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ブーケ

 昨日彼女と会えて、今度の日曜日が楽しみだなどと短く言葉を交わした。

 今日は彼女に会えなくて、明日は土曜日なので会えることはない。

 会えなかったことを思うと少し寂しいが、そういうこともある。それに明後日には必ず、しかも一日一緒にいられる。それはとても幸せなことだ。

 旅行の時にした、彼女の服を買いに行く約束。

 私の休みの都合で約束してから実行に移すまで少し時間が開いてしまったが、やっと巡ってきた二度めのデート。

 時間が開いた分だけたくさん考えて、それなりに準備もしてきた。

 普段は手に取りもしない大人向けのファッション雑誌も読んだでみたりして、書かれている金額に目の玉が飛び出そうな思いもした。

 元が美人なので何を着ても似合うだろう彼女なのだが、しかし何を着てもらうのがいいのかとなると実はとんでもなく難しいのではないだろうか。

 彼女は押し出しが強い人ではない。だから派手どころではなく逆に清楚といったようなものさえ、特徴が出すぎてしまうものはかえって彼女を委縮させてしまうのではないかと思ってしまう。

 それに、一着買えばそれで終わりということでもない。彼女が自分で自分の見た目に多少でも気を配るようになってもらわなければ、意味がないのだ。そのためには、お値段とか買う場所なんかまで含めての取っつきやすさも必要だ。

 考えて考えて雑誌なんかも参考にして、一人でいろいろな店を見に行ったりもして、何だかんだで充実した日々だった。

 後は明後日、実際の彼女の反応次第。

 彼女の顔を想像してニヤニヤしながら、日課というか習慣というか癖になってしまっている電話の通知確認をする。

 彼女から何か言ってもらえれば嬉しいが、なくてもそれはそれで安心する。

 元々は彼女が辛くてたまらない時にその辛さを吐き出してもらうために登録した連絡先なのだから、何も言ってこないということは、彼女が今辛いことにはなっていないという証拠なのだ。

 しかしつけた電話の画面にはチャットアプリのアイコンと彼女の名前と、そして夜分遅くにすみませんから始まる文が表示されていた。時刻はまだそれほど経ってはいない。

 何かあったのだろうか。私は慌ててアプリを起動する。

 そこには親戚に不幸ができてしまったために明後日はつき合えないという断りと詫びの言葉があった。

 驚きと残念さに思わず小さく声を漏らしてしまい、電話でなくてよかったと胸をなでおろした。

 こんな声を聞かせてしまったら、彼女がまた自分を責めてしまう。不幸は不幸であって、彼女が悪いことなど何もないのにだ。

(またいつでも行けますから、私のことは気にしないでいいです。気をつけて行ってきてください)

 白々しい気がしないでもなかったが、余計なことを言って彼女に余計な気を遣わせたくなかった。

 受信記録も待たない。やり取りが続けばそれだけ彼女に気を遣わせてしまう。

 わざわざボタンを押して画面を消し、私は電話を放り出した。

 私の家は親戚づきあいがほとんどなくて、最後にそんなことがあったのがいつ頃だったかさえ記憶にないくらいにそういうことがない。それに比べて彼女は離れて暮らす親戚のところにも、きちんとつき合いに向かうのだ。

 彼女が律義なのはもうとっくにわかっていたことなのだが、そんな律義さを知って改めてまた彼女のことが好きになる。

 好きになった分だけ寂しくなってしまって、私は放り出した電話をまた手に取った。アプリを起動して彼女の受信記録がないことを一応見て、それから友達のグループを呼び出す。

 高校時代の友達四人で作ったこのグループは、普段から誰が聞く聞かないなど気にもせずに好き放題言い合うことになっていて、後から読んでみても何の脈絡もなくて何があったかなんてまるでわからない。

 そのグループに、一言書きこんだ。

(今度の日曜日珍しく暇なんだけど、どこか遊びに行かない?)

 すぐに誰かが気づいたようで、受信記録がひとつついた。

(珍しいじゃん、佐藤が誘ってくるなんて)

 そう言ってきたのは水野だった。

 私はみんなと違って土日が休みではないので、自分で言ったとおり、こういうことは珍しい。こんなつき合いも以前よりも減ってきたと思うと、なぜか友達への義理よりも彼女の律義さのことを思ってしまった。

 人づきあいは少ないが、つき合いのある人のことは大切にする彼女。それに比べて私は、彼女に会えない寂しさを友達で埋めようとしている。これでは友達を利用しているだけではないか。

(そうだね。じゃあカラオケとかでいい?)

 鳥井もつき合ってくれるようだ。もっとも鳥井の場合は自分が歌いたいからという理由が大きそうではあるが。

(私はいいよ。鳥井一人のリサイタルにならなければ)

(ひどいな)

(じゃあ午後いちくらいでいい? 思いっきり歌ってご飯食べてって感じで)

 友達づき合いも大事だと自分に言い訳をして、私はそれでいいと返事をした。

(築山は、やっぱ来ないかな?)

 しばらくしてももう一人の反応がないので、他の二人に聞いてみる。つき合っている彼氏がいるという話ではあるが、どうなっているのだろうか。

(あー、まあ期待しない方がいいんじゃないかな)

(結婚式の準備で忙しいって言ってたしね)

(そうなの!?)

 それは知らなかった。

 驚く私に、本人が来てさらに驚くことになった。

(そうなのです。近いうちに式の招待状送るから、お祝いよろしくね)

 にわかにチャットが盛り上がる。

(決まったの?)

(うん、やっと)

(おめでとー)

(式場が決まっただけなのに変なタイミングでのお祝いだな。でもありがとー)

 式では友人代表で水野に挨拶してもらうつもりだと築山が言いだして、水野もまんざらでもなさそうな返事をしている。

 私以外の三人は土曜日の明日は休みだからだろうか、盛り上がりはいつまでも続きそうだ。持ち上げられて気分をよくした築山が、私たちも幸せを探すようにとふんぞり返って言ってくる。

 結婚って、どんななのだろう。

 彼女のことが好きでそれだけで幸せな私には、今はそんなことは考えられない。

 その彼女も家族がいる人をまだ好きでいて、やはり今は結婚とは遠そうだ。

 それでも、彼女も私もいつかは誰かと結婚なんてことになるのだろうか。

 わからない。

 もしそんなことになって彼女との距離が開いてしまったら、すごくすごく寂しいと思う。

 それでも彼女が幸せになれるのならば、私はそれを祝福したい。絶対に。

 でも彼女を求めることを諦めるなど、私にできるのだろうか。

 わからない。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、それもどんどん詰まって思考が回らなくなっていく。

 そうしてもう何も考えられなくなったところでようやく、電話が立てつづけに音を立てていることに気がついた。

(佐藤、寝落ちかー?)

 チャットはまだ三人で盛り上がっていたのだった。

 高校時代でさえこんなにいつまでもしゃべり続けていたことなんてなかったと思う。

 それなのに私一人だけがそんな気分についていけなくて、また寂しくなってしまう。

 私が寂しくてみんなを呼び出したのに、何をやっているのだろうか。

(ごめんごめん、気にさせちゃって。いろいろ考えちゃって)

(いろいろって?)

 ごまかすつもりが余計なことを言ってしまったらしい。三人とも私に注目してしまったらしく、私の返事を待つかのようにチャットの動きが止まった。

 いろいろといってもそれは彼女のことばかりで、ここで言うようなことではない。

(式に着ていくの、新調しないといけないかなーとか)

(それはあるね。どんな式なの? それによって挨拶も考えないとだし)

 水野が話を継いでくれて、それから築山がまた熱っぽく式次第を語り始めた。水野のそういう気配り上手は、あの頃と変わっていない。

 前々から結婚式が夢だと語っていた築山らしく、今どきドラマでしか見ないような、教会を借りての本格的な式らしい。

 そんなところにお金をかけてどうするんだと鳥井が呆れていたが、だからご祝儀をよろしくと言ったのだと築山に切り替えされて、さらに呆れさせられていた。


 結局、その夜は日付が変わってしばらく経つまでずっとチャットしていた。

 私だけは翌日も仕事なのだが、他の三人よりも朝が遅いので、そのくらいであれば苦にはならない。

 いつものように忙しい土曜日を終えて、帰路につく。

 休日の電車は平日のくすんだ色合いよりも明るさがあって、そして何より密度が違っていて、そういう意味でも明るい。

 それでも電車を降りるとそれは流れとなり、それは激しかろうと緩かろうと路地から出ようとする車を止めてしまう。流れが緩いから突っ切ってしまおうというわけにはいかず、そういうところだけは水ではない。

