11. 何かがおかしい
ヒョオオ、と耳鳴りがするくらいの冷たい風が、足元から上ってくる。
底の見えない断崖を前に、マナは動揺していた。
「え、ちょっと待って、ここ学院だよね⁉︎」
「そうだよ〜」
「これ、初級ダンジョンだよね⁉︎」
「そうだね〜」
のんびりしたメルギウスの受け答えに若干イライラし始めたマナは、思わず隣に立っている横顔を睨んだ。
「メル⁉︎」
「うん。きっとこの岩とかの様子を見るに、土魔法で橋を作ればいいんだろうけど」
メルギウスは口角を上げっぱなしで首を巡らせ、周囲の様子を観察している。
「……もしかして、楽しんでる?」
「あは。バレた」
マナは咄嗟に頭を抱える。誰がどうみても異常事態だが、精霊王と契約があるメルギウスならばどうということもないのかもしれない。だが、その力が広まることがあってはならない。この事態をどうしたら穏便に済ますことができるのか、慎重に行動しなければとマナが悩んでいると――
「うーん。これはどうこう言っている場合じゃないかもね」
メルギウスの声のトーンが下がったと同時に、ふわりと頬を熱が撫でる。強大な魔力だ、と一瞬で察知した二人は何も言わずとも同時に土魔法を唱えていた。
マナとメルギウスが前に突き出す両手の先、空中に黄色の巨大な魔法陣が二つ現れると、ガラガラと音を立てて、向こう岸の崖の壁側面から岩の手が生えてくる。足元からも同じように岩の手が伸びていき、中心でガッチリと繋がった。
「よし急ごう」
「うんっ」
マナの記憶では、この試験は、四属性基礎魔法を使ってクリアする。入口の扉は風、崖は土ときて、次は火のはずだ。
前方へ走り出すと、先ほど感じた熱い魔力が、ヒリヒリと肌を焼くように強くなってくる。
『あらあ〜珍しいのがいるみたいよ〜』
「ヘラ⁉︎」
『危なそうだから、出てきてあげたわよ。感謝しなさいね』
相変わらず露出度の高い黒のドレスに身を包んだヘラが、上空をふわふわ飛んでいる。灯りのほとんどない洞窟の中でも、体がぼんやり光って見えるのは、闇の精霊の魔力だ。
妖艶に唇を歪めながら、マナたちが向かっている先を見つめている。
「やっぱり! 何かいるのね!」
「しっ」
マナの動揺を、メルギウスが冷静に諌める。
断崖を超えて走った先には、『しけった松明に魔法で火を点ける』火魔法の試験がある。物理的には不可能だが、しっかりと火魔法を操ることができれば問題ない、基礎魔法の試験だ。ただ、この松明には仕掛けがしてあり、芯は非常によく燃える。
最後の水魔法の試験では、この松明を使って真っ暗闇を照らしながら、水車を探す。
風魔法でプロペラを回した入口扉のように、二人で力を合わせて水路に水を大量に流し込んで水車を回し、出口の扉を開けるのだ。
砂や石で不安定な岩の地面を懸命に走る二人の息遣いが、薄暗い洞窟の壁にこだまする。
ビリビリと頬を打つ魔力の波動と、息切れと、跳ねる心臓。
風と温度と音が、マナの不安をじわじわと煽っていく。
「マナ。大丈夫だよ。だってこれ試験だよ?」
楽観的なメルギウスの慰めは、マナにとって何の助けにもならない。
(おかしい。わたしの記憶と違う。なんで? わたしが、ペアを変えたから……未来が、変わった?)
思い当たるのは、自分の行動が過去と違うことだ。――ということは。
(もしかして、メルが魔王になるのも、止められる……?)
ハッと思いついて顔を上げると、いきなりメルギウスの足が止まった。十人ほど並んでも余裕があるぐらいの円形の広場の真ん中、目線の先には半円にくり抜かれたような通路の入口が見えている。その通路の入る直前の壁に太い松明が二本、岩肌に刺さるようにして置いてあるのは、マナの記憶と同じだ。だが違うのは、その二本が既に、煌々と燃えているのだ。
「変だな。次は火の試験だと思ったんだけど」
広場の中央で、メルギウスはキョロキョロと首を巡らせ、天井を仰ぎ見る。薄暗い洞窟内だが、松明のお陰でよく見えた。茶褐色の岩肌に囲まれている以外、何もない。気配も、感じられない。
マナも、疑問を口に出す。
「さっき感じたのは、なんだったんだろう?」
『油断しないで』
ところが、珍しく姿を現したままのヘラが警告を発した。
二人が素直に警戒態勢を取り静かにしていると、やがてどこからか空気音のようなものが聞こえてくる。
しゅうううー
しゅうううー
「メル!」
「ああ、聞こえた。何かいるね」
ひたひた
ひたひた
「っ」
息を呑むマナを、メルギウスは咄嗟に背後へ庇うよう前へ一歩出た。
『はあ。ヤバい奴のお出ましだわ』
メルギウスと肩を並べたヘラが、呆れた声で放った。
「「ヤバい奴?」」
マナとメルギウスが揃って尋ねると同時に、ぶわりと放たれた熱波が、襲った。
『……空気よ、歪め。我らを災禍から逸らせ』
ヘラの闇魔法で歪められた空気が、赤々と燃えながら目の前で炎の渦を巻いている。
「あっつ!」
思わず叫んだマナを軽く振り返ったメルギウスが、今までで一番緊迫した声を出した。
「ヘラの言う通りだ。珍しいのが出てきたよ。火の精霊サラマンダー」
「サラマンダー?」
「ああ。別名、火とかげ」
メルギウスが言い終わるか終わらないかのタイミングで、マナが肩口からひょこりと顔を出すようにして前方を見ると、燃え盛る赤い鱗に覆われた巨大な竜のような生き物が広場の出口に立ち塞がっていた。
四本足で地面を踏みしめ、長い尾と背には硬そうなヒレがびっしり生え、真っ赤な眼球の中にある黒目がこちらを睨み、さらに口角からは絶え間なく炎が漏れ出している。びっしりと尖った歯の生えた長い口蓋が、はるか上方から見下ろしていた。
「とかげ? あれが? 翼のない竜じゃん!」
「あっはっは。そうだね、あんなに大きいんだね。絵でしか見たことないから、知らなかったなあ」
「ちょっと、メル⁉︎ どうするの、あんなの!」
「うーん。初級ダンジョンに精霊が住んでるのは聞いてたけど、出てくるとは聞いてない」
「住んでる? 奴が、主ってこと⁉︎」
マナが驚きの声を上げると、サラマンダーが喋った。
『うむ。オラがここのアルジだ」
――渾身の、ドヤ顔で。