#一章 初夏の邂逅
七年前、交通事故で父を亡くした。
残された子を想って気丈に振舞う母と、まだ産まれたばかりの小さな妹。高光家で唯一の男手となった高光桜介は、父の葬儀が執り行われている中、幼心に強い決意を刻み込んだ。
――これからは、おれがおとうさんのかわりにならなきゃ。
泣くのはこれっきりにすると父の遺影に誓った。これからはどんなことがあっても自分が高光の家を支えていくと約束した。だから父さんは安心して眠っていてほしいと願い、桜介少年は流せる限りの涙を流し尽くし、大好きだった父と永訣した。
それから七年。高校二年生になった桜介は、今もまだその誓いを堅く守り続けていた。あの日から一度として泣いたことはない。まだ父のようにはいかないが、少しずつ男としての強さを育んでいる最中だった。
もっと、もっと強くなりたい。自分にとって強さと優しさの象徴だった父の背中は、瞳を閉じれば今だって鮮明に瞼の裏に浮かんでくる。その隣に肩を並べられる日がいつになるかはわからないが、いつか必ず父のような強い男になってみせる。
そう、思っていたのに。
夢から目覚めたときにはすでに違和感を覚えていた。自分の頬に手で触れてみると、ひんやりとした感触があった。その事実が信じられなくて、桜介は着替えることも放り投げて洗面所へと向かった。そんなはずがない、きっと何かの勘違いに決まっている。
鏡を覗き込んでみると、そこには涙で顔をぐしゃぐしゃに歪めた自分が立っていた。
勘違いではなかった。自分は今、泣いている。
どうして泣いているのだろうと考えると、理由はすぐに思い当たった。
――夢。
満開の向日葵畑の中、ぼろぼろの少女が掠れた歌声とともに事切れていく夢。
悲しい夢だった。
あまりにも悲しい夢だった。
朝食の席で母親に顔色の悪さを心配されたが、桜介は頑としてなんでもないと言い張った。食欲はほとんど湧かなかったが、無理をしてほとんど噛まずに目玉焼きを胃の中へ詰め込んだ。
仕事へ向かう母を見送り、妹の桃を小学校の途中まで送り届けて、桜介もまた自分の学校へと向かう。
教室に入ると、よく見知った幼馴染みの顔を見つけた。
「ひどい顔ね。どうしたのよ」
物心ついた時からの付き合いで、小学校からはずっと同じクラス。もはや腐れ縁とも言える幼馴染みの篠崎愛は、桜介の顔を見るなり開口一番にそんなことを言い放った。桜介本人は意識して顔色を隠しているつもりだったのだが、そんな付け焼刃は彼女には通用しない。
首元で切り揃えたショートカットの黒髪に、強い意志を秘めた凛々しい相貌。すらりと伸びた長い手足にすっきりと目鼻立ちの整った容姿を持った愛は、クラスの中でもひときわ存在を際立たせていた。
「なんでもないよ。それより昨日の数学の宿題、難しかったよな。答え確認させてくれ」
「なんでもないって言うなら、少しはなんでもない顔してなさいよ」
愛はどんなときでも絶対に自分の嘘を見破ってくる。それでもしばらくは数学の宿題をネタに粘っていた桜介だったが、愛が一向に退かないのを見て、ひとつ大きく溜め息を吐いた。
「聞かれたくないことだってくらい察してくれよ。気の利かねえ女」
「あたしに言わないってことは誰にも言ってないってことでしょ。駄目よ。ただでさえ溜め込むんだから、悩みがあるなら言って。そんな辛気臭い顔見せられてちゃあたしが授業に集中できないの」
「……おせっかいな女」
荷物を置いて、愛の隣の席に腰を下ろす。愛は変わらず、鋭い視線で桜介を睨み続けている。答えを口にするまで絶対に目を逸らしてはくれないだろう。幼馴染みの頑固さをよく知る桜介は、仕方なく本当のことを話すことにした。
「夢、見たんだよ」
「夢?」
「おう、夢。それがあんまり悲しくてな」
この歳にもなって泣いちまったよ、とあえて軽い調子で言う。きっと笑われるに違いないと思ったから、自分から先に笑ってみせた。
だが、愛は笑わなかった。
「どんな夢だったの、それ」
「……途中で笑うなよ?」
「笑わないわよ」
真剣な表情を浮かべる愛を信じて、桜介は今朝の夢のことを話した。向日葵畑の中、ただただ少女が歩き続ける夢。できるだけ明るく話したつもりだったが、言葉にすることで再び悲しみが圧し掛かってきた。瞼の裏に焼きついた、あまりにも救いようのない光景が浮かび上がってくる。それだけで心が締め付けられるように痛んだ。
話を終えても、愛はやはり笑わなかった。代わりに、桜介そっくりの沈痛な面持ちを浮かべて、
「ひどい夢ね」
まるで自分のことのようにぽつりと呟いた。桜介は慌てて平手を振る。
「いや、まあ、所詮はただの夢だしな。そこまで気にすることもないんだ。忘れてくれ」
「……ねえ、その夢って」
「ねえねえ、今の話ってさ」
愛が何かを言いかけたところで、ふたりの会話は第三者の声に阻まれた。
桜介と愛はほとんど同じ仕草で、声のするほうへ首を傾けた。にこにこと人好きのする笑顔を浮かべてそこに立っていたのは、同級生の葉山悟史だった。
細身で小柄な、まだ中学生の幼さが抜け切らない少年。丈の合わないだぶついた制服を引きずって、ふたりの席に両手をついて身を乗り出してくる。
「いきなりなんだよ、葉山」
「今の話、詳しく聞かせてほしいんだけど」
「おまえには関係ないことだよ。人のプライベートに口突っ込むのは感心しないぞ」
「篠崎さんには話してたじゃんか。じゃあ僕にも話せるよね」
まったく悪びれた様子もなく、笑顔を崩さずに悟史は言う。愛と違って、彼は桜介とは高校に入ってからの付き合いだが、そんなことはまったくお構いなしだ。入学から一年と数ヶ月、今では彼はクラス中の全員を親友だと思っている節がある。
「っていうか、後半はほとんど聞こえてたんだけどね。ほんとにひどい夢。そんな夢見たら、僕だって泣いちゃうよ」
「そうかよ」
そんな笑顔で言われてもまったく説得力がない。彼に悪気がないのはよく知っているが、今は勘弁してほしかった。ただでさえ浮かない気分がさらに重くなってしまう。
そう思って、悟史を追い払おうとした時のことだった。
「ねえ。桜介は、夢のお告げって信じる?」
「……またオカルト話か?」
悟史はこの手の類の話が大好きで、暇さえあればいつでも話題を振ってくるのだ。うんざりして溜め息を挟む桜介。
「そう言わずに聞いてよ。どうしてそんな夢を見るのか、不思議に思ったことはない? それってさ、幽霊が僕たちの夢の中に入り込んでいるからなんだよ。夢枕。誰か身内が亡くなったその晩に、その人が家族の夢に出てくるっていうのはメジャーな話でしょ」
