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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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47/57

ヒナタ君を泣かせるんじゃないぞ

 翌朝、ヒナタは鳥のさえずりで目を覚ました。

西アーカムの、あの粘りつくような霧を伴った夜明けではない。

窓から差し込むのは、驚くほど透明で、埃ひとつないオリンピアの朝日だった。

隣で眠る○○○の穏やかな寝息を聞きながら、ヒナタは静かにベッドを抜け出した。


 階下からは、焼きたてのパンとコーヒー、そしてベーコンの脂が爆ぜる香ばしい匂いが漂ってくる。

「普通の家庭」の匂い。ヒナタはそれを肺いっぱいに吸い込み、身支度を整えて階段を降りた。


 朝食の席で、話題は午前中の買い物について及んだ。

「○○○、お前は?」と父が尋ねれば、「俺は……家で留守番かな」と息子が答える。


「じゃあ、一緒に新聞でも読むか。それとも庭の手入れを手伝うか?」

「……新聞にします」


 即答する○○○に、父が声を上げて笑った。

 そのやり取りを、ヒナタは眩しいものを見るように眺めていた。

 しかし、出発の準備を始めた際、母が玄関でふと足を止めた。


「……どうしようかしら。オリンピアの百貨店は、その……西アーカムほど、開放的ではないのよ」


 その言葉に含まれた重みを、○○○が察して頷いた。1920年代の州都、その中心地にある百貨店。そこは、東洋の面影を色濃く残すヒナタのような少年が、ましてや「女性」として服を選ぶには、あまりに冷淡な視線が突き刺さる場所だった。


「西アーカムもそうですよ。……でも、これなら大丈夫だと思います」


 ヒナタが静かに告げると、その輪郭が揺らいだ。

 骨が軋む音も無く、肌の質感、髪の色、瞳の虹彩までが、陽光の中で再構築されていく。両親が息を呑む間にそこに立っていたのは、どこかヒナタの面影を残しつつも、陶器のような肌を持つ白人の少女だった。


「……ヒナタ君?」


 父の驚きに、「帰ってきたら、元に戻しますね」とヒナタは微笑んだ。○○○は複雑な表情で目をそらした。以前二人で楽しんだ、ヒナタ発案の「浮気ごっこ」と同じ姿だったのだ。


 母の運転する車で中心街へ向かう途中、ハンドルを握る彼女が静かに口を開いた。


「ヒナタちゃん、さっきは……ごめんなさいね。あんな姿にさせてしまって。……ここは自由の国だと教わったけれど、本当はおかしいのよ。あなたがどんな姿であっても、そのまま扱われるべきなのに」


 母の悔しげな声に、ヒナタは「慣れていますから」と答えた。だが、その「慣れ」という言葉が、逆に母の心を痛めたようだった。


 到着したオリンピア百貨店は、石造りの重厚な殿堂だった。回転ドアを抜けると、シャンデリアの光が乱反射し、ピアノの生演奏が甘い香水の香りと共に耳を撫でる。

 二階の婦人服売り場で、ヒナタは流行の「フラッパースタイル」を提案されたが、膝丈の短いスカートには戸惑いを覚えた。


「……ちょっと、短いかもしれません。動きやすいのはいいんですけど」


 結局、二人が選んだのは、深い紺色の膝下丈のワンピースだった。

 試着室のカーテンの中で、ヒナタは初めて「女物の服」に腕を通した。

背中のボタンに苦戦していると、店員が手伝ってくれる。布地が肌を撫でる感覚は、いつも着ている男物のゴワついたウールとは違い、柔らかく、どこか心許ない。

 カーテンを開けて外に出ると、ソファで待っていた母の顔がぱっと輝いた。


「まあ、ヒナタちゃん! とても似合ってるわ。上品で、でも可愛らしくて」

「……本当ですか?」

「本当よ。感謝祭のディナーに、ぴったりだわ」


 鏡の前でヒナタはスカートの裾を少しだけ摘んでみた。ふわりと揺れる布。


 最後にストッキングや小物を選んでいる最中、母が「家族みたいなものだもの」と繰り返した。


「ヒナタちゃん、いつか○○○のためにお化粧もしてみたら?」

「……考えておきます」

 

