伝統ってやつさ。
感謝祭の休暇が明けた十二月初旬。
西アーカムに戻った○○○とヒナタを待っていたのは、粘りつくような霧と、鉛色の空だった。二人はカニンガム教授の研究室で、遠征の疲れを癒やすように紅茶を啜っていた。
そこへ、控えめなノックと共に現れたのは、海洋生物学部のコーエン教授だった。
「おお、コーエン君」
カニンガム教授が気まずそうに立ち上がる。東アーカムでの「半魚人騒動」の際、彼を囮のような形にしてしまった負い目があったのだ。
「無事に戻れたようで何よりだよ。その、正体について黙っていたことは……」
「事情は彼らから聞いたよ。東アーカムにまであんな連中がいて、襲撃してくるなんて誰にも予測できないさ。気にしていないとも」
コーエン教授は鷹揚に笑ったが、カニンガムは首を振った。
「いや、私の気が済まない。埋め合わせをさせてくれ」
「ふうむ……それなら、君の秘蔵のボトルを一本譲ってくれないか。それでチャラにしよう」
「了解した。楽しみに待っていてくれ」
話がまとまると、コーエン教授は○○○とヒナタに向き直り、深々と頭を下げた。
「改めて、ありがとう。君たちのおかげで、私は無事に仕事を終えて帰ってこられた。あの『展示』のおかげで、東アーカムの博物館は大盛況だったそうだよ」
意味深に笑うコーエンに対し、○○○は謙遜し、ヒナタは何も言わず静かに紅茶を飲んだ。あの「展示(偽装された半魚人の死体)」の真実を知る者同士の、静かな沈黙だった。
「それで、今日はどうしたんだ?」
「ああ。やっと自分の研究――深海生物の収集に戻れてね。これからグレイズ・ハーバーの魚市場へ行くんだが、お礼も兼ねて、二人も一緒に来ないかと思ってね」
一時間後。○○○とヒナタは、コーエン教授と三人の学生と共に、大学の車に揺られていた。
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三十分ほどで到着した港町グレイズ・ハーバーは、冷たい海風と、塩と魚の匂いに支配されていた。
「わあ……」
ヒナタが目を輝かせる。何十隻もの漁船が並び、カモメが騒がしく舞う桟橋。そこには、東アーカムのような工業的な冷たさではなく、職人気質な漁師たちの活気があった。
「すごい……でも、魚の値段、驚くほど安いですね」
ヒナタが値札を指差す。
「ああ、クリスマス前だからさ」
通りかかった市場の職員が肩をすくめた。
「世間じゃ七面鳥やらハムやら、肉ばかり買う。伝統ってやつさ。魚なんて見向きもされないから、安くして売り切るしかないんだよ」
「冬の魚は、こんなに美味しそうなのに」
残念そうに呟くヒナタの横で、コーエン教授が漁師のジョンと交渉を始めた。
「よう、教授! 喜べ、お前さんが好きそうな化け物が網にかかったぜ」
ジョンが示したのは、長い体に鋭い歯、そして小さな目を持つ奇妙な魚だった。
「これは……ラブカ! 生きた化石だ!」
狂喜する教授。漁師にとっては網を傷つける厄介者でも、彼にとっては至宝だった。
その光景を眺めながら、ヒナタが○○○の袖を引いた。
「……○○○。たまには魚の『天ぷら』が食べたいな」
「テンプラ?」
「日本の料理だよ。衣をつけて揚げるんだ。フィッシュアンドチップスに似ているけど、もっと衣が軽くて、サクサクしてるの」
「……美味そうだな。よし、買っていこう」
二人は市場を回り、最高に脂の乗った白身魚を選んだ。クリスマス前で売れ残っていたハタやカサゴの類をまとめ買いすると、漁師は「若いのに感心なことだ!」と、立派なカニまでおまけしてくれた。
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寮に戻ったヒナタは、早速キッチンに立った。
包丁を握った瞬間に、彼女の「精密さ」が牙を剥く。鱗を取り、骨を外し、身を切り分けるその手つきには、一分の迷いもない。
「天ぷらのコツは、衣を混ぜすぎないこと。それと油の温度」
ヒナタが解説しながら、切り身を衣にくぐらせ、熱した油に滑り込ませる。
ジュワッ、という小気味よい音と共に、黄金色の泡が立ち上る。キッチンに広がるのは、油っこさを感じさせない、香ばしく軽やかな匂いだった。
「……おかしいな。フィッシュアンドチップスの店だと、もっとベトベトした匂いがするのに」
○○○が感嘆の声を漏らす。
「さあ、食べてみて」
皿に盛られたのは、サクサクの衣を纏った芸術品のような揚げ物だった。○○○が一切れを口に運ぶ。
「……っ! うまい!」
衣が軽やかに砕け、中から熱々の魚の旨味が溢れ出す。
「衣がふわふわだ……油ギトギトじゃない。これ、本当に同じ『揚げ物』か?」
「技術の差だよ、○○○君」
背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、ウイスキーのボトルを手にしたカニンガム教授が、鼻をヒクつかせて立っていた。
「教授! どうしてここに」
「コーエン君に届ける酒のついでに、君たちと一杯やろうと思ってね。……いや、これは素晴らしい。一口、頂いてもいいかな?」
即席の宴が始まった。教授が持ち込んだウイスキーの琥珀色と、天ぷらの黄金色。
「素晴らしい……。フィッシュアンドチップスはもっと不器用な食い物だが、これは全くの別物だ」
教授が満足げに目を細める。
「感謝祭はどうだった? オリンピアは良い街だったろう」
「はい。静かで綺麗でした。でも……」
ヒナタが揚げたてのカニを頬張りながら、はっきりと言い切った。
「やっぱり私は、こっちの方が好きです。ここが、私たちの『家』ですから」
「……そうか。それは嬉しいことだ」
窓の外では、西アーカムの冬の雨が降り始めていた。霧を伴った冷たい雨が街灯をぼやけさせ、灰色の街を包み込んでいく。
教授が帰り、二人きりになった部屋。
「……もうすぐクリスマスか。何かしたいことあるか?」
片付けを終えた○○○が尋ねると、少女の姿に戻ったヒナタがそっと肩に頭を乗せた。
「○○○と一緒にいられれば、それでいい。あのお母さんがくれた服を着て、二人で静かに過ごそう?」
「……ああ。そうだな」
雨音が子守唄のように響く中、二人は寄り添った。西アーカムの冬は、どこまでも冷たくて不気味だ。けれど、この部屋の温度だけは、揚げたての天ぷらのように温かかった。