「葉山くん」
悟史の話を遮ったのは愛だった。その鋭い視線に、悟史も、あ、と言葉を切る。桜介の父が故人であることは悟史も知っている。それを思えば、今の言葉はあまりにも思慮に欠けるものだった。
「……ごめん。今の、無神経だった。ほんとにごめん」
「いや、いいけどな。気にされすぎるほうがきついわ」
悟史は無神経だが、謝ることを知っている。それまでの笑顔を消して深く頭を下げる悟史に、桜介は苦笑を添えて返した。
「で、なんだって? 俺の夢は幽霊が見せた夢?」
「……まあ、そうだとは言いきれないけどね。でも、そういう夢を見るってのは、何かしら意味があるってことだよ。実際、今までそんな夢を見ることはなかったんでしょ?」
こちらから会話を続けてやると、悟史はころりと態度を戻して生き生きした口調で返答する。得な性格だと内心で溜め息を吐きながらも、悟史の言葉に首を横に振ることができない自分に気がついた。
幼少期、特に父が亡くなったばかりの頃には、怖い夢を見ることはしょっちゅうだった。それでも桜介は誓いを守り、どんな時でも泣くことだけは耐えてきた。もうどんなことがあっても泣かないと言い切れるくらいには桜介は涙を堪え続けてきたはずだった。
そのはず、だったのに。
「…………」
悟史の問いに返事をすることができずにいると、タイミングを計ったかのように始業のチャイムが鳴り響いた。ほとんど同時に担任教師が教室に入ってきて、朝のHRが始まる。
結局、桜介の夢に関する話はこれでおしまいになった。
*
桜介が小学校に上がるよりも前のこと。その頃はまだ引っ込み思案で、いつでも桜介の後ろをついて歩くような少女だった愛と一緒に、父に連れられてよく行った場所があった。
フロントとリヤにチャイルドシートをくっつけた三人乗りの自転車で人気のない町外れを駆け抜けて、舗装さえされていない道をさらに進んでいく。その奥深くにある誰も足を踏み入れないような荒れ地こそが、その場所だった。
とにかく広くて何もない場所というのが、最初にその場を訪れた桜介の感想だった。「ここでおいかけっこしたらたのしいかも!」というのが桜介の意見で、「これじゃかくれんぼするばしょがないよぉ……」というのが愛の意見だった。
「確かに、ここじゃかくれんぼはできねえなあ」
父、高光大樹はそんな二人を交互に眺めて、愛の頭を優しく撫でた。
それからふたつの小さな手を引いて、荒れ地の真ん中あたりまで歩いていくと、大樹はおもむろに剥き出しの地面に寝転がった。
もしも母が一緒だったら「子どもたちが真似するからやめてちょうだい」と即座に大樹を諌めただろう。だが、この場にいるのは子どもだけだ。誰も自分たちを見咎めることはない。
「おまえらも寝っ転がってみろ。気持ちいいぞ」
少年のような笑みを浮かべて、大樹がふたりを呼んだ。父の声に、まず桜介が真っ先に応えた。ころりと小さな体を地面に横たえて、大樹の隣にぴったりとくっつく。
地面の上で寝るなんてと逡巡していた愛も、桜介が寝転がるのを見て、恐る恐るお尻をついてみることにした。初夏の赤土は思っていたよりもずっとひんやりしていて気持ち良かった。
愛はそのまま地面に身体を倒し、大樹を挟んで桜介の反対側にぴったりと寄り添った。三人のシルエットが作るいびつな「川」の字は、むしろ「小」の字と言ったほうが近い。
何もない地面から見上げた空は、何もないのに綺麗だった。
何もなくても世界はここまで綺麗なものなのだと、その光景はふたりの少年少女の心に強く焼きついた。
「すげえだろ」
「うん、すごい!」「すごい!」
どこまでも高く澄んだ空をときおりスズメが横切っていく姿を眺めながら、三人はしばしのあいだ、静かに過ぎていく時間を楽しんだ。
桜介にとって、それはいつまでも飽くことのない時間だった。いつまでだってこうしていたいと思った。だが、そんな桜介の横顔を見つめながら、大樹がにやりと笑って言った。
「桜介。向こうにはもっとすげえところがあるんだぞ」
「ほんと?」
「ほんとだ。行ってみたいか?」
「いってみたい!」
「愛はどうする?」
「おうすけがいくなら、いってみたい」
「決まりだな」
大樹はがばりと体を起こして、ついでに傍らのふたりを抱き上げた。きゃーきゃーという楽しげな悲鳴が荒れ地に響く。
ふたりを抱いたまま、大樹は荒れ地のさらに奥のほうへと歩いていった。自分たちふたりを抱えてのしのしと悠然たる足取りで進んでいく大樹の姿は、幼い桜介の目にはまるでスーパーマンのように映っていた。
やがて大樹が足を止め、ふたりを地面に下ろす。
到着した先は荒れ地の果てにある渓流のふもと。静かに流れる小川がこちら側と向こう側を分断しており、耳を澄ませば心地良いせせらぎが転がってくる。満天の太陽を反射して輝く水面は、どの角度から眺めてみてもきらきらと輝いていて、まるで宝石のようだった。
「わぁ……」
感嘆の息を漏らす愛。桜介も似たような顔を浮かべている。
そんな二人を横目に、大樹は何か企むような仕草で笑うと――
「とりあえず説明は後だ。何も考えねえで、黙って目ぇ閉じてみろ」
それだけ言って、瞳を閉じた。突然の不可解な言動に顔を付き合わせる桜介と愛だったが、とにかく言われるがままに瞳を閉じてみた。
――直後。
「うわあ!」「わあ!」
驚愕するふたりの声が綺麗に重なった。その声を聞いて、企み通りと言わんばかりに大樹はからからと笑い声をあげる。
「お、おとうさん。いまの……!」
「おまえらの見たもんがぜんぶだよ。もっかい目閉じてみな」
「う、うん」
どきどきが止まらなかった。桜介は恐る恐る、もう一度目を閉じてみた。
閉じた視界。何も見えなくなって、暗闇だけが広がる。
――そのはずなのに、桜介の瞼の裏側には、一面に広がる満開の向日葵畑が映し出されていたのだ。
「わあ! わあ! すごい!」
なんという光景だろうか。目を閉じているのに、こんなにも鮮明に、花びらの一枚一枚に至るまでくっきりと、向日葵が咲き誇る姿が網膜に直に映り込んでくるのだ。日常を逸脱した光景を前に、幼い桜介は大はしゃぎだった。
「すごい……きれい……!」
桜介ほど感情を表に出してはいないが、愛もまた、静かに強い感動を覚えていた。こんなにたくさんの向日葵、今まで一度だって見たことはない。
「すげえだろ。ここはな、俺の親父、桜介の爺ちゃんから教えてもらった秘密の場所なんだ。高光家代々、この場所を教えていいのは自分の子どもだけだって決まってる。母ちゃんだって知らねえんだぞ」
「え……でも、おじさん。あたしは?」
