バーベキューと夜の星
「鮭と熊とヘラジカと」の前のお話です。
アーカムの街角、霧のかかった裏通りを抜けた先に、その店はある。
看板には「HURST & KELLEY FIREARMS」の文字が、くすんだ真鍮のプレートに浮かんでいた。
○○○とヒナタが店に入ると、鼻を刺す金属油の匂いと、静かなカチャリという金具音が出迎える。
壁にはライフルやショットガンが並び、カウンター内のガラスケースには拳銃がずらりと並ぶ。
「――いらっしゃい。おや、大学の坊っちゃんか。……今日は?」
革のエプロンを巻いた店主は、顔を上げて軽く顎をしゃくった。
「ちょっと物騒な用心のために、強めのヤツを見に来た。……威力重視で頼む」
「……ふん。ようやく気づいたか。“あれ”を見てから来る客が最近増えててな。あんたもか?」
「……まぁ」
○○○が曖昧に頷くと、隣でヒナタが興味津々に展示棚を見つめる。
ガラス越しに、黒光りするトリプルロックを見つめる瞳がきらきらしていた。
「それ、かっこいいな。……この部分が“棘”みたいに尖っててさ」
店主が顔をしかめた。
「こら坊主、見るだけでも指紋がつくんだ。そっちはこっちが出すまで触れちゃいけねえ」
「ごめん、見るだけにしとく。興味あるだけだから」
店主はヒナタの姿をしばらく眺めてから、低く呟く。
「……気持ちはわかるが、坊主にはまだ早い。こういうモンは、“撃たなきゃならん”時が来てからでいい。な?」
ヒナタは素直に頷き、「わかった」とだけ言った。
店の扉がチリンと小さく鳴り、二人の視線が入り口へ向かった。
「……やっているかね?」
入ってきたのは、見覚えのある長身の男――教授だった。いつもの整った服装こそそのままだったが、目元には隠しきれない隈が浮かび、顔色もいつになく青白い。手にした革の手帳が小さく震えているようにも見えた。
教授は○○○と目が合うと、ぎこちなく笑みを作った。
「ああ、君たちも……同じ理由でここに?」
その声には、普段の快活な調子がまるでなく、疲れきった人間のため息のようだった。
「教授? どうしたんですか、その顔色……」
教授はゆっくり頭を振りながら、小さく呟いた。
「……少し、悪夢を見る機会がありましてね。だが、いえ、もう夢では片付けられないようだ。あれは……ああ、本当に酷い夜だった……」
店主が教授に近づき、神妙な顔で問いかける。
「旦那も見たのか? あの“何か”を」
教授はゆっくりと顔を上げ、ぼんやりとした視線を店主に向けた。
「……何か? ああ、見ましたとも。“あれ”は人が書くべきではないし、語るべきでもない。世の中には、文字にしてはいけないものがある……いや、そもそも存在してはいけないものが」
店主は一瞬黙り込むと、短く頷き、カウンターの奥から黒光りする銃を取り出して教授の前に置いた。
「なら話が早い。学者先生、理屈を並べるのは後だ。これを持ちな」
教授がその銃をじっと見つめる。
「……これは?」
「スミス&ウェッソンのトリプルロック。弾は.44スペシャル、馬鹿でかい弾丸だ。人間に撃つには勿体ねぇ代物だが、アーカムで相手するようなモノにゃちょうどいい。小細工は要らん、まず威力だ」
教授はしばらく迷ったようにしてから、ようやく小さく頷いた。
「確かに、説得力のある大きさですね。ええ、理屈ではなく本能が理解しますよ……」
教授が銃を手にしたとき、再び扉が開いた。
「――よう、先客か?」
店に入ってきたのは、あの密造業者だった。山育ちの鍛えられた体躯は、街にいてもどこか浮いて見える。彼は○○○と教授に気づくと、軽く手を挙げた。
「おお、兄ちゃんたちも護身の相談かい?」
