夜に一杯飲める程度には
映画研究部のスカウトから数日後。
研究棟の一角にある、教授の個人研究室は相変わらず薄暗かった。
昼間だというのにカーテンは半分閉められ、薬品と古紙、それにかすかな酒の匂いが混じっている。
ヒナタと○○○は、呼び出しを受けて机の前に並んでいた。
教授は椅子に深く腰掛け、湯気の立たないコーヒーカップを片手に、二人を眺めている。
その表情が、やけに楽しそうなのが不穏だった。
「いやあ……この前はお楽しみを邪魔してしまって済まなかったね。」
第一声が、それだった。
○○○は嫌な予感しかしなかった。
ヒナタもげんなりした顔でこの後何を言われるのか察したようだ。
「何の話ですか?」
○○○が慎重に聞き返す。
教授は机の上に置かれた学内新聞を指先で軽く叩いた。
一面ではない。だが、学内欄の隅に小さなコラムがある。
「噂だよ、噂。」
「君達二人がね……どうやら“大変に情熱的な夜”を過ごしているらしい。」
一瞬、空気が止まった。
「……は?」
○○○の口から、間の抜けた声が漏れる。
教授は愉快そうに肩を揺らした。
「いやあ、尾ひれが立つのは早いね。
“ヒナタ君と恋仲になって一晩中”だの、
“翌朝まで部屋からベッドの軋む音が聞こえた”だの、
“朝になってもヤリ抜いた勇者がいる”だの。」
ヒナタが頭を抱えた。
「そんなに僕達って有名だったんですか?」
呆れきった声だった。
「さて?」
教授はすっとぼける。
「私はただ噂を聞いただけでね。聞いたままをそのまま言ってるだけだ。」
○○○は頭を抱えた。
「否定して……くれる訳ないですよね。」
「よく分かってるじゃないか。」
教授は頷いた。
「面白い仮説を、わざわざ潰す必要があるかね?」
ヒナタが小さく息を吐いた。
「教授、やっぱり面白がってますよね。」
「もちろん。」
即答だった。
「君達のおかげでね、
“日本人=人に擬態する怪物”という単純な図式が崩れつつある。
人とコミュニケーションが取れて、愛もあるし、恋もするとわかったのだろう。
これは実に健全な流れだよ。」
○○○は納得しかけて、しかし渋い顔をする。
「その代償が、俺達の名誉ってわけですか。」
「名誉じゃないか。」
教授は笑う。
「少なくとも、石は飛んでこない。」
それは事実だった。
ヒナタは少し考え、肩をすくめた。
「買い物は楽になりました。」
「だろう?」
教授は満足そうに頷く。
「君が“恐ろしい怪物”ではなく、“噂の相手役”として認識されるなら、それでいい。」
○○○はちらりとヒナタを見る。
「……否定しなくて、いいのか?」
「否定しきれない事実があるからね。」
ヒナタはさらっと言った。
教授が、くつくつと喉を鳴らして笑う。
「いやあ、若いというのは素晴らしい。
さて──」
教授は机の引き出しから、掌に収まる小さな瓶を二つ取り出した。
琥珀色の液体が揺れている。
「噂話のお礼だ。
隠し安いようにミニチュアボトルにしたよ。」
ヒナタの目が、わずかに細まる。
「……度数は?」
「普通のウイスキーだよ。
少なくとも、ケダモノになるほどではない。」
○○○は即座に手を引っ込めた。
「俺は遠慮します。」
「冗談だよ。」
教授は笑いながらヒナタに瓶を渡す。
「今後も噂は増えるだろう。
だが、そう悪い事にはならない筈だよ。」
教授は意味ありげに微笑んだ。
「逞しい勇者に悪い印象を持つ人はそういない筈だ。」
研究室を出た後、廊下を歩きながら、○○○は小さく呟いた。
「……遅れて当たったな。」
「何が?」
「噂がとんでもない事になるって予想。」
