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霧の街、届かぬ日差しのなかで

※この小説内では日本人=神話生物という設定です

アーカムの秋は、どうにも陰気だった。

10月の風が町を抜けると、朝の通学路はまるで川底のような湿った空気に包まれる。

煙突の煙と、河口から立ち昇る霧とが町全体を白く霞ませ、通りの影がどこからどこまで続いているのかも判然としなくなる。


私はこの町の大学、ミスカトニックの文学部に籍を置いていたが、古書と埃の匂いばかりが染みついた講義室より、外の霧の方がよほど生きていると感じられた。

だが、そんな町のなかで、ひときわ“生きている”感じがする人物がいた。

名前をヒナタ・ナガエという。日本からの留学生だ。


初めて話したのは、ヘンリー・ジェイムズの講義の後だった。

廊下でノートを落とした私に、彼(あるいは彼女)は人差し指より細い毛先のような黒髪を伸ばして器用に拾い上げてくれた。

髪が、物を拾った。

その異様な光景を見ても、ヒナタの表情はあくまで自然で、どこか心配そうですらあった。


「大丈夫?ページが折れてるよ」


それが、私とヒナタの始まりだった。


あの髪が風もなく揺れていたのは、見間違いなんかじゃなかった。

ヒナタの髪は、意志をもっていた。

そして、それはこの町の空気よりも、むしろ静かに“異質なもの”を告げていた。


---


それから数週間後のある日、私はヒナタに招かれた。

講義のあと、重く湿った空を仰ぎながら下宿へ向かうと、古い木造の家の戸口に、すでに彼の姿があった。

少し風が吹いたのか、肩まである黒髪がさらりと揺れた。


「今日はね、ターキーとポテト、それにスクワッシュのグリルを用意してる。食べられるものだけ選んでね」


家に上がると、暖かい匂いと共に、一枚の紙が差し出された。

食材リストだった。


● 本日の使用食材:

・ターキー(胸肉)

・スクワッシュ(加熱済)

・ポテト(素揚げ)

・チェダーチーズ

・ゆでハード

※すべて無毒・アメリカ人向け調整済


文字は丁寧で、美しく整っていた。だが、その意味するところがわからず、私は思わず眉をひそめた。


「……冗談きついよ。自分が平気だからって、そこらのキノコを料理に入れたりしないだろ?」


ヒナタは一瞬、ぽかんとした表情になった。目を瞬かせるその様子は演技ではなかった。


「……え? キノコに、死ぬやつがあるの?」


「あるよ。毒キノコって言って、ひと口でおしまいのもある。常識だろ?」


彼はしばらく黙って、リストを見つめた。

まるで今までに見たことのない言葉のように、慎重に。

やがて、静かに呟いた。


「……うちの国ではね、“美味しいかまずいか”の違いしか習わなかった。毒って、味とは無関係なんだね……怖いな、それ」


私は、急に背筋が冷えるのを感じた。

この異邦人は、本当に“こちら側の常識”を知らない。


「OK。わかった。毎回リストを付けてくれ。……誰かを殺す前に気づけて良かったよ」


ヒナタはふっと笑い、頭を軽く下げた。


「ごめんね。私たち、文化のズレには気をつけてるつもりなんだけど……完璧にはなかなかね」


その笑顔は、どこまでも無邪気だった。

悪意のない、だがどこか異なる場所に根を下ろした人の笑顔。


料理が始まった。

鍋が火にかけられ、香ばしい匂いが広がる。

ヒナタは袖をたくし上げ、ゆっくりと調理器具を手に――いや、髪に握らせた。


髪が、スプーンを持っていた。

もう一房の髪はトングを握り、揚げ物を返している。どれも見事な手つきだ。

だが、食材には一切触れない。調理器具を介して、慎重に動作していた。


「……慣れればこっちのほうが便利だよ。片手は空くし、疲れないし。器具越しだから衛生的だしね」


「……いや、見慣れたくないけど、たぶんそのうち慣れるわ。人間って、変なとこで適応するから」


「そうそう。慣れって偉大だよね」


ヒナタの声は穏やかだった。

あの髪が、当たり前のように動くさまは、もう一対の手を持っているようだった。

けれど、どれだけ器用で清潔でも、それが常識外であることに変わりはない。


そして、それを当然のものとしているヒナタとの間には、どうしようもない境界線が引かれていた。


食後、食器を片付けると、ヒナタは古びたノートを持ち出した。

表紙には小さく「夢録」と書かれている。


「夢、記録してるんだ。うちの国では、これ大事な文化だから」


「夢って……日記みたいなもん?」


「そう。でも、夢は“観測”でもある。たまにね、“クズリュウ”が出てくるんだ」


「……クズリュウ?」


「深海に棲む霧の神様。うちでは“起きたい時に起きればいい”って祀られてる。崇めるけど、呼ばない。干渉はしない。でも、夢の中で時々、語ってくる」


彼の語る“クズリュウ”は、どこかで聞いた都市伝説を彷彿とさせた。

だが、ヒナタにとっては、都市伝説でも怪物でもなかった。

彼の世界では、それはあくまで“身近なもの”――まるで季節の風のように、霧のなかに溶けていた。


「……それ、怖くはないの?」


「怖くないよ。海や風みたいなもんだから。来たら逃げる。見えたら備える。それだけのこと」


ヒナタの目は澄んでいた。

私には見えないものを、彼は日常として生きていた。


霧が濃くなるにつれ、私は次第に思い始めていた。


ヒナタ・ナガエは、人間ではないのかもしれない。

だが、それがなんだというのだろう。

彼は、朝は新聞を読み、昼は授業を受け、夜はご飯を作って夢を記録する。

そのどこにも、怪物の影などない。


“異質”は、ただ“異なる”というだけだ。

毒のある料理を悪意なく出してしまうかもしれない。夢で神と話す。髪で器具を握る。

けれど、彼は私の友人だった。

それ以上でも、それ以下でもなかった。


「ヒナタ。君の夢にまた“クズリュウ”が出てきたら、俺にも教えてくれ」


そう告げると、彼は静かに笑った。


「うん。きっと、次は満月の前の夜。霧の匂いに潮が混じる頃だよ。すぐわかる」


その言葉は、まるで予報のようだった。

霧の先にある、まだ見ぬ海からの。


海外からの偏見を元に日本人を自分の解釈で神話生物化させてみました。

この世界では日本人は元々神話生物です。

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