15. 怒涛の恋愛フラグには、気づかない
マナは、食後の紅茶を飲み終えた後で、嬉々としてエスコートし始めるメルギウスの左手を取った。
王宮の廊下に隙間なく敷いてある柔らかな絨毯の上を歩きながら、単純な疑問を口に出す。
「あ。荷物どうしましょう」
「もう運ばせておいたよ」
「うわ、そうですか」
「冬は寒い。寮に留まるなんて、体を壊してしまうよ」
実際、古びた学生寮の個別の部屋には、暖炉がない。他の生徒は皆、王都にあるタウンハウスや領地に帰るのが普通だ。
戻る前の過去でマナは、あまりの寒さに耐えきれず、身分を隠して王都の宿屋で住み込みで働いたことを思い出す。大きな鉢の中に、酒場の暖炉で炊いた薪を分けてもらって、なんとか冬を越した。
そのことを思えば、設備の整った王宮で極寒の季節を過ごせるのは、願ってもない待遇である。
さらに、第四とはいえ王子の婚約者となったマナに用意された部屋は非常に広く、天蓋つきベッドや凝った彫り細工のチェストボード、クロゼットやソファだけでなく、メイドまでつけられているのだ。
「お気遣い、ありがたく存じますわ」
「そういうの、やめてって言っただろう?」
メルギウスの溜息と共に吐き出されたのは、本音だろう。マナは居た堪れない気持ちになり、横に立っているメルギウスの、ブルーグレイの髪色が映える白い頬を見上げる。怒りなのか少し紅潮していて、さらに申し訳なくなった。
「ごめんなさい。でも、わたしには……感謝の言葉を言うしか……何も持ってないから」
マナの緑色の目が潤んだのに気づいたメルギウスがさっと手を振ると、レンゼンがメイドたちの退室を促した。
メルギウスの他は護衛騎士のレンゼンだけが部屋に残り、パタンと扉が閉じられ静寂が漂う。メルギウスはマナをソファへ座らせ、自身も隣に腰掛けた。
「マナ。どうか落ち着いて聞いて欲しい。僕が強引に事を進めたのには訳がある」
マナの口からは、何の言葉も出てこない。今頭の中では、さまざまな思いと記憶が交錯している。
「まず、我が国で精霊と契約をした上級魔法使いは、強制的に魔導師団へ入らされる。サラマンダーのことは、学院での出来事だしダンジョンにも関わることで、秘匿が難しい。だから僕の婚約者ということで、入団を避ける。ここまでは、良い?」
メルギウスが優しく確認すると、マナは黙って頷いた。
「それから、ヘラに詳しく聞いたよ。僕の暗殺を成功させなければ、妹が死ぬ契約だと」
マナは、声は聞こえずとも側にいるはずの闇の精霊に、悪態をつきたくなった。
「ああ、どうか責めないであげて。精霊王の前ではどんな精霊も、無力だ」
「っ、そう、でした」
「うん。ヘラが言うには、マナの契約は、公妾が独断で行ったことだ。だとすると、それがジラルダ皇帝にバレたら非常にまずい」
「独断⁉︎ 陛下の意図を汲んだのではなく、独断だったのですか!」
マナは驚きのあまり叫ぶように言った後で、目の前が真っ暗になる。勝手に友好国の王子へ暗殺者を送り込んだことが明るみに出た瞬間、公妾の一族全員、斬首刑は免れないだろう。魔王に殺される一年後を待つ必要すらない。
「誰かが唆したのかもしれないけれどね。真相を調べて契約を解除するにも、時間稼ぎしないとマナの命が危ない」
「少しでも公妾の立場が危うくなったら、わたしなんて即座に切り捨てられる……」
「その通り」
「じゃあ、ミーナが! 妹がっ」
「忌み子とみなされたのは、君だ。そうではない姫を殺すなど、ジラルダ皇帝はそう簡単に許さないと思うよ。それこそ、信仰を疑われるからね」
メルギウスの言う通りだった。
天の御使の血筋を誇っている皇帝ならば、無実の姫を殺すわけにはいかない。それこそ、言い訳が必要だ。
そこまで理解したマナは、行き場のない感情を消化する術を持たず、愚痴を放つしかできなくなった。
「なるほど裏で絵を描いたのは、皇后陛下ね。ヒステリックな妾を煽りに煽って一族斬首の筋書きを立てるだなんて、完璧すぎる。我が母君は、絶対に敵わない相手に喧嘩売っちゃったんだ。愚かにも程がある」
「すごい考察だね、マナ。僕も同じ考えだよ! つくづく、マナが母親に似なくて良かったって思った。僕の愛しい婚約者殿」
マナは突然振って湧いた婚約者に、深々と頭を下げた。
「メル……ありがとう」
せめてご機嫌を損ねないよう、敬語を使うのだけはやめておこうと心に誓いながら。
★★★
第四王子の婚約者決定のニュースは、すぐに貴族の間へ通達された。国王・王妃から溺愛されている『末っ子王子』へ、年頃の娘を引き合わせようと画策していた貴族たちは、がくりと肩を落とす。
一体どのような令嬢が選ばれたのか。社交シーズンが始まる春まで、知る機会はない。ギリギリと歯軋りをして悔しがることしかできず、鬱憤は溜まる一方だろう。
「あんまり頑張らなくていいんだよ?」
王宮図書室で、マナは王子の婚約者としての知識を身につけるため、自習を始めていた。今日も朝から籠っていて、王国の歴史書を広げるテーブルの向かいにはメルギウスが座り、背後にはレンゼンが付き従っている。