ヒナタは瓶を軽く振り、気にした様子もなく答える。
「便利になった分、安いものだよ。」
その数日後、○○○の服の下には触手でしがみつかれた跡がある、日本人が女性化するのは伴侶と決めた相手の前だけ等、更に噂がエスカレートして行き、街中でヒナタが敵視される事が少なくなっていった。
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それから、さらに数日後。
午後の講義が終わり、研究棟の廊下が静まり返る頃。
ヒナタと○○○は、教授に呼び止められていた。
「今日は少し時間はあるかね?」
教授はコートを羽織りながら、何気ない調子で言った。
「一緒に街に出ないかね?」
「……研究ですか?」
○○○が聞き返す。
「広い意味ではね。」
教授は含み笑いを浮かべる。
「文化人類学というのは、机の上だけでは分からない。
人がどこで酒を飲み、何を語り、何を黙るか――そういう場所を見ておく必要がある。」
ヒナタは特に構えた様子もなく頷いた。
三人で研究棟を出る。
昼下がりの西アーカムの街は、相変わらず薄曇りだった。
通りを歩く人々の視線は、確かにヒナタに向けられ、視線を感じてヒナタを庇うように抱き寄せた○○○に次いで視線が向けられる。
以前のような露骨な敵意や恐怖ではない。
噂で語られたのは怪物を口説き、ベッドで仕留めた(意味深)勇者の話。
今は〝色々な意味で強い男〟に皆の視線が集まっているのだ。
ひそひそ声。肘で突き合う仕草。 そして――それだけだ。
教授は通りを一本外れ、裏道へと入った。
看板のない、小さな理髪店。
色褪せたポールが回っているだけで、客の気配はない。
教授は迷いなく扉を開け、中へ入った。
三人が入ると理髪師は一瞬だけ顔を上げ、教授を見るなり何も言わずに視線を戻す。
教授は椅子の横にある棚を特定の順番で二度叩いた。
――カタン。
背後の壁が、静かに開いた。
「……なるほど。」 ○○○が低く呟く。
「私自身、とても気に入っている店だよ。」
教授は平然と言って、先に進む。
地下へ降りる階段の先は、控えめな灯りの酒場だった。
騒がしくはないが、静かでもない。
グラスの触れ合う音、低い笑い声、遠くで鳴るピアノ。
客の何人かがヒナタを見て、隣の○○○が手慣れた手付きでヒナタを庇うように抱き寄せると
視線が○○○に集まり、「おおっ…」と小さく声が上がった。
店主が教授に気づき、軽く顎を引いた。
「お久しぶりで。」
「相変わらず、いい店だ。」
教授はそう言って、カウンター席に腰掛ける。
「今日は同行者がいるんだ。」
店主はヒナタと○○○を一瞥し、何も聞かずにグラスを三つ並べた。
「いつものを?」
「いや、今日は軽めに。」
教授は言った。
「彼らは“初訪問”だからね。」
琥珀色の液体が注がれる。
ヒナタはグラスを手に取り、ゆっくりと香りを確かめた。
「……落ち着きますね、ここ。」
「だろう?」
教授は満足そうに頷く。
「君達の逢瀬にお邪魔してワインとアテを頂くのも悪くないが、ラジオ越しでない演奏を聴きながら一杯やるのも良い物だよ。」
○○○は周囲を見回し、肩の力を抜いた。
「なんというか、最近はヒナタより俺が見られてる気がするんですよね。」
「君が最高に男らしい行いをしたからじゃないかね?」
教授は淡々と言う。
「ちょくちょく君がヒナタ君を周りから庇う姿を見ているからね。」
ヒナタは小さく笑った。
「じゃあ、この街では――」
「当分は安全だろう。」
教授はグラスを掲げる。
「少なくとも、夜に一杯飲める程度にはね。」
三人のグラスが、静かに触れ合った。