○○○が軽く頷くと、業者は豪快に笑った。
「俺も同じだ。あの夜のことを思い出すと、どうも夜中に目が覚めちまっていけねぇ。今度は撃ち尽くす前に自分で作る方が早いってな」
店主が小さく笑みを浮かべ、カウンターの下から紙袋を取り出した。
「旦那には特別製の.405口径のライフル弾と火薬、それと雷管だ。これなら象でも仕留められる。森の中であんたが見たものが何か知らんが、これで効かなきゃ諦めろ」
業者は袋を受け取ると、にやりと口角を上げた。
「安心したぜ。正直、あの夜に見た“獣ども”を象に例えるってのは、店主も見くびりすぎてるかもしれねぇがな」
店主はそれを聞いて肩をすくめた。
「まったくだ。最近は俺も“普通”の銃が何か忘れちまいそうだ」
一同が沈黙に包まれる中、ヒナタが静かに展示された銃を眺めていた。
業者は煙草を咥えたまま、ちらりと教授の顔を見た。
いつもは饒舌なその男が、今日は明らかに無言のまま銃を見つめている。
目の奥に、言葉にしづらい“何か”がこびりついているのが見てとれた。
「……先生」
不意に呼びかけられ、教授が顔を上げる。
「見ちまったんだろ。おれたちと同じで――バケモノをよ」
教授は一瞬言葉を飲み込んだが、やがてごく小さく頷いた。
「あれは……なんというか、“理屈の通じない存在”でした。理性で整理しようとすると、崩れてくる」
業者は煙を吐き出しながら、低く笑った。
「だろうな。おれも、あの夜を思い出すと今でも夢見が悪い。
だがな――そういうときにゃ、酒と肉だ」
○○○が顔を上げる。
「……肉?」
「そう。火を焚いて、でかい塊の肉を串に刺して焼いて、しこたま飲む。
それだけで、頭の中に巣食った“あいつら”が、煙になって出てってくれる」
教授が思わず苦笑する。
「それはずいぶん、実践的な治療法ですね」
「効きゃあ、それでいいのさ。
どうせ今のご時世、表じゃ飲めねえだろ? じゃあ、山の奥でこっそりやりゃあいい。
ちょうど昨日、豚を一頭丸ごと手に入れてな。肉屋の裏で“まだ動いてる”のを買ってきた」
○○○とヒナタが目を見開く。
「豚一頭!?」
「ちゃんと解体も済んでる。焼き台はある、炭もある。あとは人数と、飲み相手さ。
――どうだい、先生も来なよ。坊主と学生も一緒に。肉と酒の煙にまみれりゃ、ちっとは現実が戻ってくる」
ヒナタが「肉はいいね」と嬉しそうに頷いた。
教授は数秒だけ考えてから、ようやく肩の力を抜いたように笑った。
「では、お言葉に甘えて。焼き豚に癒される文化人類学者というのも悪くない」
数日後の夕暮れ、アーカム郊外の森の奥。
密造業者の山小屋の裏手には、丸太とブロックで組まれた即席の焚き火台が設置され、その上には鉄の串に貫かれた豚一頭分の肉塊が、炭火の熱をゆっくりと受けていた。
皮付きの胴体がゆっくりと回され、脂が炭に落ちてパチパチと音を立てるたびに、あたりに香ばしい匂いが漂う。
密造業者が手製の柄の長いフックを使って肉の表面を丁寧に確認しながら、時折ナイフで余分な焦げを削いでいた。
「……どうだ。豚一頭の丸焼きなんてそうそうやらねぇぞ。火加減ひとつで味が天と地だからな」
○○○は木箱の上に腰をかけ、じっと肉を見つめながら呟いた。
「……これ、パーティーっていうか、儀式みたいなもんだな」
隣に座ったヒナタが、煙に目を細めながら口を開いた。
「うん。火の匂いと、肉の音と、焦げる脂のにおい――どれかが強くなると、余計なこと考えられなくなるよね。……こういうの、好きだよ」
○○○が目を丸くした。
「なんだよ、急に詩人みたいなこと言って……」
「違うよ。美味しそうってこと」