マナは『根暗』『できそこない』『いらない子』と蔑まれてきた自分に、自信の持てるような武器が何ひとつないことに気づいた。母親の愛情はひとかけらも向けられず、最低限のマナー教育を皇宮のメイド長から教わっただけ。
だから、暗殺者として送り込まれてからの学院での授業を、楽しんでいた。
人から知識を与えられるというのは、まるで宝物を分けてもらっているような気持ちだった。
「だって勉強、楽しいんだもん」
本から顔を上げずに話すマナを、メルギウスは愛おしそうに見つめている。当然、その視線の熱さにマナはまったく気づいていない。
「そうか。無理はしないで。わからないことがあったら、いつでも聞いて」
「うん! ありがとう、メル」
背後でレンゼンがまたクッと言いながら目頭を指で押さえたので、マナは顔を上げた。
「レンゼンさん? 今、泣くとこありました?」
「ああいや、健気でとても可愛いと思って」
「あはは。ありがとうございます」
メルギウスが、見たことのない邪悪な表情で護衛騎士を振り返る。
「おいレンゼン。今僕の婚約者に、可愛いって言った?」
「あー……どうかお許しを」
「許さないよ?」
「はあ。王子ともあろうお方が狭量とは、嘆かわしい」
「……なに?」
突然マナの頭上で殺気と殺気がぶつかり始めた。
「ふふっ」
くだらないことで始まった物騒な攻防に、マナは思わず笑ってしまう。
メルギウスもレンゼンも、眉間に皺を寄せてお互いを睨みつけていたのが、気まずくなってきたようだ。
「レンゼンのせいで笑われたじゃないか」
「私のせいにするだなんて、大人げないですね」
ぶちぶち始まった口喧嘩がいよいよ鬱陶しくなってきたマナが、今度は頬を膨らませる。
「これ以上邪魔するなら、さすがに怒りますよ」
「ごめん、マナ」
「すまない」
再び本に目を落とし、真剣に勉強するマナを、男二人は落ち着きなく見守っている。
やはり熱い目線を向けているが、本人には届いていない。そこへ――
「やあやあ、サラマンダーと契約したって子は、君かな?」
くるぶし丈の黒ローブを着た男性が入ってきた。長い紫の髪を垂らし、ライトグレーの目は大きく輝いている。右目の下に泣きぼくろがあり、右耳の大きな耳飾りの他、手首にもジャラジャラとバングルを着けていた。背後には、同じようにくるぶし丈の黒ローブでフードを目深に被った男性が二名付き従っている。
王宮図書室へ堂々入って来られる身分ということは高位貴族、さらに先頭の彼の黒ローブの胸には、燦然と輝く金色の階級章があった。間違いなくランクS魔法使いの証だ。背後の二人は、白色階級章。つまりランクBである。
「何の用だ、エリゼオ」
メルギウスが剣呑な雰囲気で彼の名を呼ぶと、
「第四王子の婚約者殿にお目通りをと思っただけだよ」
明るく答えた。
「魔導師団長自ら? ご苦労なことだな」
メルギウスの発言で、マナは慌てて椅子から立ち上がり、黒ローブの裾を持つようにして簡易のカーテシーをする。
「マナ・ロカ……ンクールと申します」
かろうじて家名を言い切ったマナが、やはりちゃんと練習しなければと心の中で反省していると、魔導師団長はどんどんマナへ近づいてきて言った。
「魔導師団長のエリゼオだよ。よろしくね、マナ嬢。早速だけど、サラマンダー出してくれる?」
ニコニコと笑顔で圧をかけてくるエリゼオは、マナが戸惑っているのもお構いなしに、間近へ迫った。
「えっと」
「エリゼオ。無礼だぞ」
すかさずメルギウスが前に立ち塞がり、マナを背中に庇うと、エリゼオはわざとらしく肩を竦ませた。
「魔導師団長として確認するの、無礼でもなんでもないでしょ」
「だとしても、いきなり現れて」
拗れては良くない、とマナは二人のやりとりを毅然と遮る。
「良いのです、殿下。お気遣い、ありがたく存じますわ」
「マナ……」
メルギウスの背中から出て、再びエリゼオの目の前に全身を晒したマナは、あえて貴族令嬢としての振る舞いを貫いた。
「ですがエリゼオ様。こちらは図書室です。火の精霊のいたずらで本を焼いてしまっては、大変です。他の場所でお願いできませんか?」
「わあ。すごい。ボクのこと恐れず意見言う子、初めて! 気に入っちゃった!」
「え?」
メルギウスの肩を手で雑に押し除けながら、エリゼオはマナの鼻先に自分の鼻先が触れるぐらい、顔を近づける。
「第四王子じゃなくて、第三王子にしない⁉︎」
「あの、なにがです?」
「婚約者。ボクにしない?」
マナは驚きのあまり、ビョン! と飛び上がった。
その隣で、メルギウスがもう我慢できないとばかりに叫ぶ。
「いい加減にしてください、兄上!」
「兄、上……?」
マナは、苦々しい顔のメルギウスを仰ぎ見て、それからその肩越しにむっつりしているレンゼンを確認し――
「うええええええ⁉︎」
動揺のあまり変な声を吐き出し、床にへたり込んだ。