「愛は遠くない将来にうちの子になるだろうし、いいんじゃねえの。ご先祖様もきっと大目に見てくれんだろ。こんなこと言ったら愛の父ちゃんにぶん殴られそうだけどな」
「え?」
「ま、先払いってやつだな。やい桜介てめえ、頑張れよ? 篠崎さんちの父ちゃん、マジでつえーぞ。なんてったって学生時代、俺とやりあい続けて決着がつかなかったくらいだからな。あいつとはもうやりたくねえ。俺は遠巻きから応援させてもらうとすっからよ」
「え、え?」
「がっはっはっは」
豪快に笑い飛ばす大樹。なにが楽しくて笑っているのか、このときの桜介にはよくわからなかった。
*
かつて、そんなことがあったのを思い出した。
その日の晩、桜介は部屋でひとり物思いに耽っていた。今ではもうずいぶんと遠い昔のことのように感じる、在りし日の懐かしい記憶。
重いではあまやかで優しくて、やっぱり少しだけ辛い。どれだけ時間が経とうとも、失われた日々の記憶は今でもしっかりと桜介の心の奥底に根を張って、今日も変わらずきらきらと輝きを放ち続けている。
どうして今になってそんなことを思い出したのかはわからない。けれど、そのことを思い出してしばらく経ってから、桜介ははっと気付いた。
瞼の裏の向日葵畑。
夢の中の向日葵畑。
そのふたつが、記憶の中でぴったりと合致することに。
今朝、悟史が言っていた言葉を思い出す。父に連れられて行った荒れ地で自分が実際に不思議な体験をしている手前、悟史のオカルト話を一笑に伏すことはできない。
――そういう夢を見るってのは、何かしら意味があるってことだよ。
わからない。意味があるのかどうかなんてわからない。わかるわけがない。
それでも、その偶然の合致は、桜介にとっては決して無視できないものだった。
「…………」
夜十時。仕事で朝の早い母は、妹と一緒にもう眠っている頃だろう。
そう思った時には、桜介は立ち上がっていた。
たかが夢なんかを気にして、馬鹿じゃないかと言われるかもしれない。こんな時間から自分はどこへ行こうというのか。もしも母が目を覚まして、自分がいないことに気付いたら大騒ぎになるかもしれない。
そこまで考えが至ったにも関わらず、桜介はもうすっかり身支度を終えていた。ゆっくりと足音をたてないように廊下を歩き、静かに玄関のドアを開け、鍵をかける。振り返ると、家の明かりはすべて消えていた。
ガレージから自転車を引っ張り出して、強い蹴り足でペダルを踏んだ。自分がこれからしようとしていることに対する明確な理由はなかった。ただなんとなく、どうしてもあの場所に行かずにはいられなくなってしまった。正体不明の感情が胸の中で渦巻いている。
ちょっと行ってみるだけだ。何もなければそれでいい。久しぶりにあの満開の向日葵畑を眺めて、それで帰ってくればいい。
そう自分を言い聞かせ、いつもよりずっと静かな深夜の道路を自転車で駆けていく。
が、とある家の前でペダルを漕ぐ足が止まった。家にかかった表札は「篠崎」。その篠崎家の前で、ひとりの少女が誰かを待つように立っている。最初は目の錯覚かと思ったが、桜介の目に間違いはなかった。
「やっと来たわね」
待ち疲れたと言わんばかりに、愛は塀にもたせかけていた背中を上げた。こんな時間に何をしているんだという言葉が口をついて出そうになるが、よくよく考えれば自分のやっていることも似たようなものだったと思い直し、桜介は何も言えなくなる。
「ひまわり広場に行くんでしょ?」
思い出の場所を、ふたりはそう呼んでいた。この辺りで向日葵が群生している場所など他にないので、それはふたりの間だけで通じる暗号のようなものだ。
「……いっつも思うんだけどさ。なんで俺の考えてることわかんの?」
「桜介が単純だからよ」
すげない口調で言い放つ愛。しかし、もしも自分が来なかったらいつまで待っているつもりだったのか。事あるごとにこの幼馴染みには勝てないと思い知らされる。
そうしているうちに、愛が庭から自分の自転車を引っ張ってくる。何も言わないうちからもう、愛は一緒についてくるつもりらしい。ここで来るなと言って素直に聞き入れてくれるような性格ではないことを、桜介はよく知っていた。
「何してるのよ。早く行きましょ」
「……はいはい」
ひとりでさっさと進んでいく愛の後ろについて、桜介はこれまでより少しだけ遅めにペダルを漕いだ。
三十分ほど自転車を漕ぎ続け、ようやく桜介たちは目的地に到着した。ふたりがこの場所に最後に来たのはもう一年以上前のことになる。
そこには相変わらず、ほとんど草木の茂らぬ荒れ野が広がっていた。
辺りには街灯もなく、一歩先の足場すら定かではない。桜介は路肩に自転車を止めて、愛と一緒に先へと歩き出した。
「ここに来るのも久しぶりね」
「夜に来てみるとまた印象違うな。なんつーか、すごく寂しい感じ」
「同感ね」
当然だが、周囲に自分たち以外の人影はない。一面に塗りたくられたような暗闇の中では、一寸先の様子すらも満足に窺うことはできない。それでも桜介と愛は足を迷わせることもなく、まっすぐに前へと向かって歩いていく。体に刻み込まれた幼少の思い出がふたりの道しるべとなっていた。
沈黙が心苦しくなるような関係ではない。会話が必要なければ、必然的に沈黙が生まれる。音という音の一切が抜け落ちた世界の中、ふたつの足音だけが剥き出しの地面を踏みしめていく。
「聞いていいかしら」
その沈黙を、愛が破った。
「どうしてここに来ようと思ったの」
「……その質問、おまえの行動と矛盾してるぞ?」
「それはそれ。いいから聞かせてよ」
愛の言葉に、桜介はわずかに首を捻って答えた。
「夢ん中の向日葵畑に見覚えがあったってだけだよ。それでここのことを思い出して、久しぶりに覗いてみたくなった。そんだけ」
「こんな時間に?」
「だからそれはおまえも……ああもう、いいや。めんどくせえ。そうだな、確かにこんな時間にこんな場所まで出てくるなんて馬鹿げてるよな」
「うん、馬鹿。どうせおばさんにも言わないで家を飛び出してきたんでしょう。もし桜介がいないことに気付かれたらどうするの」
親に言わずに出てきたのは愛も同じだ。桜介は男だからまだしも、常識ある親がこんな時間に娘を外に出すような真似をするはずがない。
それでも愛は芯の通った声で続ける。
「あんまりおばさんを心配させちゃ駄目よ」
「……おう」
自分のことをひたすら棚に上げた幼馴染の言葉。
しかし桜介は小さく首を縦に振った。わずかな挙動の裏側で、自分の軽率な行動を大きく反省した。愛の言葉の意味を胸の奥で噛み締めた。
