モリアーティ教授に乾杯!
インスマス面の男が痛飲していたあの日から二週間後。
スピークイージーの店内はいつも通りの空気が流れていた。
地下に溜まる湿った空気には、酒と煙草の匂いが混じり、カウンターの奥ではグラスが触れ合う軽い音が絶え間なく響いている。
テーブル席にもいくらか客が入り、低い声での談笑が店内を満たしていた。
カウンターの一角で、常連らしい男が新聞を広げている。
紙面を押さえる指は酒焼けしたように赤く、グラスの縁には既に飲み干された痕跡が残っていた。
「……ほら、また載ってるよ」
男はそう言って、新聞を少し傾け、カウンターの内側にいる老婆にも見えるようにする。
老婆は片肘をつき、老眼鏡越しに紙面を覗き込んだ。
一面の見出しは大きい。
“インスマス、警察の大規模浄化作戦で壊滅”
本文では、警察と軍の支援を受けた部隊が市街地を制圧し、港湾部を含む一帯が完全に封鎖されたこと。
住んでいた住民はテロリスト集団の為、生存者の確認はされていないこと。
瓦礫の山となった街並みの写真が、無機質に添えられている。
「派手にやったもんだねえ」
老婆は淡々と呟いた。
「前から評判が悪かったからな」
「先月のバス暴走事件に加えて、その犯人について調べてた警官達も殺されたんだから当然だ」
男は鼻を鳴らし、ページをめくる。
数段落下、事件記事の続きの隣に、やや大きめのコラムが配置されていた。
――博物館の海洋生物展、予想以上の盛況
先週開かれた特別展示が連日満員であること。
中でも目玉となっているのが、“半魚人”と呼ばれる未知の深海生物の標本であること。
学術的価値が高く、一般客にも分かりやすい展示として高評価を得ていること。
「……それにしても、インスマス面の連中に妙に似ているな……」
男は苦笑しながらグラスに口をつけた。
「インスマスへの“お前らは人間じゃない”って挑発だったりしてな」
「ハハッ、そうかもしれないねぇ」
老婆は笑って肩をすくめる。
「特別展示は浄化作戦の4日前だったね……もしそうなら相当酷い煽りだよ」
新聞は静かに畳まれ、カウンターの上に置かれた。
事件も、街も、瓦礫も、紙面の中に押し込められる。
スピークイージーの夜は、今日も変わらず続いていた。
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カウンターの奥で新聞が畳まれるのとほぼ同じ頃、スピークイージーの入口の扉が、静かに開いた。
理髪店の空気が一瞬だけ流れ込み、店内の湿った空気と混ざる。
入ってきたのは三人だった。
カニンガム教授。
○○○。
そしてヒナタ。
教授はいつものように背筋を伸ばし、帽子を軽く持ち上げて周囲を一瞥する。
○○○は一歩遅れて店内を見渡し、空いている席の具合を確認するように視線を走らせた。
ヒナタはその後ろで特に表情を変えず、周囲を自然に見回している。
「……今日は何頼みます?」
○○○が小声で言った。
「アパラチアから出来の良いコーンウイスキーが入ったらしいからそれにするよ」
教授はそう答え、コートの裾を整える。
カウンターの向こうで、バーテンダーが三人に気づいた。
目が合うと、彼はわずかに眉を上げ、何も言わずに頷く。
そして、カウンターの端を指で軽く叩いた。
「旦那、こちらへどうぞ」
教授は一瞬だけ足を止めたが、すぐに頷いて従う。
○○○とヒナタも黙って後に続いた。
カウンターの裏手を抜け、普段は使われない通路を進む。
壁際のランプは光量を落とされ、足音がやけに大きく響いた。
扉の前で、バーテンダーが立ち止まる。
「今日はイレギュラーズの皆さんがお待ちですぜ」
それだけ言って、鍵を回した。
厚い扉が開くと、外の喧騒が一気に遮断される。
中は、スピークイージーの中でも特に静かな個室だった。
テーブルには既に酒瓶とグラスが並べられ、簡単なつまみも用意されている。
明らかに、三人が来ることを見越した準備だった。
扉が閉まり、鍵の掛かる音が完全に消えた直後、個室の奥から賑やかな声が上がった。
「おう、教授! 待ってたぜ!」
テーブルの向こう側に、既に何人かの男たちが陣取っていた。
派手な身なりではないが、どこか統一感のある服装。
スーツの仕立ては良く、靴も磨かれている。
ウエスト・アーカム・イレギュラーズ。
この界隈では名の知れた連中だった。
名探偵の使いっ走りをやってそうな名前だが、やってる事は逆だ。