 私も私で、いつもと同じように横断歩道の手前で立ち止まる。

 今日彼女に会えることはない。それでも彼女の真似をして、彼女のようになろうと思うだけで、胸の内がほんのり温まるような気がする。

 しかしやはり、会えないのは寂しい。

 親戚に不幸があったというのだからどうにもならないのに、会いたいなどとわがままなことを思ってしまう。

 代わりにするように自分で友達を呼び出したのに、その友達が結婚という人生の一大事を迎えようとしているのに、考えることは彼女のことばかりだ。

 視線を感じて目をそちらに向けると、いつの間にか路地に車はいなくて、それでもまだ立ち止まっている私を横断歩道の真ん中から訝しげに眺めて過ぎていく視線だった。

 小さくため息をついて、私も足を踏み出す。

 商業施設を過ぎてビルの間に入る前、明日の集合場所であるカフェレストランの方に目が向いた。

 そちらの道は大通りへと続いていて、いつも彼女の背中を見送る方向だった。


 十五分早く約束の場所に行ってみると、水野も鳥井もまだ来ていなかった。

 今から会うのは十分前には必ず来ている彼女ではないのだと、改めて寂しく思ってしまう。

 それではいけないと一人で首を横に振った。自分で呼び出しておいてそんなことを思うなど、失礼にもほどがある。

 しかし何を考えても結局彼女のことを思ってしまいそうで、私は唇を湿らせる程度にちびちび水を飲みながらぼんやりとしていた。

 ぼんやりしすぎていて、声をかけられるまで二人が来たことに気がつかなかったくらいだった。

「待たせてごめん、中で待ってるとは思わなかった」

「席取っといてくれたんだね」

 言われてみればどうして一人で先に入ってしまっていたのだろうか。

 せっかく水野がいいように解釈してくれたので、そういうことにさせてもらった。

 しかしその水野が、まだ私のことを観察するようにじっと見てくる。

 いきなりじっと見つめられて、いい気はしない。

 黙って見られていることに耐えられなくなって何なのかと聞くと、水野はまだ私の顔をのぞきこみながらやや厳しい口調で言いだした。

「楽しみすぎて早く来たわけじゃないよね、その顔は」

 二人に会うのが楽しみではないのではないが、水野の言うとおりそれほどのことではない。彼女と待ち合わせをする時には早めに出ていたからそうしたというだけのことだ。

 だからといって肯定して、楽しみではないように思われてしまうのは二人に悪い。私が返事に窮していると、水野は同じ顔同じ口調のまま、今度は驚くようなことを口にした。

「デートをすっぽかされたから私たちを呼びだしたってところ?」

「デート!?」

 それは半分以上合っていて、つい私は声を上げて驚いてしまった。

 手で口をふさいだがもう遅く、水野はやれやれといった表情になった。

「築山が言ってたのって、本当に合ってたんだ……」

 その隣で鳥井が意外そうにぽつりと呟く。

 ゆっくり話を聞かせてほしいと水野が言って、二人とも私の向かいの席に座った。とりあえず、飲み物だけ注文する。

「築山が言ってたのよ。佐藤が最近あんまりつき合いよくないのは休みが合わないせいだけじゃないんじゃないかって」

「ごめん……」

 水野の言葉がきつく聞こえて、私は謝るしかなかった。

「あ、謝らせたかったんじゃなくて。仕事とかそっちでのつき合いとかができるだろうから、いつかはお互いそうなるんだろうなって」

「でも、ごめん」

 それでも、つき合いがよくないとまで思わせてしまうのはよくないだろう。

「それをさ、築山が男じゃないかって言ってたのよ。私は、築山自身がそうだからそう言ってるだけだって思ってたんだけど」

 水野に謝ってばかりの私を見かねてか、今度は鳥井が冗談めかして小さく笑いながら話に加わった。

「確かに男がいるっていうなら納得いくところ、あるわ」

「待って待って、彼氏じゃないから」

 私にも彼氏がいることにされてしまいそうな勢いに、慌てて待ったをかけた。

「でも、デートってのは図星だったんでしょ?」

 あんなわかりやすい反応をしてしまったことは、もう取り返しがつかない。

 どうしよう。

 考えようとしても頭の中は空回りしてばかりで、どうしようだけがぐるぐるしている。

 こんな時、彼女だったら。

 彼女は……そう、まだ出会って間もない見ず知らずに近い私に、自分の恋心を包み隠さず打ち明けてくれた。

 それはきっと、相手に対する誠意から来るものなのだろう。

 私も友達には誠実でありたい。彼女のように。

「うん……、つき合ってるって言うか、好きな人、いるんだ」

 目の前の二人が、まるで打ち合わせでもしていたかのように、並んで同じように小さく口を開いて声ともため息とも言えないような音を漏らした。

 それが面白くてついクスリと笑ってしまうと、彼氏のことを思い出してにやけたものと思われたのか、鳥井が身を乗り出すように矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。

「うまくいってるの? その人とも休みが合わないから大変とか? あ、もしかして佐藤も結婚近い?」

「そうだとしたら、おめでたいことだけどご祝儀がちょっと大変になるね」

 肩をすくめる水野も、思っていることは鳥井とそれほど違わなさそうだ。

「結婚は、ないよ」

「なんで? なんでそんな弱気なのよ?」

 鳥井が、今度は本当に身を乗り出して詰め寄ってきた。

「まさか、不倫とかそういうのじゃないよね……?」

 その脇で水野が逆に引き気味に表情を硬くしている。

 それを見てようやく、好きだけど結婚はないと言われれば普通はそう思うだろうということに私は気がついたのだった。私はやはり、自分のことしか見えていない。

「違うよ。その人、女の人だから」

「え……!?」

 今度は並んでではないが、また二人して同じように驚きの声を上げた。

「それに、私はあの人のことが好きだけど、あの人はそうじゃないから」

 ずり落ちるように席に腰を落とす鳥井の隣で、水野は考えるように一度目を伏せてから口を開いた。

「でも、デートはしてくれるんだ」

 言われて気づいたというように、鳥井が水野の顔を見てから私へと向き直る。

「デートと思ってるのは私だけだけどね。でもそうして私につき合ってくれるのは本当」

「つまり向こうは佐藤のことを友達だと思っていると」

「うん」

 うなづいた私に、水野はひとつため息をついた。

「それで? 佐藤は好きって気持ちを隠して友達としてつき合ってると」

「ううん、好きって言ってる」

「嘘……。じゃあその人は好きでもないのに佐藤につき合ってくれてるってこと? それって、どういう……?」

「違う、あの人はそんなんじゃない」

 彼女のことを悪しざまに言われたように聞こえて、私は思わず声を荒らげてしまった。

 その勢いに水野は口をつぐんだが、しかし問うような目を私に向けたままだ。

「進学してから友達がいないみたいで、それで私のことを大切に思ってくれているの。そんな人を弄ぶような人なんかじゃない」

「それって、利用されてるってことじゃないの?」

「逆。利用してるのは私。あの人が私を大切に思ってくれるから、私は好きって気持ちを押しつけて甘えてるの」

 彼女は何も悪くない。好きを押しつけて彼女を困らせているのは私。

 それを改めて思い知らされるのは、辛い。

 胸が苦しくなってしぼり出さなければ声が出せなくて、叫ぶような声になってしまう。

 握った左手で胸を抑えて俯いてしまった私の耳に、違う音が聞こえてきた。

「その人のこと、どう好きなの? どんなところが好きなの?」

 穏やかな声に、体のこわばりが緩まる。

「きれいで真っすぐですごく大人。あの人みたいになりたいし、すごく欲しい」

 そう、と相槌を打ってくれる鳥井の声に彼女を傷つける意図がないことが感じられて、とても安堵した。

 そのまましばらく沈黙が降りた。

 それは私を落ち着かせる時間を与えてくれるようで、もしかすると二人にもそうなのかもしれなかった。

「それって」

 そんなことを考えられるくらいに私の心が静まったところで、二人の声が重なった。

 それは本当に偶然だったらしく、隣同士で顔を見合わせて互いに先を譲ろうと探り合っている。

 やがて鳥井の方が後で言いたいからと言って、それにうなづいた水野が私に向き直った。

「それって、やめた方がいいと思う」

 衝撃で頭の中が一瞬真っ白になった。

 その場に崩れてしまいそうになったところをどうにかもちなおして、視界が徐々に戻ってくるまで耐える。

 それを見計らったように水野が私の視線を逃がさないように目を合わせて、続けた。

「だっていつか絶対佐藤が泣くことになる」

 そうかもしれない。

 認めたくないとかではなくて、認めたくはないのだが、築山がそうなったように、彼女との関係もいつかは変わることになるのかもしれない。

 だから否定できなくて、でも肯定なんてしたくなくて返事ができない。

 それを待っていたかのように、今度は鳥井が口を挟んできた。

「それって、もしかしたらすごく幸せなことなんじゃないかな」

 言われた私よりも隣の水野の方が驚いた様子で、急に鳥井の方に振り向いた。

 鳥井の方も私ではなくて水野に聞かせるように、続きを口にする。

「誰かをそんなに好きになるって、そこまで好きになれる人に出会えるのって、なかなかないと思うんだ」

 でも、と口ごもる水野に、鳥井は今度は敢えて私に目を向けて続けた。

「佐藤が高校の頃男の子とつき合ってた時、こんな顔してたことは一度もなかった。それが今は女の子相手まるで初恋みたいにいじらしくなっちゃってさ。それってものすごいことなんじゃない?」

