ハンドルとブレーキが効かない奴
九月末の夕暮れ、西アーカムの空は低く垂れ込め、海からの湿った風が大学寮の古い窓枠をガタガタと鳴らしていた。
ヒナタの部屋では、穏やかなコーヒーの香りが漂っている。○○○はタバコを燻らせながら、机の上に置かれた、端が少し丸まった紙切れを指先で弾いた。
「……今日が期日だな、ヒナタ」
「そうだね。まあ、あいつらがマトモな酒を二本も用意できるなんて、最初から思ってなかったけど」
ヒナタは哲学の本から顔を上げ、少しだけ残念そうに肩をすくめた。
「誓約書があるからって、無い袖は振れないだろうし。
……酒の代わりに何を手伝わせようか?」
「こき使うにしても、肉体労働ならヒナタ一人でやるのが一番早いからな」
○○○が呆れたように溜息をついた、その時だった。
バタン! と、遠慮のない音を立ててドアがノックされた。というより、何かがぶつかったような音だ。
「……お、お二人さん! 居るんだろ! 開けてくれ!」
聞こえてきたのは、ジョンとエドモンドの、ひっくり返ったような声だった。
○○○が眉をひそめてドアを開けると、バカ二人が立っていた。
「……なんだ、その面は。警察にでも追われてるのか?」
「……フ、フフ……笑えよ。俺たちは、やったんだ……!」
エドモンドがうわ言のように呟き、腕に抱えていた新聞紙の包みを、恭しく机の上に置いた。
カサリ、と重厚なガラス瓶の音が響く。
ヒナタが興味深げに包みを解くと、そこから現れたのは、安物の密造酒とはラベルの光沢からして違う、正真正銘の高級スコッチウイスキーとジンのボトルだった。
「……本物だ。それも、かなりの上物じゃないか」
ヒナタが目を丸くすると、ジョンが鼻の下を擦り、勝ち誇ったように胸を張った。
「当然さ! 映画研究部の名誉にかけて、約束は守る男たちだからね!」
「……お前ら、どこでこんなもん盗んできた?」
○○○の疑り深い視線に、エドモンドが力なく首を振る。
「失礼な。これは正当な博打……ポーカーで勝ち取った戦利品だよ。いくつかのスピークイージーを回って、二人がかりで『連携』したのさ」
「連携?」
「僕たちの映画のセット技術と、小道具作成の経験をナメないでほしいな」
ジョンが懐から、トランプの束を隠し持つための精巧なバネ仕掛けのガジェットをジャラジャラと取り出した。
「イカサマをしたのさ。バレたら海の底に沈められるスリルのおかげで、脳が焼けそうな位にヒリついたゲームになったよ!」
「……そうか、よく勝てたな」
○○○は呆れ果てて言葉を失った。このバカたちは映画への情熱と同じくらいの熱量で、命知らずな行為に走れるらしい。
「まあ、約束は果たされたわけだし、この酒はありがたく頂くよ」
ヒナタがボトルを棚に納めると、ジョンとエドモンドはようやく緊張が解けたのか、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
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ヒナタが淹れ直したコーヒーを一口飲み、ようやく人心地ついたジョンとエドモンドを眺めながら、○○○がふと思い出したように問いかけた。
「ところで、例のコンテスト映画はどうなったんだ? 確か、今日あたりが結果発表だったんじゃないのか」
その瞬間、二人の顔から先ほどまでの「勝ち誇った色」が綺麗さっぱり消え失せた。ジョンはカップに顔を埋め、エドモンドは遠い目をして天井を見上げた。
「……審査員席の教授たちに、ボロクソに言われたよ。女優が捕まらないなら脚本を書き直せってね。
脚本と演出は良いのに、被写体の役者がヒロイン含めてガタイの良い野郎だから風邪引いた時の悪夢みたいだ……ってね」
「まあ、ヒナタたちに断られた時点で詰んでたんだよ」
エドモンドが自嘲気味に笑う。
「代役の女の子がどうしても見つからないから、妥協して女の子に声かけて回ったけどね…全員に断られたんだ。
更に妥協して上手い事引き込めたアメフト部の部員に女装させて撮ったんだけど……これがもう、地獄絵図だったんだ」
ジョンが突然、ガタリと椅子を鳴らして身を乗り出した。反省の色など微塵もない、いつもの熱っぽい目が復活している。
「そうなんだよ! やっぱり君たちを口説けなかったのが致命的だった!
