表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
霧の街のヒナタ  作者: 下駄ロボ
プロトタイプ版

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/59

番外編 酔いどれ作家と大学教授

私はいつものように、スピークイージー「ベローズ・ホール」の薄暗い店内にいた。

オーク材のカウンターが琥珀色のランプに照らされ、秘密めいた囁き声と酒の匂いが混ざり合う、この隠れ家のような場所を、私は心底気に入っている。

いつもの席に腰を下ろし、慣れた手つきで酒と共に、お気に入りのアテであるパテを注文した。

一口パテを口に運び、私は僅かに眉を上げた。これは、いつものパテではない。

以前にも増して風味豊かになり、どこか癖になるような独特の深みが加わっているように感じられたのだ。

肉の旨みが凝縮され、ハーブの香りが絶妙なバランスで溶け込んでいる。それは、伝統的なパテの範疇を逸脱しない、しかし確かに作り手の個性が光る一品だった。

私は、この味の変化に即座に反応した。長年、様々な土地で様々な料理を口にしてきた経験が、この微細な変化を鋭敏に捉えたのだ。

「マスター、今日のパテはいつもと違うな。腕を上げたのかね?」

私はグラスを傾けながら尋ねた。グラスの中で琥珀色の液体が揺れ、店のランプの光を反射していた。

カウンターの向こうでグラスを磨いていたマスターが、にやりと笑う。

彼の顔には、どこか悪戯っぽい光が宿っていた。

「ええ、教授。最近、ツマミ作りを手伝っている妙なバイトがいましてね。あれはあいつの仕業ですな」

「妙なバイト?」

私は興味をそそられた。私の探求心は、常に未知の領域へと向かう。料理の分野とて例外ではない。

「一体、どんなものを作っているんだ?」

マスターは肩をすくめ、愉快そうに口を開いた。

「パテとかのちょいと手間のかかるやつを作ってますよ。婆ちゃんより美味いものをお出しされてしめたと思ったんですがね。

相場がわからないからタダ酒で釣って買い叩けると思ったら、一緒に来た○○○の奴が間に入って相場よりちょい高めの買値になっちまいまして。

○○○の言う通り、ツマミ目当てで客が増えたから問題ないんですがね。あの坊主もやるもんですよ」

マスターの言葉に、私の脳裏に一人の学生の顔が浮かんだ。そして、ヒナタの横にいつもいる、あの真面目な顔の○○○の姿も。

「まさか、あのヒナタ君が?」

私は驚きを隠せない。あの日本からの留学生、ヒナタ・ナガエが、この秘密の酒場でツマミ作りをしているというのか?

ヒナタは料理の腕は確かだが、時に“こちら側の常識”を知らない部分があった。

しかし、○○○が間に入り、相場に見合った正当な報酬を得ながら、真っ当な食材を使い、アメリカでも一般的な料理を、保存の効く形で提供しているとは、想像もつかなかった。

彼の奇妙な食の嗜好を知る私としては、その意外性に、私の好奇心は否応なく刺激された。

「どんなものを作っているのか、ぜひ見せてもらいたいものだね」

私の胸には、単なる料理への興味だけではない、ヒナタという特異な存在が、この日常的な場所でどのように溶け込んでいるのかという、学術的な関心も湧き上がっていた。


---


ヒナタがベローズ・ホールでツマミを卸しているという、意外な事実に驚きつつも、私は店内を見回した。

ジャズの演奏が流れ、煙草の香りが立ち込める空間の片隅に、一人の若い男がいた。

小説家志望らしい風体で、色黒の肌は不健康なほど白い。

彼はテーブルに突っ伏すようにして、ヤケ酒を呷っていた。

ブツブツと何かを呟き、手に持ったノートには乱暴な筆跡で文字が書き殴られている。

私は男の様子に興味を惹かれ、マスターに視線を送った。

マスターは困ったように首を振る。

「あいつ、最近ずっとあんな調子で困ってるんです。スランプだかなんだか知りませんが、毎晩泥妙なことを口走るもので」

私は静かに頷き、男の隣の空席に腰を下ろした。グラスに残った酒を飲み干し、新しい酒を頼むと、男に優しく声をかけた。

「悩みがあるなら、話してみたまえ。酒を飲むより、誰かに聞かれる方が気が楽になることもある」

私の専門は人類学、そして歴史学だ。人の営み、そしてその背後にある物語には、常に強い関心がある。

この男の口から、どんな物語が紡ぎ出されるのか。

男は顔を上げないまま、重たい声で語り始めた。声には諦めと苦悩がにじんでいた。

「小説が、書けないんですよ……いくら書き進めても、同じような結末にしかならない。編集者からは新しいものを求められるが、どうにも筆が進まないんです」

男は、自分の作品がワンパターンになってしまう苦悩を吐露する。

創造性の枯渇、周囲からのプレッシャー。それは、凡庸な作家が抱える普遍的な苦しみのように聞こえた。

しかし、彼の言葉の端々には、奇妙な響きが混じっていた。

「結局、俺が書くのはいつだって『深淵を覗く男』の物語ばかりだ。読者はもう飽き飽きしてるだろうに……」

「次の作品では、もっと人間的なテーマを、と言われるんだが……人間って、なんでこんなに狭い世界で生きているんだろうな」

「世界?」

私は問い返した。この言葉の使われ方に、私は微かな違和感を覚えた。

単なる比喩ではない、何か具体的なものを指し示すかのような響き。

男はグラスを掴む手に力を込める。

「俺の世界は、もっと広いはずなんだ。もっと、豊饒で、複雑で、想像を絶する……なのに、それがこの小さなノートの中に閉じ込められている。俺は、その世界の理を、形を、言葉にすることしかできないんだ」

