#二章 空色の羽根
桜介は夢を見ていた。イメージは空高く舞い上がる鳥。高いところから大地を真下に据え、流れていく景色をぼんやりと俯瞰している。
そこは剥き出しの地面にひなびた木造の家屋が立ち並ぶ、小さな村落だった。周囲にぽつぽつと点在する畑や田んぼでは、継ぎ合わせた木綿の作業着に身を包んだ百姓たちが黙々と日作業に勤しんでいる。果たしていつの時代なのかはわからなかったが、少なくとも現代に見られる光景ではないことは間違いなかった。
ひょろひょろという小鳥の鳴き声に混じって子どもたちの賑やかな声が聞こてくる、昼下がりの農村。それは傍目に見ればのどかな光景に違いなかったろう。
だが、大地を見下ろす桜介の目に、ある一点が留まる。
「……う、ぅ」
両手に水桶を抱え、幼い顔を歪めながら、足を引きずって歩くひとりの少女がいた。
よく見ずともわかる。ナナだった。
「村からでていけ、あくまめ!」
「おっかぁが言ってたぞ! おまえたちはえきびょうがみじゃって!」
「よくへいきな顔で外をあるけるな!」
わぁわぁと喚きたつ少年たちの群れが、ナナを囲むようにして石を投げていた。舗装のなされていない路肩に落ちている石は決して小さくはないもので、たとえ子どもの細腕でも当たればただでは済まないだろう。
その凶器が、ナナの柔肌へ向かって次々と投げ込まれていく。とある少年の放った石のひとつがナナの後頭部を襲う。頭を押さえ、その場にうずくまってしまうナナ。首筋を伝っていく赤い血が、少年たちの凶行を歓声とともにエスカレートさせていく。
思わず叫び声をあげる桜介だったが、その叫びは音を作ることなく空中で霧散していく。どれだけ喉を絞っても声は出ない。これは夢の中であるということを自覚してさえなお、悪夢の光景は覚めることなく続いていった。
「でていけ! でていけ、あくま!」
ぎらぎらと目を充血させて石を投げ続ける少年たちの姿は、どう見ても異様だった。
だが、それ以上に異様だったのは、周囲で農作業を続ける大人たちのほうだった。少年たちの凶行は明らかに彼らの目に映っている。十人を越える少年の群れがたったひとりの少女を囲んで石を投げている。そんな異様な光景を目の当たりにしているというのに――彼らは一人として、その行為を止めようとしないのだ。
それどころか、中には少年に混じって石を投げる大人もいる。子どもの投擲とは比べ物にならない速度で襲い掛かってくる凶器を、ナナは足をよろめかせながら必死に避ける。決して声を出すことなく、少年たちを振り返ることもなく、腕の中の水がこぼれてしまわないように、ただただ前だけを目指して歩いていく。
そうしてナナがとある場所まで辿り着いたとき、少年たちは一斉に石を投げるのを止めた。
「ちっ。みんな、ここから先にはすすんじゃだめじゃ」
「この先にはあくまの親玉がすんどるんじゃ」
「いのちをとられてしまうぞ」
「運のいいやつじゃ」
口々にそんな捨て台詞を吐いて、少年たちは来た道を引き返していくと、何事もなかったかのように追いかけっこに興じていった。
体中の至る箇所を打ち傷に見舞われながら、ナナはふらふらと前へと進み、その先にある一軒の家屋の扉を開いた。その直後、桜介の視点が空から家屋の中へと移動する。
「ただいま、おかあちゃん」
ナナはそれまで浮かべていた苦悶の表情を掻き消すと、即座にぱあっと向日葵の咲くような笑顔を作ってみせた。その笑顔の先には、薄いせんべい布団に寝込んだまま、ふるふると体を震わせる母親がいた。
わが子の惨憺たる姿に母親が何かを叫ぼうとする。それを寸前で遮って、ナナはごとりと床に水桶を置いた。
「あのな、今な、すっごく嬉しいことがあったんよ」
母の腕にすり寄って、無邪気に微笑むナナ。
「村の子どもたちがな、一緒に水を運んでくれたんじゃ。歩きながらいっぱいお話もした。それでな、みんなのお話がすっごくおもしろくてな。あんまりおかしくて、うち、つい転んでしもうた。ドジじゃなあ」
「……そうか。そうか……」
あまりにも痛々しいナナの笑顔。母はもはや言葉もなく、ただただ娘の細い体を慈しむようにかき抱いた。やつれきった母の薄い胸の中で、ナナは気持ち良さそうに目を細めた。
「おかあちゃん。うちな、おかあちゃんのこと大好きじゃ」
「うちも、大好きじゃよ……」
母の瞳から流れ出た熱いしずくが、ナナの首筋にはたはたと落ちる。透明なしずくは首筋に残った血の痕と混じって、理不尽な暴力の傷痕を優しく洗い流していく。
ナナは心の底からしあわせそうに微笑んで、母の背に回した腕の力を強めた。
*
「オウスケ? オウスケ?」
桜介の意識を夢から呼び戻したのは、奇しくもナナの声だった。
「おはようじゃ、オウスケ」
「……ああ、おはよう」
「オウスケ、すっごくうなされとったぞ。なんか怖い夢でも見たんか?」
「……そんなことはないぞ。ナナの気のせいじゃないか?」
「そうかー?」
無邪気な声をあげるナナにそうだよと返して、桜介は着替えるためにベッドから起き上がる。
――その直後、全身から力が抜けた。
体を起こすことができず、再び背中からベッドに落ちていく。起きたばかりなのに体がひどく疲れているような気がした。
どうしたことかと思いつつ、今度はさっきよりも力を込めてベッドから起き上がる。どうにか背中を起こすことには成功したが、全身を包む倦怠感は変わらず残ったままだった
「……どうしたんじゃ、オウスケ?」
「いや、なんでもない。なんでもないぞ」
ナナが心配げな表情を浮かべたのを見て、慌てて背筋をぴんと張った。体調のことを悟られてしまわぬよう、桜介は努めてきびきびと身支度を始めた。
「桜介。あんた、ちゃんと寝てるの?」
朝食の席にて、桜介の母、頼子が心配そうに眉をひそめて言った。
「最近ちょっと勉強で忙しくて。でも、ちゃんと寝てるよ」
「あんまり無理しすぎちゃ駄目よ。体を壊したら元も子もないんだから」
「ああ、わかってる」
そうは言うものの、桜介の箸の進みはいつもより目に見えて遅かった。そんな兄のおかずに目をつけて、小学校に上がったばかりの妹の桃が上目遣いで尋ねてくる。
「ねえねえおにいちゃん、ししゃももらっていい?」
「いいぞ」
「わーいっ」
桃は桜介の皿から焼きししゃもをつまみ上げると、満足そうに口に放り込んだ。行儀が悪いと頼子に叱られても、桃は構うことなく桜介のししゃもを次々とさらっていく。
「食いしんぼうじゃな、モモは」
ナナは少し離れたところから、そんな三人の食卓を楽しげに見守っていた。しばらく同じ屋根の下で暮らしてみてわかったことだが、この少女は驚くほどに気が回る。桜介の心の機微を敏感に感じ取り、その時々でもっとも求められている行動を取ることができる。それは家族に秘密を抱える桜介にとってはありがたかったが、こんなにも幼い少女がどうしてそんな処世術を知る必要があったのかと思うと、決して楽天的に受け取れることではなかった。
食事が済むと、頼子はすぐに仕事へと出かけていった。玄関先まで母を見送ってから、ふたりは残された食器の片付けを始める。それは朝の早い頼子に少しでも余裕を持ってもらおうと、桜介たちから提案したことだった。
流し場に兄妹ふたりで並び、桜介が食器をスポンジで磨いて、桃が水を流していく。連携のとれた作業はすぐに終わり、それから登校までのわずかな余暇をめいめいで過ごす。
支度のために桃がいったん部屋へ戻ると、それと入れ替わるようにしてナナが桜介のもとへとやってくる。
「モモは元気じゃなぁ」
「ちょっと元気すぎて心配だけどな。たまに男の子と喧嘩してたんこぶ作ってきたりするからな、あいつ」
「元気なのが一番じゃ。でも、いざとなったらオウスケが守ってあげんとな」
