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