彼の語る「小説」や「設定」といった言葉の中には、私の専門に関わる聞き覚えのあるものがいくつもあった。

一人の小説家が取材できる内容としては多すぎる上に、自身で考えた設定というにはあまりにも私の知る“それ”と合致しすぎている。

私の中の学術的な好奇心が、ざわつき始めるのを感じた。これは、ただの酔っぱらいの戯言ではない。

何か、本質的なものが隠されている。

私は静かに耳を傾け、男の一言一句を聞き漏らすまいと神経を集中させた。


---


店内のジャズは相変わらず穏やかに流れ、客たちの話し声やグラスの触れ合う音も、いつもの喧騒としてそこにあった。

誰も、このテーブルで交わされている密やかな会話に気にも留めていないようだった。

男はさらに酒を煽り、深い闇色の瞳を濁らせていく。その酔いは、彼の中に秘められた核心的な秘密を露わにし始めた。

その表情は苦悩に満ち、まるで何かから解放されたいと願っているかのようだった。

「スランプで、集中できてなかったんだ……だから、間違えたんだよ。アザトース様に見せる夢の設定を……」

男は、まるで独り言のように呟いた。

その声は、深淵の底から響くかのようにかすれ、店内のざわめきに吸い込まれてしまいそうだった。

彼の瞳は虚空を睨み、後悔と焦燥がそこにはっきりと見て取れた。

「うっかり現実の方に影響が出ちまって……西海岸にもアーカムが生えちゃったんだよ。あんなこと、許されるわけがない……」

彼の言葉は、もはや私にしか聞き取れないほどの、消え入るような声だった。

私は、その言葉に凍り付いた。アザトース。夢。そして、西海岸にも存在するもう一つのアーカム。

酔った男の戯言として聞き流すには、あまりにも具体的で、私の知る神話的な知識と不気味に符合する。

ミスカトニック大学で古文書を読み解き、隠された伝承を研究してきた私にとって、「アザトース」という名は、宇宙の根源に座する盲目的な神々の王を指す、最も忌まわしい概念の一つだ。

そして「夢の設定を間違えた」という言葉は、彼が単なる作家ではなく、現実そのものを「創造」し「改変」する能力を持つ存在であることを示唆していた。

そして何よりも、「《《西海岸にもアーカムが生えちゃった》》」という発言が、私の思考を根底から揺さぶった。

この地名、アーカム。私が教鞭を執るミスカトニック大学も、その名を冠している。

元々、東海岸に位置するここと同名の地名を冠する場所が、偶然にも大学名だけでなく周辺地域の地名まで同じであることに、私は以前から奇妙な符号めいたものを感じていた。

それは単なる偶然の一致としては出来すぎていると、漠然とした違和感を抱いていたのだ。

だが、この男は、その「アーカム」が「書き間違いレベルのミス」で、この世界に、しかも西海岸にも存在するに至ったと宣う。

そんな些細なことで、現実世界に、それも私の知る世界の真実そのものを揺るがしかねないものが、まるでポンと生えてきたかのように現れるだと?