 こんな顔と言われて恥ずかしくなって、にやりと笑って見せた鳥井から目をそらせてしまう。耳まで熱くなっているのがはっきりとわかる。

 二人して私のことを眺めるのをいつまでもやめてくれなくて、追い詰められた私は開き直るしかなかった。

「そうだよ初恋だよ。こんなに誰かを好きになるなんて、初めて」

 にらみつけてやった二人の顔には軽蔑するような色なんてどこにもなくて、私ははっとした。

 面白がってとか馬鹿にしてとかそういうことではなくて、私のことを気遣って見守ってくれていたのだ。

「佐藤、今幸せ?」

 急に言葉を止めた私に、単刀直入に水野が聞いてきた。

「すごく」

「そう。ならいいってことにしとく」

 この話はもう終わりと言う代わりに、脇に立てかけてあったメニューのひとつを私に差し出した。もうひとつを鳥井との間に開いて、もう私のことなど見向きもしない。

「あの」

 呼びかけると二人ともちゃんと顔を上げてくれて、私の言葉を待ってくれた。

「ごめん、今日本当はデートがなくなって寂しくなって呼んだの。なのに私のこと気遣ってくれて、本当にありがとう」

 突然お礼など言われると反応に困るのはわかる。それでも私は礼意を示したかった。

 案の定二人ともちょっと顔をしかめてしまったが、しばらくして水野がやや言いにくそうにしながら、本当に言いにくいことを言ってくれた。

「急に大人みたいなことを言うじゃない」

「大人、かぁ……」

 気配り上手な水野は前々から、私をなだめてくれる鳥井は今日改めて、そして結婚するという築山も、前と変わらず友達だけど前と違って大人に見える。

 みんなそうして変わっていくのだろうか。私も、それに遅れずについていけるのだろうか。

「大人って何だろう。大人になるってどういうことなんだろう」

 せっかくメニューを渡して話を終わらせてもらったのに、それを蒸し返すのは大人のすることではないだろう。でも知りたかった。知ることで大人な彼女に近づきたかった。

「さあ? そういうのって線引きなんかなくて、ただイメージで大人っぽい子供っぽいって言うだけなんじゃない? そのイメージが何かって聞かれても困るけど」

 水野の言ったことはとても曖昧で何の参考にもならないが、本当はそんなものなのかもしれない。

 しかし次に鳥井が言ったのは、それとは逆だった。

「でもこれは大人ってのはあるよ。例えば、結婚式のおつき合い」

 きれいに話を誘導されて、鳥井のことを見直してしまった。鳥井のくせにとちょっと悔しく思ったことも、あったかもしれない。

 食べるものなんかを軽く頼んでようやく今日集まった目的である築山の結婚式の話に移り、そこでさらに鳥井のことを見直させられることになった。

 家が自営業でつき合いが多いことからそういうことに慣れがあって、水野も私も鳥井から教えてもらうばかりだった。

 私がチャットで言った着ていくものなども、貸衣装とか美容室のメイクとか、そういうものに頼むのもひとつの方法だという。後で行ってみないかと誘われて、二人とも一も二もなく同意した。

「貸衣装って成人式でトラブルがあったって、何年か前にあったよね」

「あれはまあ、時期が重なって間に合わなかったってのもあると思うよ。そうでもなければそうそう大丈夫だって」

「時期って言えば、築山はあれほど結婚式にこだわってたのに、ジューンブライドじゃないんだね」

「いろいろ都合とかもあるんでしょ。案外お値段だったりするかもだけど」

「雨に降られるからじゃないかな。やっぱり晴れの日がいい」

 聞かせるというよりも呟くようにぽつりと、私は窓の外に目を向けてそう口にした。今日の空は快晴、こんな日にこそ純白のドレスが映える。

「恋する乙女は言うことが違うねぇ」

「やめてよ」

 築山だったらレースなんかをふんだんに使った豪奢なものにするのだろうなどと思っていたはずなのに、恋と言われてかえって彼女のドレス姿が脳裏に浮かんでしまう。豪奢にしても清楚にしても、彼女ならば何でも似合いそう。

 その時私は彼女をどう祝福できるのか、そんなことを考えかけてしまって慌てて頭を小さく振ってそれを振り払った。

 今はちゃんと築山のこと、そして相談に乗ってくれている水野と鳥井に向き合わなければいけない。それが彼女が大事にしている、友達への誠意だ。

 私が内心では忙しなくそんなことを思っているのをよそに、今度は水野が挨拶の案を私たちに話してくれた。私たちのことも話すことになるから、あらかじめ了解をとっておきたいという。

 私たちのことを話すといっても当然主役は築山なので、その友達に私たちがいるという程度で、言われて困るようなことなど何もない。鳥井も私も、築山がいいと言ってくれればそれでいいと、後は任せることにした。

 むしろ私が驚いたのは、挨拶を頼まれたのが一昨日なのにもう用意されていることだった。

 以前にあの横断歩道のことで私が作文をした時はもっと時間をかけてもその半分も書けなくてほとんど彼女に任せきりだったことが、少し苦く思い出される。

 私一人だけが何もできていなくて、置いていかれたような気がしてまた寂しくなってしまった。

 しかもそれを二人に察せられてしまって、自分のをちょっと食べるかと勧められるなど、気を遣わせるばかりだ。

 私も大人になりたい。二人のように、彼女のように、他人のために何かができるような大人になりたい。

 それなのに貸衣装屋に着いた途端、そこここに並べられている華やかな衣装に目を奪われて、私は子供のようにはしゃいでしまったのだった。

 ここも鳥井の知り合いらしく、友人の結婚式があることを話すと親身になって相談に乗ってくれた。

 表からはそうは見えなかったが奥は広い倉庫になっていて、頭は帽子から足先の靴まで、服だけではなくていろいろなものが置いてある。しかし、靴まで借りるのはお勧めしないとのことだった。

 理由を聞くと、慣れない靴で足を痛めてはせっかくの式も楽しめないからだという。商売だから借りてくれた方が儲かるのだけどほぼ例外なくそうなるのだと、裏事情のようなことまで笑って教えてくれた。

 そうやって腹を割って話してもらえると、客としても信用したくなる。マニュアルどおりしか許されない私の仕事とは大違いだ。

 もっとも私なんかは、マニュアルがなければどう説明すればいいかわからなくなってしまうだろう。それに比べて、自分が説明するばかりではなくて私たちの感想なんかも聞いてくれる貸衣装屋さんの仕事ぶりは、とても大人に見えた。

 メイクをしてくれる美容室も紹介してくれると言ってくれたが、けっこうな出費になってしまいそうだったのでそれは遠慮させてもらった。

 それでも嫌な顔ひとつせずに花嫁よりもきれいになったらいけないからと笑って流してくれた貸衣装屋さんは、やはり大人だった。

 今ここで試着はできないが取り寄せることもできるということでカタログも見せてもらったりして、三人全員が当日借りるものを決めて店を出た時にはもう辺りは暗くなりかけていた。

「疲れた?」

 独特の匂いから解放されて深呼吸した私に、鳥井が声をかけてきた。

「ちょっとね」

「楽しそうだったもんね、佐藤」

 疲れたのはそんなことより、みんな大人で、それにずっと囲まれていたのが窮屈に思えたからだった。

 しかしそんなことは言えない。それこそみんな大人だから、また気を遣わせてしまう。もしかしたら今こんなことを言っているのもそうなのかもしれない。

 友達なのに、少し遠く感じる。

 しかし友達だから一方的に甘えるわけにはいかない。対等な関係でいたければ、自分で追いつかなければならない。

 しかしどうすれば追いつけるのかわからない。どうすれば私も何かができるようになれるのだろうか。

 無性に彼女に会いたくなった。


 会いたいからといって気軽にそう言っていいものではない。

 彼女の場合は水野や鳥井、築山たちと違って初めて会った時から大人だった。その差に疎外感を感じることもないわけではないが、大人なところに惹かれて好きになったのだから、差を感じながらでも安心して接することができる。