 会計を済ませ、新しい服の包みを抱えて車に戻る。

 オリンピアの整然とした街路樹を眺めながら、ヒナタは自分の膝の上にある包みを愛おしく撫でた。

中身はただの布だが、そこには○○○の母が自分を「一人の娘」として迎え入れようとしてくれた、確かな温度がこもっていた。


---


帰宅したヒナタは、母に急かされるようにして二階へ上がり、買ってもらったばかりの紺色のワンピースに着替えた。

 居間で待っていた○○○と父の前に現れたのは、膝下まで隠れる落ち着いた裾をなびかせ、初めて履くストッキングに少しだけぎこちない足取りを見せる、可愛らしい少女の姿だった。


「……ああ、これならどこへ出しても恥ずかしくない。素晴らしいな」


 父が感嘆の声を漏らし、○○○は言葉を失ったまま、赤くなった顔を隠すように視線を泳がせた。

 やがて、キッチンから香ばしい肉の焼ける匂いが漂い始める。

 感謝祭のディナー。食卓の中央には、黄金色に焼き上がった巨大な七面鳥が鎮座していた。


「さあ、ヒナタ君。君が作ってくれた『お薬』を開けようじゃないか」


 父が嬉しそうに、ヒナタ自作のブランデーの栓を抜いた。芳醇な香りが一瞬にして部屋を満たす。グラスに注がれた透明の液体を口にした父は、目を見開き、一拍置いて深く頷いた。


「……驚いた。これほどまでに雑味がなく、芯の通った味は初めてだ。ヒナタ君、君は本当に『精密』な仕事をするね」

「ありがとうございます。……お口に合って良かったです」


 ヒナタは微笑み、紺色の袖を汚さないよう注意深くナイフを手にした。

 七面鳥の切り分け。ヒナタの細い指先が動くたび、肉はまるで吸い込まれるように、骨から鮮やかに、そして美しく離れていく。その無駄のない刃筋は、外科手術の如き正確さだったが、団欒の灯りの下では、それは単に「非常に手際の良い少女」の所作として受け入れられた。


 美味しい食事、温かいスープ、そしてヒナタが持ち込んだ禁じられた酒。

 オリンピアの静かな夜は、幸福な笑い声と共に更けていった。


---


 翌日。

 別れの時は、冬の気配を含んだ冷たい風と共にやってきた。

 オリンピア駅のホーム。ヒナタは既にいつもの「少年の姿」に戻り、男物のウールコートを羽織っていた。

 手には、昨日買った紺色のワンピースが大切に収められた包みを握っている。


「ヒナタちゃん、またいつでも遊びにいらっしゃい」


 母がヒナタを抱きしめる。ヒナタの姿が少年であっても、彼女にとってはもう、あの中身が「ヒナタちゃん」であることに変わりはなかった。


「はい。……お母さん、お父さん。本当にありがとうございました。……楽しかったです」


 ヒナタは丁寧に帽子を取り、深々とお辞儀をした。その顔には人間らしい名残惜しさが滲んでいるように見えた。


「○○○、しっかりな。ヒナタ君を泣かせるんじゃないぞ」

「……わかってるよ、親父」


 ○○○は苦笑いしながら、父と固い握手を交わした。

 汽笛が鳴り、蒸気がホームを白く染め上げる。

 列車に乗り込み、窓越しに手を振る二人。遠ざかっていく両親の姿を見送りながら、ヒナタは隣に座る○○○に寄りかかった。


「……○○○」

「ん?」

「私、この服……大事にするね」


 膝の上の包みを指先でなぞりながら、ヒナタが呟く。


「ああ。また今度、西アーカムでも着てくれよ。……似合ってたぞ」

「……うん。いつか、二人でお酒を飲む時に」


 列車は加速し、整然としたオリンピアの街並みを抜けていく。

 向かう先は、霧と怪異、そして「副業」が待つ西アーカム。

 束の間の「普通」をトランクに詰め込み、二人の日常が再び動き出した。

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