そうだ! 加減しろ馬鹿!
五月。アーカムの街を吹き抜ける風は、冬の残滓を完全に拭い去り、ミスカトニック川のせせらぎと共に初夏の若々しい匂いを運んできていた。
二月の終わりから四月の始めまで続いた、あの忌まわしい「呼び声」に怯えていた市民たちは、今やその記憶を春の陽光の下へ追いやり、誰もが浮き足立った様子で日々の生活を謳歌している。
だが、表社会が平穏を取り戻す一方で、裏社会は死活問題に直面していた。
昨年のインスマス浄化作戦や、チャイナタウンの抗争鎮圧の際に「更地化」を厭わなかった西アーカム警察は、今やショットガンを拳銃代わりに振り回す狂犬集団と化している。
ここで派手な銃撃戦を起こせば、組織ごと物理的に消滅させられるのは火を見るより明らかだった。
「……というわけで、警察を刺激せず、かつ利権の白黒をつける手段が必要になった。
相手の**『スネークアイズ』**の連中も更地にはなりたくないと見えて、イレギュラーズの提案に飛びついたよ」
研究室のソファに深く腰掛け、カニンガム教授が溜息混じりに切り出した。
彼の前には、大量の資料の代わりに、真新しい野球のグローブと、木製バットが置かれている。
「今期の密造酒の蒸留所の管轄は、野球の試合で決着をつける事になった。名付けて『アーカム・裏社会野球大会』だ。
審判には、中立を保てる(かつ、万が一の時に口を割らない)不運な神父を一人招聘した。弱小組織の連中も、賭けの胴元として観客席を埋めるだろう」
○○○は、教授が何を言わんとしているかを察して、隣に座るヒナタをちらりと見た。
ヒナタは、保存食の熊ジャーキーをのんびりと咀嚼しながら、他人事のように話を聞いている。
「教授。まさか……」
「察しがいいね、○○○君。イレギュラーズには計算高い事務屋か、酒浸りの荒くれしかいなくてね。そこで、イレギュラーズのボスから君たち二人を『特別枠』として招集したいと頼まれたのさ。
何、君たちはベンチに座っているだけでいい……勝負が決するまではね」
「野球? 僕、ルールよく知らないですよ。ボールを投げたり、打って遠くに飛ばせばいいんですよね?」
ヒナタが口元にクラッカーの粉をつけたまま、小首を傾げた。その無邪気な瞳の裏側には、熊を簡単に仕留めてみせるほどの圧倒的なエネルギーが秘められている。
「ルールは簡単だ、ヒナタ君。飛んできた球を打つ。そして投げられた球を捕る。君にとっては簡単な作業のはずだ。……ちなみに、触手は厳禁だぞ」
教授は邪悪な笑みを浮かべながら、ヒナタの細い腕を叩いた。
こうして、警察のショットガンに怯える男たちが編み出した、極めて不公平な「スポーツ大会」の幕が上がることになったのである。
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試合当日。貸し切ったグラウンドには、普段なら死体を埋める時くらいしか集まらないような面構えの男たちが、各々の所属する組織の名前がチーム名のように描かれ、ロゴまで入ったユニフォー厶を着て集結していた。
観客席には、西アーカムの弱小組織の連中が陣取り、ノートを片手に複雑な賭けの倍率を計算している。
その背後では、西アーカム警察のパトカーが数台、威圧するようにエンジンをかけたまま停まっていた。
「……ヒナタ。いいか、絶対に加減しろよ。親善試合なんだからな」
ベンチの片隅で、○○○は少年の姿のヒナタに念を押した。
「わかってるよ。怪我させないように気をつけるね」
ヒナタはイレギュラーズのロゴが入ったキャップを深く被り、不敵に笑った。
試合が始まると、スネークアイズの選手達はベンチにいるヒナタを見て笑っていたが、ボスの一喝でそれを止めた。
「やめろお前ら、あいつはジャック・ザ・カウボーイだぞ!」
続けて飛び出したボスの言葉に選手達は顔を真っ青にしてボスを見た。
〝ジャック・ザ・カウボーイ〟去年のハロウィンにスピークイージーを襲う暴徒対策の為に複数の組織のボスがイレギュラーズを通して依頼した助っ人の怪人だ。
尋常ではないスピードで街中を跳び、駆け抜け、街中の悪ガキ共をほぼ全て街灯や街路樹、時計塔に吊るす様をハロウィンの夜、ここにいる全員が見ているのだ。
ヒットを打ってランナーが一塁に一人。四番打者としてヒナタがバッターボックスに立つ。
イレギュラーズのボスから「思いっきり振れ」と野次が飛び、ヒナタが「了解」と返した。
ベンチにいるボスの言葉が聞こえなかったスネークアイズの投手――かつてプロを目指していたという、組織一番の剛腕がヒナタを鼻で笑い、白球が放たれた。
時速一五〇キロ近い、容赦のないインコース。
ヒナタはそれを思いっ切り振りかぶり、全力でバットを振った。
――パァァァン!!