「そうだな。桃を泣かせるようなやつは俺が一人残らず泣かせてやる」
「オウスケはモモのことが大好きなんじゃな」
「それくらい当たり前だろ。家族なんだから」
桜介の言葉に、ナナは満足そうに微笑んだ。
それからナナは不意にあたりをきょろきょろと見回し始めた。どうやら、まだ桃が来ないかどうか確かめているようだった。まだ足音が聞こえてこないのを確認してから、ナナは桜介に問いかける。
「……あのな、オウスケ。お願いがあるんじゃ」
「お願い?」
「うん。……あのな。うちもな、オウスケの行く『ガッコウ』ってとこに行ってみたいんよ」
それは控えめなナナにしては珍しい、自分からの主張だった。
「んー……。学校って、ナナが行ってもあんまり面白くないぞ? 基本的には勉強するところだし」
「一回でいいんじゃ。……だめか、オウスケ?」
懇願するような上目遣いで見上げてくるナナ。その破壊力に、桜介はうっと一歩たじろぐ。こんな顔をされてダメだなんて言えるわけがない。
「……わかったよ。ずっと留守番させてるのも可哀想だもんな」
桜介は降参するように溜め息を吐いた。
「その代わり、できるだけ大人しくしてろよ?」
「うん! ありがとな、オウスケ!」
ぎゅっと桜介の腕に抱きついて、全身で喜びを示してくるナナ。その仕草で、桜介はなんとなくナナの本心を理解した。
「おにいちゃーん! したくできたよー!」
「おう。今行く」
玄関から聞こえてくるナナの声に応えて、桜介はナナの手を握る。
「オウスケ?」
「今日くらい、人目なんて気にしなくてもいいぞ」
気付けなかったナナの本心。誰もいない家にひとりぼっちで取り残されるというのは、ナナにとってはやはり寂しいことだったのだろう。そのことに今の今まで気付けなかった自分を恥じ、桜介はナナの手を引いたまま玄関へと向かう。
「……おにいちゃん、左手、どうしたの?」
支度を終えて現れた兄の左手がなんとも中途半端な位置で固定されているのを見て、桃がいぶかしげな視線を寄せてくる。
「気にすんな。それより急がないと遅刻するぞ」
「あ、うん」
「ほら」
差し出された桜介の右手を、桃は嬉しそうに握り返した。それはふたりが家を出ていくときのいつもの光景で、ナナはこの一週間ずっと、その後ろ姿を見送るだけだった。
繋がれた手と手が、今日は二組。
「……オウスケ」
小さな声で、ナナが桜介の名を呼んだ。ナナは頬を赤くして、嬉しさが爆発してしまうのを必死に堪えているようだった。
「これくらいでいいなら、いつだってやってやるよ」
「おにいちゃん、なにか言った?」
「いいや、何も。空耳じゃないか?」
「えぇー……?」
もしも余人にナナの姿が見えたとしたなら、彼らの後ろ姿は疑いなく仲の良い三人兄妹のものに見えたことだろう。
再びいぶかしげな視線で兄を見上げる桃を見ながら、ナナはこれ以上ないほどの満面の笑みを浮かべ、ふたりが作る軽い足音に自らの歩調を重ねていった。
*
「こ、これが――」
校門前に溢れ返る、登校してきたばかりの生徒たちの姿。ある者は満面の笑みで友人に挨拶をし、またある者は眠そうに欠伸を噛み殺している。そんないつもの登校風景を、爛々と目を輝かせて見つめる一人の少女がいた。
「――これが、ガッコウかぁー!」
大きな瞳にいっぱいの輝きを浮かべて、溢れる好奇心を全身から放出し続けるナナ。これまで必死に働かせてきた自制心にもついに限界が来たようで、突然きゃっほうと飛び上がったかと思うと、呼び止める間もなく、そのまま人でひしめく校舎の中へと消えていってしまった。
桜介はしばし途方に暮れて校門前に立ち尽くした。後を追いかけようにも、始業までそれほど時間も残っていない。予想外の事態に、頭を抱え込んでしまいたくなる桜介だった。
そんなとき、後ろから誰かに軽く肩を叩かれた。振り向くと、そこにいたのは愛だった。
「おはよう、桜介」
「ん……ああ、愛か。おはよう」
「……どうかしたの?」
「いや、実はな……」
ナナの姿を見ることができる、自分以外には唯一の相手。事のあらましを伝え終えると、愛は目を丸くして聞き返してきた。
「ナナちゃんが、学校に?」
「そうなんだよ。大人しくしてろって言っておいたのに……」
ぶつぶつとナナへの文句を並べる幼馴染みを前に、愛は少しだけ考えるそぶりを見せてから答えた。
「それなら、ナナちゃんの好きにさせてあげればいいと思う」
「え……?」
「あたしたち以外にナナちゃんのことは見えないんでしょ? だったら、ナナちゃんがどこで何をしてても問題にはならないんじゃないかしら。授業中じゃあたしたちもナナちゃんの相手はしてあげられないんだし、教室でじっとしてろって言うのも可哀想な話じゃない?」
「……なるほど。確かにそうだ」
愛の言葉はまさに正論だった。返す言葉もなく、桜介は自分の浅薄さを思い知らされる。
「ナナちゃんも探検が済んだらそのうち戻ってきてくれるわよ」
愛にそう諭されて、ふたりは教室へ向かう。その途中でナナの姿を探してはみたが、どこにも見当たらない。落ち着きなく辺りを見回している桜介を横目に、愛がくすくすと笑い声を漏らした。
「桜介、おじさんに似てきたわね」
「……親父に?」
「ええ。昔、二人で遊園地に連れていってもらったとき、桜介が迷子になっちゃったことがあったでしょう」
「おい待て。あれは俺じゃなくて、おまえたちのほうがはぐれたんだろ」
「はいはい。それでね、その時のおじさん、ちょうど今の桜介みたいな顔して桜介と同じようなこと言ってたわよ」
「……マジか?」
「マジよ。ふふ、やっぱり親子って似るものね」
微笑ましげな愛の眼差しに、桜介は頬を赤くしながらそっぽを向く。その仕草が余計に愛を満足させることとは知らずに。
愛は、こうしてよく大樹の思い出話をする。桜介の家が母子家庭であることを知る友人はたいてい父親の話題を避けるものだが、愛はあえてそれをしない。
普通の相手は「悲しいことを思い出させたくない」という理由で話題を避けるのだろうが、それはあまり意味のない気遣いだ。なぜならそれは、ふだんの桜介が「そのことを忘れている」という前提に基づいた話だからだ。
忘れるわけがない。今だって鮮明に、父親がいなくなった日のことは覚えている。
それに、思い出が辛いことばかりだなんて勝手に決め付けて欲しくない。だからこそ、こうして自然な流れで愛が大樹の名を出してくれることが桜介には嬉しかった。
そんなやり取りを交わしつつ、ふたりは始業前の喧騒で賑わう教室へと到着した。席に着くのとほとんど同時に、すでに登校してきていた悟史がこちらへと歩み寄ってくる。
「おはよう。ナナちゃん、元気でやってる?」
「おはよ。おう、元気だよ」
それは良かったと相好を崩す悟史。ナナの姿を見ることができないにも関わらず、彼はこうして毎日のようにナナのことを気にかけてくる。生来の世話焼き気質なのだろう。これまで悟史のことを単に無神経な少年だと思っていた桜介も、ここ一週間でかなり考え方を改めさせられた。
「悔しいなぁ……僕にもナナちゃんの姿が見えたらよかったのに。ねえ桜介、今度通訳やってよ。僕もナナちゃんとお喋りしてみたい」
「それくらいなら別にいいけど。ていうかあいつ、今ちょうど学校にいるぞ」
「え? そうなの?」
「ああ。校門に着くなり大はしゃぎでどっか飛んでいっちまったけどな。いまごろどこで何してるんだか」
「へえ。ふうん……」
すると悟史はすぐには返事を返さず、代わりに眉根を寄せて何か考えるような仕草を見せた。
「なんだよ。何か言いたいことでもあるのか?」
「いや、ね。ちょっと気になっただけなんだけどさ。桜介は聞いたことない? うちの学校には死神がいるって」
「死神?」
