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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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せいぜい生き残るとしよう

 ワシントン州オリンピアのクリスマスは、目に痛いほどの「白」と、心に刺さるほどの「温もり」に満ちていた。

 実家のリビングには、天井に届かんばかりの立派なモミの木が鎮座し、色とりどりのオーナメントが暖炉の火を反射して宝石のようにきらめいている。

 キッチンからは、一日がかりで焼き上げられた七面鳥の香ばしい匂いと、甘いパンプキンパイの香りが漂い、家中を幸福な空気で満たしていた。

 母親は、少女の姿になったヒナタが袖を通した深い青色のワンピース姿を見るなり、「なんて愛らしいのかしら!」と感極まって何度も彼女を抱きしめた。

 父親は父親で、ヒナタが持参した特製のブランデーを一口煽るなり、「アーカムの大学には、天使でも住んでいるのか?」と豪快に笑い、息子である○○○の肩を叩いて再会を祝した。

 そこにあるのは、禁酒法の影も、霧の向こう側に潜む異形の気配もない、あまりに正しく、あまりに平穏な「アメリカの家族」の風景だった。


 だが、窓の外に広がる穏やかな雪景色を眺めながら、○○○の胸の奥には常に、溶け切らない氷のような違和感が居座っていた。

 豪華なディナーの最中、ふとした沈黙に警察が不審者に叩き込んだ散弾の銃声が幻聴のように耳の奥で爆ぜるのだ。

 平和であればあるほど、自分がすでに「あちら側」の住人……裏社会の側に立つ者になっていることを、○○○は残酷なほど自覚せざるを得なかった。


 一週間の帰省を終え、大晦日の前日に西アーカムの駅に降り立った時、肌を刺すような湿った冷気が二人を襲った。

 肺の奥まで凍てつかせるようなその空気を感じた瞬間、○○○は不思議と、肩の力が抜けるのを感じた。


「……やっぱり、こっちの方が落ち着くね」


 ヒナタが首元までマフラーに顔を埋め、白い息を吐きながら小さく呟いた。


「同感だ。俺たちには、このくらいの寒さと不穏さがちょうどいいらしい」


 二人は顔を見合わせ、雪に埋もれたミスカトニック大学の寮へと、確かな足取りで歩き出した。


---


 一九二五年の最後の日、西アーカムは記録的な大寒波に見舞われていた。

 唸りを上げて吹き荒れる強風は、結晶というよりは礫に近い鋭い雪を叩きつけ、窓ガラスは耐えかねたようにガタガタと悲鳴を上げ続けている。

 だが、その向こう側、寮の自室という閉ざされた極小の「聖域」の中だけは、コンロから立ち上る真っ白な湯気と、重厚なバターの香りで満たされていた。

 ヒナタは使い古されたエプロンを締め、まるで精密機械を扱うような手際で新年の献立に取り組んでいた。

 今夜の主役は、西アーカムの冷たい海で獲れたばかりの、身の引き締まった牡蠣だ。


「……よし。これでエグみは完全に取れたかな」


 ヒナタは鍋の様子を伺いながら、牛乳とクリームの入ったベースに、下処理を終えた牡蠣を滑り込ませた。

 今夜のメイン、オイスター・シチューだ。具材を煮込むチャウダーとは違い、これは牡蠣の濃厚なエキスをミルクへ移し、その「風味」そのものを味わうための贅沢なスープだ。バターが溶けて黄金色の油膜が表面に浮き、潮の香りと乳製品の甘みが混ざり合って、冷え切った部屋の空気を一気に塗り替えていく。

 隣では、油の弾ける小気味よい音が響いていた。

 天ぷらだ。海鮮だけではなく、カブやニンジン、そしてこの時期に甘みを増すパースニップといった冬野菜も揚げられている。アメリカのフリッターのような厚い衣ではなく、冷水で丁寧に溶いた粉を纏わせ、高温で一気に水分を飛ばす。エビは背わたを抜かれ、白身魚は完璧な脱水を経て、サクサクとした繊細な衣の中でその旨味を閉じ込められていた。


「○○○、揚げたてを先に食べて。サクサクなのは揚げたてだけだから」


 差し出された皿には、芸術的なほど白く、軽い仕上がりの天ぷらが並んでいた。

 ○○○はそれを一つ摘み、岩塩を少しだけつけて口に運ぶ。

 サク、という軽やかな音と共に、閉じ込められていた海鮮の熱い肉汁が溢れ出した。野菜の天ぷらも、驚くほど甘みが凝縮されている。


「……旨いな。やっぱり、これだよ」


 外の荒れ狂う猛吹雪が、遠い別世界の出来事のように思えた。

 オリンピアで食べた豪華な七面鳥も確かに美味だった。だが、この狭い部屋で、ヒナタの作るどこか世俗を離れた味こそが、今の○○○には何よりの救いだった。


---


 食卓の中央には、小鍋で温められたホットワインが、湯気と共にスパイスの刺激的な香りを放っていた。

 安物の赤ワインに、オレンジの皮、クローブ、シナモンスティック、そしてヒナタがどこからか調達してきた蜂蜜を加えたそれは、禁酒法下のアーカムにおいて、何よりも贅沢な毒のように思えた。

