さ、様付けで呼ぶ生き物の足をフライに……!?
クトゥルフの呼び声、始まりました。
二月下旬。ミスカトニック大学を包む空気は、もはや単なる冬の厳しさだけでは説明のつかない「重み」を帯びていた。
学食の長テーブルに座る学生たちは、誰一人として会話を楽しんでいない。皆、目の下にどす黒い隈を刻み、焦点の合わない瞳で皿の上のマッシュポテトを泥のように咀嚼している。学内では、夜中に奇声を上げて窓から飛び降りようとした学生や、何かに怯えて寮の自室に立てこもる者が続出していた。
そんな狂気の伝染を象徴するかのように、数日前からヒナタの様子も明らかにおかしかった。
「……はぁ。どうしよう……もしバレてたら、絶対に許してもらえないよね……」
ヒナタは学食の固いパンを指先でちぎりながら、この世の終わりかというほど気まずそうな顔で呟いた。普段なら「冬のタラは脂が乗ってて最高だね」とか言って笑っているはずの彼が、今は皿の上のタラ料理をまともに直視することすらできていない。
「……ヒナタ。さっきから何をそんなに気にしているんだ?お前まであの『悪夢』に当てられたのか?」
○○○が心配そうに身を乗り出した、その時だった。
「……助けてくれ、ヒナタ。○○○。もう限界なんだ」
幽霊のような足取りで、二人のもとへジョンとエドモンドがふらふらと近づいてきた。
カニンガム教授の紹介でとある映画監督の映画撮影に精力的に参加していた二人の面影はどこにもない。ジョンはシャツのボタンを掛け違え、エドモンドの眼鏡は指紋だらけで曇りきっていた。
「ジョン、エドモンド。お前たちもか……。例の夢を見たのか?」
「……ああ」
ジョンが椅子を引く気力もなくテーブルに手をつき、掠れた声で続けた。
「真っ暗な、冷たい海の底だ。そこに、とんでもなく巨大な、山みたいな怪物が座ってるんだ。……ヒゲみたいにタコのような足が生えてる頭に、不気味な爪のある手足。そいつが、僕たちをじっと見てるんだよ」
「それだけじゃないんだ」
エドモンドが震える手で眼鏡を直しながら、必死の形相でヒナタに縋り付く。
「そのタコ野郎……タコ足が、一部欠けてるんだ。誰かに食いちぎられたみたいに、不自然に何ヶ所か断面が抉れてるんだよ。
あんなデタラメな神様みたいな生き物が、なんであんな惨めな姿で夢に出てくるんだ?
なあヒナタ、君なら何か知ってるんじゃないか?イカっぽいから海の底とか知ってそうだし」
その言葉が出た瞬間、ヒナタは「あー……」と気まずそうに頭を掻いた後、彼は顔を覆い、指の隙間から消え入りそうな声で白状した。
「……はい、僕もやりました……深海に潜ってそのタコ野郎……“クズリュウ”のタコ足を切り取る仕事を昔やったことがあります……」
「……切り取る仕事を、やったことがある?」
ジョンとエドモンドが、絶句したままヒナタを凝視した。
○○○もまた、耳を疑った。深海に沈む大いなる存在を、あろうことか物理的に削り取っていたというのか。
「……うん。僕だけじゃないよ」
ヒナタは周囲を警戒するように声を潜め、テーブルの真ん中に身を乗り出した。
「古くから僕の故郷……日本では、あの“クズリュウ”様が寝ているのをいいことに、魔術でより深く眠るよう麻酔をかけて、少しずつ足を切り取って持ち帰る漁が行われてたんだ。天ぷら……じゃなくてフライとか、煮付けとか……。凄く美味しいんだよ、あの足。日本じゃ高級食材なんだ」
「さ、様付けで呼ぶ生き物の足をフライに……!?」
ジョンが椅子から転げ落ちそうになった。狂気の世界を覗いて恐れ慄いた彼らにとって、その発想はあまりに冒涜的で、あまりに世俗的すぎた。
「僕たち日本人にはとても美味しそうに見えてたんだけど、半魚人とか他の連中には神様に見えてたんだろうね。
取りに行く度に半魚人とかから襲撃されたよ。“クトゥルフ様を守れ”とかテレパシー飛ばしてたからクズリュウ様を守ろうとしてたんだろうね。全部返り討ちにして食卓に並べたけど。
それはともかく、とんでもなく深く寝てるからか適当に魔術かけても平気だったし、ギコギコとノコギリで切り取る馬鹿が出てもピクリともしなかったんだ……」
ヒナタはコーヒーを一口飲んだ。
「今の悪夢の流行り方からすると、多分……起きる寸前くらいまで来てる。
クズリュウ様、自分の足が何ヶ所も欠けてることにはまだ気づいてないけど、目覚めたら絶対キレる。
……あの欠けた断面を見せて夢に出てくるのは、現実の景色をそのまま映してるからだろうね」
「じゃあ、僕たちが見ているあの恐ろしい視線は……」
「……寝ぼけて目が半開きくらいになっただけ。起きてたら皆とっくに死んでる」
ヒナタは本気で落ち込んでいるようだった。だが、その反省の理由は「神を冒涜したこと」ではなく、あくまで「食い逃げがバレて、逆襲(食い返されるの)が怖い」という、極めて生存本能に基づいたものだった。
