# 第1章「静かな日常の裂け目」
「また、ここにいたの?」
窓から差し込む夕陽が、本棚の影を床に長く伸ばしていた。まるで、誰かの指が私を指しているみたいに。
私――星野雫は、読みかけの本から目を離し、声の主を見上げた。その瞬間、司書の先生の目が、一瞬だけ紫色に輝いたような...?
私――星野雫は、読みかけの本から目を離し、声の主を見上げた。いつもの司書の先生だ。灰色の髪をきちんとまとめた中年の女性は、いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべている。
「はい...」
小さな声で答えると、先生は静かに頷いた。
「もうすぐ下校時刻よ。今日も素敵な本と出会えた?」
「えっと...」
手元の本を見つめ直す。『感情とは何か』という少し難しそうな題名の本だった。実は、内容はほとんど頭に入っていない。ここ最近、妙な違和感に悩まされていて、その答えを探していたのだ。
「難しい本ね」
先生は本の背表紙を覗き込んで、少し驚いたような表情を見せた。
「雫ちゃんらしくないわ。いつもは物語を読んでいるのに」
確かにその通りだ。普段なら、ファンタジーや恋愛小説を読んでいる。現実から少しでも遠ざかりたくて、物語の世界に逃げ込むように。
「なんだか...最近...」
言葉を濁す私の様子に、先生は心配そうな目を向けた。
「体調でも悪いの?」
「いえ、その...」
説明しようがない。だって、誰かの感情が突然流れ込んでくるなんて、誰が信じてくれるだろう。
先週から、時々起こるようになった。誰かが強い感情を抱いた時、それが私の中に流れ込んでくるような感覚。最初は気のせいだと思った。でも、昨日も今日も、確かにそれは起きている。
「大丈夫です」
結局、いつも通りの返事をする。先生は少し心配そうな顔をしたまま、優しく微笑んだ。
「そう...でも、無理はしないでね」
先生が去った後、私は深いため息をついた。窓の外は、もう夕暮れが始まっていた。オレンジ色に染まった空を見上げながら、今日もまた、この不思議な感覚について考え込む。
教室に戻ると、まだ数人の生徒が残っていた。掃除当番の子たちだろう。
「もう!全然手伝ってくれないんだから!」
突然、教室の後ろから声が響いた。その瞬間だった。
激しい怒りの感情が、まるで波のように私を襲った。
「っ!」
思わず机に手をつく。頭が割れそうなほどの痛みと共に、誰かの怒りが私の中に流れ込んでくる。熱い。とても熱い感情。まるで体の中で炎が燃えているみたいだ。
「星野さん?大丈夫?」
誰かが声をかけてきた。でも、返事をする余裕はない。ただ、必死に耐えるだけ。
(やっぱり...気のせいじゃない)
確信に変わる。これは間違いなく、誰かの感情だ。どうして私にこんな能力が...いや、これは能力なんかじゃない。むしろ、呪いに近い。
「保健室、行く?」
声をかけてきたのは、確か山下さん。優しい子だ。でも、今は誰とも関わりたくない。
「大丈夫です...ょっと貧血で...」
何とか声を絞り出す。山下さんは心配そうな顔をしたまま、「そう...」と言って、掃除に戻っていった。
(早く...帰らないと)
かばんを手に取り、よろめきながら教室を出る。廊下は既に誰もいない。夕陽に照らされた廊下を、壁に手をつきながら歩く。
頭の中では、さっきの怒りの感情がまだ渦を巻いている。他人の感情なのに、まるで自分の感情のように鮮明に感じる。これが、私の...能力?
階段を降りる時、唐突に背筋が凍るような感覚に襲われた。ゆっくりと窓の外を見ると夕陽に照らされた校庭に、一人の人影があった。
フード付きの黒いコートを着た人。その姿は、まるで闇から切り取られたようで、夕陽の光さえ吸い込んでいるように見えた。そして、その人の足元には、黒い影が不自然な形で揺らめいていた。
まるで私を見ているかのように立ち尽くしていた。
目が合った気がした瞬間、激しい頭痛が走る。思わずその場にしゃがみ込む。
「うっ...」
再び目を開けた時、その人影は消えていた。幻...だったのだろうか。
やっとの思いで下駄箱まで辿り着く。外に出ると、少し涼しい風が頬を撫でた。まだ頭の中は靄がかかったようにぼんやりしている。
(どうして...私に)
答えの出ない問いを抱えたまま、私は家路についた。この日を境に、私の日常は、少しずつ、でも確実に変わり始めていく。それが、どれほど大きな変化になるのか、この時の私には想像もつかなかった。
*
家に着くと、玄関には誰もいなかった。
「ただいま...」
小さな声が、静かな家の中に吸い込まれていく。両親は共働きで、いつも遅い。一人っ子の私は、こうして一人で過ごす時間に慣れている。
頭痛はまだ完全には引いていなかった。部屋に入ると、すぐにベッドに倒れ込んだ。天井を見つめながら、今日起きたことを整理する。
(あの感情は...確かに美咲さんのものだったんだ)
掃除当番をサボった子に対する怒り。それは間違いなく、クラスの委員長である佐藤美咲の感情だった。彼女の声が聞こえた直後に、あの激しい感情が流れ込んできたのだから。
「でも...どうして」
独り言が、静かな部屋に響く。なぜ私にこんな能力が?そして、なぜ今になって?