 しかしそこが違うだけで、一方的に甘えていたくないのは変わらない。

 それに私は彼女が自分の時間をあまり持てないことを知っている。その貴重な時間を無遠慮に潰すようなことはしたくない。

 だから私はあの場所で彼女を待つ。

 彼女と私の時間が重なる瞬間、その時くらいは一緒させてほしい。

 会えなくても、彼女と出会えたあの横断歩道の前で彼女のことを思う。

 彼女のようにちゃんとした自分でいよう、彼女のように他人に気を遣える人になりたい、会いたい、話したい、彼女のことを感じたい。

 思うことはその時々で、それ次第で気が引き締まったり胸が温かくなったり、切なくなったりする。

 今は、何だか中途半端でもどかしい。

 会いたいのに素直にそう言えなくて、会いたいなどと言ってはいけないとわかっているのに思うことを止められなくて、不安定な気持ちだ。

 こんな時に彼女に会ってしまうと、また彼女を不安がらせてしまうかもしれない。

 なぜその瞬間に思いそれ出したのかはわからないが、目の前を車が通りすぎて視界が開けた瞬間にようやく、大事なことを思い出した。

 まず彼女を不安がらせないようなちゃんとした自分でいて、それから彼女のように他人のために何かができるようになりたい。そう改めて思った。

 大人になるための道のりは遠そうだ。

 しかしそれよりまずは帰路へと足を踏み出すことだった。


 何日かぶりに会えた彼女は手にいつものバッグ以外に紙袋を提げていて、私の顔を見るなり先日つき合えなかったことを詫びてきた。

 不幸なのだから仕方がないと言っても聞き入れてくれそうにないので、私も友達と会っていたからお互い様だということにしてもらった。

 納得しない顔をしながらも平謝りをやめてくれた彼女は、今度は今から時間が取れるかと遠慮がちに聞いてきた。

 そんなの、喜んでつき合うに決まっている。誘われて私はうきうきと紅茶専門店に入ったが彼女はまだ申し訳なさそうにしていて、今日の代金は自分が払うなどと言いだした。

 お互い様だったのだからここでもそうだと言い張って、どうにかそれは取り下げてもらった。ただし彼女の表情がまだ晴れないあたり、それも彼女が私の気遣いに気を遣ってくれただけなのかもしれない。

 それはともかく、席に腰を落ち着けると早速、彼女は紙袋をテーブルの上に出して私に差し出した。

「せっかく時間を取ってもらったのに行けなくて、せめてものお詫びです」

 その紙袋は土産物屋のもので、口がテープで留められているので中は見えないが、中身も何かの土産物なのだろう。

「そんなわざわざ、かえって悪いです」

「ですがそれでは私の気が済みませんので、どうかお納めください」

 彼女としても、せっかく買ってきたのに渡さないで持ち帰るわけにはいかないだろう。

 こういう時どう言えば角が立たないのかわからずにまごついてしまう私は、やはりまだまだ大人には遠い。

「ではありがたくいただきます。ここで開けてもいいですか?」

 彼女がいいと言ってくれたのでテープをはがして中身を取り出すと、有名なスナック菓子のご当地限定味のものだった。彼女にしては子供っぽい。

「意外です。こういうの、好きなんですか?」

 スナック菓子が好きなのか、ご当地ものが好きなのか。彼女の意外な一面を知りたくなって、お礼よりも先にそんな質問を浴びせてしまった。

「いえ、いつお会いできるかわからなかったので、日持ちしそうなものをと思って……」

 なるほど書かれている賞味期限はまだ先だ。

 しかしそれよりも、私にはどうしても言わなければいけないことがあった。

「そんな時は私のこと、呼び出してくれればいいんです。他人行儀な遠慮はしないでほしいです」

「ごめんなさい……」

 晴れない表情ながらもまだ私に目を合わせてくれていた彼女が、目を伏せてしまった。

「謝らないで…、ううん、私の方こそごめんなさい、自分の気持ちばかり押しつけて。わざわざ気を遣ってくれてありがとうって思わなければですよね」

「そんな……」

「でもやっぱり覚えておいてください。私は久保さんに誘ってもらったら絶対行く…とまでは言えないかもですけど、絶対喜びますから」

 勢いで絶対行くと言い切りそうになってしまい、そういうことは聞き逃さない彼女だということを思い出して、すんでのところでどうにか言い直した。

「はい」

 ようやく彼女の表情から曇りが晴れてくれた。そのことに、私も安心する。

 しかし私がやっとこれから二人の時間になれると思った矢先に、彼女の方はあまり時間を取っては迷惑だろうと言って切り上げようとしてしまう。慌てて私はそれを止めた。

「時間さえよければ、これ、二人で食べませんか?」

 とっさにそう言ってしまったが、ここでスナック菓子を広げてボリボリ食べるのはよろしくないだろう。

「でもここでは……」

 彼女もそう思ったようだ。ということは、時間はいいということだろう。

「ならカラオケ、行きませんか? あそこなら持ちこみオーケーなので」

 一瞬間が開いたが彼女も了解してくれたので、私たちはロータリーまで戻って、大通りへと出る道の途中の雑居ビルへと向かった。

 普段は私の隣を歩いてくれる彼女が、半歩後ろをついてくる。気になって聞いてみると、カラオケに行ったことがないという答えに驚かされることになった。

 嫌ならばやめようかと改めて聞いてみるとこの機会に行ってみたいと少し硬い声で答えてくれたので、そのままビルに入ってエレベーターに乗った。場所を変えることが目的なので、歌はまあいいだろう。

 受付で私の会員証を見せて部屋に通してもらい、飲み物を注文する。私はオレンジジュース、彼女はアイスティーだった。

 ソファーに並んで腰を下ろして、テーブルの真ん中に置いてあった目次パネルなんかをどかしてもらったお菓子を広げる。彼女がぐるぐる回っている照明に目を奪われている様子だったので、それは一旦切らせてもらった。

「せっかく来ましたし、何か歌ってみますか?」

「いえ…、私は……」

「では歌は置いておいて、お菓子いただきましょう。と言っても久保さんからいただいたものなのですが」

「はい」

 食べ慣れるものではないのでつい忘れてしまうのだが、この種のご当地ものは味がものすごく強調されている。一口食べて彼女のようにあっさりした飲み物を選ぶべきだったと後悔したが、それは言えない。

「こういうのって本物を食べている気分で食べるものなのでしょうけど、むしろ本物が食べたくなりますよね」

「それでもう一度行きたくなってくれれば、商売としては上出来なのでしょう」

「なるほど」

 お菓子はお菓子だけで売られているのではなくて、他の売り物への呼び水になっているのか。うまいものだと感心すると同時に、そういうことがわかる彼女のことを改めて大人だと思った。

 濃い味は彼女もそれほど好きではないようで、二人いても減るペースは速くない。これは歌いながら少しずつ食べていくのがいいかもしれないと思い、私はおしぼりで手を拭いてからパネルとマイクを取った。

「やっぱりせっかくなので歌いましょう。僭越ですが、私から先に」

 そう断ってから、パネル操作を彼女に見せるようにして一曲入力した。

 CMでも使われているその曲は彼女も聞いたことがあったようで、すぐにわかったような反応を見せて聞いていてくれた。

 曲が終わると拍手をしてくれたので本当はカラオケに来たことがあるのではないかと疑って聞いてしまうと、テレビでそんなシーンを見たことがあったからと言って目をそらせてしまい、逆に私が謝らなければならなくなってしまった。

 それは本当のようで、私の歌の良しあしなんかは一切触れずに機器や部屋なんかを物珍しそうに見回している。

「今度は久保さんの番です。何か歌ってください」

 歌いませんかという誘い方ではまた遠慮されてしまいそうなのでここは敢えて頼んでみたが、しかしそれでも彼女は歌はあまり知らないからと尻込みしてしまう。

 それでも彼女の歌声が聞いてみたくて、私は片手でお菓子をつまみながらもう片手でパネルを突っついて何か探してみる。

 歌ってもらうというよりも、まずは一緒に歌えればいいのだろうか。応援ソングみたいなものならば何かの折に聞くことも多そうだし、一緒に歌うのにも向いていそうだ。そう思って一曲選び、パネルを彼女に見せてみる。

