僕一人で食べるなら問題ないよね!
今更ですが、作中において日本人はガチの神話生物です。
現実の日本人とは全く関わりはありません。
9月の西アーカムは、霧が街を飲み込む季節だ。
朝の空気が海水の冷たさを帯び始め、並木道のカエデが、誰かがこぼしたインクのように鮮やかな赤に染まっていた。
海洋生物学研究室の主、コーエン教授が大量の標本箱を追いかけるようにボストンの東アーカムへ発ってから数日。
静かになるかと思われた研究室に、一人の珍客が訪れた。
菌類学研究室の責任者、シルバ・スミス教授。ツイードのジャケットに土の匂いを纏わせた、いかにも「森の住人」といった風貌の老人だ。
「……なるほど。海洋生物から抽出された毒物に対して、異常なまでの抵抗力を持つ少年、か」
スミス教授は、資料を読んでいたヒナタを、まるで新種の粘菌でも見るような目で見つめた。
「海洋生物学の連中が自慢げに話していたよ。致死量を笑い飛ばしながら、平然と生のフグを平らげたやつがいるとな」
「…先生、その話には尾ひれがついてます。僕はただ、毒のないところを食べただけですよ。平気なのは事実ですけど」
ヒナタが困ったように笑うと、スミス教授は机を叩いて身を乗り出した。
「謙遜はいらん!実は、菌類学研究室でも今、あるプロジェクトが行き詰まっていてね。
野生のキノコに含まれる微細な毒素が、人間の味覚神経にどう影響を及ぼすかのレポートが欲しいんだ。
だが、被験者が足りない。死なないまでも、みんな一口で腹を下してしまってね」
「要するに、ヒナタを毒キノコの試食係にしたいってことですか?」
横から口を出したのは、コーヒーを淹れていた○○○だ。
「人聞きが悪いな。これは尊い学術的貢献だ。
それに、日本の植物や動物図鑑には全て味が記載されている。全て作者か関係者が食べて確認していると出版社に確認済みだ。
これがどういう事か分かるかね?日本人達には毒が効かないのだよ。何も心配する事は無い。
もちろん、タダとは言わん。
……カニンガム君、君が欲しがっていた『アレ』を出す準備がある」
部屋の隅で古文書を読んでいたカニンガム教授が、その言葉にピクリと反応した。
「ほう。菌類学研究室が酒盛りに使ったあの『醸造用イースト』かね?」
「ああ。国内の粗悪な密造酒とは一線を画す、スコッチ顔負けの芳醇な香りを作り出す魔法の酵母だ。
これを文化人類学の……いや、『イレギュラーズ』の活動資金のために融通しよう」
カニンガム教授はニヤリと笑い、○○○に視線を送った。
「○○○君、これは悪い話じゃない。カナダから運ぶ手間を考えれば、自分たちで『上物』を醸造できる種を手に入れる価値は大きい。それに、君もフグの一件でヒナタ君に毒が効かない事は知ってただろう?
……ヒナタ君、君の頑丈な胃袋を、秋の森のために貸してやってくれないか?」
「良いですけど……熟成の時間を取る余裕なんてイレギュラーズにありましたっけ?
品質改良はある程度しかできませんよ?」
「多少マシになってくれれば良い。腕の良いやつにだけ卸すさ」
カニンガム教授の笑い声と共に、取引は成立した。
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数日後、オリンピック半島の原生林は、海辺の西アーカムとはまた違う、重苦しい静寂に包まれていた。
樹齢数百年を数えるベイスギやツガの巨木が空を覆い、足元には湿った苔が厚い絨毯のように広がっている。
「さあ、ヒナタ君。ここから先は『宝探し』の時間だ」
スミス教授は、使い古された籐籠とナイフを手に、霧の中へと足を踏み入れた。
学生たちが毒キノコの識別図鑑を片手に恐る恐る藪を突つく中、ヒナタはまるで勝手知ったる庭を歩くように、倒木の下や根元に視線を走らせる。
「……あ、これ。美味しいキノコですね」
ヒナタが指差したのは、鮮やかな朱色の傘に白い斑点が散りばめられた、童話に出てくるようなキノコだった。ベニテングタケだ。
「おっと、いきなり大物だ。それは幻覚作用と軽度の毒性で有名だが、非常に美味しいと評判のキノコだ。……どうだね?」
スミス教授が期待に満ちた目でノートを広げる。
ヒナタは少し悩んでから、その一部をナイフで切り取ると、ひょいと口に放り込んだ。
○○○が思わず顔を引き攣らせるが、ヒナタは数回咀嚼して淡々と感想を述べ始める。
「……普通、キノコは火を通す物ですよ?生だと大体美味しく無いですし……これは生でも美味しいキノコなので、そのままいきますけど。
それはそれとして、すごく強い旨味がありますね。それと喉の奥が少し熱くなるようなピリピリ感。でも、味自体は……そうですね、乾燥させた貝柱を凝縮した物が舌にベッタリ貼り付いてるみたいで美味しいです」
「素晴らしい!『乾燥貝柱』か、その表現は新しいぞ!」
スミス教授の万年筆が、興奮したように紙の上を躍る。
その後もヒナタの「実食レポート」は続いた。
嘔吐や下痢を引き起こすと言われるツキヨタケを食べては「少し苦味があるけど、バターで炒めたら化けそう」と評し、神経毒を持つアセタケの仲間を齧っては「後味が少し金属っぽいです」と顔を顰める。
ーーー「採ったキノコを干したら、素潜りで深海の美味しい魚を捕まえてナベ…じゃなくてシチューにするよ!君を毒殺しちゃうと思って出来なかったけど、僕一人で食べるなら問題ないよね!」ーーー
○○○はそんなヒナタの様子を見て、キノコ狩りの前日にヒナタが自分に語っていた内容を思い返していた。
学生たちが「死なないとわかってるからってそういう事するのかよ……」「まじかよ……」とヒソヒソ話す中、故郷の料理が食べられずにフラストレーションが相当溜まっていたと思われるヒナタは満面の笑みで「森の幸」を堪能していた。
「……あっ美味しいやつだ。……スミス教授!このキノコって毒ですか?」
ヒナタが見せたのは、黄色いラッパのような形のキノコだった。
スミス教授がそれを受け取って匂いを嗅ぐと、濃厚なアンズのような香りが鼻をくすぐる。
「ふむ、アンズタケだね。食用キノコだよ。」
「やった!」
ヒナタが○○○に向き直った。
「……一緒に食べない?」
「良いぜ」
二人は、スミス教授が標本採集に没頭している隙に、焚き火を起こした。
ヒナタが持ち込んでいた小型のフライパンで採れたてのアンズタケと、○○○が鞄に忍ばせていた厚切りベーコンを一緒に炒める。
霧の森に、肉の脂とキノコの芳醇な香りが広がった。
「……あ、そうだ。スミス教授」
ヒナタが肉を頬張りながら、籠を抱えた老教授を呼び止めた。
「さっきのイーストの件ですけど。あの菌ってワインやブランデー向けの品種ってありますか?」
スミス教授は、キノコのスケッチを止めて驚いたように目を丸くした。
「……一応あるが……君に酒造の心得があるという噂は本当だったのか……」
「まあ、ガロン瓶をローテーションして毎週作ってますね」
「材料調達は俺が担当しているんで、もし品種や糖分の指定があったら教えてください」
「成程ね、愛されてるじゃないか。後で赤向けの酵母を分けるから、それを使うと良い。品種とかの指定は無いよ」
秋の森の宴は、どこか浮世離れした静けさの中で続いていった。