ふと、校庭で見た黒いコートの人影を思い出す。あれは本当に...
考えていると、また頭が重くなってきた。枕に顔を埋めると、今日一日の疲れが一気に押し寄せてきた。
目を閉じる。すると、まるで誰かの感情の残り香のように、かすかな温もりが胸の中に残っているのを感じた。それは美咲さんの怒りとは違う、もっと優しい感情。
(図書室の...先生かな)
そう思った瞬間、その感情は消えていった。
明日からどうなるんだろう。また誰かの感情が流れ込んでくるのだろうか。それとも、今日だけの出来事だったのだろうか。
答えの出ない問いを抱えたまま、私は深い眠りに落ちていった。
*
「おはよう、星野さん」
次の日、教室に入ると、美咲さんが声をかけてきた。
「お、おはようございます...」
昨日の彼女の怒りを思い出し、思わず身構えてしまう。でも、今は何も感じない。むしろ、彼女からは穏やかな雰囲気が漂っているように感じる。
「昨日、具合悪そうだったけど大丈夫?」
「え?あ、はい...」
「そう、良かった」
彼女は優しく微笑んで、自分の席に戻っていった。
(やっぱり...普段は感じないんだ)
昨日のような激しい感情の時だけ。その確信が、少し安心感を与えてくれた。
朝の教室は、いつも通りの空気に包まれている。おしゃべりに興じる子たち、宿題を必死に写している子たち。普通の光景。でも、私の目には、少し違って見えた。
この教室の中で、誰がどんな感情を抱えているんだろう。表情の裏に、どんな思いを隠しているんだろう。
そんなことを考えていると、突然、教室の後ろのドアが勢いよく開いた。
「おはよー!」
明るい声が響き渡る。振り向くと、そこには見覚えのない女の子が立っていた。
「あ、転校生の...」
誰かがつぶやく。その瞬間、教室全体がざわめきに包まれた。
「はーい、みんな!今日から一緒になる相沢陽向です!よろしく!」
その瞬間、教室中の感情が一斉に消えた。まるで真空の中にいるような不思議な感覚。そして、陽向の瞳が一瞬だけ、さっきの司書の先生と同じ紫色に...
元気いっぱいの声。短い茶色の髪を揺らしながら、彼女は満面の笑みを浮かべている。
その時、私は感じた。彼女から溢れ出る、温かな感情。でも、それは昨日のような激しいものではない。むしろ、優しい日差しのような、柔らかな温もり。
(どうして...?)
疑問が浮かぶ。なぜ彼女の感情だけが、こんなにはっきりと...
「えーと、空いてる席は...あ、あそこね!」
先生の声に、私は我に返った。指さされた先を見ると...私の隣の席だった。
相沢さんは、まっすぐに私の方へ歩いてきた。そして...
「となりの席、よろしくね!」
彼女は、まぶしいくらいの笑顔で私を見つめた。その瞬間、私の中で何かが揺れ動いた。
これが、私の日常が大きく変わり始める、本当の始まりだった。
*
「えっと...星野...雫さん、だよね?」
相沢さんは、教科書を机に置きながら、にこやかに話しかけてきた。
「は、はい...」
私の声は、いつもより小さくなっていた。彼女から感じる温かな感情が、まだ胸の中で渦を巻いている。
「雫ちゃんって呼んでもいい?私は陽向でいいよ!」
「え...あ、はい...」
慌てて頷く。普段なら、こんな急な距離の縮め方に戸惑いを感じるはずなのに。不思議と、嫌な感じはしなかった。
「よろしくね、雫ちゃん!」
陽向は、まるで何年も前からの友達のように笑いかけてきた。その笑顔に、温かな感情が重なる。嘘のない、純粋な喜び。
(どうして...彼女の感情だけが)
昨日までの経験とは明らかに違う。激しい感情の時だけのはずなのに、陽向の場合は、穏やかな感情でも感じ取れてしまう。
「あ、そうだ!」
突然、陽向が声を上げた。
「放課後、学校案内してくれない?委員長さんが忙しいみたいで...」
確かに、美咲さんは放課後に会議があると言っていた。でも、私なんかが...