 彼女はすぐには返事をしてくれなかったが、しばらく画面に目を走らせてようやくこれなら知っていると答えてくれた。曲名は知らなかったが歌い出しでわかってくれたといったところだろう。

 一緒に歌ってくれると言ってくれたので、私はその曲を入力して、もう一本のマイクを彼女に渡した。

 彼女の声が控えめなのもあるかもしれないが、マイクを口元に近づけないこともあってあまり声が聞こえてこない。彼女の歌声が聞きたくて、私は途中から歌うのをやめた。

 それに気がついていないように、彼女は一人で歌い続けてくれている。しっとりした歌声がじんわりと胸に響くようで、私は最後まで聞き惚れてしまっていた。こんな声で励ましてもらえたのならば、きっと私はどんなことでもがんばれそう。

 しかし歌い終わった彼女はすぐに硬い表情になってしまった。

「私に遠慮して歌うのをやめてくれなくてもよかったのに……」

 少し顔を赤らめているところが可愛い。

「ごめんなさい。声を聞きたくてつい」

 彼女は絶句して、目を伏せてしまった。

「満足していただけましたか?」

「はい。とても」

 それでも、嫌がるそぶりは見せなかった。

 その話は終わりと伝えたくて私がお菓子をつまむと、彼女もつられたようにお菓子に手を伸ばしてもそもそと口にした。

 結局彼女一人で歌ってくれることはなかったが、最後にもう一度二人で歌ったのはとても楽しくて、嬉しかった。

 会員特典目的で私が全額を払うのを彼女は気にするようにずっと見ていて、ビルを出た途端に自分の分は出すと言い出した。

 お菓子をもらったのだからそれでお互い様だと言っても、それはお詫びだからと言って聞いてくれない。せっかく楽しかったのだからこのまま気持ちよく帰りたかったという気持ちもあるが、そういう強情さもまた彼女らしい。つまり好き。

 好きと思ったらもう仕方がなくて、彼女の言うとおりに半額出してもらった。

「今日はお時間取ってごめんなさい。でも楽しかったです」

「お時間を取ってもらったのは私の方です。それに元々私が約束を守らなかったのですから、私の方がごめんなさい」

 私の方が笑ったままの冗談のようなごめんなさいだったのに、彼女は真剣に頭を下げてしまった。

「今日楽しかったのだから、そんなこと言わないでください」

 ごまかそうとしても彼女は表情を緩めてくれず、まっすぐに私を見つめたままだ。

「でしたら、またこうしてつき合ってください。私、久保さんと他にもいろいろ行ってみたいです」

 彼女はまだしばらく納得できないような顔をしていたが、今回の埋め合わせと思ってくれたようで、やっとうなづいてくれた。

 大通りへと向かう道の途中で左に折れて、彼女と別れる。青信号が点滅していたのを急いで渡ったために名残惜しさも何もなくなってしまったのが、ちょっと悔やまれた。


 築山から招待状が届いて、その日は休みたいことを先輩に伝えると、案の定渋い顔をされた。予定外で休日に休まれるのが困るのは、どちらかというとそれをされる側になることが多い私にだってわかりきっていることだ。

 それでも誰か代わりに出てくれる人を探してくれると、ため息交じりながら先輩は言ってくれた。それが役割とはいえ、これから先輩は何人にも頭を下げてお願いして回ることになる。

 それがわかっていても、私は先輩一人に一回だけ頭を下げることしかできない。だから私はその一回を心からの感謝をこめて深く、ゆっくり、そしてできるだけ丁重にした。

 さすがは先輩といったところで、二日後にはもう交代要員が決まっていた。私からも改めてお願いすると、お礼に土産話を聞かせてほしいと笑顔で頼まれてしまった。なかなか責任重大だ。

 しかしせっかく休みを代わってくれると言ってくれているし、取り持ってくれた先輩の手前もあるので、ありがたく代わってもらうことにした。

 その日の昼休憩の時、いつものように外に食べに出ようとする私を先輩が呼び止めた。

「佐藤さん、いつの間に人望厚くなってるじゃない」

「え……?」

 何を言われているのかわからなくて、つい聞き返してしまった。

「休みの交代ね、佐藤さんだからいいって言ってくれたのよ。もしかして普段から何か賄賂でもしてたりする?」

「してません」

 ニヤニヤしながら嫌味っぽい声でそんなことを聞いてきたので、素っ気ない返事だけをして外に出てしまおうとしたのだが、そこを今度は慌てたように呼び止められた。

「嘘うそ、人望って冗談とかじゃなくて本当にそうだって私は思ってるの。この人ならば、この人のためならばって思わせるようなものが身についてきたんだなって、今度のことで気づかされた」

「私が……? 先輩じゃなくて、ですか?」

 私の呆けたような問いに、先輩の方が一瞬ポカンとした表情を見せて、それから苦笑いになった。

「言うじゃない。ま、そういうところかな。自分のことしか考えない人じゃ、誰にも見向きしてもらえないってこと」

 言っていることはわかる。例えば先輩とか彼女とかがそうだ。

 しかし私はそうだと言えるのだろうか。言ってもらえるのだろうか。

「余計なことを言ったかな。そういうのって自分ではわからないしね。でも、もう少しくらいは自分に自信を持っていいと思うよ。それと」

 そこで言葉を区切った先輩が、再びニヤリと口角を上げた。

「佐藤さんが結婚式する時は絶対私を呼びなさいね。イケメン仲間紹介してもらうから」

 またか。

 今度こそ私は先輩に背中を向けてロッカー室を出た。

 人望だとか結婚だとか、私にはまだ考えられない。それは先輩が言ったとおり、自分ではわからないことなのだろうか。


 築山の結婚式は本当にドラマでしか見ないようなもので、聴講席に通されて式が始まるまでの間は、参列者というよりもエキストラになったような気分だった。

 ただしテレビとは違って近い場所からカメラで写したものを見られるわけではないために、視点は遠い。しかし幸せという雰囲気が満ち満ちていて、それだけで胸がいっぱいになってしまう。

 バージンロード、指輪の交換、誓いのキスと、見ているだけでうっとりしてしまう。二人はまさしく、二人のドラマの主役だった。

 私はずっと縮こまるように両手を胸の前で組んだままでいた。そうしなければ何かがこみ上げてあふれてしまいそうだった。

 拍手をしない私を見とがめるように、隣の席の水野が小声で私に声をかけてきた。何度も呼びかけてくれていたようだったが、私がそれに気づいたのは拍手がやみかけた頃になってからで、今さら手を叩くことはできなかった。

「佐藤、ずっと上の空みたいだけど、もしかして彼女さんとのことを想像してたとか?」

 驚いた私はにらむように水野の目を見据えてしまった。

 もしかすると無意識にそんなことを考えていたのかもしれないが、そんなことを思ったことはなかった。私が驚いたのは、そういうことをこれまで一度も思ったことがないことにだった。