密造酒のやり取りの為にカニンガム教授が自身の肩書きとツテを悪用して得た警察の摘発や巡回ルート等の情報を金や酒、このスピークイージーの値引き等で買い取り、警察の摘発を躱しているのだ。
なお、こいつらは孤児ではない。コナン・ドイルから訴えられそうな名前だ。
「今日は堅気の集まりかと思ったら、随分と顔が揃っているな」
教授は冗談めかして言いながら、帽子を外す。
「そりゃそうだ。今日は“お礼”の日だからな」
そう言って、リーダー格らしい男が立ち上がり、教授の前にグラスを差し出した。
中身は琥珀色の酒で、鼻を近づけるだけで甘い香りが立つ。
「例の件、助かったぜ」
「インスマスがあそこまで派手に吹き飛ぶとは思ってなかった」
○○○とヒナタにも、すぐにグラスが回される。
二人は軽く視線を交わし、黙って受け取った。
「私は何もしていないが?」
控えめにそう言うと、男たちは一斉に笑った。
「またまた」
「そういう顔で言われると余計怪しいんだよ」
テーブルの上には、いつの間にか料理が追加されていた。
燻製肉、ナッツ、チーズ等のスピークイージーでよく見かけるものに加えて、ローストビーフ、ミートパイ、マトンチョップ、鴨などのジビエなど豪勢な料理が置かれている。
「教授のおかげで、あの連中も全部地獄行きだ」
「ディープ・ダイバーズだっけ? インスマスの“クソアブサン”売ってる連中」
その名前が出た瞬間、教授の眉がわずかに動いた。
「……名前は聞いたことがあるな」
そう答えると、男たちはさらに機嫌よく頷いた。
「ほらな」
「知らないふりも板についてる」
ヒナタはグラスを片手にテーブルの料理をワクワクしながら眺めている。
○○○もグラスを片手に男たちの顔ぶれと立ち位置を自然に観察していた。
「今日は堅い話は抜きだ」
「教授にゃ世話になった。その礼をするだけさ」
リーダー格の男がそう言って、グラスを高く掲げる。
「ウエスト・アーカム・イレギュラーズ一同から、カニンガム教授に感謝を込めて!」
グラスがぶつかり合い、酒が喉を滑り落ちる。
場は確かに和やかだった。
笑い声も自然で、酒の回りも悪くない。
料理も申し分なく、段取りとしては「気の利いた礼の席」そのものだ。
――だが。
教授は、杯を置いた指先に微かな引っ掛かりを覚えていた。
「しかしまあ……」
リーダー格の男が、くつろいだ様子で椅子に深く腰掛ける。
「バスの件から、インスマス壊滅まで一直線だったな」
「タイミングが良すぎるくらいだ」
教授は、内心で小さく息を吸った。
「……そうかね?捜査員に手を出して連中が挑発したせいだろう」
軽く受け流すつもりでそう言ったが、男たちは否定しない。
むしろ、どこか含みのある笑みを浮かべている。
「連中そっくりの標本とかすごい物が展示されて盛り上がってたな」
別の男が、ナイフでチーズを切りながら口を挟む。
「それでキレたのか、警察がインスマスを燃やす“前”にディープ・ダイバーズの動きが露見」
「しかも、世間の目が博物館の“半魚人”に集まった直後だ。インスマス面そっくりの」
教授は、そこで確信した。
――彼らは、私が筋書きを書いて実行したと思っている。
○○○もそれに気づいたらしく、グラスを持つ手を止めたまま、笑いを堪えつつ教授をちらりと見る。
ヒナタは相変わらず楽しそうに飲み食いしている。全く気付いていない。
「展示の話はノータッチだよ。標本を売るまでしか関わってない」
教授は静かに言った。
「あの標本はヒナタ君に依頼したら捕まえてきた新種の生き物さ。
それ以上の何かは無いとも」
一瞬、沈黙。
だが、それは「理解」ではなく、「確認」の間だった。
「そうだな。何も無かった」
リーダー格の男が、愉快そうに笑った。
教授の違和感は、はっきりとした形を持った。
彼らは、教授が自覚的に裏で糸を引いていると信じている。
「教授、街一つ吹っ飛ぶ惨事の火種になったあんたが言っても説得力無いぜ。……信じるけどな」
男は肩をすくめる。
「だが、あの事件でサツが動いた」
「まさか、教授直々に火種を作りに行くとは思わなかったがな」
教授は、思わず眼鏡を押し上げた。
「……評価が過大だ」
それは本心だった。
自分がやったのは、警察の動きを横流しし、巡回の穴を教えただけだ。
都市全体を焼き払うような絵図など、描いた覚えはない。
だが。
「モリアーティ教授に乾杯!」
「おいおいそれじゃ滝に落ちちまうよ」
誰かが言い、男たちは笑った。
教授は、グラスを手に取り、もう一口だけ酒を飲んだ。