やがて、ふたりはどちらともなく足を止めた。前方からはさらさらと流れる小川の音色が聞こえてくる。遮るもののない清らかな調べもまた、今も昔も変わらぬものだった。
桜介は静かに瞳を閉じた。瞼の裏には、在りし日と変わらぬ満開の向日葵畑が浮かんでいる――はずだった。
「やっぱり、夜中だとこっちも真っ暗なんだな」
「そうみたいね。不思議」
ふたりの瞼の裏側の景色もまた、真夜中のものだった。目を凝らしてみても――目を閉じた状態では言い得て妙な表現だが、真っ暗闇の中にさざめく向日葵の輪郭が窺える程度で、いつもの鮮やかな黄色は鳴りを潜めている。
しばし漆黒の向日葵畑を眺めてから、ふたりはそっと瞳を開いた。
月光を受けてゆらゆらと揺れる水面をじっと注視すれば、ぼんやりと自分の顔が浮かんでいるのがわかる。桜介は川辺のへりに腰を下ろした。愛もそれに倣い、スカートを畳んで隣に座り込む。
それからしばらくの間、穏やかな静寂だけが流れていった。小川のせせらぎだけが、さらさら、さらさらと静かに音を奏でていく。その音色はどれだけ聞いていても聞き飽きなくて、桜介の心に不思議な安堵感を与えてくれる、魔法のような音だった。
広大な天蓋には星々が群れを成して輝いている。その中でもひときわ明るく光る満月。地上に生けるものすべてを包み込むように、淡く優しい輝きを放ちながらぽっかりと空に浮かんでいる。
永遠に続くかのように思えた優しい時間。そんな夢のような世界の中に、ほんの微かに聞こえてくる、
――ひとつ ひとりじゃさみしいね――
歌が、あった。
それも、聞き覚えのある歌だ。
「……なあ、愛。なにか聞こえないか?」
「……え?」
きょとんとした顔を浮かべて愛は桜介のほうを向いた。
「水の音じゃないの?」
「いや……空耳にしては、ずいぶんはっきりしてたような気がする」
それは、まだ幼い少女の声だった。聞き覚えがあるのは歌だけでなく、その声もそうだった。優しく悲しい数え歌。
「あっちだ……聞こえる。誰かが、いる」
桜介は声のするほうへ向かって静かに歩いていく。彼の突然の行動に目を丸くしていた愛も、すぐにその場から立ち上がって幼馴染みの背中を追った。
数十メートルほど歩いて、桜介が足を止めた。川辺を挟んで向こう側、こちらから見てちょうど対岸へ、桜介はじっと視線を注ぐ。
その先に、いた。
桜介の目には、はっきりとその姿が映っていた。
「ちょっと。どうしたのよ、桜介」
「……おまえには見えないのか? いるだろ、あそこに。女の子がいる。歌ってる。……夢の中とおんなじ、歌を」
それはにわかには信じられない光景だった。だが、信じられるか、信じられないかの問題ではなかったのだ。
自分がいま目にしている光景は、あまりにも悲しい。
ただただ、悲しい――。
――ふたつ ふえふきゃたのしいね――
「……あ、今の……」
今度は愛の耳にも聞こえた。
愛の目にも見えた。
小川の対岸。漆黒の情景の中に薄ぼんやりと浮かぶ、小さな小さなシルエット。
そこに、いた。
定まらない焦点を虚空に浮かべ、物悲しい旋律を調べ続ける、和装姿の少女が立っていた。
「みっつ……みいみい、ねこないた……よっ、つ――」
その調べが、ぷつりと止んだ。虚空に放たれた少女の視線は徐々に像を結び始め、これまで輝きを失っていた瞳に、再び意思の光が宿り始める。
そして、結ばれた視線と視線。
桜介と少女の眼差しが、今、交錯した。
最初は呆とこちらを眺め続けるばかりの少女だったが、しばらくして、その顔に明らかな驚きの色が浮かび始める。
「……うちのこと、見えるん?」
川辺越しに少女が問いかけてくる。もしも返事が返ってこなかったらどうしよう、そんな恐れと不安が、その弱々しい言葉尻から感じ取れた。
だから桜介は、はっきりと通る力強い言葉で、少女の問いかけに応えた。
「ああ。見えるよ」
少女は小さな体をびくりと震わせて、信じられないと言わんばかりに目を見開く。その瞳から一筋の涙が落ちた。突然のことに驚く桜介たちだったが、何か言葉をかけられるような空気ではなかった。
それから数分ほどが経って、ようやく落ち着いたらしい少女が、再び顔を上げて対岸をじっと見つめてくる。時代がかったおんぼろの着物姿。おかっぱの頭にくりくりとした瞳。年の頃は十歳くらいだろうか。
そのどれもが、桜介が夢の中で見た少女の特徴と一致する。
「……そっち、いってもええ?」
小川の向こう岸からおずおずと申し出てくる少女。桜介が首を縦に振ると、少女はほころぶような微笑を浮かべて、岸から岸まで、ふわりと――文字通りに飛んでくる。重力をまるで無視したその光景は、それだけで少女が人ならぬ存在であることを意味していた。
「……」
小川を飛び越えてこちらへやってきた少女は、じっと桜介の瞳を捉えたまましばらく動こうとしない。月明かりに照らされてほのかに浮かぶ少女の顔は、やはりまだ年端もいかぬ幼いものだった。
――この子は本当に、あの夢の中の少女なのだろうか。
もしそうだとしたら、自分はいったいどんな言葉をかければいいのだろう。口にするべき言葉がわからない。ただただ沈黙ばかりだけが続いた。
そんなときだった。
「……オウスケ、か?」
まだ名乗ってもいないのに、自分の名前を言い当てられた。
「そっちは、アイじゃな」
愛の名前までも言い当てられる。ふたりは顔を見合わせて、それから少女のほうに向き直り、こくりと同時に首肯する。
「どうして俺たちのことを知ってるんだ」
「うち、ずっとここにいたから。ここに来てくれるのは、オウスケとアイだけじゃったから。ちょっと前にはヒロキも一緒じゃったな。だから、ふたりのことはよく知っとる」
「……親父のことまで知ってるのか」
少女はすでにこの世を去った大樹のことまで知っていた。普通に考えればおかしな言葉だったが、彼女が人ならぬ者――幽霊であるというのなら、どうにか納得もつく。
「名前は」
途切れた会話を、愛のよく通る声が引き継ぐ。
「あなたの名前は、なんていうのかしら」
「……」
だが、少女は答えない。愛の言葉が聞こえなかったわけではない。少女はしっかりと愛の目を見据え、何かを言いたそうに幾度となく口の形を変えている。
それでも少女は何も言葉にできない。
その意味を、桜介は知っていた。
夢で見た光景。歌えない七番目。
――うちの名前、どこいってしまったんじゃろな――
少女は答えないのではない。答えることができないのだ。
「……うち、名前、ないんよ」
少女の口から、ぽつりと搾り出すような言葉が紡がれる。
