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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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18/58

運転手さん! まだ一人乗ってない!

 三人のグラスが、静かに触れ合った。


 乾いた音が、酒場のざわめきに溶ける。


 三人がそれぞれ一口だけ口を付けてグラスを置くと、店主は言葉もなく小皿をいくつか並べた。

ひび割れた白磁の皿に、クラッカーと粗く刻まれたパテ、塩気の強いオリーブ、スライスしたサラミ、デビルドエッグ。

香草の匂いが、酒の甘い香りに静かに混じる。


「最初の一杯とツマミは私の奢りだ。安心して食べてくれたまえ。」


教授はそう言って、クラッカーにパテを乗せた。


 ヒナタは、デビルドエッグにフォークを伸ばした。

 黄身の甘さとマスタードの刺激に、満足そうに目を細める。

 その後ウイスキーに口を付け、舌の上で転がすように味わった。

 強すぎず、軽すぎず。鼻に抜ける香りが心地いい。


「……いいですね。」

「気に入って貰えて何よりだよ。」


 教授はそう言ってパテを乗せたクラッカーを口に運んだ。


「今味わってもらった通り、ここは長居したくなる店だ。

 だが、妻に先立たれた私には中々来づらい物がある。

 君達が私にここに来る大義名分を与えてくれる事を願っているよ。」


 ○○○はクラッカーにレバーパテを塗りながら、周囲を見回した。


 低い照明。

 グラスの縁をなぞる指。

 背景で鳴るピアノと、どこかで笑う声。

 ポーカーの勝ち負けに一喜一憂する声。


「……大学の近くに、こんな場所があるなんて知りませんでした」

「それは何より。

 まだまだこの店は続いてくれそうだ。」


 教授は淡々と答え、ウイスキーを一口含んだ。


 しばらくは、本当に他愛のない話が続いた。

 講義の愚痴。

 最近増えた噂の変種。

 街のパン屋が値上げしたこと。


 酒が少しだけ回り、肩の力が抜けた頃。


 教授が、ふと思い出したように言った。


「そういえば――」


 その声色が、ほんのわずかに変わる。


「君達、西アーカムからインスマスへ行くバスを見たことはあるかね?」


 ○○○はフォークを止めた。


「ええ。中央通りの先から出てるボロいやつですよね」

「廃線になるそうだ」


 あまりにさらりとした言い方だった。


「誰も乗ってなかったので、それは当然ですね。」


 ○○○が答える。

 ヒナタもグラスを置き、教授を見る。


「正確には、“なる予定”だ。

 来月いっぱいで運行終了らしい」


「急ですね」

「そうとも。」


 教授は、グラスを指先でゆっくり回した。


「理由はいくつかある。  採算、老朽化、利用者減少……表向きは、よくある話だ」


 そこで、教授は一拍置いた。


「だが、廃線の話は例のモンスター映画の記事が出てから急に決まったらしくてね。

 普通、この手の話は少なくとも半年くらいかけて決まるものだが、余りにも急過ぎる。」


「そんなに急だったんですね。」


「行き先は漁業の街だし、廃線を急ぐ理由は正直どうでも良いのだがね。

 乗る用事も無いとはいえ、廃線になると聞くと乗りたくなってしまうのだよ。」


 ヒナタが少し驚き、教授は、穏やかな声のまま続ける。


「せっかくだから一緒に最終便でインスマス観光と洒落込まないかね?」


「帰りの便はあるんですか?」

「夕方に帰りの便がある。」


 教授は、あくまで雑談の延長のように言った。


「それと、先月くらいだったかな。

 インスマスじゃないが、10歳くらいの女の子が三人、サメに乗って港にやって来たニュースがあっただろう?」


 教授はグラスを持ち上げ、二人を見た。


「記事に書いてない人伝の話だが、彼女達は友達を助けてインスマスから逃げて来たと言っていたらしい。」


 ヒナタは少し考え込み、やがて小さく笑った。


「……また、面倒な匂いがしますね」

「まあ、ニュース自体先月の話だし、情報を集める気も無い

 ただの観光だから問題が起きるとは思わないがね。」


 教授は頷いた。


「だが、一人だと行きにくいので君達が着いてきてくれると助かる。」


 再びグラスを掲げる。


「来てくれるかね?」

「良いですよ。」

「僕も大丈夫です。」


 ○○○とヒナタが回答して、三人はもう一度グラスを合わせた。


---


 翌朝。


 西アーカムの空は、昨日と変わらず薄い雲に覆われていた。

 雨の気配はないが、日差しも弱い。時間の感覚が少し曖昧になる朝だ。


 中央通りの外れ。

 インスマス行きのバス停には、街灯と同じ色にくすんだ標識が一本。

 その脇で、錆びついたオンボロのバスが、発車の時を待っていた。


 ヒナタと○○○、そしてカニンガム教授の三人が、通りの角を曲がって現れる。


「うわぁ……」

「……改めて見ると、凄くボロいですね。」

「よく今まで廃線にならなかったものだ。」


 三人は口々に言いながら、バスへと近づいた。

 金属の焦げた匂い。タイヤのすぐ横からは、古びた冷却水の蒸気が白く上がっている。


 教授と○○○が先に乗り込む。

 最後にヒナタが足を踏み入れようとした――その瞬間。


 バタン、とドアが閉じた。

 次の瞬間、バスが咆哮のような音を立てて急発進する。


「運転手さん! まだ一人乗ってない!」

「止まってくれ!」


 二人の叫びを無視して、バスは速度を上げた。

 交差点を信号無視で突っ切り、ヒナタを振り落とそうと蛇行しながら街を離れていく。


 しかしヒナタは、発車の一瞬で触手を伸ばし、車体の外側に貼り付いていた。

 錆びた外板が、きしみを上げて揺れる。


 ヒナタは蛇行する車体の前方へ移動し、

 降車口のドア越しに運転手へ声を張り上げた。


「一体何のつもりだ!客を置き去りにして振り落とそうとするバスなんて聞いたことがないぞ!」


 運転手は答えない。

 代わりに、トリガーガードのないソードオフショットガンを持ち上げた。

 握るその手の指の間に――水かきが見えた。


「うわっ! ぶっ!」


 銃声と同時にヒナタは身を反らし、射線を逸れる。

 だが次の瞬間、電柱に顔面から衝突した。

 老朽化した外装が衝撃に耐えきれず、ヒナタを貼り付けたまま剥がれ落ちる。


 金属の破片と共に、ヒナタの姿は後方へ遠ざかっていった。


「ヒナタ君!?」

「ヒナタ!?」


 ○○○と教授は後部座席へ駆け寄り、窓の外を覗く。

 だが、ヒナタの姿は風景と共に霞んで消えていた。

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