聞き慣れない物騒な単語に、今度は桜介が顔をしかめる番だった。話の続きを促すまでもなく、悟史はさらに言葉を続ける。
「二十年くらい前のことなんだけどね。その年の入学式で、ひとりの新入生が亡くなってるんだ。屋上からの飛び降り自殺だったらしい。そういう話、知らないかな?」
「……ああ、その話なら聞いたことはあるな」
言われて、記憶の端っこにそんな話があったことを思い出す。少し前、教室にそんな噂が流れたのを聞いたことがあったが、それがまさか実際にあったことだったとは知らなかった。悲痛な話に桜介が胸を痛めていると、悟史は声音を低くして続けた。
「そっか。まあ、話の続きはそこからなんだけどさ。それ以来、うちの学校の屋上にね、出るらしいんだ」
「……」
しごく真顔で語る悟史に、桜介はなんの言葉も返すことができずにいた。幽霊というものは与太話でも幻覚でもなく実際に存在するものだと知った以上、それは紛れもない真実なのだろう。
「その件を皮切りに、何年かに一度、後を追うように起こるようになったんだよ」
「……何がだ?」
ほとんど聞く意味のない問いを、それでも桜介は口にする。
それでも出来るならば否定してほしいという桜介の願いを、悟史はあっさりと打ち払った。
「自殺。それも、場所は決まって屋上。だから、うちの学校には死神がいるんだってさ。屋上にはその子の怨念が渦巻いてるから立ち寄っちゃいけないっていうのが、うちの学校に伝わる七不思議のひとつ」
「……その死神が、何だってんだよ」
「あはは、ごめんね。いや、まあ、たぶん大丈夫だとは思うんだけどさ」
こほん、とひとつ咳払いをしてから。
「その死神とナナちゃん、出会っちゃったらまずいんじゃないかなぁって」
「……」
悟史の言葉に、しばしの沈黙の後。
始業のチャイムが鳴るのも構わず、桜介は無言でその場を立ち上がった。
「あれ、桜介? どこか行くの?」
「……わかってて言ってるんだろ。ナナを探してくる。先生には上手く言っといてくれ」
「一限のノート、ちゃんと取っておいてあげるわね」
「助かるわ」
間髪入れずに言葉を挟む愛に平手を振って、桜介は教室を出ていった。
*
嫌な予感というのは当たるもので、あっさりとナナの姿は見つかった。
教室を出てから真っ直ぐに階段を駆け上がり、校舎と屋上を繋ぐ重厚な鉄扉を開くと、すぐそこにナナの姿はあった。
フェンス越しに青空をぼんやりと見つめるナナの背中は、いつもよりさらに小さく見えた。悟史から聞いた言葉を思い出して、桜介はすぐさまフェンスへと駆け出していく。
「ナナ!」
名を呼ぶと、ナナがゆっくりとこちらを振り返る。視線が合ったほんの一瞬、今にも消えてしまいそうなほどに儚げな表情が垣間見えた。
「……あ、オウスケ。オウスケじゃ。ふふふ。ガッコウって、おもしろいところじゃな?」
「……そりゃ良かったな。楽しかったか?」
「うん、楽しかった!」
そう言って、ナナはいつもと同じ屈託のない笑顔を浮かべた。しかし、その笑顔はどうしてか桜介に今朝方のあの悪夢を思い出させた。
全身傷だらけになりながら、それでも母の前では満面の笑みを作ってみせたナナ。あの痛々しい笑顔と同じ表情が目の前にあるような気がした。
「……ナナ。この辺りに、変な奴を見なかったか?」
「ん? 変なやつって、誰じゃ?」
「俺にもよくわからないけど、死神、とか」
「シニガミ?」
はてなと小首を傾げるナナ。その様子を窺うところ、懸念したような事態には至っていないようだった。ほっと胸を撫で下ろし、それから桜介は、ナナのおかっぱ頭をじっと見下ろした。先ほど一瞬だけ見せた儚げな表情が、網膜に強烈に焼き付いていた。
「どうしたんじゃ、オウスケ?」
少女の無邪気な眼差しが桜介の瞳に吸い込まれていく。どこまでも透き通ったナナの瞳。年相応にあどけない笑顔。あれは自分の見間違いだったのだろうか。
……そんなはずがない。
ほんのわずかに見せたあの表情こそがナナの心の奥底にあるものなのだと、桜介は理由なくとも直感していた。それから、桜介の口は自身でも意外な言葉を紡ぎ出していた。
「ナナ、遊ばないか」
目を丸くして、喜色よりも先に驚愕をあらわにするナナ。
「え……? 遊んでくれるんか、オウスケ?」
「おまえを探すのに一限サボっちまったからな。今さら教室にも戻れないし、ここだったら他に誰もいないし。まあ、次の授業が始まるまでだけどな」
「わあ、やったぁ! オウスケが、うちと遊んでくれる!」
瞳をいっぱいに輝かせて、ナナは飛び上がるほどの勢いで両手を上げた。そんな彼女を微笑ましく思うのと同時に、桜介の胸中は複雑な気持ちで満たされていく。こんな簡単なことでナナはこれだけ喜んでくれるのだ。だったらもっと他に、自分にはナナのために出来ることがあるんじゃないか。そう思わずにはいられなかった。
「なぁなぁ、なにして遊んでくれるんじゃ?」
「何でもこい。ナナのやりたいことに付き合うぞ」
「……えへへ。なんか今日のオウスケ、やさしいなぁ?」
嬉しくて仕方ないという風に、ナナはえへらと相好を崩す。それからナナはおもむろに桜介の後ろに回り込んだかと思うと、そのまま背中へと飛びついてきた。
「えへへー。おんぶして」
振り返ると、すぐ近くにナナの顔があった。ほとんど重さなど感じさせない小さな体。しかしそれは決してゼロではなく、確かに形あるものとして桜介の背中に存在していた。
「オウスケの背中、おっきいなぁ。あの空みたいじゃ」
「……」
言ってやるべきことがたくさんある気がした。しかしナナの幸せそうな顔を見ていると、それらすべてが野暮であるように思えてきて、桜介には何も言うことができなかった。
ひとつ小さく息を吐き出して、桜介もナナに倣って空を見上げる。雲ひとつない空は眩しいくらい晴れ渡っていて、どこまでも遠く空色の絵の具を延ばしたキャンバスのようだった。
「なんだか、いつもより空が近くにあるみたいじゃ」
「そりゃ屋上にいるからだろ」
「それもあるかもしれんなぁ。でもきっと、オウスケの背中にいるからじゃ」
「おまえ、ちっこいもんなぁ」
「えへへ。でも、モモよりはおっきいもん」
ゆっくりと過ぎていく平穏に身を任せ、他愛のない会話を交わしながら、桜介はナナをおぶって無人の屋上をフェンス伝いに歩いていく。屋上にはただ静けさだけが溢れていた。
心安らかな時間。願わくば、いつまでもこの時間が続いてくれればと、桜介は心から思った。
「……ん?」
しばらくそうしていると、不意にナナがぴくりと体を揺らした。
「どうした、ナナ」
「んー……」
曖昧な返事を返しつつ、ナナは屋上の隅っこの辺りをじっと見つめていた。向こうになにかあるのだろうかと思って桜介もナナの視線を追ってみるが、その先に特別興味を引くようなものは見当たらなかった。
「ええとな、オウスケ。もうちょっと、向こうにいってくれるか」
「向こうって、隅っこのほうか?」
「うん」
言われるがままそちらへと歩いていく。その間もナナは視線を動かすことはなかった。そして屋上の隅っこに辿り着くと、ナナは桜介の背中からぴょんと飛び降りて、そしてまたじっとその場所に視線を注ぐ。
「どうしたんだよ。そこになにかあるのか?」
「やっぱり、オウスケには見えないんじゃな」
質問には答えず、ナナはそんな言葉を返した。目をしばたたかせ、桜介はいっそう注意してナナの視線の先を眺めてみる。だがここから見えるものといえば、錆が浮かんで赤茶けたフェンスと、どこまでも透き通る青空と、その下に広がる町の景色くらいだ。
禅問答のような問いかけに頭を悩ませていると、ナナはその小さな手で、不意に桜介の手を握り締めてきた。
「ちょっとだけ、手、貸してな」
「え……?」