「思い出せないんじゃ。自分の名前がなんだったんか、ぜんぜん思い出せないんじゃ」
静かな呟きだった。しかし桜介の耳には、それはさながら悲痛な慟哭であるかのように聞こえていた。少女の顔が少しずつ哀切に歪んでいくのを前にして、桜介はぎゅっと両の手のひらを握り締めた。
こんなに小さな、自分の妹とほとんど年齢の変わらない少女が、じっと悲しみに堪えている。
何か、してあげたいと思った。
なんでもいい。少女のためになることを、少女が笑ってくれるようなことを、何かひとつでいいからしてあげたいと思った。
何ができる。自分に、何ができる。
桜介はぎりと奥歯を噛み締めた。何も思いつかない自分の無知が歯痒かった。
そんな桜介の隣から。
「それなら」
一歩を踏み出す、幼馴染みの声が響いた。
「あたしたちに名前を考えさせてもらう――っていうのは、だめかしら」
「え……?」
「愛……?」
少女と桜介の声が重なる。
「ね。桜介、考えてあげましょうよ」
ぽかんと口を開ける少女。桜介も最初こそは少女と同じ顔を浮かべていたが、愛の提案にすぐに表情を引き締めた。
「そうだな」
幼馴染みの助け舟に感謝して、桜介は少女へと向き直る。少女はいまだ何を言われたのかわからないといった様子で、どこか遠くを見るような眼差しを浮かべていた。
「おまえの名前、おれたちで考えさせてくれないか」
「うちの、名前……?」
「ああ。でも、嫌なら無理にとは」
「――つけてほしい! 名前、つけてほしい!」
桜介が言い切るより先に、少女はほとんど叫ぶように答えていた。その瞳の中には輝くばかりの喜びと期待が溢れていた。重なった言葉と表情は、すなわち少女の紛れもない本心。
名前とは、誰かに与えられて初めて得ることができるもので、同時に誰にでも与えることのできるものでもある。それでも世界でただひとり、自分にだけは決して名前を与えることはできない。名前とは個人が別の個人を認めるためにあるものだからだ。
極論を言うならば、この世にたったひとり、自分以外に誰も存在しなかったとすれば、そもそも名前は記号としての意味さえも持つことができない。
……そんな世界に、この少女は今まで生きてきたというのか。
誰も寄り付くことのないこの荒れ地の中、たった一人で、誰かを待ち続けてきたというのか。
桜介は星々の煌く天蓋を仰ぎ見た。それは、この世界の中でこの場所を知るたったふたりの人間として、最大限の誠意を持って考えてあげなくてばならないことだと思った。
すっと星空から視線を下ろして、桜介は再び少女へと向き直る。
「――ナナ」
迷いなく、言葉はまっすぐに紡ぎ出された。
失われた七番目の歌。少女にとっては何よりも大事だったはずの、母との思い出。
その思い出を、ほんの少しばかり――たとえ形だけでも、埋めてやりたいと思った。
「ナナ……?」
「ああ。おまえは、ナナだ」
「ナナ……うちは、ナナ……」
もしかしたら気に入ってもらえなかったかもしれない。少女の反応の薄さに、桜介の心にわずかな不安が差し込んだ。
だが、しばらくしてそれも杞憂に過ぎたことを知る。
「えへへ……ナナ、うち、ナナか」
じわじわと、内側から染み出すように、少女の表情が少しずつほころんでいく。我慢できない衝動を堪えるように、ふるふると小刻みに小さな体が震えだす。
そして。
「ナナ――ナナ! うちの名前! オウスケが、うちに名前つけてくれた!」
ぱあっと、弾けるように笑顔が咲いた。
満開の向日葵畑を想起させる無上の笑み。それは少女が初めて桜介たちに見せた、年相応にあどけない笑顔だった。
「わーい! オウスケ、ありがとな! うち、すごくうれしい!」
ぴょんぴょんと桜介の周りを飛び跳ねながら、うれしくてうれしくて仕方がないと、少女は全身を使って示していた。
気に入ってもらえて良かったと、桜介は心の中でほっと安堵の息を吐いた。
そして桜介同様に、少女を優しい眼差しで見守っていた愛が、彼の耳元に顔を寄せて言った。
「よかったわね」
息のかかるほどの至近距離に、幼馴染みの穏やかな微笑みがあった。暗闇の中とは言え、こんなに近くで愛の顔を見るのは久しぶりで、反射的に桜介の心臓が跳ねる。
愛はここ数年、特に高校生になってからは本当に綺麗になった。ずっと一緒にいた桜介でもはっきりとわかるほどに。
そのことを自覚して以来、不用意に愛に近寄られると、桜介はそれだけで動揺してしまうようになってしまった。小学校の低学年までは一緒に風呂にも入っていた仲だというのに、いったい自分はどうしてしまったんだろう。
そんな気持ちを悟られたくなくて、桜介は平静を装うように努める。
「驚かすなよ」
「別に驚かせてなんかないけど」
「そんな近くで声出されたら驚くっての」
ぶっきらぼうな桜介の返事に、愛の眉根がぴくりと釣り上がる。
「暗いんだからしょうがないでしょ。じゃあ何よ、もっと離れたところから喋ったらいいの? どれくらい? 自転車置いてきたあたり?」
「いや、それ何百メートル先だよ。っていうかそのまま帰る気かよ」
「桜介がそうしろって言ったんでしょ。ふん、いいわよ別に。ついてきてあげて損した。桜介は暗い夜道に怯えながら一人で帰ってね」
「おい待て、それは聞き捨てならねえ。別に怖くなんかねえよ」
「あらそう? じゃああれ、小学校の五年生のときだったかしら。次の日にリコーダーのテストがあって、家で練習しておかなきゃいけなかったのに、桜介が学校にリコーダーを忘れてきたことがあったわよね。そのことに気付いたのが夜になってからで、桜介、慌てて学校に取りに行ったじゃない」
「いつの話だよ。そんな前の話覚えてねえよ」
「いいえ、あたしはちゃんと覚えてるわよ。最初はひとりで小学校に行ったはずの桜介が、そこからなぜかうちまで引き返してきて、涙目であたしに一言だけ言ったの。「ついてきて」って。……ぷっ。何が怖くなんかないよ」
「だからそんな昔のことを引き合いに出すなっつーの! いや、その……確かにそんなこともあった気はするけど、時効だ! 時効!」
「時効ねえ。桜介がそうしたいなら別にそれでもいいけど。それじゃもうちょっと最近の話、あれは中学校の二年生のときだったかしらね。あれも夜中の出来事で」
「おい待て、おまえ何を――いや、それは本当に待ってくれ! 悪かった! 俺が悪かったから!」
悪戯っぽく笑う愛に、桜介が必死に取りすがる。
犬も食わないような言い合いを交わすふたりの声に混じって、くすくすという笑い声が聞こえてくる。その声の主は、たった今、桜介にナナと名付けられた少女だった。