ヒナタがにっこり笑う。火に照らされた顔は、どこか子供のようにも見えた。
その頃、遅れてやって来た教授が、煙にむせながら焚き火の輪に加わる。
服装こそいつものままだが、以前よりいくぶん気が抜けたような様子で、手にした瓶詰めグラスに酒を注いでいた。
「……これはまた、本格的な“バーベキュー”ですね」
業者が串を回しながら振り返る。
「先生、遅ぇぞ。いい感じに焼けてきたところだ」
「道に迷いまして。煙の匂いでなんとか辿り着きましたよ」
「だったらちょうどいい。肉が焼けたら、それが道標だ」
業者が豚の脇腹をナイフで削ぎ取り、皿代わりの木板に乗せて教授へ差し出す。
教授はそれをじっと見つめたあと、無言で一口齧った。
パリッとした皮の下から、ジューシーな肉と溶けた脂が舌を打つ。
少し遅れて胡椒と塩の刺激が追ってきて、口の中に広がる。
教授は少し驚いたように目を見開き、やがて小さく笑った。
「……これはすごいな。焼けた脂が、妙な考えごとを全部どかしてくれる。
……なんというか、胃の方が“今を大事にしろ”と主張してくる感じだ」
「そりゃいい表現だ。頭で考えるのやめさせたいときは、まず腹から攻めるのが一番よ」
ヒナタはすでに二串目の肉に取りかかっていた。口元に脂が光っている。
「美味しい…」
夜の帳が降り、森には虫の音と風のざわめきだけが残っていた。
焚き火は、肉を焼く勢いを終えて、静かに赤い炭火へと姿を変えている。
密造業者は片手に酒瓶を抱えたまま、寝袋の上でゴロンと横になって空を仰いでいた。
「満月じゃねぇのが惜しいな……」と呟くその声も、もう酔いに溶けかかっている。
○○○と教授は、火の近くでそれぞれジャケットを羽織り、湯気の立つマグを片手に座っていた。
ヒナタは木の根元で膝を抱え、どこか遠くを見つめていた。
しばらく誰も口を開かなかった。
静けさは心地よく、何かを語らなければならないという義務からも解放される。
そんな中、教授がマグを置いて小さく笑った。
「……あのとき、銃を手にしてから、初めて自分が“恐れていた”と自覚したんだ。
知ってしまえば、多少は強くなれると思っていたのだが――そうではなかった」
○○○は黙って聞いていた。教授が自らそう語るのは珍しい。
「知らなかった方が幸せだった……とまでは思わないがね。
ただ、“見えてしまったもの”が、頭の上にずっと乗っている。
目をそらせば日常に戻れるが、また視界に入ってしまうかもしれない。……それが一番、疲れる」
ヒナタがぽつりと言った。
「でも、それってたぶん――すごいことですよ」
教授が目を細めた。
「……どういう意味かな?」
ヒナタは、火に照らされた頬に微笑みを浮かべながら、言葉を選ぶように話した。
「僕らの国では、“知らないこと”って悪いことじゃないんだ。
見なくて済むなら、見ないで済ませた方がいいって教わる。
でもこっちの人は、知ろうとするし、知ったら向き合おうとする。……それ、すごいことだと思う」
○○○が苦笑しながら割って入る。
「いやいや、俺は向き合いたくなんかないぞ。怖いのは嫌だし、できるなら全部ヒナタに任せたい」
ヒナタがふふっと笑った。
「うん。そう言ってくれる方が、僕も頼られてるって思えてうれしいよ」
火の粉がひとつ、ぱちりと弾けて空へ舞い上がった。
教授はそれを見送りながら、静かに呟いた。
「……なんだか今夜は、よく眠れそうな気がするよ」
密造業者が寝袋の方からぼそっとぼやいた。
「ぐだぐだ言う前に、もう寝ちまえってんだ……うるせぇ教授だぜ、まったく……」
ヒナタは笑い、○○○もつられて笑った。
森は深い闇に包まれていたが、火のそばだけは、ほんのりと暖かかった。




