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追われた座席、届かぬ湾岸

アーカムの朝は、いつもより少し静かだった。

町全体が霧に沈み、風も音も遠ざかっているようだった。煙突の煙が空に届かずに地上に落ちる。

見慣れた通りが紙細工のように淡くなり、何が現実で何が幻なのか、境目が曖昧になる。


大学の裏手、カーリッジ棟の陰で私はひとりの男と会っていた。


「まったく、ロマンと実用は両立しないって、何度言われたことかね!」


民俗学のカニンガム教授が、そう言って苦笑した。彼のキャデラックはエンジンがかからず、ボンネットの内側から蒸気が立ち上っていた。


「朝方の霧がエンジンを湿らせたんだろう。私の愛車は繊細でね。というわけで、今日は急遽インスマスへはバスで向かう。どうだい?フィールドワークってやつは、どんな手段でも楽しめるのが一流の学生ってもんだ」


私は笑って頷いた。教授の“発明的な災難”はいつものことだった。

そして今回の調査――「インスマスに残された民間信仰の構造的再調査」もまた、彼の好奇心が導いた旅だった。


「ナガエ君にも同行してもらう予定だ。助手のターナーは文献と結婚するらしいよ。『文字と寝る』って真顔で言われた時は流石に返事に困った」


教授はそう締めくくり、工具箱を肩に霧の中へ消えていった。私は後に残り、思わずため息をついた。


翌朝、私は少し早めに寮を出た。

霧は昨日よりも濃く、歩道の輪郭すら曖昧だった。

アーカム中央のバス停に着くと、そこにはすでにヒナタ・ナガエの姿があった。


灰色のスーツに藍色のコート。首に巻かれた濃紺のスカーフが顔の輪郭を際立たせていた。性別の境界を溶かしたような中性的な立ち姿に、私は少し見惚れた。


「おはよう」


「……おはよう。髪、今日は“おとなしく”してるな」


「バスに乗るからね。目立たない方がいいかと思って」


ヒナタはいつになく軽く笑った。

彼はまるで自分が“目立つ存在”だと、どこかで自覚しているようだった。


間もなくして教授もやってきた。紙袋からベーグルを取り出しながら、霧を見上げて呟く。


「いい霧だ。こういう空気には、土地の記憶が混じっている気がする。インスマスの海辺なら、きっともっと濃いものが感じられるはずだよ」


教授の言葉は、ほとんど詩のようだった。だがその熱は本物で、私も、ヒナタも、黙ってうなずいた。


7時55分。定刻通り、インスマス行きのバスが停車場に滑り込んできた。

くすんだ緑のボディには「ARKHAM-INNSMOUTH」の文字。タイヤが石畳に軋み、霧をまとったような静けさのなかに、鉄の吐息が重なる。


ドアが開く。教授が先に一歩踏み出す。

私も後に続いた。

そして、ヒナタが私たちの後ろに一歩、静かに立った。


そのときだった。


運転手の男――無精髭を生やした中年――が、ふと顔を上げた。

その目が、ヒナタの目と合った。


次の瞬間、空気が破れるように緊張した。


「ヒッ……うわぁぁぁぁ!!」


声にならないような叫びが、彼の喉から絞り出された。

顔色が蒼白になり、握ったハンドルに指が食い込む。


バスが急発進したのは、誰もまだ乗り込んでいない時だった。

ドアも開けっぱなしのまま、ギアが噛み合い、タイヤが霧を引き裂き、バスは全速力で私たちの前から逃げていった。


何も言えなかった。

教授の紙袋が落ちて、ベーグルがくるくると転がったのを、私はただ見ていた。


「わぁ……“ギョジン”の臭いだ……アメリカでも食べてるんだなあ」


静寂を破ったのは、ヒナタの声だった。

その口調は、まるで遠足先で好きな食べ物を見つけた子どものようだった。


「……ギョジン?」


私は思わず訊き返した。


「うん。うちの国じゃ、ハワイと西海岸の深海に棲む生き物のことをそう呼ぶんだ。珍味なんだけど、火を入れると甘い香りがしてね。すごくいい匂い」


ヒナタは目を細め、霧の中に立ち込めた残り香を胸いっぱいに吸い込んだ。

私は、自分のなかで、何かが崩れる音を聞いた。


彼は気づいていないのだ。

今、自分の“何か”が表に出てしまっていたことに。


あの運転手が見たのは、たぶん人間ではなかった。

擬態が、ほんのわずかにほどけた一瞬――彼が本来の姿を取り戻しかけたその刹那。


ヒナタにはその自覚がない。

ただの“いい匂い”でしかない。


教授は、落ちたベーグルを拾いながら、静かに笑っていた。


「ふむ……やはり“遺伝的記憶”というのは侮れないね。あの運転手、何かを感じ取ったらしい」


「教授……何を言ってるんです?」


「いや、独り言さ。さて、朝食でもどうかな。調査は延期になったけれど、空腹は学問の敵だ」


そのとき、ヒナタの腹がぐぅ、と鳴った。

彼は照れくさそうに笑い、手をお腹に当てた。


「……やった。アメリカのダイナー、ずっと気になってたんです」


私たちはダイナーに向けて歩き出した。

舗道は濡れていたが、朝日がすこしずつ差し込んでいた。


教授の横顔には静かな観察者の目があった。

ヒナタの背中は、相変わらず軽やかで、霧の中に溶け込んでいるようだった。


私は、問いかけたい衝動を押し込めた。


彼が“何者なのか”。

教授は、どこまで分かっているのか。


その問いは、霧のように輪郭がなく、今はまだ触れてはいけない気がした。


ダイナーのネオンサインが、ゆっくりと霧の中に浮かび上がってくる。

ドアの向こうに、コーヒーとパンケーキと、ほんの少しの温かさが待っていた。

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