この男の口から語られる言葉の断片は、私が長年培ってきた学問的知識や世界の常識を、何の躊躇もなく打ち砕いていく。

これはただの酔っぱらいの妄言ではない。その言葉の裏には、とてつもない真実が潜んでいる。

私は、この目の前の男が、私とヒナタが足を踏み入れている、あるいは既に巻き込まれている「異質な世界」と深く結びついていることを瞬時に悟った。

いや、それどころか、彼自身がその世界の根幹を成す存在である可能性すら考えられた。

私の心臓が、ドクンと大きく脈打つのを感じた。興奮と、そしてわずかな恐怖が入り混じった感覚だ。

私は冷静を装いながら、男の一言一句を聞き漏らすまいと神経を集中させた。

彼の口から語られる言葉の断片一つ一つが、世界の謎を解く鍵となるかもしれない。


---


男は語り終えると、そのまま泥酔してテーブルに突っ伏し、意識を完全に失ったようだった。その姿は、まるで糸が切れた操り人形のようだった。

あるいは、私が瞬きをした一瞬の間に、その姿はまるで霧のように掻き消えたかのようにも見えた。

彼の言葉の重みが、テーブルにずっしりと横たわっていた。

しかし、周囲の客は、相変わらずグラスを傾け、他愛ない会話を交わしている。

店内の雰囲気はいつもと変わらない。彼らの耳には、男が呟いた「真実」は届いていなかった。

まるで、この場の時間だけが、私とこの男の間で停止していたかのようだった。

私は一人、スピークイージーの喧騒の中で、聞いた話を反芻する。

男の言っていた「アザトース」「夢」「西海岸のアーカム」といった言葉が、私の知る神話的な知識とどのように結びつくのか、私の頭の中で様々な可能性が巡る。

彼の言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも異様だった。

しかし、同時に、長年抱いていた漠然とした疑問の数々が、まるで点と点が線で繋がるかのように、突如として明確な形を帯び始めた。

酔いどれの作家。その正体は、私の頭の中で明確な像を結びつつあった。ニャルラトホテプ――混沌の使者、蠢く混沌、そして千の顔を持つ神。

彼が語った「設定ミス」という言葉は、世界そのものが彼の創造物であり、その創造に誤りが生じたことを意味するのか?

そして、その誤りによって「西海岸にもアーカムが生えた」という言葉は、この世界の裏側に隠された、驚くべき真実を私に突きつけていた。

我々が生きるこの世界は、高次の存在が夢見る、あるいは書き記す「設定」によって形作られているに過ぎないというのか?

そんな、SF小説ですら大胆すぎる設定が、今、目の前で繰り広げられた。

しかし、私の学術的な探求心は、そこで急ブレーキを踏んだ。

ダニッチの件で、私はヨグ=ソトースの仔の悍ましい姿をこの目で見て、その驚異的な力の一端を垣間見た。

ヒナタと協力し、アーミテッジ博士が呪文で対処することで、ようやく事態を収拾したあの時の疲弊と、あの怪物の圧倒的な存在感は、まだ記憶に新しい。

そのダニッチの怪物が、目の前の男の言葉に比べれば、まるで子供の遊びのように思える。

この男が語る「アザトース」や「世界の創造」といったスケールは、私の想像をはるかに超えている。

この男は、私がいままで出会ったどの存在よりも危険だ。彼の口から語られた「真実」は確かに興味をそそる。

しかし、それ以上に、この存在を刺激することは、あまりにも無謀だと直感した。《《彼が深く眠り込んでいる今こそ、そっとこの場を離れるべきだ。》》

探求心は重要だが、生きていなければ何も追求できない。

私はゆっくりと、まるで椅子に固定されたかのように重い体を引きずるようにして立ち上がった。


私はゆっくりと、まるで椅子に固定されたかのように重い体を引きずるようにして立ち上がった。

テーブルの上のグラスに残った酒は、ほとんど手つかずのままだ。

しかし、この途方もない真実を前にして、私はどうしても、もう一杯を必要としていた。

私は残りの酒を迷うことなく一気飲みした。

喉を焼くアルコールの熱が、凍りついた思考を無理やり溶かすかのようだ。

空になったグラスをテーブルに置く。カツン、と乾いた音が、この密やかな告白の残響のように響いた。

この男が意識を完全に失ったこの一瞬こそが、私にとって唯一の好機なのだ。

マスターは、いつものようにカウンターでグラスを磨いている。私と男の間の奇妙な沈黙など、彼にはまるで届いていないかのようだ。

私は目立たないように、しかし迅速に、会計を済ませた。

マスターは顔を上げず、ただ「またどうぞ」とだけ言った。その声は、いつもと変わらない。

私は静かにスピークイージーの重い扉を後にした。

外のアーカムは、相変わらず霧に包まれていて、その薄いヴェールが、私の頭の中の混乱をさらに際立たせるようだった。

この夜、私が聞いた真実は、あまりにも重すぎた。世界が、高次の存在の「書き間違い」によって形作られているという、途方もない事実。

そして、目の前の酔いどれの作家が、その「間違い」を引き起こした存在であるという衝撃。

教授として、探求者として、この真実に背を向けることはできないだろう。

しかし、同時に、これほどの危険な存在に深入りすることは、あまりにも無謀だ。

今回の出来事は、私がこれまでに触れてきた「異質な世界」が、想像を絶するほど広大で、深淵であることを改めて突きつけた。

ヒナタという、奇妙だが友好的な存在との関わりは、私にこの世界の一端を見せてくれた。

だが、今夜出会ったこの男は、その比ではない。ダニッチの件で、ヨグ=ソトースの仔の悍ましさを目の当たりにした私でも、この男の語るスケールには、本能的な恐怖を覚えた。

私は立ち止まり、深く息を吸い込んだ。冷たい霧が肺を満たし、私の頭を冷やしていく。

この世界は、私が知っている以上に、狂気に満ちている。そして、その狂気は、私の足元にまで忍び寄っている。

ベローズ・ホールの重い扉が、背後で静かに閉まる音がした。暗い路地を歩きながら、私は確信する。

これは、私が知る「人類の歴史」の延長線上にある話ではない。

私は、これまでの学問の全てを、一度白紙に戻し、この世界の根源にある真実を、新たな視点から見つめ直す必要がある。

夜霧の中、私はミスカトニック大学へと続く道を歩き始めた。

私の瞳には、恐怖だけではない、新たな探求の炎が静かに揺らめいていた。


ごめんなさい、ずっとアーカムが西海岸にあるものだと思ってました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