「私じゃなくても...」
「雫ちゃんがいい!」
即答だった。その声に込められた感情が、まっすぐに私の心に届く。純粋な期待と、かすかな...寂しさ?
「...わかりました」
気づけば、私は頷いていた。
「やった!ありがとう!」
陽向の笑顔が、また教室を明るくする。
その時、チャイムが鳴った。
「はーい、席について!」
担任の先生が入ってきて、朝のホームルームが始まる。でも、私の意識は完全に隣の席に向いていた。
陽向は、まっすぐな姿勢で前を向いている。その横顔から、さっきまでとは少し違う感情が伝わってきた。緊張?それとも不安?
(やっぱり、転校生なんだ)
明るい態度の裏に、誰もが抱えているような感情を隠しているんだ。その発見が、どこか安心感を与えてくれた。
完璧な人なんていない。それは、きっと陽向も同じ。
そう思った瞬間、彼女が小さく息を吐いた。すると、さっきの不安げな感情が、徐々に和らいでいくのを感じた。
(これって...私にしか分からないんだ)
その事実が、妙な感覚を呼び起こす。今まで、この能力を呪いのように感じていた。でも、もしかしたら...
「雫ちゃん?」
ハッとする。いつの間にか、ホームルームは終わっていた。
「授業、始まるよ?」
陽向が、教科書を手に微笑みかけてくる。
「あ、はい...」
慌てて教科書を取り出す。その時、ふと窓の外に目をやると...
(!)
一瞬、黒いコートの人影が見えた気がした。でも、すぐに消えてしまう。
「雫ちゃん?どうかした?」
「ううん...なんでもない」
そう答えながら、私は考えていた。この不思議な能力、黒いコートの人影。そして、陽向との出会い。
全て、偶然なのだろうか。
*
放課後。
「ここが図書室」
私は小さな声で説明した。今まで一人の居場所だった場所に、誰かを案内するのは少し不思議な感覚だった。
「わぁ...すごく静かで落ち着くね」
陽向は、図書室の中を見渡しながら呟いた。その声には、心地よさと懐かしさが混ざったような感情が込められていた。
「雫ちゃん、よくここに来るの?」
「え?あ...うん」
図書室の奥の、いつもの席に目をやる。昨日まで、一人で本を読んでいた場所。
「なんとなく...分かるかも」
陽向は、私の視線の先を見つめながら言った。
「ここ...雫ちゃんの場所なんでしょ?」
「!」
思わず陽向を見つめる。どうして...?
「あ、ごめんね。なんとなく...そんな気がして」
彼女は少し照れたように笑った。でも、その感情には、どこか切なさが混ざっていた。
(この感情は...)
「私も...前の学校で、似たような場所があったから」
陽向は、本棚に並ぶ本の背表紙を、そっと指でなぞりながら続けた。
「転校を繰り返してると...どうしても、一人になれる場所を探しちゃうんだ」
その言葉に込められた感情が、まるで波のように私の中に流れ込んでくる。寂しさ。でも、それは激しい感情ではない。むしろ、静かに降り積もる雪のような...
「あ!でも、もう大丈夫!」
突然、陽向の声が明るくなった。
「だって、ここには雫ちゃんがいるもん!」
純粋な喜びの感情が、さっきまでの寂しさを包み込むように広がる。
「私...」
言葉が詰まる。どう返事をすればいいのか分からない。
その時。
「あら、雫ちゃん」
図書室の奥から、いつもの司書の先生の声が聞こえた。
「今日は珍しく、お友達と一緒なの?」
先生は優しく微笑みながら、私たちに近づいてきた。
「はい...案内を...」
「相沢陽向です!今日から転校してきました!」
陽向が、元気よく自己紹介する。
「まあ、そうだったの。よろしくね、陽向ちゃん」
先生は温かな笑顔を向けた。その瞬間、私は気づいた。
先生の感情も...感じ取れる。
昨日までは気づかなかった。でも、確かに今、先生からも温かな感情が伝わってくる。
(どうして...?)
疑問が浮かぶ。陽向と出会ってから、私の能力に何か変化が...?