役者は全員、口車に乗せて罰ゲームとして引っ張って来たアメフト部のレギュラー落ちでね、肩幅がこれくらいある奴に無理やりワンピースを着せたんだ。
ヒロイン役のそいつが○○○君役の男に抱きついた瞬間、背中からワンピースが裂けて中からパンイチの野郎がね。
挙句に役者が全員ガタイが良いもんだから撮影中は高ぶったテンションで気付かなかったけど、ほぼ全てのシーンが審査員達が言ってたような風邪引いた時の悪夢にしか見えなかったのさ!」
「うわぁ…」
○○○が顔をしかめる。
「おまけにジョンが『本物の質感は無理だが、少しでも近づけよう!』とか言い出してヒロイン役に下手くそな厚化粧をしたもんだから、絵面が更に酷くなってラブストーリーの要素が家出していったよ」
ジョンが拳を握りしめる。
「ヒナタさん、君さえ協力してくれれば、脚本を変えずに性別を超越した愛を表現できたはずだったんだ……」
「……その話、まだ続ける?」
ヒナタが、哲学の本を閉じて静かに微笑んだ。その背後で、触手の先端がゆらりと揺れたのをジョンは見逃さなかった。
「……いえ。僕たちの完全な力不足でした。すみません」
ジョンは即座に居住まいを正し、借りてきた猫のように大人しくなった。
部屋に気まずい沈黙が流れかけたその時、ノックもなしにドアが開き、カニンガム教授がひょっこりと顔を出した。
片手には紙袋に包まれた大きなハムの塊、もう片手にはいつもの古びたスキットルを持っている。
「やあ諸君、差し入れを持ってきたよ。おや、先客かね?」
教授は床に座り込んでいるジョンとエドモンドを少し驚いた様子で眺めた。
「映画研究部の迷コンビじゃないか。コンテストの結果はどうだったね?
風邪引いた時の夢みたいな「とんでもない作品」が出てきたなんて話は聞いているが。」
「……そのとんでもない作品です教授。映像が地獄絵図すぎて、役者が集まらないなら脚本を変えろ、高い技術とセンスで最後まで見れるから絵面の酷さが夢に出るレベルになってると怒られましたよ」
エドモンドが力なく答えると、カニンガム教授は「ハッハッハ!」と野太い笑い声を上げた。
「そこまで言われていると、気になってくるな。……私達にも見せてくれないかね?」
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教授の提案で小型の試写機がヒナタの部屋に持ち込まれ、彼らの失敗作を全員で観ることになった。
ジョンがせしめてきた高級ウイスキーをショットグラスに注ぎ、カニンガム教授が持ってきたハムをナイフで削ぎながらの、奇妙な上映会だ。
画面の中で、不自然な厚化粧をした大男の「ヒロイン」が、肩の筋肉でワンピースを弾き飛ばし、パンツ一丁で愛を語っている。
○○○とヒナタはあんまりな映像のインパクトに呆けていたが、カニンガム教授だけは琥珀色の液体を喉に流し込み、笑いながらスクリーンを凝視していた。
「これはひどいな。夢に出そうだ」
上映が終わると、教授は短く感想を述べた。ジョンは遠い目をしているが、教授は続けた。
「成程、脚本を変えろという理由もわかるよ。特に、あの背中が裂ける瞬間のスローモーション……あのアホらしさを最大限に引き立てる構図のセンスは、もはや才能と言っていいだろう。
……普通にコメディ映画を撮れば良かったのではないかね?」
カニンガム教授はグラスを机に置くと、思い出したとばかりにジョンとエドモンドに提案した。
「そうだ……西アーカムに滞在している私の友人の映画監督が、撮影現場の下働きを探していてね。
彼は少しばかり偏屈だが、現場の空気は吸えるだろう。どうだね、学内コンテストで挫折している暇があるなら、プロの現場で泥にまみれてみる気はないかね?」
「えっ……本当ですか!? 教授!」
「ああ。ただし、紹介状には『腕はいいが、ハンドルとブレーキが効かない奴』と一筆添えておくがね」
ジョンとエドモンドは、奇跡的なチャンスに飛びつかんばかりに何度も頭を下げた。ヒナタと○○○は、酒の酔いも手伝ってか、少しだけ晴れやかな顔になったバカ二人を眺めながら、残りのウイスキーを飲み干した。
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それから二週間ほどが過ぎた、十月のよく晴れた日のことだ。
西アーカムの港に近い旧市街。潮風が混じる午後の街角で、○○○とヒナタは買い物帰りの足を止めた。
「……おい、あれ」
「あ、本当だ。頑張ってるみたいだね」
二人の視線の先、石造りの古い建物の前で、大掛かりな撮影機材を運んでいる集団がいた。
カニンガム教授が言っていた「友人の監督」の現場だろう。
その喧騒の真ん中で、ジョンとエドモンドが汗まみれになって働いていた。
ジョンは監督らしき男の怒声に「イエス、サー!」と威勢よく答えながら、重そうな照明機材を調整している。かつての妄想癖は影を潜め、その目はファインダーではなく現実のライティングを真剣に追っていた。
エドモンドもまた、山積みのフィルム缶を抱え、撮影スタッフの間を器用に縫うように走り回っている。
「酒持ってきた時より、ずっとマシな顔してるな」
「そうだね。ブレーキは誰かに踏んでもらう方が、彼らには合ってるのかも」
ヒナタが小さく笑う。
かつて自分たちの部屋に乗り込んできたあの無礼な情熱は、今はプロの現場という巨大な歯車の一部として、正しく消費されているようだった。
二人が歩みを再開しても、ジョンたちは作業に没頭していてこちらには気づかない。
あのアメフト部のワンピースが裂けた地獄のような上映会も、今では遠い笑い話のひとつのように思えた。
○○○は上着のポケットで、あの時ジョンたちが命がけでせしめてきた高級ウイスキーの「残り」を詰めたスキットルの重みを感じた。
秋の陽光が、レンガ造りの街並みを穏やかに照らしている。
二人はそのまま、喧騒を背にゆっくりと坂道を登っていった。