桜介の喉から頓狂な声が漏れたのとほとんど同時に、繋がれた手にぽうっと柔らかな光が灯った。ぎょっとして己の手を注視する。錯覚でもなんでもなかった。実際にナナの手は不思議な燐光を宿しており、その光が手と手を介して桜介の体へと流れ込んできているようだった。
名状し難い不思議な感覚が桜介の体の中を満たしていく。嫌な感じではなかった。光はどこまでも柔らかく優しく、体の中身を内側ごと包み込んでいくように、少しずつ染み渡っていく。
光がひときわ強くなって、視界全体が真っ白な輝きで覆い尽くされる。思わず目を閉じて、それからゆっくりともう一度瞼を開くと、すでに桜介を包み込んでいた謎の光は消えてしまった後だった。
何が起こったのか理解しきれず、光が消えてからしばらくの間も、桜介は呆然とその場に立ち尽くしていることしかできなかった。
「な、なんだ、いまの?」
「びっくりさせてごめんな。でも、これで見えるようになったじゃろ?」
相変わらずなにを言われているのかさっぱりわからないが、桜介は促されるままに屋上の隅っこにもう一度視線を移す。
するとそこには、桜介とさほど歳の変わらない、制服姿の小柄な少女が立っていた。
桜介の目が驚愕に見開かれた。
つい先ほどまで誰もいなかった屋上に、突如として少女が姿を現した。事実を述べるならばそれまでのことだが、しかし、本当に一瞬のことだった。
屋上に誰かが出入りした様子は感じられない。だとしたら、今まではどこかに隠れていたんだろうか。とは言っても、だだっ広いこの空間に人ひとりの身を隠すような遮蔽物はどこにも見当たらない。入り口近くの給水塔の辺りならばそれも叶おうが、そこからここまでは直線距離でも百メートル近く離れている。とても今の一瞬で移動できる距離ではない。
桜介の思考回路が混迷を極めていく。いったい何が起こったというのか。
「……え……?」
しかし、その言葉は桜介の口から放たれたものではなかった。眼前の少女の腰ほどまである長い黒髪が、首の動きとともにさらりと揺れる。
その声をきっかけに、桜介と少女の視線が互いを結ぶ。相手という存在を、その瞳をもって確かなものと認識する。
「え、わ、わたしのこと……見えてるんですか?」
少女はいつかのナナと同じようなことを言った。その一言で、桜介は少女がいったい何者であるかを何となく察した。
――彼女もきっと、幽霊。
「ええと……なんて言うかな、その」
「ふええええええっ!」
「え、ええっ?」
少女が唐突に泣き出した。そして泣き顔も隠さぬまま桜介のもとへと駆け寄ってきたかと思うと、彼の手を思う様強く強く握り締めた。
そういえばナナも自分と出会った直後には泣いていたな――そんなことを思い返す余裕もなく、桜介の手は謎の少女によってぶんぶんと中空を踊らされる。
「やっと……やっと会えました……ぐすっ、わたしのことが、見える人に……うあぁぁんっ」
「ちょ、ちょっと待っ……っていうか、おいナナ! どういうことだよこれ!」
千切れんばかりに腕を振り回され、桜介はわけもわからずナナの姿を探した。ナナは少し離れたところから、穏やかな笑顔を浮かべてふたりの様子を見守っていた。
「オウスケは男の子なんじゃから、なぐさめてあげなきゃいかんよ?」
「いや、俺が聞いてるのはそういうことじゃなくて……!」
「ふえええええっ! うあぁぁぁぁぁんっ!」
「あんたもちょっと落ち着けよ! 誰かまともに話のできるやつはいねえのか!」
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」
「あ、ああいやその、今のは別にあんたを怒ったわけじゃなくてな……ああもう! 何だよこれ意味わかんねーよ!」
にこにこと微笑むナナと、わんわん泣き続ける少女と、そしてあたふたと少女とナナの間を行ったり来たりする桜介。
本来であれば無人であるはずの授業中の屋上は、今日に限ってやたらと賑やかしい様相を呈していた。
*
「自己紹介をするぞ」
「は、はいっ」
落ち着いた頃合を見計らって、桜介は半ば強引に少女を自分のほうへ向き直らせた。その隣にはナナも控えている。
「俺は高光桜介。この学校の二年生だ」
「うち、ナナっていうんよ。オウスケが名前つけてくれたんじゃ」
「えっと、その、はいっ。桜介さんに、ナナちゃんですね」
やたらと気合いを入れて、少女はひとつ深呼吸をする。
「わたし、廣瀬明日香といいますっ。ええと、その、この学校の一年生……でした」
元気よく紡ぎ出された言葉が、後半は尻すぼみになって消えていく。最初からそうだろうとは思っていたが、その一言で桜介の予想は確信に変わった。
「あんた、幽霊だな?」
「……ええ、そうです。恥ずかしながら、今年で二十六回目の一年生になります」
幽霊少女――明日香は、物憂げな表情でそう呟いた。しかしそれからすぐに勢い良く顔を上げたかと思うと、ぎこちなく笑顔を作って見せる。
「あんまり留年しすぎて、今じゃこの学校のどの先生方よりも古株になっちゃいました。えへん。この学校のことなら何でもわたしに聞いてください」
「……じゃあ、聞いてみるけど。学校で噂になってる屋上の死神ってのはあんたのことか?」
「ぐさーっ!」
「うわっ」
謎の擬音を叫んだかと思うと、明日香は突然その場に倒れこんだ。驚いてその場から一歩後ずさる桜介。
「な、なんだ? どうしたんだ、いきなり」
「どうしたんだじゃないですよ! 幽霊に向かっていきなり死神とはどういう了見ですか! いくら本当のことでも言われたら傷つくことってありますよね!?」
立ち上がるや否や、明日香はすさまじい剣幕で桜介に詰め寄ってくる。
「いや……その、まあ、配慮に欠ける発言だったのは認める。でも、本当のことなんだよな?」
「ぐさぐさーっ! 今わたし、確かに本当だけどそのことにはあんまり触れてほしくないなーってイントネーションでお話しましたよね!? なんでその意を汲んでくれないんですか! なんなんですかあなたは! 本当に血の通った人間ですか!?」
「……お、おう。なんていうか、悪かった。謝る」
「当たり前ですよ。言っていいことと悪いことがあります。以降もう二度とそんな心無いことを言わないようにしてください」
憤慨収まらずといった様子の明日香。死神というのは、幽霊にとっては相当言われたくない単語らしい。……確かに、相手の立場になってみればわかるような気はした。人間に置き換えれば「殺人者」と言われているようなものなのだろう。
「……わかったよ。もう言わない。すまん」
しかし、ひとつ素直に頭を下げると、明日香はすぐにころりと表情を変えた。
「ええ、わかってくれればいいんです。……えへへ。ああ、なんかもうほんとに久しぶりです。こうして誰かとお喋りするの」
「……さっき、二十六回目の一年生とか言ってたよな。もしかしてその間ずっとここに一人だったのか?」
「そうなりますね。なんですか桜介さん、もしかしてわたしの昔話とか聞いてくれたりしちゃいます?」
明日香は他人と話ができることが本当に嬉しいようで、先ほどからテンションが異様に高い。あるいはそれが彼女の地の性格なのかもしれなかったが。
「聞きたいんですね?」
「……まあ、そんなに話したいなら聞くけど」
「いいでしょう、そこまで聞きたいならお話いたしましょう! 不肖わたくし廣瀬明日香、十六年に渡る人生史のすべてを!」
「……」
明日香は鼻息も荒く、ただでさえ近い距離をさらに一歩詰め寄ってくる。正直なところ、面倒な相手に絡まれたと思わずにはいられない桜介だった。
「わたしはですね、こう見えても幼い頃は病弱少女だったんです」
「……そうなのか。ぜんぜん見えないな」
