肩が凝って仕方ないんだ
三月半ば。西アーカムを半年近く支配していた凍てつく空気は、湿り気を帯びた南風によってようやくその座を明け渡し始めていた。
ミスカトニック川を覆っていた厚い氷の板が軋みながら割れ、雪解け水を飲み込んだ濁流が、泥と枯れ葉を巻き込みながら唸りを上げている。
二月のあの不気味な「振動」は、依然としてヒナタの足裏を微かに揺らし続けていたが、春の訪れと共に彼の意識は別の方向へと向けられていた。
寮の部屋で窓を全開にしていたヒナタが、鼻先をひくつかせて言った。
「……そろそろ、川の匂いが変わってきたね、○○○」
「匂い?」
教科書から目を上げた○○○に、ヒナタは窓の外の濁流を眺めながら、どこかそわそわした様子で振り返った。
「海から戻ってくるんだよ。スチールヘッド(虹鱒の降海型)がね。
……そろそろ山へ入ろう。今回は単なるキャンプじゃない。一年分の保存食の仕込みだよ。スチールヘッドに、もし運が良ければ『大きな獲物』も期待できるし」
それはヒナタにとっての「収穫期」の宣言だった。
だが、その準備をしていた数日後。どこから嗅ぎつけたのか、○○○とヒナタが研究室に顔を出した日にカニンガム教授が期待に満ちた顔で二人の計画に割り込んできた。
「いやはや、春のピクニックとは実に健康的じゃないか。私も同行させてもらおう。
最近はどうも、街にいると『組織のボス』だの『影の支配者』だのといった、そこまでやった覚えのない物騒な肩書きで呼ばれて肩が凝って仕方ないんだ。たまには純粋なレジャーというものを楽しみたい」
「……教授。俺たちはあくまで保存食の買い出し……いえ、狩り出しに行くんですよ? 観光じゃありません」
「わかっているとも。私はただ、焚き火の番をしながら、君たちが獲ってきた新鮮な獲物を肴に、一等いい酒を飲みたいだけだ」
結局、二人の「狩り」にカニンガム教授が加わることになった。
一方、ダンウィッチのウェイトリー家跡地に潜む、より不穏な『弟』の残骸の生死については、警察を伴ったアーミテッジ教授たちが確認に向かっている。
そんな悍ましい実務は彼ら専門家に任せておけばいい。
三人は、教授のピックアップトラックに大量の岩塩と空の樽を積み込み、雪解け泥にまみれた道をダンウィッチ近郊の森へと向かった。
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三月のダンウィッチは、春の息吹というにはあまりに泥濘と腐敗臭に満ちていた。
雪解け水で増水したミスカトニック川の上流、切り立った岩場が続く急流のポイントで、彼らはトラックを止めた。水飛沫の中、銀色の鱗を輝かせたスチールヘッドたちが、本能に突き動かされて岩を跳ね、上流を目指している。
「ほう……これは壮観だ。アーカムの市場に出回る死んだ魚とは輝きが違うな」
カニンガム教授はトラックの荷台から薪や椅子等キャンプ用品を降ろすと、慣れた手つきで焚き火を始めて腰を降ろし、スキットルからウイスキーを煽った。彼は本当に焚き火の番(と酒)以外の労働をする気がないらしい。
「よし。○○○、僕が弾き飛ばすから、飛んで来たやつを回収して」
川岸に立ったヒナタはそう言うなり、触手の擬態を解いて跳ね上がったスチールヘッドに対し、触手をムチのようにしならせ、○○○のいる岸に向かって弾き飛ばした。
――バシャッ、と鋭い音が響く。
ヒナタの至近距離で、気絶したスチールヘッドが次々と○○○の近くに飛んでくる。それは漁というよりは、物理的な暴力による効率的な収穫だった。
「……あいつ、相変わらず手加減ってものを知らないな」
○○○が作業用手袋で銀の獲物を回収していく。その時だった。
対岸の茂みが激しく揺れ、低く、腹に響くような咆哮が轟いた。
冬眠から覚めたばかりの、飢えたアメリカ黒熊だ。巨大な獣は、自分たちの縄張りで魚を横取りするヒナタを明確な「敵」と見なし、水飛沫を上げて突進してきた。
「おっと、招かれざる客だ。……○○○、銃は必要かな?」
カニンガム教授が落ち着き払った動作で、荷台に置いてあったショットガンに手を伸ばす。
だが、○○○はそれを手で制した。
「いえ、教授。……あっちの方が『お腹を空かせている』みたいですから」
川を渡って突進してくる熊と対峙したヒナタは、怯えるどころか、むしろ待ちわびていたと言わんばかりに相好を崩した。
「……ちょうど良かった。スチールヘッドだけだと、ちょっと物足りないと思ってたんだよね」