「雫ちゃん?」
ハッとする。��向が心配そうに私を見ていた。
「大丈夫?」
「う、うん...」
「じゃあ、次は校庭に行ってみよう!」
陽向は、私の手を取った。その温もりと共に、彼女の明るい感情が伝わってくる。
(この感覚...嫌じゃない)
そう思った瞬間、窓の外に、また黒いコートの人影が見えた気がした。
でも今回は、頭痛は起きなかった。
代わりに、陽向の手の温もりが、より強く感じられた。
*
夕暮れ近い校庭は、部活動の声で賑わっていた。
「わぁ!バスケ部の練習だ!」
陽向の声が弾む。その感情には、懐かしさと憧れが混ざっていた。
「バスケ、好きなの?」
「うん!前の学校でやってたんだ」
そう言いながら、陽向はコートの方へ歩み寄る。オレンジ色の夕陽に照らされた彼女の横顔が、どこか切なげに見えた。
「でも、転校が多くて...続けられなくて」
その言葉に込められた感情が、静かに私の中に流れ込んでくる。後悔?それとも諦め?
(陽向も...色んなものを諦めてきたんだ)
「あ、でもね!」
突然、陽向が振り返る。その目は、さっきまでの感情を振り払うように、輝いていた。
「この学校では、絶対にバスケ部に入るんだ!」
強い決意。それは、昨日感じた美咲さんの怒りのような激しい感情に近かった。でも、痛みは伴わない。むしろ、その強い思いが、私の中で温かく広がっていく。
「雫ちゃんも...何か部活とか」
「え?あ...」
首を横に振る。
「私は...図書室で本を読んでるだけ...」
「そっか...」
陽向は少し考え込むような表情をした。その時。
「あれ?相沢さん?」
声が聞こえてきた。振り向くと、バスケ部の女子が数人、こちらに向かってくる。
「噂の転校生だよね?」
「あ、はい!相沢陽向です!」
陽向は、いつもの明るい声で答える。でも...その感情には、かすかな緊張が混ざっていた。
「バスケ、やってたの見てたよ。すごく上手だったって」
「え...?」
陽向の感情が、一瞬揺れる。
「前の学校の試合動画がネットに上がってたんだ。あの...三年前の全国大会の」
陽向の感情が凍りついたのを感じた。
「え...三年前...?でも私、まだ」
バスケ部の子が不思議そうな顔をする前に、陽向は慌てて話題を変えた。でも、その瞬間に感じた彼女の混乱と焦りは、明らかに普通ではなかった。
「あ...はい」
照れくさそうに頷く陽向。でも、その感情は嬉しさで溢れていた。
「よかったら、うちのバスケ部に...」
「入部、させてください!」
陽向の声が、校庭に響く。その瞬間、彼女から溢れ出る喜びの感情が、まるで光のように私の中に流れ込んできた。
(温かい...)
バスケ部の子たちも、陽向の勢いに笑顔で応える。
「じゃあ、明日の放課後から来てね!」
「はい!ありがとうございます!」
陽向は、まるで子供のように飛び跳ねていた。その姿を見ていると、私まで嬉しくなってくる。
バスケ部の子たちが去った後、陽向は満面の笑みで私の方を向いた。
「ねぇ、雫ちゃん!」
「う、うん...?」
「私の試合...見に来てくれる?」
その言葉に込められた期待が、まっすぐに私の心に届く。
(私なんかが...でも)
「練習の時も...来てくれたら嬉しいな」
陽向の瞳が、夕陽に輝いていた。
「う...うん」
気づけば、私は頷いていた。
「やった!約束だよ!」
陽向が、また私の手を取る。温かい。その感情が、まるで私の一部になったように感じられた。
(ああ...そうか)
その時、私は気づいた。この能力は、決して呪いなんかじゃない。
誰かの感情を感じ取れること。それは、きっと...
ふと空を見上げると、夕陽が校舎の向こうに沈もうとしていた。そして...
(!)
屋上の端に、黒いコートの人影が立っているのが見えた。その横には、紫色の瞳を持つ少女が立っている。司書の先生...?違う、でも似ている。
二人は私たちを見下ろし、静かに頷いた。そして、黒いコートの人物が口にした言葉が、風に乗って聞こえてきた。
「共感者の素質...確かに覚醒したようですね」
夕陽が沈む直前、二人の姿が闇に溶けるように消えた。
今度は、はっきりと私たちの方を見ていた。
でも不思議と、怖くはなかった。
陽向の手の温もりが、私をしっかりと現実に繋ぎとめていたから。
...続く