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#序章

 ひとつ ひとりじゃ寂しいね

 ふたつ 笛吹きゃ楽しいね

 みっつ みいみい猫鳴いた

 よっつ 夜更けじゃ眠りゃんせ

 いつつ いつでも側におる

 むっつ むずかる乳飲み子の

 ななつ ――を負ぶさって

 やっつ やうやう泣き止めば

 ここのつ これにて待つばかり

 十も数えりゃ 戸も開く

 眠りゃんせ 眠りゃんせ

 かわいい―― 眠りゃんせ



 満開に咲き誇る向日葵畑の中を、少女が歩いていた。

 襤褸切れを繋ぎ合わせただけの衣服は焼け焦げて炭化し、ところどころ穴あきになっていた。その下に覗く柔肌もまた同様にひどい火傷を負っている。体中のいたる箇所からじくじくと黄色い膿が湧き出ており、その全貌たるや惨憺たる有り様だった。

 助けようにももはや手の施しようがないことは、誰の目に見ても明らかだった。それでも少女はただ前だけを見据え、満身創痍の体で一心不乱に歩き続けていた。少女の背丈よりも高い向日葵は、かすかに吹く風を受けて揺り篭のようにさざめいている。

「……おかあ、ちゃん」

 荒い呼吸を繰り返しながら、もうほとんど見えてはいない濁った瞳で、少女はうわ言のように母の名を呼んだ。

 骨ばかりの矮躯は風が吹けば飛んでしまいそうなほどだった。一歩足を踏み出すだけで意識を失うほどの激痛が少女の痩身に走る。

 崩れ落ちそうになる体。

 いっそこのまま倒れてしまったほうが楽になれるに違いない。

「おかあちゃん……」

 それでも少女は両足を踏みしめ、ふらつく体を中空に留まらせた。

 いったいどれだけ歩いただろう。永遠に続くかと思われた向日葵畑を抜けて、やがて少女は清らかに澄んだ渓流のふもとへと辿り着いた。進む道を真横から一直線に分断するように流れていく小川は、どこまでも透明なせせらぎの中に、皮肉と優しさを同時に内包していた。

 もう、ここから先には進めない。

 もう、ここから先に進む必要はない。

 ぴちゃり、と素足を水面にさらす。全身を巡っていく冷たさは、普段であれば心地よく感じられたかもしれないが、焼け爛れた少女の体には猛毒とも変わらぬ暴力的な冷気となって襲い掛かった。叫びをあげる力もなく、少女の喉元から力ない吐息が吐き出される。

「つめ、たい、なぁ……」

 膝から感覚が抜けていく。もう駄目だった。紙切れのように崩れ落ちる体。僅かな水飛沫と波紋が周囲に散った。ゆるやかに立つ小波は小石が投げ落とされたのとほとんど大差ない。

 仰向けになって倒れた少女の視界に群青の空が映る。その中にひとつ、燦然と照り輝く太陽が浮かんでいた。

 わずかに一瞬間、少女は呼吸することを忘れた。

 だが、ほんの一瞬であっても、それはすべてを忘れ呆けてしまうほどに綺麗な空だった。ひどく眩しかったが、瞳を閉じる気にはなれなかった。

 ごく微弱に、しかし刻一刻と動き続ける空の色を眺めながら、少女はぼんやりと考えた。自分はこのまま死んでしまうのだろうか。きっと死んでしまうのだろう。全身をくまなく包む末期の予感は、一呼吸ごとに慈悲なき確信へと近づいていく。

 耳を澄ませば柔らかな小川のせせらぎが聞こえてくる。他にはなんの音も聞こえない。一切の音が消えてしまった世界の中で、それはとても神聖で美しい響きであるように思えた。

 さらさら、さらさら。いつまでだって聞いていたい優しい音色。

 無意識のうちに涙が頬を伝っていた。ひとしずく、ふたしずく、次から次へと溢れて溢れ、瞳の縁から小川の中へとこぼれ落ち、水と雫とが溶け合って混ざり合っていく。きらきらと、燃え尽きる間際の生命の輝きを放ちながら。

「ひとつ、ひとりじゃさみしいね……」

 今はもうここにいない母の顔を思い浮かべながら、少女は掠れた声で思い出の歌を口ずさむ。

 それは母が自分に与えてくれた唯一の忘れ形見。怖い夢にうなされて眠れない夜には、母は決まってこの数え歌を唄ってくれたものだった。

 ――二つ、笛吹きゃ楽しいね。

 ――三つ、みいみい猫鳴いた。

「よっつ、よふけじゃねむりゃんせ……」

 どんなに目が冴えてしまったときでも、慈愛に満ちた優しい旋律を耳に転がせば、いつだってたちまち優しい夢へ落ちていくことができた。大好きな歌だった。自分と母とを強く繋ぐ、それは形ある絆そのものだった。

「いつつ、いつでもそばにおる……むっつ、むずかるちのみごの……」

 言葉は魔法のようだった。続きを紡げば紡ぐほど、母との記憶が閃光のように蘇っていく。

 そして続く七番目の数字で、それは噴水のように一気に湧き上がる。

 ――はずだった。

「ななつ……なな、つ……」

 旋律が止んだ。言葉が喉を通らない。決して忘れるはずなどない歌詞なのに、頭の中が真っ白になって、それより先の言葉を考えることができない。

 思い出せない。歌えない。どうして、どうして。悔しさに拳を強く握った。唇を噛み締めた。華奢な体が悲哀に打ち震える。涙は止め処なく溢れてくる。どうしてこんなに大切なことを忘れてしまったのだろうか。

「うちの……うちの名前、どこいってしまったんじゃろな……」

 おかあちゃん、と掠れた声で母の名を呼んで。

 ふっと糸が切れたように、少女の意識は常闇の向こうへと沈んでいった。

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