「変わっとらんなぁ。昔も今も、やっぱりふたりは仲良しじゃ」
幸せそうなナナの声に、桜介と愛はぴたりと言い争いをやめる。そしてばつが悪そうに互いの顔を一瞥し合ってから、どちらともなく笑い声を漏らした。誰からも忘れ去られた無人の荒野で、しばしのあいだ、三つの笑い声が折り重なるように響いていた。
和やかな空気に包まれる中、愛が再び桜介に耳打ちする。
「ねえ桜介。……この子、放っておけないわよね」
「……そうだな。でも、どうする。連れて帰るのか?」
「……あたしたちだけじゃ何もわからないわね。誰かに相談できたらいいんだけど」
「相談ねえ」
ふと、桜介の脳裏にひとりの人物の顔が思い浮かんだ。
*
「だいたい話はわかったよ。うん、大丈夫。アテがあるから。それじゃ、三十分後に町外れの共同墓地で」
携帯電話の向こうから聞こえる声は同級生の葉山悟史のものだった。通話を終えて、桜介は電話を閉じる。
「三十分後、共同墓地だってさ」
「お墓? なんでそんな場所なのかしら」
「葉山がそう言ったからな。聞くならあいつに聞いてくれ」
自転車を置いた場所まで戻ってきたふたりがそんな会話を交わす。その隣には、いまだにこにこと笑みを絶やさないナナの姿があった。
正直、劇的な何かを期待していたというわけではない。普段の悟史の言動には眉唾ものの話も多かったし、相談を持ちかけたところで、彼が本当にこちらの意に沿うようなことを言ってくれるかどうかは微妙な線だったからだ。
しかし悟史は、深夜零時も過ぎたこの夜更けにほとんどワンコールで桜介の電話に出ると、すぐさま桜介たちとの合流を申し出てきてくれた。昼間であればいざ知らず、この時間になってそれはなかなか出来ることではない。
「……あいつの場合、単なる興味本位って線もあるんだけどな」
「どうして葉山くんを悪く言うのよ。人の悪口はよくないわよ」
「おまえは潔癖すぎんだよ。しかもその割に俺の悪口は思いっきり言うじゃねえか」
「桜介は別よ」
「日本語を話せ」
相も変わらず言い合いを続けながら、ふたりはそれぞれの自転車にまたがった。
「えっと……うちも、ついていってええんか?」
「当たり前だろ。っていうか、おまえに来てもらわないと意味ないし」
「あ……う、うんっ」
促されるまま、ナナは桜介の自転車の荷台に座った。その小さな手が、おずおずと少女の倍はある背中をつまむ。
幽霊でも触られた感触ってあるんだな、なんてことを考えながら、桜介は言う。
「もっとちゃんとつかまっとけよ。落ちるぞ」
桜介にはなんということもない言葉のつもりだった。しかしナナはぱあっと輝くような笑みを浮かべて、それからしっかりと桜介の背中に腕を回した。
ナナの短い腕では、桜介の体の前で手を組むことができない。しかしナナにはそのことすら嬉しくて仕方ないようで、すりすりと背中に頬を寄せている。
「懐かれたわね」
くすりと愛が微笑を浮かべた、その直後のことだった。
ナナの小さな手に、ぽうっと淡い光が宿った。背を向けている桜介には見えなかったが、後ろにいた愛にはその様子がはっきりと見えた。
「え……?」
目をしばたたかせて、愛はもう一度ナナの手を見る。普通の手だった。もう光などどこにも見えない。自分の見間違いだったのだろうか。
「どうしたんだよ愛。置いてくぞ」
「……ごめんなさい。いま行くわ」
桜介に促され、愛は自分の自転車のスタンドを蹴る。今のことを伝えるべきか悩んでいたが、結局、そのことを桜介に話すことはなかった。
それから自転車を走らせてきっかり三十分後、町外れの共同墓地の前に悟史は現れた。だいぶ急いでやってきたのか、悟史は寝巻きにサンダルをつっかけただけという格好だった。
「ふう。こんばんは、ふたりとも」
切らした息を整えながらも、悟史はいつものように人好きのする笑みを浮かべる。なんだか今さらになって悟史に対して悪い気を覚えてきた桜介だった。
「いや、その。悪かったな、こんな時間に」
「んーん。話が話だし、そりゃ協力しないわけにはいかないからね」
力こぶを作るような仕草で答え、それから悟史はきょろきょろと視線を彷徨わせた。
「ところで、ナナちゃんってどこ?」
「……見えないのか、おまえ?」
「うん。ぜんぜん見えない」
ナナは桜介と愛のあいだに立ち、口を引き結んでその会話を聞いていた。いくら今に始まったことではないと言っても、目の前で自分の存在を否定されるというのは慣れようもなく辛いことなのだろう。
「ま、ちゃんとそこにいるんだよね。それならいいや。じゃあ三人とも、ついてきて」
しかし悟史は、ナナが見えないからと言って、いないことにはしなかった。墓地へと続く階段を上りながら桜介たちを手招きする悟史の目は、きちんとナナを勘定に含んでいた。
「いいひとじゃな、あのひと」
「たまに無神経だけどな。俺も今ちょっと見直した」
嬉しそうに呟くナナの手を両側から引いて、桜介と愛は悟史の背中を追いかける。
階段を上り、視界の先が開けると、真夜中の墓地がその全容を現した。
これまでほとんど場所のことを意識していなかった桜介も、その例えようのない雰囲気を全身に感じてしまっては、さすがに一歩後ずさらずにはいられなかった。
「なあに桜介、やっぱり怖いの?」
その所作をすかさず見咎め、愛がにやにやと口角を吊り上げながら言う。
「そんなことねえよ」
「ほんとに?」
「大丈夫だっての! だいたい、そう言うおまえこそほんとは怖がってるんじゃねえのか?」
「鏡を見てから言ったら? あたしの手鏡でよければ貸してあげましょうか?」
「あーはいはい。時間が時間だし、夫婦喧嘩は後でやってね。ほら、こっちだよー」
無邪気な笑顔で手を振る悟史には、ここが深夜の墓場であることなどまったく気にした様子はないようだ。桜介にはその神経の太さが心底羨ましかった。
周囲には当然ながら人気は皆無で、コオロギの鳴き声がりりりと響いている他にはなんの音も聞こえない。暦の上では初夏を迎えて久しいというのに、桜介の肌には空気がやたらと冷たく感じられた。
「ここだよ」
ある場所で悟史が足を止める。ほとんど足元の見えない中、桜介たちもなんとかその場所まで辿りつき、眼前にあるものを見定める。
「……おい、これって」
「お墓だね」
ささくれだった風化の跡が節々に見られる、ずいぶんと古びた墓石だった。辺りに点在するきちんと形成されたものとは違い、ただ地面に巨大な岩が突き刺さっているだけの、粗末な作りのもの。