 恋の行き着く先に、結婚がある。同性だとしても、今時はそれに類するものもある。

 しかし私は、それを望んだことが一度もない。どうして。

 彼女が私のことをそのように好きではないからなのか。私が彼女の重荷になりたくないからか。それとも。

 私は本当は彼女のことを好きだと思ってはいないからではないのか。

 そう思い至った瞬間、一瞬ですべてが真っ白になった。

 そして次の瞬間には、私の肩は水野の両腕に支えられていた。

「ちょっと、本当にどうしたの? 気分悪くなった?」

 声も聞こえてくる。そこには鳥井の声も混ざっていて、二人して私のことを心配しているようなことを言っている。

 小声なのは周囲に気を遣ってのことだろう。それに気づいてやっと、私は迷惑をかけてしまっていることに気がついた。

「ごめん、大丈夫」

 まずは背筋を伸ばして、支えられている上半身を起こす。

「築山の幸せに当てられて、胸がいっぱいになっちゃったみたい」

 それは嘘ではなくて、だからだろうか二人とも納得してくれたようだった。

 その間も式は滞りなく進行していて、いつの間にか最後のブーケトスが行われようとしていた。築山の仕事の同僚らしい人たちと一緒に、私たち三人も聴講席の前に出ていく。

 もみくちゃになって私が気分を悪くしてしまうことを心配してか、鳥井と水野とで私を挟むようにして正面から少し外れたところに並んだ。

 築山が向こうを向いたままブーケを受け取り、そして両腕を後ろへと振り上げる。勢い余って、ブーケは手からすっぽ抜けて高く放り出された。

 これでは私たちの所まで届かずに落ちてしまう。それも、私の目の前に。

「あっ……!」

 思わず私は前へと飛び出してしまった。両腕を目いっぱい伸ばして、どうにか落ちてくるブーケを受け止める。

 よかった。せっかくのブーケトスが台無しにならずに済んだ。

 そう安堵した私に、背後から盛大な拍手が浴びせられた。

「おお、佐藤が受け取ったのか。私みたいに幸せになりなさいね」

 自分の大暴投には気づいてもいない様子で築山が満面の笑顔で得意げに言ってくれたのが聞こえて、ようやくその意味に気づいた。

「ありがとう」

 ともかく、返事だけはしておく。とても重大なことをやらかしてしまったが、今さらなかったことにはできない。

 式が終わって新郎新婦が奥へと下がり、私たちも披露宴会場へと移動する。ブーケは紙袋に入れてもらった。

「どうしよう……」

 戻ってきた私を柔らかい笑顔で迎えてくれた鳥井と水野に、私は縋るような目を向けてしまう。

「そんな顔しなくていいでしょ。いいことあるんだよ、きっと」

 いいことといっても、私の幸せは結婚とかそういうことではない。それなのに、誰かに渡るべき幸せを私が奪い取ってしまった。

「でも、私は……」

「あんまり気にしない。そういう巡りあわせだったってだけだから。私は、佐藤の手に渡ってよかったと思う」

 なだめてくれるのはありがたいが、私の気持ちをわかってもらえないことがもどかしかった。

 彼女だったら何と言ってくれるだろうか。いや、彼女のことをいい加減に思っているのかもしれない私がそんなことを思うのは、許されることなのだろうか。

 周囲にはこんなに人が集まっていて会場にはこんなに幸せがあふれているのに、私だけが迷子になってしまったかのようで、急に心細くなってしまった。

 実際はそんなことはなくて、鳥井も水野もずっと私の側にいて、私を元気づけようと声をかけてくれている。

 私もそんな二人に礼など言ったりもしたが、それでも心細さは消えてくれなくて、それが二人にも見えてしまってさらに気遣わせることになってしまう。二人には悪いが、どうしようもなかった。

 せめてどうにかがんばって、お色直しをして出てきた築山に拍手を送る。そして披露宴が始まると、さすがに二人も私ばかりを構ってはいられなかった。

 同僚からの挨拶で職場結婚だったことがわかったところで、次が友人代表としての水野の挨拶の番だ。様子をうかがうように私の顔をのぞきこんでから席を立ち、水野は堂々とマイクの前に立った。

 その押し出しのよさのためか、実のところはそれほど褒められた話でなくても三割増くらいで美談に聞こえた。当の本人はさすがにわかったようで何度か苦笑いになっていて、目ざとく見つけた鳥井がひじで私を突っついてそれを教えてくれた。

 戻ってきた水野に鳥井が同じことを言うと、狙っていたことで自分も横目で見ながら笑いそうになっていたとのことだった。人が悪いと鳥井が顔をしかめても、ちゃんと美談に聞こえるようにしたからいいのだと澄ましたものだった。

 そんなことでちょっと笑わされたりもしたが、それでも気分は晴れず、私は未婚者だけでの二次会への誘いを断ってしまった。

 偶然とはいえブーケトスを受け取ってしまった私が主役であるかのように持ち上げられて断りづらかったのだが、隣から鳥井が貸衣装を返さなければならないからと口添えしてくれて、それで水野と三人で抜け出したのだった。

「貸衣装、明日でもいいって言ってたじゃん」

 私のために二人にまで二次会を断らせてしまって、しかしそれをどう言えばいいのかわからなくて、そんなことを言ってしまった。

「だって、明日にしたら返しに行くの面倒だもん。昼休みに抜けて出るか一日持ち歩いて帰りに寄ってくかしないといけないし」

 鳥井の答えに私ははっとした。

 私は仕事に行く前に寄っていくつもりだったのだが、それは私が朝遅めであるからこそできることであって、二人はそうはいかないのだった。

 そんなことさえ気づいていなかった自分に愕然として、さらに気分が沈んでしまう。

「ごめん……」

「なんでそこで佐藤が謝るの?」

 不思議そうに鳥井が首を傾げたが、それも私をなだめるためにそう見せているだけなのかもしれない。

 貸衣装屋で預けてあった自分の服に着替えて、そこで鳥井と別れた。水野も方向が少し違うのだが、私のことを送ってくれるという。過干渉だと思わないこともなかったが、今一人になるのも辛い気がして、私はその厚意に甘えることにした。

「ごめん。私が余計なことを言ったせいで、せっかくの気分を壊しちゃって」

 歩きながら水野がぽつりと言った。そんな口調の上に真っすぐ前を見ていて私に目を合わせないのは、よほど言いづらかったのだろう。いつもきっぱりしている水野にしては、珍しい。

「そんなことないよ。私の方が気を遣わせてごめんだよ。せっかくの二次会の誘いまで断らせちゃって」

「それはいいの。私はまだ誰かとつき合うとか好きになるとか、考えられないし」

「でもそういうのを知るきっかけだったかもよ。今さらだけど」

 水野は首を横に振って、今度は私に目を向けてきた。

「そういうのは、あんながっついた連中よりも、佐藤から教えてもらう方がいい」

「私?」

 あまりに意外なことを言われて私の思考は停止してしまい、歩行さえも止まってしまった。

「佐藤が高校の時に男の子とつき合ってたのを見てきたし、今本気で人を好きになってるのを見てる。それこそ、生きた見本だよ」

 私など、見習うようなものではない。なぜならば。

「私、本気で好きになってるのか自分でもわからなくなってきた。結婚式を見て幸せそうだとは思っても、羨ましいとは全然思わなくて、それでやっと気づいた」

「それでか……」

 水野は考えごとをするようにどこか遠くの方に視線を泳がせたが、私がどこを見ているのかとそれを追おうとすると逆に、急に私の視線をとらえるように戻ってきた。

「やっぱりまだ私には好きって気持ちはよくわからないけど、そうやって悩むってことはそれだけ本気ってことじゃないの?」

 そうなのだろうか。いい加減だと自分を否定しなくても、いいのだろうか。

 いや、そんな簡単に自分から逃げるようなことをしてはいけない。彼女だったら絶対にそんなことはしない。

「わからない……」

 俯いてしまった私の肩を、水野が軽く叩いた。

「そういうところも全部見本。だから今度また、私に教えてよね」

 顔を上げた私に笑いかけて、行こうと促した。私は黙ってうなづいて、そして無言のまま並んで歩いた。

 水野が言っていたことが話をしたくなったら聞いてくれるということなのだと気づくまで、しばらく時間がかかった。

 彼女に同じことを言った時の私は、これでもかというほど押しつけがましかった。それとは比べ物にならないくらいに、とても自然だった。

 羨ましいような恨めしいような目で隣を歩く水野の顔をのぞくと、そんな私の幼い感情など受け流したような柔らかな笑みだけが返ってきた。そのままお互い言葉もなく、路地へと入っていく。

 私の家が近くなってきて、いよいよ方向が大きくそれるからということでここで水野と別れる。

「おやすみ。って言うか本当にちゃんと休みなよね」

「ありがと。またね」

 真っすぐ路地を歩く水野の後ろ姿を、私は見送った。

 通りへ出ようと曲がろうとしたところでそれに気づいて、水野は胸元で小さく手を振って見せてくれた。


 お風呂から上がったところで電話の通知を確認すると、鳥井からのチャットがあった。

 招待してくれたお礼のついでに、水野の挨拶の時の築山の顔が面白かったなどと言っている。築山からの返事はまだない。

 からかいも混じってはいるが、こうしてちゃんとお礼を言うところがやはり大人だと思う。私もそれにならってお礼と、ついでにブーケトスが大暴投だったことを書き加えてあげた。

 ちょうど同じ頃に水野からも、ケーキカットの時の目が怖かったと言ってきた。よく見ている。

 三人して駄目出しをしても、築山からは何の反応もない。私のチャットの受信記録も二人のままで、つまり見てもいないということだ。

 明日になれば何か言ってきているだろう。私は電話を放り出して、仰向けに寝転んだ。

 築山には悪いが、今は彼女のことを思いたかった。

 私は本当は、彼女のことをどう思っているのだろうか。

 横断歩道で彼女とぶつかりそうになって、人とは違う真っすぐな姿勢が気になって、立ち止まっている理由が知りたくなって見ていた。

 理由を知った時、その在りように衝撃を受けた。彼女に近づきたかった。彼女のようになりたかった。彼女のことが、欲しかった。

 その彼女は先輩さんに思いを寄せていて、そのことに嫉妬心を覚えた時に、これが恋心だと気づいた。

 そんな気持ちをぶつけたら嫌われると怖くなったがそれでも伝えずにはいられなくて、彼女はその気持ちにはこたえられないと困惑しながらも私のことが大切だと言って私を許してくれた。

