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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
プロトタイプ版

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ダイナーと夢の海

ダイナーの扉を開けると、油と甘いシロップが混ざった香りが鼻をついた。

赤い合皮のソファ、スチールのテーブル、ガラス越しの外にはまだ霧がかかっていたが、ここだけは妙にあたたかく、世界から切り離された別の場所のようだった。


三人で窓際のボックス席に腰を下ろすと、ヒナタは嬉しそうにメニューを手に取った。


「“ベーコン・グレービー・パンケーキ”って、本当に一緒に出てくるんですか?」


「出てくるよ。アメリカでは朝食ってのは、けっこう自由なんだ」


「へえ……それ、いいね」


ヒナタは心から感心しているようだった。

異形だとか擬態だとか、そんなことは感じさせない、ただの異国の若者の表情だった。


私はコーヒーを頼み、教授は黙々とスケッチブックに何かを書き始めていた。


料理が運ばれたあと、ヒナタがフォークを置き、ふと思い出したように言った。


「そういえば、昨夜、変な夢を見たんです」


教授と私は、同時に視線を上げた。


「どんな夢だった?」


教授が問うと、ヒナタは少し考えてから口を開いた。


「霧の中に沈んだ町で、建物がぐにゃぐにゃに歪んでて、道もねじれてて。海がすぐ近くにあるのに、波の音がまったくしなかったんです。代わりに、町全体から“しょっぱい空気”がして……それが、なんていうか……香ばしい感じでした」


私はフォークを止めた。


「誰かが窓の奥から呼んでたんです。声じゃなかったけど、“こっちへおいで”って、確かに伝わった気がして。怖くはなかった。むしろ懐かしいっていうか……すごく、おいしそうな匂いだったんですよね。」


ヒナタはそう言って、照れ笑いのように首をかしげた。


教授は手帳に素早くメモを取りながら、うなずいた。


「“夢における食欲の発現”。非常に興味深い……」


「うちの国では、夢って“観測の一部”みたいなもんなんです。たまに“連夢”も起こるんですよ。同じ夢を複数人が見るやつ」


「それは君の国だけでなく、こちらにも古くから似た伝承がある。“夢を媒介にした記憶の共有”とされる現象だ」


私はその会話を聞きながら、どこか落ち着かない気持ちになっていた。

霧の中で感じた、あの匂い。

バスの運転手の叫び。


もしかして、彼もヒナタと同じ夢を見ていたんじゃないか――そんな想像が、妙に頭を離れなかった。


ふと私は、気になっていたことを口にした。


「なあ、ヒナタ。“ギョジン”って……何なんだ?」


「え? ああ、知らないのか。“ギョジン”はね、うちの国では深海に棲む生き物のこと。たぶん西海岸沖とか、もっと太平洋の奥の方にいるって言われてるけど、目撃例は少なくて。でも、すごくおいしいんだよ」


私は眉をひそめた。


「それって、魚なのか?」


「見た目はちょっとヒトに似てる。でも違う。肌はぬめってて、色は青緑がかってて、目が大きくて……手足はあるけど、水かきもあるし、顔は少し魚っぽい。鰓もあるしね。声は出さないけど、動きが素早い」


「……それを食べるのか?」


「うん。刺身もいいし、煮ても焼いても旨味が出る。骨まで柔らかくて、干物にすると香りが立って最高。仕留めるのは大変だけど、“当たり日”って喜ばれるよ。うっかり目を合わせると混乱したりするって言われてるけど、気をつければ大丈夫」


教授はその説明に興奮した様子で鉛筆を走らせていた。


「ふむ……未記録両棲類の可能性……文化的に認知され、かつ食材として流通……非常に興味深い」


「でもさ、そんなに人間に似てたら……気持ち悪くないか?」


私は、我ながら馬鹿な質問だと思いながらも訊いた。


ヒナタは少し考えてから、あっけらかんと答えた。


「似てるだけで、同じじゃないからね。向こうは感情も言葉も通じないし。見た目と味は別問題だよ。うちでは、そういうの、ちゃんと区別するように教わってる」


その口調には、まったく迷いがなかった。


私はぼんやりと思い返していた。


──あの朝、バスの運転手がヒナタを見て、悲鳴を上げて逃げ出したこと。


今なら、その理由が何となく想像できる気がした。

“ギョジン”という、ヒトに似た深海の生き物。

それをヒナタは普通に“食べる”と言う。

そして、ヒナタ自身もどこか――いや、はっきりと、似ている。


インスマスの話を思い出した。

あの町に住む人々はどこか風変わりな顔つきをしていて、“海のものと通じている”なんて噂もあった。

「インスマス面」。まるで怪談の定型句のように語られてきた都市伝説。


……まさか。


インスマスの住人が“ギョジン”と何か関係があって、

ヒナタたちの国の人々に“食材”として認識されているだなんて。


そんなの、いくらなんでも、映画でもやらない悪趣味な冗談だ。


私は無理やり笑みを作り、コーヒーを飲み干した。


「考えすぎだ、俺」


誰にともなく呟いた声が、冷めかけたマグの底に吸い込まれていった。


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