 二人は椅子を引き、嵐の音をBGMに琥珀色の液体が満たされたグラスを合わせた。


「一九二五年に、乾杯」

「一九二六年に、乾杯だ」


 温かいワインを一口含むと、熱い熱と共にスパイスの香りが鼻を抜け、冷え切っていた胃の腑がじんわりと解けていく。


「……一九二五年も、色々あったね」


 ヒナタがホットワインのカップを両手で包み、少しだけ遠い目をして呟いた。

 ○○○も、シチューの最後の一口を飲み干し、静かに頷く。


「そうだな。色々ありすぎて、どれが今年の出来事だったか怪しいくらいだ」


 日系人俳優の人外バレ、バス暴走事件、半魚人の標本作成、警察と軍による西海岸側インスマス浄化作戦、抗争の鎮圧で更地になったチャイナタウン、仮装したヒナタによるハロウィンの暴徒鎮圧、そして、東アーカムでの度重なるコーエン教授襲撃からの軍と警察による東海岸側インスマス攻撃――。

 普通なら一生に一度経験するかどうかという異常事態の連続だが、今の二人にとって、それらは「既に終わった事」でしかなかった。


「僕たちも、九月になればいよいよ最終学年シニアだ。このまま何事もなく卒業できればいいんだけど」

「……何か起きそうに聞こえるからやめてくれ。この西アーカムで『何事もなく』なんて、明日の朝に太陽が西から登るのを期待するようなもんだろ」


 ○○○の苦笑に、ヒナタも「それもそうだね」と短く笑った。

 九月に四年生になれば、卒業後の進路についても考えなければならないだろう。だが、今はただ、目の前の温かい料理と、隣にいる相棒の存在だけで十分だった。


「さて、シチューの残り、まだあるけど、お代わりする?」

「ああ。次はテンプラを浸して食べてみる。行儀は悪いが、絶対旨い」

「ふふ、じゃあ僕もそうしようかな」


 時計の針が重なる。外では一九二六年の到来を告げる鐘の音が、吹雪の咆哮に混じってかすかに響いていた。


 一九二六年一月一日。

 カレンダーの数字が塗り替えられたその瞬間も、部屋を揺らす風の冷たさも、皿の上で冷めていく衣の感触も、昨日から何一つ変わることはない。


 ○○○は、予告通りに海老のテンプラをシチューの残り汁へと浸した。

 濃厚な牡蠣の旨味が溶け出したミルクを、サクサクの衣がたっぷりと吸い上げる。それを口に放り込めば、行儀の悪さを補って余りある背徳的な充足感が広がった。


「……一九二六年、か」


 ○○○はホットワインの最後の一滴を飲み干し、窓の外の深い闇を見つめた。

 この年、世界がどのように変質していくのかを予想する知性は持ち合わせていない。だが、西アーカムという街の磁場が、さらなる混沌を自分たちの周りに引き寄せるであろうことだけは、確信に近い予感としてあった。


「九月のシニア(最終学年)になる前に、また教授から変な仕事が回ってきそうだね」


 ヒナタも同じようにシチューにテンプラを浸しながら、のんびりとした口調で予言する。


「あるいはイレギュラーズから『新年早々トラブルだ』って電話が来るか……。どっちにしろ、退屈はさせてくれそうにないな」


 ○○○は椅子に深く背を預け、温かな室温に身を委ねた。

 卒業後の進路、裏社会との距離、そして隣に座る正体不明の「相棒」とのこれから。考えなければならない問題は雪のように降り積もっているが、今はそれらを思考の外へ追いやった。


 嵐に閉ざされた寮の一室。

 小さな電球の光の下で、二人は最後の一口まで食事を楽しみ、互いの無事を静かに祝い合った。

 外の世界では、謎のよくわからない生き物どもの影が揺れ、どこかで妙な連中がトラブルを起こす時を待っているのかもしれない。

 だが、少なくともこの瞬間、この食卓の上だけは、彼らが守り抜いた「日常」の味がしていた。


「さ、片付けたら寝ようか。明日の朝は、また雪かきから始めなきゃいけないしね」

「ああ、そうだな。一九二六年も、せいぜい生き残るとしよう」


 二人の笑い声が、西アーカムの凍てつく夜の闇にひっそりと溶けていった。

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