「そりゃ、今は幽霊ですから。昔はもっと、一目でわかるくらいには顔色やばかったですよ」
「幽霊になってから顔色良くなるってどうなんだ?」
「それくらい病弱だったんです。小学校にはほとんど行けず、中学校でも長期の入院が何度か続いたりしました。勉強は病院のベッドでもできますけど、友達を作るのは学校じゃないと無理です。だからわたし、昔はほとんど友達がいませんでした。……ごめんなさい、ちょっと見栄張りました。本当はひとりも友達いませんでした」
「……」
明日香の口から語られた言葉は、桜介にとっては少なからず意外な内容だった。傍目には底抜けに明るく見えるこの少女に友達がひとりもいなかったというのは、どうにもイメージが結び付かない。
「中学三年生のときにとても大きな手術をしました。失敗する可能性もありましたが、どうにか無事に成功して、それからは普通の人と同じように生活できるようになりました。……と言っても、それからすぐに中学を卒業しちゃったんで、やっぱり友達はできませんでした」
それでも、本人がそう言うのだから、それは紛れもない事実なのだろう。
明日香の語り口は、徐々に重みを増していく。
「でも、高校からはみんな同じ場所からスタートです。今度こそ友達を作ろうと決意して、入学式に臨んだ日の出来事でした。……気合い入れすぎちゃったんですね。めちゃくちゃ早起きしちゃって、教室に入ってもまだ誰も来てなくて。だから時間を潰そうと、屋上まで来てみたんですけど」
そこで言葉を区切って、明日香はくるりと振り返り、屋上を囲むフェンスに目線を投げる。
「フェンスがそこだけ古くなってたんです。ほんの不注意でわたしは屋上から転落しました。完全な事故だったんですけど、高校までのわたしの境遇もあってか、自殺ってことになったらしいです。それ以来、わたしは幽霊になってここにずっと縛り付けられてます。高校でやりたいこといっぱいありましたからね。未練たらたらなのです」
「…………」
最初のほうこそ軽口を返せてはいたものの、もう桜介には返す言葉もなかった。弱々しい笑顔を浮かべながら明日香は続ける。
「……ごめんなさい。わたし、話すの下手くそですね。十六年の人生史、これでもうぜんぶ終わっちゃいました。もうちょっと面白おかしく時にフィクションも交えつつ冒険活劇調に話したかったんですけど」
「今の話でそれは無理があるだろ……というか、さっきは本当に悪かった。いくら知らなかったとは言っても、もうちょっと言葉を選ぶべきだった。反省してる」
「あ、いや、その、それはもういいんです。……よくよく考えたら、聞いてて楽しい話じゃなかったですよね。すいません、わたしって空気の読み方わかんないんですよ。けっきょく生きてるうちに友達できなかったし、ここってほら、わたしの事故があってから本当に自殺しに来ちゃう人もいたんですけど、そういう人は未練を残さないで死んじゃうから、幽霊にならずにそのまま成仏しちゃうんですよね。だからわたしはずっとひとりぼっち、生前死後通算で友達ゼロの真性ロンリネスなのです。……ぬおおおっ、言ってて死にたくなってきました! もう死んでるけど!」
明日香は絶叫しながら頭を抱え込むと、辺りをごろごろとのたうち回り始めた。その異様とも言えるテンションの由来が今の話でなんとなくわかった気がして、桜介はもう、彼女の奇行を咎める気にはなれなかった。
しばらくナナと顔を見合わせて、それからふたり同時に頷いた。
「明日香」
「……はえ?」
初めて自分の名を呼ばれ、明日香の口から頓狂な声が漏れる。
「ひとり目」
「ふたりめじゃ!」
「……え? え?」
「なろう、って言ってなるもんでもないけどさ。友達になろうぜ」
不器用な笑顔を作って、桜介は手を差し伸ばす。明日香は自身に差し出された手をぽかんと見つめ、しばらく目を白黒させたのち、ようやく言われていることを理解したようだった。
「と……友達に、ですか?」
「おう。どうせ授業サボってナナと遊んでやるところだったし、二人よりは三人のほうが楽しいだろ。一緒に遊ぼうぜ」
「うちも、アスカといっしょに遊びたい!」
「……お、おおおおおお!」
返事の代わりに、明日香は謎の雄叫びをあげた。
「お聞きください神様! 不肖わたくし廣瀬明日香! ついに! ついに友達ができました! 夢ならどうか覚めないで!」
「……夢じゃねえよ。ほら」
明日香の頬を軽くつまむ。仁とナナに例を見るように、幽霊は視認さえできれば五感すべてで知覚できるようになる存在らしい。
「ひ、ひはい、ひはいへふ」
「じゃあ夢じゃねえんだろ」
「は、はい……うわぁ、やばいです。胸めっちゃどきどき言ってます。もし生前だったら心臓麻痺で即死するレベルですよこれ」
うわぁうわぁと錯乱めいた呟きを連呼しつつも、明日香の表情は徐々にほころんでいく。どっちにしろ友達のできない運命だったのではないかと思う桜介だったが、その顔を見ていると、とてもそんなことを言って揚げ足を取る気にはなれなかった。
「なにして遊ぶんじゃ?」
「そうだな……明日香は何かやりたいことあるか?」
「鬼ごっこがしたいです!」
「鬼ごっこ?」
「子どもの頃からの夢だったんです。部屋のベッドから窓を覗きながら、わたしも一度でいいから無邪気に駆け回るみんなの中に混ざってみたいと思ってました。……駄目ですか?」
「わかった。やろうぜ、鬼ごっこ」
そんな話を聞かされて断れるわけがなかった。桜介の快諾を得て、明日香の表情がぱあっと明るさを増す。
幸いにしてこの屋上という場所は鬼ごっこをするにはかなり適した場所だ。たまには童心に返ってみるのも悪くないと思い、桜介自身もまた、弾んだ気持ちでジャンケンの合図を出した。
数十分後、桜介は自分の軽はずみな言葉を心底から後悔していた。
「はぁ……はぁ……ぜぇ……ぜぇ……」
自分の鬼になってからもうどれくらいの時間が経過しただろうか。全身が休息と水分を渇望している。休むことなくひたすら全力疾走を続けた結果だった。
「オウスケー! こっちじゃよー!」
「もう息が上がっちゃったんですか? だらしないですー!」
遠巻きから好き勝手なことを叫んでいる幽霊少女ふたりに向かって、桜介はふらふらとよろめきながらも怒号を飛ばす。
「空飛ぶのは反則だろおまえら!」
「そんなこと言っても、ふつうに走ったら勝てるわけないじゃないですか。こんなにちっちゃいナナちゃんと、元病弱少女のわたしですよ? そのくらいのハンデはあって然るべきだと思います」
二本の足で走ることしかできない桜介と、自由に空を駆け回れるふたりとでは、移動のスペックが明らかに違いすぎていた。桜介が十メートル距離を詰める間に、明日香たちはその倍の距離を縦横無尽に飛び回ることができる。正直言って、まったく勝負になっていなかった。
それでも最後の力を振り絞って猛然と駆け出してはみるものの、ふたりはきゃあきゃあと歓声をあげながら、あっという間に屋上の端から端へと逃げていってしまう。その光景は桜介の心と膝を折るには十分だった。
「あー……もう無理。マジ無理……」
その場に力なく倒れる桜介のもとへ、明日香が不満げな顔を浮かべながらやってくる。
「むー。もう終わりですか? まだぜんぜん物足りないです」
「だったらナナとふたりで遊んでろよ……」
「あ、それもそうですね。よーし、ナナちゃーん! 今度はタイマンですよー!」
「たいまんってなんじゃー?」
「一対一の女の勝負です!」
「おお! 一対一か! 負けんよー!」
目にも止まらぬスピードでじゃれあうふたりを脇目に眺めながら、桜介はひとつ大きく深呼吸をして、そのままごろりと四肢を投げ出した。
学校の中で一番空に近い場所。水晶球をそのまま散りばめたかのように透き通った空は、溜め息が出るほど綺麗だった。
