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霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
リメイク版

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17/58

夜に一杯飲める程度には

 映画研究部のスカウトから数日後。


 研究棟の一角にある、教授の個人研究室は相変わらず薄暗かった。

 昼間だというのにカーテンは半分閉められ、薬品と古紙、それにかすかな酒の匂いが混じっている。


 ヒナタと○○○は、呼び出しを受けて机の前に並んでいた。


 教授は椅子に深く腰掛け、湯気の立たないコーヒーカップを片手に、二人を眺めている。

 その表情が、やけに楽しそうなのが不穏だった。


「いやあ……この前はお楽しみを邪魔してしまって済まなかったね。」


 第一声が、それだった。


 ○○○は嫌な予感しかしなかった。

 ヒナタもげんなりした顔でこの後何を言われるのか察したようだ。


「何の話ですか?」


 ○○○が慎重に聞き返す。


 教授は机の上に置かれた学内新聞を指先で軽く叩いた。

 一面ではない。だが、学内欄の隅に小さなコラムがある。


「噂だよ、噂。」

「君達二人がね……どうやら“大変に情熱的な夜”を過ごしているらしい。」


 一瞬、空気が止まった。


「……は?」

 ○○○の口から、間の抜けた声が漏れる。


 教授は愉快そうに肩を揺らした。


「いやあ、尾ひれが立つのは早いね。

 “ヒナタ君と恋仲になって一晩中”だの、

 “翌朝まで部屋からベッドの軋む音が聞こえた”だの、

 “朝になってもヤリ抜いた勇者がいる”だの。」


 ヒナタが頭を抱えた。


「そんなに僕達って有名だったんですか?」

 呆れきった声だった。


「さて?」

 教授はすっとぼける。

「私はただ噂を聞いただけでね。聞いたままをそのまま言ってるだけだ。」


 ○○○は頭を抱えた。


「否定して……くれる訳ないですよね。」

「よく分かってるじゃないか。」


 教授は頷いた。


「面白い仮説を、わざわざ潰す必要があるかね?」


 ヒナタが小さく息を吐いた。


「教授、やっぱり面白がってますよね。」

「もちろん。」


 即答だった。


「君達のおかげでね、

 “日本人=人に擬態する怪物”という単純な図式が崩れつつある。

 人とコミュニケーションが取れて、愛もあるし、恋もするとわかったのだろう。

 これは実に健全な流れだよ。」


 ○○○は納得しかけて、しかし渋い顔をする。


「その代償が、俺達の名誉ってわけですか。」

「名誉じゃないか。」


 教授は笑う。


「少なくとも、石は飛んでこない。」


 それは事実だった。


 ヒナタは少し考え、肩をすくめた。


「買い物は楽になりました。」

「だろう?」


 教授は満足そうに頷く。


「君が“恐ろしい怪物”ではなく、“噂の相手役”として認識されるなら、それでいい。」


 ○○○はちらりとヒナタを見る。


「……否定しなくて、いいのか?」

「否定しきれない事実があるからね。」


 ヒナタはさらっと言った。


 教授が、くつくつと喉を鳴らして笑う。


「いやあ、若いというのは素晴らしい。

 さて──」


 教授は机の引き出しから、掌に収まる小さな瓶を二つ取り出した。

 琥珀色の液体が揺れている。


「噂話のお礼だ。

 隠し安いようにミニチュアボトルにしたよ。」


 ヒナタの目が、わずかに細まる。


「……度数は?」

「普通のウイスキーだよ。

 少なくとも、ケダモノになるほどではない。」


 ○○○は即座に手を引っ込めた。


「俺は遠慮します。」

「冗談だよ。」


 教授は笑いながらヒナタに瓶を渡す。


「今後も噂は増えるだろう。

 だが、そう悪い事にはならない筈だよ。」


 教授は意味ありげに微笑んだ。


「逞しい勇者に悪い印象を持つ人はそういない筈だ。」


 研究室を出た後、廊下を歩きながら、○○○は小さく呟いた。


「……遅れて当たったな。」

「何が?」

「噂がとんでもない事になるって予想。」


 ヒナタは瓶を軽く振り、気にした様子もなく答える。


「便利になった分、安いものだよ。」


 その数日後、○○○の服の下には触手でしがみつかれた跡がある、日本人が女性化するのは伴侶と決めた相手の前だけ等、更に噂がエスカレートして行き、街中でヒナタが敵視される事が少なくなっていった。