 そうして一緒にお茶をしたりして少しずつ彼女のことを知っていくにつれて、あまり彼女の負担にはなりたくないと思うようになった。

 そこまで思い出して気づく。

 それは、彼女のことを欲しがらなくなったということではないのか。

 気持ちが盛り上がってわけがわからなくなっていたのを恋心だと勘違いしていただけで、本当はそれほどではなかったのか。

 それとも実のところは飽きて冷めてきてしまっているのか。だから築山の結婚式を見ても羨ましいと思うことがなかったのか。

 自分が内側からぼろぼろと崩れていくのがわかる。

 今の私のすべては彼女への恋心によって形作られているものなのだから、それがなくなれば私にはもう何もない。それはもはや、私ですらない。

 助けて。

 その声で私が求めたのは、彼女だった。

 自分の声に驚いて目を開く。

 目尻から伝い落ちた涙の感触でようやく、自分が目を閉じていたことに気がついた。

 彼女が好き。彼女が好き。

 崩れ落ちる自分を押しとどめたくて、また目を固くつむって必死に思う。

 しかしどんな言葉も、思いも、今はただ白々しいものでしかない。

 助けて。

 自分の体なのにまともに動いてくれなくて、必死になって腕を伸ばして、やっとのことで放り出してあった電話をたぐり寄せた。

 画面をつけると通知に鳥井からのチャットがあって、そこからチャットアプリを起動する。水野とのやり取りがあるようだが、そんなものには目もくれずに彼女とのグループを呼び出す。

 いちばん下には、親戚の不幸で出かけなければならない彼女に私のことは気にしないでほしいと送ったものが残っていた。

 その下の入力欄に会いたいと書いて、送信する。

 何度も画面をつけなおして受信記録を待つが、一向につかない。時刻はもう日付が変わろうとする頃だ。

 そうだよね。こんな夜中に彼女が電話を手に取るようなことなんてない。

 返事がもらえないことは寂しかったが、同時に無視されているのではないとも思えてほんの少しだけ安堵した。それでも寂しい。会いたい。会いたくて会いたくて仕方がない。

(明日か明後日、いつもの紅茶のお店で会ってもらえませんか)

 明日といっても、彼女がこれを見た時にはすでに今日のことだ。今日の今日では彼女だってさすがに都合のつかないこともあるだろう。今の私にとって一日の差は絶望的なくらいに大きいが、それでもそれくらいは待たなければいけないだろう。

 電話を枕元に置いて、布団の中で膝を抱えて丸まる。

 明日、いやそれ以前に一秒先の自分がどうなってしまうのかが怖い。

 それを考えることが、思うことさえも怖くて、逃げるように過去のことを思い出す。

 ついこの間二人でカラオケに行った時、あの時はまだ恋をしていることを疑ってはいなくて、一緒にいられることがただただ楽しかった。

 旅行に行く前には喧嘩だってした。それでも好きだという思いが消えてしまうようなことなどなくて、むしろ好きで好きでたまらなかった。

 あの横断歩道に信号をつける要望を出した時は、私がそう思っているだけなのかもしれないが、励ましあって二人で何かができたことが嬉しかった。

 そんなことひとつひとつが、私をほんの少しでも大人にしてくれたような気がしていた。まだまだではあっても認めてもらえることもあって、それはやっぱり誇らしかった。嬉しくてそれを彼女に話したりなんかもした。

 しかしそれは夢か幻のようなものに過ぎなくて、私はただそれに浮かれていただけだったのだろうか。

 そうなのかもしれない。でもそれは嫌。辛い。

 ちゃんと休むように言われていたのに、私はいつまでもくよくよと考え続けていた。


 朝、目覚ましが鳴って私はのろのろと体を起こす。さっきも何か聞こえたような気がしたので、これは二度めの目覚ましなのかもしれない。そうだとすれば、急がなければ遅刻してしまいかねない。

 そんなことを思いながら枕元の電話を手に取って画面をつけると、いくつかある通知の中に彼女の名前が見えた。一瞬で目が覚めて、他の通知など確認もせずにチャットアプリを起動する。

(今日でよければ、お会いしたいです。よろしくお願いします)

 よかったと声を漏らしながらだらりと仰向けになったところで、手にしていた電話が音を立てると同時に震えた。いけない、本当に遅刻してしまう。

 慌てて身支度をしながらふと、会ってどうするのかということが頭をよぎった。

 先のことを考えるのが怖くて、昨日はそんなことなど何も考えなかった。考えることから逃げていた。

 どうしようと泳がせた目に、持ち帰ってきてそのままだったブーケの紙袋が写った。受け取った人が次に幸せになれるという、ブーケトスのブーケ。

 バッグと一緒に紙袋を手に取って、私は急いで家を出た。

 持っていってどうするなどと思いついたわけではなかったが、何となくこのブーケが私を幸せにしてくれそうな気がした。

 いつもよりも一本遅い電車になってしまったが、どうにか遅刻はしないで済んだ。昨日のうちに貸衣装を返しておいて、よかった。


 流されるように一日を過ごし、電車を降りて流されるようにして駅を出た。

 私が何を思おうと、この人波は変わらずロータリーの脇を流れてバス停や商業施設へと広がっていく。

 その手前の横断歩道もこの人波に埋めつくされ、道路にいる車は流れが止まるのを手をこまぬいて眺めているしかない。

 横断歩道の手前で、私の足は止まった。

 自分でも驚いている私の左右を、滔々と人波が流れていく。

 私にまだ、こういうことができたのか。そんなことを思ってようやく、意識が目覚めたような気がする。今の今までずっと、半分くらい眠ったままだったのかもしれない。

 目が彼女の姿を探す。しかしそこに彼女はいなくて、流れが止まって車が出ていくまで待っても現れることはなかった。それ以上は待てずに横断歩道を渡り、約束の紅茶専門店へと歩く。

 そこにも彼女の姿はなかった。彼女を待たせるようなことをしたくなくて、少し遅めの時間を言っておいたからだった。

 待ち合わせで私が先になったのは初めてだ。彼女が来てくれるのが待ち遠しいが、私のために無理をすることなんかしないでいつもどおりでいてほしい。

 まだ私は彼女のことを思っているのだと、そんなことから思い知らされる。それが私を振り回していることが怖くなると同時に、胸の奥深くがじんわりと温かくなってくるのを感じる。

 戸が開いた音に、私は反射的にそちらを見やる。そこにあったのは彼女の姿だった。

 瞬間的に何かが激しくこみあげてきて、一瞬で胸の内がいっぱいになってしまう。

 私は無意識のうちに席を立っていた。椅子が音を立てたのか、彼女は驚いたような顔になった。

「あ…の、お待たせしてごめんなさい……」

 戸を閉めたところで足を止めて、彼女は私にそう謝った。

「いえ、私の方こそ急に呼びつけたりしてごめんなさい」

 胸がいっぱいすぎてどうすればいいかわからなくて、私はぎこちない手振りで彼女を向かいの席にいざなった。それでようやく彼女が私のところまで来てくれて、向かい合って腰を下ろした。

 彼女が来てから注文すると言って待たせてもらっていたので、すぐに店主が注文を取りに来る。それはいつものの一言で済んだ。

 それきり、沈黙が降りてしまう。

 彼女は私の用事を聞こうと待ってくれていて、しかし私は言葉にならない気持ちにおぼれたように、何かを言うどころではなかった。

 こうして会えただけでこんなに激しく気持ちをかき乱されるのは、それだけ本気で彼女のことを思っているからだと言えるのだろうか。

 そしてこの思いは、好きということなのだろうか。

 わからない。

 しかし彼女に会えて胸がいっぱいになっているのは事実だ。

 今この瞬間、本当は好きではないのかもしれないとか飽きてしまったのかもしれないなんて、まったく思わない。

 ならば、好きなのか。

 やはりわからない。

 頭の中がぐるぐるしてふらつきそうになってしまったが、それは二人の外からの物音に止められた。紅茶のソーサーを置いた音だった。

 いただきましょうと彼女に勧められて、私は返事もせずにカップに口をつけた。

 すっきりするような香りが鼻を通り抜けて、思わずため息が漏れてしまう。そんな私を見て、彼女はわずかに表情を緩めた。

 わからないこの気持ちも含めて、全部話そう。それはきっと甘えなのだろうが、彼女の大人な表情を見て、そう決めた。

「昨日、友達の結婚式に行ってきたんです」

 いきなり彼女とは無関係な話を持ち出されて、彼女は一瞬だけ困惑したように眉をひそめた。

「それは、おめでたいことで…」

 それでもすぐにそんな表情など消して返事をしてくれた彼女は、やはり大人だと思う。

 彼女ならば私のわからないこの気持ちを理解してくれる。そう信じて、しかし私はまだ本題には触れられずに、築山の結婚式がどれだけ本格的だったかということばかりをしゃべっていた。彼女はそれに律義に相槌を打ってくれている。