全身に重量感のある疲労を覚えながら、桜介はふと思う。こんなに馬鹿みたいに走り回ったたのなんて、いったい何年ぶりだろう。かつては父親や愛とこうしてよく遊んだものだったが、今ではもうずいぶんと昔のことのように思える。
「よーし、追い詰めましたよ! 観念するといいです!」
「まだまだじゃー!」
「なっ……フェンスをすり抜けてそのまま空へ!? なんという枠に囚われない発想!」
「えへへ、こっちじゃよー!」
「やりますね……でも逃がしませんよー!」
視界の端では、幽霊少女ふたりがいつまでも無邪気に追いかけっこを続けている。明日香はもとより、ナナも本当に楽しそうだった。
やがて、一限の終了を知らせるチャイムの音が鳴り響く。桜介は重い腰を上げると、なんじゃなんじゃと辺りを見回しているナナのおかっぱ頭にぽんと手を置いた。
「時間だ」
「もうおしまいか?」
「次の授業はさすがに出なきゃな。まあ、おまえはここに残っててもいいけど」
「え、いいんか?」
まんまるに見開かれたナナの瞳は、一目でわかるほど喜悦に埋め尽くされていた。友達ができて嬉しいのはナナもまた同じのようだ。
明日香のほうを見てみると、彼女も期待に満ちたまなざしを浮かべていた。桜介は小さく笑みを漏らして、期待に応えるための言葉を口にする。
「そういうことでさ、ナナの面倒見ててもらえないか」
「はいっ、喜んで」
明日香にナナの遊び相手になってもらえるなら、自分も安心して授業に集中できる。そんな意味合いも込めた桜介の頼みは、一も二もなく快諾された。
「そんじゃ、次の休み時間になったらまた様子見に来るわ。仲良くやれよ」
「いってらっしゃいです」
「いってらっしゃいじゃー」
仲良くふたりに手を振られ、桜介は屋上を後にした。
*
それから休み時間のたび、桜介は屋上を訪れた。昼休みには屋上で昼食をとった。
明日香とナナは飽くことなくいつまでも追いかけっこを続けていた。よくもまあそれだけ続けていられるものだと呆れていた桜介だったが、夢中になって遊ぶふたりの姿は、自分にもかつて覚えのあるものだった。
ひとつのことだけに、ただひたすら打ち込めるということ。
それは大人になってからでは得難い才能であると同時に、誰もが幼少期には等しく持っていたものでもある。桜介も幼少時代、父と一緒に行った公園で、日が暮れるまで滑り台の上り下りを繰り返していてもまったく苦痛ではなかったのを覚えている。今にして思えば、あんな単調な遊びに付き合わされていた父親のほうは堪ったものではなかっただろう。今まさにその立場に立たされている桜介にはそれがよくわかった。
それでも、ナナと明日香の笑顔を見ていると、大人になるというのは必ずしも得ることばかりではないのかもしれないと思わされるのもまた事実だった。果たして今の自分にはあんな風に笑うことができるだろうか。
放課後になって、また桜介はふたりの様子を見に屋上へと足を向ける。この一日だけで何往復したかわからない階段を上って、屋上への重い扉に手をかける。
「「わっ!」」
「うおっ」
扉を開いた直後、ナナと明日香の稚児めいた悪戯が桜介を驚かせる。
「びっくりしました?」
「するに決まってんだろ。まったく……ガキかっての」
「えへへ。ごめんなさい」
あまり悪びれた様子はなく、明日香はちろりと舌を出して謝る。
「もう授業は終わったんですか?」
「おう。だからナナを迎えにきた。これ以上学校に残る用事もないしな」
「……そう、ですか。そうですよね。授業が終わったら、帰らなきゃですよね」
そう伝えた直後、明日香の顔がわずかに曇る。ナナと過ごした時間は相当楽しかったようで、惜別の情念が表情からありありと感じ取れた。
「もう帰るんか?」
「夕飯に遅れたら母さんが心配するしな。ナナは楽しかったか?」
「うん! すっごい、すーーーっごい、楽しかった!」
「そうか」
短い両手をいっぱいに広げて、どれだけ楽しかったかを示そうとしているナナ。その頭をぽんぽんと撫でながら、桜介は明日香に告げる。
「明日香も、ありがとな。こいつの面倒見てくれてさ」
「いえ、そんな。わたしのほうこそ、ありがとうございました。こんなに楽しい日、今まで一度だってありませんでした。あんまり楽しくて、ほんとに夢みたいでした」
そう語る明日香は笑っていたにも関わらず、これまでに見せたどんなものよりも儚げな表情を浮かべているように見えた。なにか並々ならぬ気配を感じ、桜介はすかさず言葉を重ねる。
「今日で終わりみたいなこと言うなよ。明日だってまた来るぞ」
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げて、明日香はそのまましばらく、身じろぎせずに同じ体勢を保っていた。
明日香が頭を上げてからも、いくばくかの沈黙が続いた。その沈黙が何を意味するのか、あまり想像したくはなかった。だから桜介は必死に言葉を探してみるのだが――今この場で言うべき言葉が、どうしても見つからない。
こんな泣きそうな笑顔をした少女に、いったいどんな言葉を与えられるというのか。
「ひとつだけ、お願いしてもいいですか」
長い沈黙を先に切り裂いたのは、明日香のほうだった。
「連れていってほしい場所があるんです」
「……いいけど。どこだ?」
「図書館です」
桜介はひとつ頷いて、ナナと明日香とともにその場を後にした。扉を閉め終える間際まで、明日香の瞳はじっと屋上へと注がれていた。
放課後の廊下は閑散としており、こつこつと床を叩く足音がいつもよりずっと冴え渡って聞こえる。廊下を突き当たった場所に、目的の図書館はあった。この時間にもなるとほとんど利用者は存在せず、勤勉な学生が何人か勉強している姿を散見できる程度だった。
「こっちです」
広大な空間に存在する数え切れない蔵書には目もくれず、明日香は桜介たちに先立って前を歩いていく。その背の向かう先は、図書館の奥にある資料室だった。
通常の書籍ではなく、この学校に関する資料を集めた一室。各文化部の部誌や生徒会発行のプリントなどが、年代別に整然と並べられている。ふだんあまり図書館を利用することのない桜介は、こんな場所があったのかとまずそのことに驚いた。
細かく区分けされた資料の中、明日香の眼差しはとある一点に向けられていた。桜介はその視線を辿り、山とある資料の一画の中からそれらしきものを見つける。
「……卒業アルバム?」
その棚には、昨年の卒業生のものから、三十年ほど前のものまでの卒業アルバムがずらりと陳列されていた。
「これ、取ってくれませんか」
無機物に触れない明日香の代わりに桜介が棚から引き出したのは、今から二十四年前の卒業アルバムだ。かなり保存状態に難のあるもので、上部には大量の埃を被っている。もとは真っ白だったらしい表紙の装丁はすっかり退色して黄色みを帯びてしまっていた。
「これって……明日香の学年の卒業アルバムか?」
「そうです。……見せてもらってもいいですか?」
椅子がないので床に座り込んで、隣の明日香にも見えるようにアルバムを開く。ナナも桜介の横合いから首を差し入れてくる。
アルバムの中身は、今も昔も変わりなく普通のものだった。ページを繰るごとに、当時の卒業生たちの顔写真がクラスごとに並ぶ。
明日香が三年間を共に過ごすはずだった、同級生の面々。彼らの顔を一人一人じっと見つめながら、明日香は時折ふるりと小さく体を震わせていた。
「……ひとりも顔わかんないですね。誰とも会話すらせずに死んじゃったんだから仕方ないんですけど」
「……まだ、見るか?」
「はい。見せてください」