---


 それから、さらに数日後。


 午後の講義が終わり、研究棟の廊下が静まり返る頃。

 ヒナタと○○○は、教授に呼び止められていた。


「今日は少し時間はあるかね?」


 教授はコートを羽織りながら、何気ない調子で言った。


「一緒に街に出ないかね?」

「……研究ですか?」


 ○○○が聞き返す。


「広い意味ではね。」


 教授は含み笑いを浮かべる。


「文化人類学というのは、机の上だけでは分からない。

 人がどこで酒を飲み、何を語り、何を黙るか――そういう場所を見ておく必要がある。」


 ヒナタは特に構えた様子もなく頷いた。


 三人で研究棟を出る。


 昼下がりの西アーカムの街は、相変わらず薄曇りだった。

 通りを歩く人々の視線は、確かにヒナタに向けられ、視線を感じてヒナタを庇うように抱き寄せた○○○に次いで視線が向けられる。

 以前のような露骨な敵意や恐怖ではない。

 噂で語られたのは怪物を口説き、ベッドで仕留めた(意味深)勇者の話。

 今は〝色々な意味で強い男〟に皆の視線が集まっているのだ。


 ひそひそ声。肘で突き合う仕草。 そして――それだけだ。


 教授は通りを一本外れ、裏道へと入った。


 看板のない、小さな理髪店。

 色褪せたポールが回っているだけで、客の気配はない。


 教授は迷いなく扉を開け、中へ入った。

 三人が入ると理髪師は一瞬だけ顔を上げ、教授を見るなり何も言わずに視線を戻す。


 教授は椅子の横にある棚を特定の順番で二度叩いた。


 ――カタン。


 背後の壁が、静かに開いた。


「……なるほど。」  ○○○が低く呟く。


「私自身、とても気に入っている店だよ。」


 教授は平然と言って、先に進む。

地下へ降りる階段の先は、控えめな灯りの酒場だった。

 騒がしくはないが、静かでもない。

 グラスの触れ合う音、低い笑い声、遠くで鳴るピアノ。


 客の何人かがヒナタを見て、隣の○○○が手慣れた手付きでヒナタを庇うように抱き寄せると

 視線が○○○に集まり、「おおっ…」と小さく声が上がった。


 店主が教授に気づき、軽く顎を引いた。


「お久しぶりで。」

「相変わらず、いい店だ。」


 教授はそう言って、カウンター席に腰掛ける。


「今日は同行者がいるんだ。」


 店主はヒナタと○○○を一瞥し、何も聞かずにグラスを三つ並べた。


「いつものを?」

「いや、今日は軽めに。」


 教授は言った。


「彼らは“初訪問”だからね。」


 琥珀色の液体が注がれる。

 ヒナタはグラスを手に取り、ゆっくりと香りを確かめた。


「……落ち着きますね、ここ。」

「だろう?」


 教授は満足そうに頷く。


「君達の逢瀬にお邪魔してワインとアテを頂くのも悪くないが、ラジオ越しでない演奏を聴きながら一杯やるのも良い物だよ。」


 ○○○は周囲を見回し、肩の力を抜いた。


「なんというか、最近はヒナタより俺が見られてる気がするんですよね。」

「君が最高に男らしい行いをしたからじゃないかね?」


 教授は淡々と言う。


「ちょくちょく君がヒナタ君を周りから庇う姿を見ているからね。」


 ヒナタは小さく笑った。


「じゃあ、この街では――」

「当分は安全だろう。」


 教授はグラスを掲げる。


「少なくとも、夜に一杯飲める程度にはね。」


 三人のグラスが、静かに触れ合った。

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