墓石の表側には何か文字が書かれているようだが、この暗がりの中ではとても解読は出来そうにもなかった。それでもどうにか読み取ろうと目をしばたたかせている桜介に、悟史はくすりと笑いながら言う。
「ずっと昔、この辺りで疫病が流行ったのって知ってる?」
「疫病?」
「そう。僕たちが生まれるよりもっとずっと前の、お百姓さんたちが畑を耕してた頃の話。知らなくても仕方ないと思うけど」
「あたしは知ってるわよ。桜介、自分の住んでる土地のことくらいちゃんと知っときなさいよ」
「うるさいな。今から知るよ。で、それがどうしたんだ?」
「うん。そのときの疫病でね、たくさんの人が亡くなったんだ。ここはその人たちを供養したお墓。そこに書かれてるのは亡くなった人たちの名前」
墓石にそっと手を当てて、慈しむように悟史は続ける。
「当時は今みたいに医療が進んでたわけじゃなかったからね。一度重い病気にかかっちゃったらどうすることも出来なかった。今はすごく恵まれた時代だよ。ほとんどの人は衣食住に困ることはないし、もし病気になっても腕のいいお医者さんに診てもらえるし。それに何より」
ひとつ呼吸を挟んで、
「子どもが親より先に亡くなることもないし、ね」
その言葉に、ナナがふるりと肩を震わせる。傍らに立っていた桜介にはその様子がはっきりとわかってしまい、どうしようもなく胸が締め付けられた。
「……そうだな。俺もその通りだと思う。今は恵まれた時代だよな」
それだけ呟いて、桜介はナナの小さな手を握り直した。ぱっちりと開いたナナの瞳が自分の顔へと向けられる。桜介にはどんな表情を浮かべればいいのかわからなかったが、それでも決して顔だけは逸らさぬよう、じっとナナへと視線を注ぎ続けた。
それからしばらく、誰も何も口にしなかった。空気が重々しさを増していく中、悟史が苦笑と共に沈黙を破った。
「ごめん、ちょっと脱線しちゃったね。そんなことを話すためにここに呼んだんじゃなかったのに」
ばつが悪そうに頬を掻いて、悟史は桜介と愛の手に挟まれた空間に目線を落とす。
「ナナちゃんって言ったよね。僕には見えないけど、それでも桜介たちがそこに女の子がいるっていうなら、間違いなくいるんだろうね」
「……俺がこう言うのもなんだけどさ。どうして葉山は、こんな突拍子もない話をここまで簡単に信じてくれるんだ? めちゃくちゃな話だと思わないのか?」
「信じるさ。信じるに決まってる。見えないっていう理由だけで幽霊をいないことにするなんてひどいエゴだよ。幽霊は誰にでも見えるものじゃなくて、見える人にだけ見えるものだもん」
超然とした口調で言い切って、悟史は桜介たちのほうから墓石のほうへと向きを変えた。
「桜介たちに紹介するね」
こんこんと、まるで知り合いの家を訪ねてノックでもするかのように、悟史の右手が墓石を軽く叩いた。
「僕の友達で、幽霊の、仁さんだよ」
その言葉に答えるように、墓地の中に一陣の風が凪いでいった。砂埃が舞うほどの強烈な突風。桜介はたまらず目を閉じ、風が止むのを待った。
しばらく経って周囲の様子が落ち着いたことを肌で確認してから、恐る恐る目を開ける。
すると。
「お初にお目にかかります。ただいま葉山悟史君よりご紹介に預かりました、姓は神代、名は仁と申す者でございます。職業はしがない浮遊霊。今後ともどうぞよしなに――と、堅苦しいのは最初だけでいいよね。仲良くしようね、ふたりとも」
墓石の前に、着流し姿の若い男性が立っていた。
いや、立っていたというのは正確な表現ではなく、浮かんでいた。
あまりにも突然の光景に、桜介はただただ唖然とした表情を浮かべることしか出来ずにいた。先ほどナナと出会ったときに彼女が宙に浮かぶ姿を見ていなければ、きっと今ごろ腰を抜かしていたことだろう。
「……葉山。おまえって、交友関係すっげえのな」
「言ったでしょ? アテがあるって」
呆然と立ち尽くすふたりのクラスメイトを前に、悟史は得意気に胸を反らす。
「それじゃ、聞きたいことがあるならあとは仁さんに聞くといいよ。そういうわけだからお願いするね、仁さん」
「他ならぬ悟史君の頼みなら無碍にはできないね。あいわかった。なんでも聞くといいよ、少年少女」
穏やかな笑みを口元に湛えながら、ふわふわと浮かぶ男が言う。その柔和な視線が自分に向けられていることに気付き、桜介もはっと言葉を返す。
「あ、はい。その、俺、高光っていいます。高光桜介」
「うん。そうだよね、最初は自己紹介からだよね。じゃあ、そっちの女の子は?」
「……ええと。篠崎愛です」
「桜介君に愛ちゃんだね。うん、しっかり覚えたよ」
仁と名乗った男の手がすっと差し伸べられる。促されるまま、桜介も手を差し出す。その手がきゅっと確かな質量に握り締められた。
「これで私たちも今日から友達だ」
仁は満足そうに微笑んで、それから同様に愛とも握手を交わした。
彼の身につけている着流しはナナの服装に比べればずっと小奇麗なものだった。すっと通った高い鼻には小さな鼻眼鏡を引っ掛けており、見る者に知性的な印象を与えている。その落ち着いた物腰も相まって、なんとなく品位の高さを感じさせる男だった。
この男なら何か力になってくれるかもしれないと、桜介は直感した。
いつまでも驚いてばかりはいられない。自分は話を聞くためにここに来たのだということを思い出し、桜介は意識を入れ替えるように頭を振って、改めて仁と正面から向き合った。
「神代さん……でしたよね?」
「仁でいいよ」
「わかりました。それじゃあ仁さん、聞きたいことがあるんですけど、いいですか」
「先に言った通りだ。私に答えられることなら何でも答えるよ」
仁の快い返事に礼を言って、桜介は自分の背中に隠れていたナナを手招きした。おずおずと進み出るナナの姿を見て、仁は――意外なほどに、驚いた表情を浮かべた。
「な……その子は……」
驚愕と言うより、むしろ焦燥と言ったほうが正しいかもしれない。仁とナナには面識がある? そう思ってナナの表情を窺ってみる桜介だったが、ナナの方はきょとんと首を傾げているばかりだった。
「……君。名前は?」
仁は片手で額を覆いながら呼吸を整え、ナナに問いかけた。
「――ナナ! うち、ナナっていうんじゃ! オウスケがな、名前つけてくれたんじゃ!」
「……そうか。はは。ナナちゃん、とてもいい名前をつけてもらったね。良かったね」
「うん!」
弱々しい微笑を作って、仁はナナの頭を優しく撫でた。名前を褒めてもらったことがよほど嬉しかったのか、ナナは目を細めながら満面の笑みを浮かべ、自分の手の倍はあろう大きな手のひらを受け入れている。
一連のやり取りの中のわずかな違和感。だが、その正体を今の桜介が知る術はなかった。