今にも泣き出しそうな顔とは対称的に、彼女の言葉はしっかりとした芯の通ったものだった。桜介は無言のまま、ページを繰ることで明日香の気持ちに答えた。
それからおおよそ十分ほどで、八クラス、全三百十三人の卒業生たちとの対面が終わる。あっさりとしたものだった。実際に生きて会話を交わせたならば、その何千、何万倍もの時間を共に過ごすことができただろうに。
そして、当然だが、アルバムの中に廣瀬明日香という学生は存在しなかった。
「……」
期待していたわけではなかったのだろう。
それでも、もしかしたら――自分がここにいたということが何らかの形で残されていたなら。
希望と呼ぶにはあまりにも儚い明日香の祈りは、今この瞬間、静かに途絶えていった。
「……そうですよね。わたしのことなんて、誰も覚えてるはずがないですよね」
その小さな呟きの中には、いったいどれだけの悲嘆が込められていたのだろう。囁くような少女の声を、桜介もナナも沈痛な面持ちで聞き入れることしかできなかった。
「大丈夫です。それより、もっと先も見せてください」
「……わかった」
そこから先には行事写真などがずらりと並べられていた。体育祭に文化祭、生徒会選挙に部活動壮行会。二十余年も前から学校というのはほとんど変わっていないんだなと、この学校で一年を過ごしている桜介は実感を得ることができる。
しかし、明日香にはそれを実感することができない。ここから先の写真はすべて過ぎ去ってしまった過去であるにも関わらず、明日香にとっては過ごすことのできなかった永遠の未来なのだ。決して手に入らない幸せを見せ付けられることは、地獄に身を窶すよりもずっと辛いことだ。
視界に入る明日香の横顔はすでに泣いているようにも見えて、桜介は努めてアルバムに視線を落とすようにした。自分では明日香に何も言ってやれない。彼女の心を暖めることができるのは、もうここにはいない当時の同級生たちだけだ。
何ページにも渡る時間旅行の果てに、桜介は小さく、しかし重い息を吐き出した。最後となるページには卒業式の厳かな写真が映し出されている。三年間の学び舎を飛び立ち、めいめいの未来を歩んでいかんとする卒業生たちの面持ちは、誰もがそれぞれに強い意志を漲らせていた。
「……これで、終わり、ですね」
今にも泣きそうな顔で、しかし最後まで涙を堪えた明日香の表情にもまた、彼らに通ずる強い意思があった。
彼女は強かった。最後まで幸せな未来から目を逸らすことなく、己の運命を受け入れ続けた。
そんな彼女に、もしも言ってやるべき言葉があるとするならば。
――卒業、おめでとう。
桜介は、痛みに堪え続けた明日香にそう言ってやりたかった。だが、自分がそんなことを言って何の意味があるだろうか。明日香の痛みは明日香にしかわからない。そんな安っぽい慰めの言葉を吐いて、果たして明日香は救われるだろうか。
桜介にできるのは、最後のページを閉じ、この悲しみを終わりにしてやることくらいだった。最後に開かれたのは、奥付が記載された飾り気のない裏表紙。
「え……?」
真っ白なその空間を埋め尽くすように、いっぱいの手書きの文字が円環状に並んでいた。
卒業おめでとう、廣瀬明日香さん! 旧一年四組一同
明日香の小さな口が、呆然と開く。
中央に大きく書かれたその文字を囲むように、綺麗なものから汚いものまで、さまざまな筆致で明日香の卒業を祝う言葉がいくつも綴られていた。
共通点は、そのどれもが心のこもった暖かさを感じさせる字体であるということ。
『一言もお話できなくてとても残念でした。天国での暮らしは幸せですか? もしそうだとしたらわたしも嬉しいです。廣瀬さん、卒業おめでとうございます』
『入学したばかりのとき、私だけ隣の席が空っぽで、とても寂しかったのを今も覚えています。あれがもう三年前のことだと思うと、時間が経つのって本当に早いなと思います。卒業おめでとう、廣瀬さん』
『廣瀬さんがいてくれたから、俺たち一年四組はクラスが別々になってもこうして繋がり合っていられるんだと思います。卒業してからも廣瀬さんのことは忘れません。おめでとう』
『↓不謹慎なこと言うな! 廣瀬さん、卒業おめでとう!』
『七十年後、今度こそみんな揃って同窓会!』
『↑ほんとほんと! でも、それができたら面白いかも。だから廣瀬さんも俺たちのこと覚えててくれよ!』
形は、あった。
かつて廣瀬明日香という少女がこの学校にいたということが、何よりも確かな形として。
「あ、ぁ……あぁぁ……」
明日香の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれてアルバムの上に落ちていく。色褪せて滲んだインクは、二十四年の歳月による老化がそうさせたのか、それとも明日香の流した形なき涙が奇跡を起こしたのか。
『入学した矢先の悲しい事故でした。私の教員人生で、あの日を上回る悲しみはこれから一生先もないでしょう。ですが今日という日に、こうして生徒たち自ら廣瀬さんへの寄せ書きを残そうと立ち上がってくれたことは、私の教員人生で最も嬉しい出来事でもありました。私からも言わせてください。卒業おめでとう、廣瀬明日香さん』
学生たちの賑やかな文面に並んで、そこにはかつて担任だった人物の丁寧な文字も綴られていた。その言葉は、ほどけた明日香の心の中に熱く熱く染み込んでいった。
「事故だって……思ってくれてたんですね……」
自分の生徒は自殺なんかしない。あれは『悲しい事故』だった。担任教師はそう固く信じ、決して自分の考えを疑わなかった。
それは担任だけに限らない。たとえ世間に認知されることはなくとも、かつて一年四組だった者は全員そう信じている。
そうでなければ。
自殺などという愚かな最期を選んだ人間に対して、『卒業おめでとう』という祝福の言葉が、こんなにも素直に出てくるはずがないのだから。
「ぐす……ふぇぇ……ふえぇぇぇぇ……」
明日香はただただ泣き続けた。これまで必死に堪えてきた涙をもう心の中に隠しておくことなく、衝動のままに気持ちを溢れさせていた。
「うれしい……こんな日が来るなんて……わたし、わたし……」
ぽろぽろと涙の雫を落としながら、明日香は万感の想いを込めて言葉を紡ぐ。
「――生きてて、よかった」
その瞬間、真っ白な燐光が資料室の中を満たした。その眩しさに桜介は思わず目を覆う。数秒が経ち、光が収まったのを感じて手を退かすと、資料室から明日香の姿が消失していることに気が付いた。
「明日香……っ?」
「こっちです、桜介さん」
声は窓の外のほうから聞こえた。資料室に唯一取り付けられたガラス戸を開くと、その向こうで明日香がふわふわと宙に浮かんでいるのが見えた。
「どうしたんだよ、突然……?」
明日香の瞳にもう涙はなかった。その代わり、達観したような笑みを浮かべて、桜介とナナをおだやかな眼差しで見つめていた。
「わたし、やっと解放されたみたいです。初めての友達ができて……ううん、それよりもっと前から、わたしにはちゃんと友達がいて……ここに留まってる理由、なくなっちゃいました。もう思い残すことはひとつもないです。だからわたしは、在るべき場所に戻ります」
「アスカ……どっか、いってしまうんか?」
「……ううん。ナナちゃんよりちょっとだけ先に行って、向こうで待ってるだけですから」
その体が大空に溶けていく。輪郭が完全に消え落ちる瞬間まで、明日香は笑顔を崩すことなく桜介たちと対峙し続けていた。
桜介は理解した。これがあらゆる幽霊の辿り着くべき正しい最期であり、現世に縛り付けられた魂の救済であり、――そして、真の意味での別れなのだと。
「もし生まれ変わっても、ふたりのことは絶対に忘れません。お元気でっ」
それが最後の言葉だった。ひときわ強い光を放って、明日香の姿は完全にその場から消失した。