熊がヒナタに近づいた瞬間、数本の触手がしなり、ムチのように唸りを上げて伸びた。熊は反応できずに音速を超える触手を脳天にまとめて叩き込まれた。
――鋭い音が重なり森に響き渡る。
森の王者は、悲鳴を上げる暇もなく、そのまま川底へと沈んでいった。
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ヒナタは川底に沈んだ熊の死体を岸から触手で軽々と引き揚げ、獲物の巨体を眺めて「よし」と満足げに頷くと、腰の鞘から解体用ナイフを取り出した。
「教授、お湯沸いてる? 熊はすぐ血抜きしてバラさないと臭くなっちゃうから」
「ああ、完璧だ。……しかし、網も銃も使わずに熊を仕留める大学生か。ミスカトニックの学位よりも、その腕一本で生きていけそうだな」
カニンガム教授は感心したようにウイスキーを傾け、焚き火に薪を足した。
ヒナタの作業は、もはや芸術的ですらあった。
大きな熊の皮を淀みない手つきで剥ぎ、内臓を傷つけずに取り出し、脂の乗った肉を部位ごとに切り分けてから川の水で冷やしていく。その傍らでは、○○○がヒナタから飛んできたスチールヘッドたちの腹を裂き、中から溢れんばかりの琥珀色の卵――イクラを取り出していた。何匹かのスチールヘッドは開きにして木の枝に刺し、焚き火の周りに帆のように立てられて遠火で炙られている。
「いいね、粒が大きくてすごく綺麗。……あ、そっちのボウルに塩を入れて。これから塩水で洗って、汚れを取るから」
ヒナタは熊の解体の手を止め、血に濡れた手のまま手際よくイクラの処理を指示した。
三月の冷たい空気の中で、焚き火の煙と、捌きたての肉と魚の匂いと焼けたスチールヘッドの香りが混じり合う。
「……うん、最高。」
ヒナタは焼けたサーモンを頬張ると、至福の表情で目を細めた。
並行して触手を動かし、大量の岩塩でスチールヘッドやイクラを漬け込み、樽へと詰め込んでいく。これが数ヶ月後には、貴重なタンパク源となる燻製や塩引き鮭になるのだ。
世界のどこかで狂気が渦巻き、海の下で神が寝返りを打とうとも、この三人の周りだけは、獲物を解体するナイフの音と、爆ぜる焚き火の音、そして「次はどの部位を食べようか」という世俗的な会話だけが支配していた。
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すっかり日が落ち、ダンウィッチの森が深い闇に呑み込まれる頃、三人はようやく重い腰を上げた。
ピックアップトラックの荷台には、塩漬けのスチールヘッドとイクラが詰まった樽、そして丁寧に切り分けられた熊肉の塊が山積みになっている。これだけの量があれば、この春から夏にかけての食糧事情は安泰だろう。
「ふぅ……。いい運動、というかいい見物だったよ」
カニンガム教授は、ヒナタから「焚き火番の報酬」として渡された、最高の部位の熊肉とイクラの小瓶を大事そうに抱え、運転席に滑り込んだ。
帰り道の車内。トラックの古いラジオからは、ノイズ混じりにキャスターの声が流れていた。
『――続いてのニュースです。南太平洋で発生した原因不明の地殻変動の影響か、世界各地で精神的な不調を訴える人々が急増しています。特に芸術家や若者の間では「沈んだ都市の悪夢」を見るという報告が相次いでおり、各国の医療機関は警戒を――』
「……またその話か」
助手席で、ヒナタは窓の外を流れる暗い木々を眺めながら小さく鼻を鳴らした。
「どうにもできないから仕方ないよ……ねえ、○○○。寮に帰ったら、さっき仕込んだイクラで一杯飲もうよ」
「ああ。だが、マスの卵なんて初めて食べるな。塩漬けだし、トーストに乗せて食えば良いのか?」
「それで良いよ。お酒と一緒に食べれば、嫌な予感も全部消えちゃうから」
トラックがアーカムの街に入ると、街灯の下を不安げな顔で歩く学生たちの姿が散見された。
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その夜。寮の自室で、二人はトーストの上に、まだ塩角の立った真っ赤なイクラをたっぷりと乗せた。
一口食べれば、強烈な塩気と共に、春の川の冷たさと野生の旨味が口いっぱいに広がる。
「……うん、しょっぱい。でも美味しいね」
ヒナタと○○○はイクラトーストを何枚も平らげていった。
窓の外では、まだクズリュウが目覚めようとする「狂気の春」が続いていたが、二人にとってそれはどこか遠い世界の出来事のように思えた。