「……桜介君。聞きたいことというのは、この子のことだね?」
真剣な表情の仁に訊ねられ、慌てて桜介は首肯を返す。
「あ、はい。その、どこから話せばいいのかわからないんですけど」
「なんでも話してくれ。私にできることなら幾らでも力になる」
「……わかりました。ええと……」
頭の中で言葉をまとめ、桜介はこれまでの体験のすべてを語ることにした。仁はじっと黙ったまま桜介の言葉に耳を傾けていた。その真摯な態度が、桜介からより多くの言葉を引き出した。
桜介の言葉にはたった一日の出来事とは思えない質量があった。傍らの愛もまた、桜介の言葉に同調するように、話の途中途中で小さく首を縦に振っていた。
「そうか。なるほど、そうか」
桜介のまっすぐな言葉に、仁は何度もこくこくと頷いた。
「君の話はわかった。察しのとおり、ナナちゃんは幽霊だよ。……桜介君、つまるところ君は、ナナちゃんに何をしてあげたいんだい? 生者が死者にしてあげられることなんて、ひどく限られているというのに」
「……自分でもよくわかりません。ただ、あの場所にナナをひとりで放っておくことはできないと思ったんです」
「……なるほど。だったら、ひとつだけ言ってあげられることがあるかな。この世に留まる幽霊にはね、決まって『拠代』が存在しているんだよ」
「拠代?」
「たいていの場合は仏壇だったりお墓だったりするんだけどね。私の場合もこれだし」
こつこつと片手の甲で墓石を叩きながら、仁は続ける。
「幽霊は、この拠代なくして世には留まれない。もしも何らかの事故で拠代を失ってしまえば、問答無用で即座にあの世ゆきだ」
「……」
「幽霊はみんな何かしら未練があるからこの世に留まるんだ。未練を晴らすことで魂を空に還し、新たな命へと生まれ変わっていく。けれど未練を残したまま消えていった幽霊は霊魂そのものが消滅してしまい、生まれ変わることすらできなくなってしまうんだよ。――と、さて。ここからが本題だ。いま私は拠代の話をしたけれど、それじゃあナナちゃんの拠代は、いったいなんなのかという話さ」
「え……?」
「ついさっきまでは、君たちの言うところの『ひまわり広場』がナナちゃんの拠代だったようだけれど。その拠代が今は別のものに移り変わっていることに、桜介君は気付いているかな?」
楽しげな口調で語る仁に、桜介は目を白黒させることしかできずにいた。
「はっはっは、その調子だと気付いていないようだね。ナナちゃんの拠代はね、君だよ」
「……は?」
「もう一度言おうか? 今のナナちゃんの拠代は、桜介君、君だ。どうしてそうなったのかは予想の範疇を出ないけれど、話を聞いていればなんとなくわかるねえ」
なんでもないことのように言う仁だったが、それはこれまでに言われたどんなことより、理解の追いつかない言葉だった。
自分が、ナナの拠代?
桜介の頭の中が疑問符で埋め尽くされる。どうして自分が?
「――名前、じゃないかしら」
これまで黙って仁の話を聞いていた愛が、ぽつりと呟く。
「名前って、人と人を結び付ける大事なものじゃない。名付け親って言葉もあるくらいだし、それにナナちゃん、あんなに喜んでたし。……たぶん、そういうことだと思う」
「きっと、そういうことなんだろうね」
愛ちゃんは理解が早いねと満足げな笑みを浮かべ、続けて仁はナナに向かって言葉を投げかける。
「……ナナちゃんは、今までずっと一人ぼっちで寂しかったかい?」
これまではきょろきょろと桜介と仁の顔を行き来させるばかりだったナナの瞳に、強い意思の色が宿っていく。
「うん」
宝石のように透き通った言葉が、ナナの小さな口からこぼれ落ちた。
「さみしかった」
少女が口にしたほんの一言は、その場にいる誰もの心を静かに打った。どんなに多くの言葉でも語りきれない感情が、桜介の心へと奔流のように流れ込んでくる。
「……そうか。そうだろうね。あんなところに一人ぼっちで、寂しくないはずがないよね」
わずかな間隙の後、仁は最後に再び桜介へと向き直った。
「桜介君、君はナナちゃんを放っておけないと言ったね」
「はい」
その問いかけに、桜介は力強く頷いた。その返事と表情に満足したのか、仁はにっこりと、これまでで一番の笑顔を作って――
「じゃあ、これからは一緒に暮らせばいいんじゃないかな」
臆面もなく、そんなことを言った。
*
愛を家へと送り届けて自宅に着いたとき、時計の指針はすでに午前の三時を指していた。
眠気もすでに限界だった。寝巻きに着替えるのも億劫で、自室に戻ってくると同時に、桜介は倒れこむようにベッドへと身を投げた。
「なあなあ、オウスケ! それ、なんなんじゃ?」
「ベッドだよ。布団」
心身ともに疲れきった桜介に、ナナはにこにこ顔で無邪気な質問を投げかけてくる。
「これ、布団なんか? うちが使ってたやつは、こんなにおっきくなかったけどなぁ。なるほどなぁ、オウスケはお金持ちなんじゃ!」
ナナはきゃっきゃとベッドの上で飛んだり跳ねたりを繰り返している。その音が階下に響いてしまわないかと少し心配になる桜介だったが、どれだけナナが飛び跳ねても、ベッドのスプリングはみしりとも反応しないままだった。桜介は不思議な気持ちで、その光景をぼんやりと眺め続ける。
どうやらナナは本当に自分と愛以外の人間には見えていないようだ。当然ながら食事を必要とするわけでもなく、ナナを家に置いておくことで生じる問題はほとんどない。そもそも自分がナナの新しい拠代となってしまった以上、こうする以外の選択は最初から無かったように思われる。
けれど、そんなことを抜きにしても、彼女をひとりで放っておくことはできないと思う自分がいるのは間違いなかった。
「……えっとな? これだけおっきかったら、オウスケのほかにもうひとりくらい一緒に寝ても平気じゃな?」
「まあ、大丈夫だと思うけど」
期待に満ちた目でこちらをじっと見つめてくるナナ。あまりにもわかりやすい彼女の意思表示に、桜介は思わず苦笑を浮かべてしまう。
「俺、あんまり寝相よくないからな。蹴っぽられて落ちたって知らないぞ」
「大丈夫じゃ! ありがとな、オウスケ!」
言うが早いか、ナナは飛び込むように毛布の中へと潜り込んできた。ベッドの傍らに、ぽうっと小さな温かさが灯るのがわかった。
ナナはここにいる。確かに、ここにいる。
できる限り、彼女の力になってやりたいと桜介は心から思う。しかし、いったい自分に何ができるのだろう。
答えの見つからない堂々巡りの中で、桜介の意識は少しずつ虚空の中へと溶けていった。