乾いた音ではない。空気が爆縮したような破裂音が響き渡った。
ボールは革も、糸も、その中にあるコルク玉も弾けて散り、バットもグリップを残して砕け散った。
静寂が訪れ、投手は呆然とし、捕手と神父は腰を抜かした。
「……どうしよう?」
ヒナタがグリップだけのバットを持ったまま首を傾げる。
観客席の男たちの顔からは、血の気が失せていた。
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「……ボールが、消えた?」
スネークアイズの投手が、呆然と自らの手を見つめた。投げたはずの白球は、ヒナタの全力フルスイングの衝撃に耐えきれず、白煙と革の破片になってグラウンドに降り注いでいる。
数秒の沈黙の後、スネークアイズのボスがベンチから飛び出してきた。
「待て待て待て! タイムだ、神父! 今のはノーカウントだろうが!」
「ノ、ノーカウント? しかし……」
腰を抜かした神父が震える声で答える間もなく、他の弱小組織の面々も観客席から身を乗り出して怒号を浴びせた。
「無効だ!ボールが無くなったら野球じゃねえ!」
「イレギュラーズ、お前らのところはどうなってるんだ! 助っ人に化け物を呼ぶなんて、戦車を野球場に持ち込むようなもんだぞ!」
「そうだ! 加減しろ馬鹿!」
「今のはノーカウントにしてバッター退場して交代!今の打席をやり直す!
……ヒナタさん、恐縮だが客席で観戦しててくれ……飲食代は持つから」
流石にボールが消し飛ぶのはボスも看過出来なかったらしい。イレギュラーズのボスがその場を納めて試合を再開した。
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結局、ヒナタはグラウンドから追放され、○○○と共にバックネット裏の特等席へ移ることになった。
ウエスト・アーカム・イレギュラーズのボスが約束した通り、二人の手元には山盛りのホットドッグと、冷えたジンジャーエール、そして少し上等なパストラミサンドが次々と運び込まれてきた。
「……やり過ぎちゃった。せっかくユニフォーム着たのに」
ヒナタは気まずそうにしつつも、差し出されたホットドッグを大きな口で頬張った。
「仕方ないだろ。ボスの指示通りにやった結果なんだから。」
グラウンドでは、ようやく「人間同士」の泥臭い試合が再開されていた。
先ほどまでヒナタに怯えていた選手たちは、今や必死にボールを追いかけ、滑り込んでユニフォームを泥だらけにしている。
時折、巧妙な足掛けや乱闘寸前の罵り合いが発生するが、それは西アーカムの住人たちにとっては馴染み深い、安心感のある光景だった。
「やあ、お疲れ様。ヒナタ君」
カニンガム教授が、自分の出番がないことを確信してか、観客席まで降りてきた。
「教授、これ食べていいですよ。イレギュラーズの奢りなんだって」
「ほう、それはありがたい。……しかし、見てごらんよ。あの男たちの必死な顔を。
あの狂気の中では、誰もが明日をも知れぬ恐怖に怯えていたが、今はたかが一マイルの縄張りと、一個の白球のために命を懸けている」
教授はパストラミを口に運び、満足げに目を細めた。
「下らない理由で怒り、笑い、腹を空かせる。マフィアに言う事では無いが、とても健全だ」
ヒナタはコーラをストローで啜りながら、フィールドで走り回る男たちを眺めた。
「……そうだね。クズリュウ様のことなんて誰も思い出さないくらい、野球に夢中なほうがいいですよね」
笑みを浮かべたヒナタの横で、○○○は五月の爽やかな風を感じていた。
街灯に悪ガキを吊るした「カウボーイ」の伝説は、この野球大会の奇妙な結末と共に、また一つアーカムの裏歴史に刻まれることになるのだろう。
五月の夕暮れ。
泥まみれで勝利を掴もうとしたイレギュラーズの敗北を見届け、三人は少し早めの夕食を求めて、カニンガム教授のフォードが待つ駐車場へと歩き出した。