「どうしよう、○○○。クズリュウ様が完全に起きちゃったら、キレて大暴れして世界中に大津波が来て沈んじゃう。……日本人は生きられるだろうけど、アメリカの内陸部まで津波が行くかも……生き残っても塩害で詰みそうだから洒落にならないよ……」
「し、塩害で詰むって……それどころじゃないだろ! 世界の終わりだぞ!」
エドモンドが悲鳴のような声を上げた。狂気に怯えていたはずのジョンも、あまりに世俗的な「美食の代償」の話に、恐怖を通り越して呆然としている。
「だって、身に覚えがあるんだもん。何度か参加した上につまみ食いもしたし……」
ヒナタは自分の指先を震わせながら、当時の手触りを思い出すように宙を握った。
「すごく弾力があるんだよ。切り取ってもすぐ再生するんだけど、再生する前にまた誰かが切りに来ちゃうから、夢の中のクズリュウ様はいつも足が欠けてる。
……きっと彼、寝ながら『なんか最近、顎の辺りがスースーするな』って思ってるよ。起きた瞬間に魔術で鏡を作るとかして自分の足を見て、それがスカスカになってたら……あんなプライドの高そうな巨大ダコ、絶対許してくれない」
「自業自得だろ……。お前ら、よくそんな恐ろしい真似ができたな」
○○○が冷めたコーヒーを啜りながら呆れたように言うと、ヒナタは心外そうに眉を寄せた。
「だって美味しいんだよ? ……でも、日本から魔術が達者な連中を集めて眠らせに行く決死隊が組まれたから大丈夫だと思いたいけど……妨害とかありそうだしなあ……」
ジョンとエドモンドは、自分たちが見ている「終末の予兆」が、実はヒナタの同胞たちによる「乱獲」の結果だと知り、もはや怒る気力すら失っていた。神の目覚めを止める方法は一応あるらしいが、この様子だと多分望み薄だ。あるのは、ただ「寝ぼけている神」が完全に目覚めるまでの、猶予のない時間だけなのかもしれない。
「……なぁ、ヒナタ。せめてその、僕たちの夢が少しでもマシになる方法はないのか?
毎晩、あの欠けた足の断面を無理やり見せられるのは、精神的にキツすぎるんだ」
ジョンの必死の訴えに、ヒナタはしばらく考え込んだ後、顔を上げた。
「……そうだね。僕達がやったことだし、少しは責任を取らなきゃ。」
人間には発声不可能な言語で何事かを唱えたらジョンとエドモンドの身体が仄かに光った。
「クズリュウ様の寝言はインスピレーションで受け取る物だからね。そこを眠らせたよ。
創作のアイデアが湧かなくなるけど、悪夢から逃げる為なら仕方ないよね」
ジョンとエドモンドの顔から、すうっと青白い緊張が引いていった。
彼らは自分の頭を軽く叩き、まるでずっと鳴り響いていた耳鳴りが止んだかのような、呆然とした顔で顔を見合わせた。
「……消えた。あの、暗い海の底のイメージが消えたよ」
「助かった、ヒナタ……。これでやっと、ベッドに入るのが怖くなくなる」
二人は命の恩人に会釈するように深く頭を下げ、ふらふらとした足取りで学食を去っていった。ヒナタは彼らの背中を見送りながら、複雑な表情で自分の指先を見つめている。
「……いいのかな。ジョンたちの次回作、アイデアが一切出なくて作れなくなっちゃうかもしれないけど」
「命と精神の平穏を天秤にかけたんだ、本望だろう。
映画撮影の手伝いで勉強中だから、しばらく新作を作らないらしいし多分平気だろ」
○○○がコーヒーの最後の一口を飲み干すと、ヒナタは「そうだね」と短く返し、荷物をまとめた。
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その夜。アーカムの街を叩きつける雨は、いつの間にか激しい雪へと変わっていた。
寮の自室に戻っても、ヒナタはどこか落ち着かない様子で、ベッドの上で丸くなっている。窓を叩く風の音が、まるで遠い深海の底から響く唸り声のように聞こえるのかもしれない。
「……○○○、こっちに来てよ。一人は嫌だ」
珍しく殊勝な声で呼ばれ、○○○は苦笑しながらヒナタのベッドの端に腰を下ろした。
「心配するな。もし本当にその巨大ダコが起きて、アメリカまで津波が来たとしても、その時はお前を抱えて高い山まで逃げてやるよ」
「……うん。でも、クズリュウ様が来たら、僕のことを差し出してもいいよ」
「冗談を言うな。俺の彼女で相棒をタコのエサにするつもりはない」
○○○がヒナタの背中を軽く叩くと、彼は少女の姿に変身し、安心したように目を閉じた。
だが、その平穏な空気の下で。
ヒナタの足裏と、ベッドを通して伝わる寮の床板が、微かな、本当に微かな振動を捉えていた。
それは地球の裏側、南太平洋の底で、数ヶ所の「食い千切られた断面」を持つ巨神が、無意識に顎を撫で、不快そうに身じろぎした振動だった。
一九二六年二月。
深い海の底から、浮き上がろうとする何かが暗い波間の下で刻一刻とその時を待っていた。