「明日香……」
名を呼んでも、もう返事はない。
清々しい笑顔とともに天空に溶けていった少女の姿は、桜介の目にはまるで天使のように映っていた。大空に羽根を広げて、明日香は悲しみのない無上の楽園へと飛び立っていったのだ。
桜介はその場にじっと立ち尽くしたまま、開け放たれた窓の外をじっと見つめ続けていた。
*
その日の帰り道、桜介とナナは仁のいる共同墓地を訪れていた。
仁はいつもの人好きのする笑顔でふたりを歓迎すると、こちらから切り出すまでもなく相談に乗ってきてくれた。
桜介が今日の出来事をすべて語り終えると、仁は「そうかい」と短く呟いて、それからふたりの頭の上にぽんと手のひらを置いた。
「君たちはとても良いことをしたね。幽霊をもっとも望ましい形で成仏させるなんて、そう簡単にできることじゃない。明日香ちゃんはとても感謝していただろうね」
「……そう、なんでしょうか」
「間違いないとも。成仏することで幽霊はようやく生まれ変わることを許される。それは幽霊にとっては何よりの救いなのさ。未練のない幽霊なんてそもそも存在しないのだしね」
「ジンにも未練があるんか?」
「……ああ。私とて例外ではないよ」
仁は表情から笑顔を消して答えた。先日ナナをここに連れてきたときもそうだったが、彼にはどこかナナに対して遠慮しているような、気を遣っている部分がある。
彼はやはり、生前のナナと面識があるのだろうか。
「あの、仁さん――」
「桜介君、体の調子はどうだい?」
「え……?」
思い切って訊ねてみようとしたところで、突然そんなことを聞き返された。暗に聞くなと言われているような気がして、桜介は喉元まで出掛かっていた言葉を飲み込んだ。
「いや、別に、いつも通りですけど」
「そうかい。なら良かった」
にっこりと微笑んで、それきり仁は言葉を閉ざした。すべての人を受け入れるような穏やかな笑顔が、今は不思議と拒絶の表情に見える。
やはり、そういうことなのだろうか。
「……また来ます。おやすみなさい、仁さん」
「ああ。おやすみ、桜介君。おやすみ、ナナちゃん」
「うん。また今度じゃ」
それ以上この場にいられる空気ではなかったので、桜介は一礼して仁に別れを告げた。ナナも隣で小さく手を振る。
共同墓地を出てから、ふたりはしばらく無言で歩いた。今日の出来事を思うとなかなか言葉が喉元を通らない。
今日の昼間には、自分たちの隣であんなにも楽しそうに笑っていたのに。
明日香はきっと幸せだったと聞かされても、桜介はいまだに事実を受け止めきれずにいた。幽霊という存在の儚さを今さらになって思い知らされていたのだ。
すべての幽霊にとっては成仏こそが救いだと仁は言った。それはつまり、ナナにとってもそうだということだ。
ナナにも未練がある。
そして、未練を晴らしたとき、ナナとも別れるときが来る。
この時間は、そう長くは続かないのだ。
「……アスカが、うらやましいなぁ」
そんなことを考えていると、隣を歩くナナが不意に呟いた。
「羨ましい?」
「うん。だってアスカは、あんなにたくさんの人に覚えててもらったんじゃろ? しあわせじゃよ。うちはアスカのことがうらやましい」
「……ナナ」
「うちのことを覚えてる人なんて誰もおらんもん。うちだって自分のことを覚えてないんじゃもんな」
その横顔に、桜介は何ひとつとして言葉を返してやることができなかった。
失われた本当の名前。
それこそがきっと、ナナがこの世に残した未練なのだ。自分の与えた仮初めの名前では彼女の心をほどいてやれない。そのことを痛感させられて、桜介は唇を噛み締めた。
「でもな。うち、アスカに会えてよかった。ほんのちょっとだったけど、ともだちになれたんじゃ。楽しかったなぁ。またアスカとあんな風に遊べるじゃろうか」
「……遊べるよ。あいつ、待ってるって言ってたからな。友達は絶対に約束を破らないんだぞ」
「そうなんか?」
「そうだよ。だから俺も愛も、ナナとの約束は絶対に破らない」
「……ふふ。うれしいなぁ。ありがとな、オウスケ」
にっこりと相好を崩してナナが腕を絡めてくる。桜介は何も言わず、ナナの好きなようにさせてやった。
「あのな、オウスケ。今日のことな」
「うん?」
「オウスケ、最初はアスカのことが見えんかったじゃろ?」
「……ああ、確かに。でもナナに手を繋がれて、なんだか変な白い光に包まれて……その途端に明日香が見えるようになったんだ。あれって何だったんだ?」
「うちとオウスケは繋がっとるからな。うちに見えるものは、オウスケにも見せてあげられるんじゃよ。……ええと、な。それでな」
ナナはなぜか言いにくそうに口元を動かす。どうしたのか不思議に思っていると、
「……オウスケは、ヒロキと会いたいか?」
「…………え?」
想像もしていなかった父の名が、ナナの口から発された。
「もしもオウスケがそうしたいなら、うちはふたりを会わせてやれる。……オウスケは、どうしたい?」
「親父と……会える……?」
この七年間、それは常に考えないようにしてきたことで、それでも時々どうしようもなく考えてしまったこと。
絶対に叶わないはずの願いだった。だから、どれだけ寂しくても考えないようにしてきた。
「……ヒロキな、今もオウスケのすぐ隣にいるんよ?」
「っ……!」
そんな言葉を聞かされて。
首を横に振れるはずが、なかった。
「……わかった。オウスケ、手貸してな」
小刻みに震える桜介の手に、ナナの小さな手が重なった。それからわずかな後、繋がり合った手が静かな輝きを放ち始める。全身を光が駆け巡っていく感覚。優しい燐光が視界一面までもを満たし、数秒間、桜介の瞳から世界の色が抜け落ちた。
やがて、光は徐々に収まっていく。
世界が輪郭を取り戻す。
真っ白になる前の世界と、真っ白から帰ってきた後の世界。
限りなく近似した世界の中に、たったひとつ、明らかな特異点が発生していた。
桜介のすぐ隣に、頑強な体つきをした壮年の男性が立っていた。自分でも意外なことに、最初の衝撃はそこまで大きくなかった。ただ、じわじわと心が懐かしさで満たされていく。
燃えるような夕陽を背にして、記憶の中と寸分違わぬ姿をした父親が、不器用な笑顔を作って言った。
「……よう。久しぶりじゃねえか、バカ息子」
七年ぶりのその声に全身が震えた。大樹がいる。父がすぐ隣にいる。弾けるように溢れ出た実感が桜介の視界を淡く滲ませた。
「……こっちこそ久しぶりじゃねえか、バカ親父。……勝手に死にやがって。……勝手に、勝手に……」
言葉が上手く紡げなかった。言いたいことがたくさんあったはずなのに、込み上げる嗚咽がそれを邪魔する。泣いている姿なんていちばん見せたくなかったのに。父がいなくても自分は立派にやってきたのだと教えてやりたかったのに。
「昔みたく、お父さんって呼んでくんねえのかよ」
「……お父さん」
「……いや、ダメだなこれ。でけえ図体したやつにそんなこと言われたくねえや」
「このバカ親父……」
顔を上げていられなくなって、桜介はとうとう目を伏せた。どれだけ堪えても後から後から熱いものが溢れてくる。
そんな息子の体を、父の大きな腕が包んだ。
「……ほんとによぉ。あのこまいのがこんなにでかくなりやがって。何食ったらこうなんだよ」
「知るかよ……」
「……悪かったな、桜介。側にいてやれなくて、悪かった」
「謝んじゃねえよ……バカ……」
「……ごめんな、桜介」
昔に比べたら父の胸は狭くなってしまっていたが、その匂いと暖かさは変わらないこの世の何よりも広くて安心できる場所の中で、桜介は子どものように泣いた。
「……よかったなぁ、オウスケ」
固く抱擁を交わす父子の姿を、ナナはひとり、少し離れた場所から静かに見守っていた。