 どのように切り出せばいいかわからなくて、だから私は結婚式の様子を順を追って話している。ただしブーケトスのことだけは、それを彼女に見せる時に話したかったので、ここでは省いた。

 主役の築山は本当に幸せそうだったし、それを見ていた私もそれを感じすぎるほどに感じていた。私の胸はそれだけでもういっぱいで、自分と比べて羨むなんて水野に言われるまで考えもしなかったし、そもそもそんなことを思ったことがなかった。

「本当に好きだったら結ばれたいと思うはずなのに、そう思ったことがない私は久保さんのことが本当に好きなのかって思って、そう思ったら自分の全部があやふやになって、怖いというかもうどうすればいいかわからなくなってしまったんです」

 ずっと私の目を見て話を聞いてくれていた彼女が、考えこむように視線を下げた。自分の不安よりも彼女の悲しさに耐えるようなその顔に、私の胸が切なくなる。

「でも今会えて、それだけで私はいっぱいいっぱいなんです。何でいっぱいなのか自分でもわからないくらいですけど、会えてよかったです」

 しぼり出すような私の声に、彼女は一度上目遣いに私の目を見た。しかしそれだけで、彼女の表情は晴れてはくれなかった。

 私のせいでではなくて私のために、彼女は思い悩んでいる。そのことが申し訳なくて、しかしそれよりもずっとずっと切なく思う。

 この思いが、好きということなのか。そうと思いきれなくて、もどかしい。

「ごめんなさい……」

 顔を上げた彼女が、開口一番に私に謝った。

 瞬間、最近感じたことのある感覚が再び私を襲い、目の前が真っ白になった。

「佐藤さん!?」

 彼女にしては珍しい大きな声に、意識が引っ張り戻される。テーブルに打ちつけそうになった頭を、ギリギリのところで両手の甲を下敷きにするようにして受け止めた。

 思うことさえ怖くて意識の外に放り出して逃げていたことに、気づいてしまったのだった。

「そうですよね…。気まぐれで勝手なことばかり言って、久保さんのことを振り回して。私のことなんてもう、嫌いになりましたよね?」

 テーブルを回りこんで私の脇に来ていた彼女に、私は突っ伏したまま首を回して見上げるだけしかしなかった。

 そんな無礼に腹を立てたのか、彼女はしばらく私を見下ろしたまま何も言ってくれなかった。

 やっぱりそうなんだ。

 涙は出なかった。悲しささえどこかに消し飛んでしまって、胸の内が空っぽになったように寒い。

 眠いような気がして、私はまたテーブルに顔を伏せた。

 そんな私の肩に手をかけて、慌てたように彼女が声をかけてくる。

「あの、大丈夫ですか? お加減でも悪くされましたか?」

 耳に入る声はどこか遠いが、直接胸の内側に触れられているかのように手から温かさが伝わってくる。それに誘われるように、涙がこぼれた。

「やっぱり、嫌われるのは辛いです……」

 つまり、好き。

 でももうそれは終わり。

 私に触れていた彼女の手がスッと離れる。

 たったひとつの灯りが消えたように真っ暗で寒くて、もう動けない。

「違います」

 何が違うというのか。

「嫌いだなんて思っていません」

 もう私のことなんか気遣わないでほしい。好きでもないのに優しくしないでほしい。

 耳をふさぎたかったが、今の私にはたったそれだけの動作さえできなかった。

 何ひとつ反応を示さない私に、もう一度彼女が呼びかけてくる。

 やめて。もう私に構わないで。これ以上嫌われたくないから。

「お願いですから、私を見てください」

 さっきまでよりも近いところからの声と、さらに紅茶の香りが感じられて思わず目を向けてしまうと、至近距離に彼女の顔があった。

 驚いてうつ伏せになっていた上半身を起こすと、彼女が私の側にかがみこんでいるのが見えた。

 そうして彼女を見ている私を、彼女は真っすぐに見つめてくる。その目が潤んで揺れているのはなぜなのだろうかと、ぼんやり思った。

「あなたが深刻に思い悩んでいるのに、私は自分のことをばかりを考えてしまいました。会えてよかったと言ってもらえたことにほっとして、嫌われたのではなかったことに安心しただけだったのでした。こんな私で、ごめんなさい」

「やめて」

 頭を下げた彼女を見下ろすことが申し訳なくて、私も椅子をよけて同じように彼女の前にかがみこんだ。

「久保さんは何も悪くないです。だから私なんかのために謝らないでください」

 彼女に触れて強引にしてでも頭を上げさせたかったが、どう触れればいいのか、それ以前に触れてもいいのかわからなくて、私は伸ばしかけた手を胸の前で抑えた。

 真っすぐな彼女は、決して嘘なんか言わない。彼女は私のために真摯に思い悩んでくれて、だからこそ自分が嫌われてしまったかもしれないなどと思い詰めてしまったのだ。

 そんな誠実さ、律義さ、純粋さ、そういったもの全部が好き。彼女が好き。

 胸の内に灯りがともり、暗さも寒さも晴れる。それは眩しい輝きではないが、私を温かく満たしてくれる。

「私やっぱり、久保さんのこと好きです。それが恋と言えるようなものなのかそれとももっと子供っぽい単純な好きなのかは今は自分でもわかっていませんが、好きなことだけは絶対です」

 ささやくくらいの声でしかなかったが、私はその声に私の思いのすべてを乗せたつもりだった。

 彼女が顔を上げてくれたのは、それを察してくれたからだろうか。そんな彼女がやっぱり好きだと、目でも伝える。

「こんな私を、許してくれますか?」

「違います。許されたいのは私の方です」

 彼女は激しく首を横に振った。

 体勢を崩してしまいそうなのが見ていて怖くて、思わず彼女の両肩を押さえてしまう。驚いたように、彼女は私を真っすぐ見つめた。

 彼女自身は微動だにしないのに、視線が揺れる。そんな目を見ただけでもうたまらなく切ない。

「許すも許さないもありません。だって私は、あなたのことが好きだから」

 こんな会話を前にもしたような気がする。

 結局どうしたところで私は彼女のことが好きなのだと思い知る。

「こんな私で…ごめんなさい」

「違います。そんな久保さんだから、好きなんです」

 彼女は一度目を伏せて、直るようにもう一度私に目を合わせた。

「でも私は、ちゃんとあなたに許されたいです」

 適当な生返事など許してくれなさそうな、真っすぐな視線。

 困るけれど、幸せ。

 幸せだけど、私一人だけが幸せなのは嫌。

 私はその場で立ち上がり、同時に両腕で彼女の両肩を挟んで持ち上げるようにして彼女も立ってくれるように促した。まだ呆けているような彼女をそのままにして、私はテーブルの下に置いてあった紙袋を手にした。

「でしたらこれを、受け取ってください」

 そして紙袋を差し出す。

 口を閉じてあるわけではないので、中身が花束であることは彼女からも見えている。しかしその意図がわからないからか、手を伸ばしてはくれない。

「これ、昨日の結婚式のブーケトスで私が受け取ったブーケです」

「そんなもの…、私がもらうわけにはいきません……」

 逃げるように彼女は一歩後ずさった。

「久保さんが私のことを気遣ってくれるのは嬉しいですけど、それで悩んで下を向かせてしまうのは嫌なんです。幸せであってほしい。幸せになってほしい。だからそのために、どうしてももらってほしいんです」

「私は、佐藤さんがいてくれて、十分に幸せです」

「なら、今よりも幸せになってほしいです」

「今よりもって……」

 わからないというように、彼女が小さく首を振った。

 何が彼女の幸せなのかは私にはわからない。だからこれは、ただの私のわがままにすぎない。

「久保さんが久保さんらしく、いつも真っすぐ前を見ていられるようにあってほしい。こんな私だなんて思わなくていいようになってほしい、かな」

 瞬きをした彼女の視線は、まだ少し潤んで揺れていた。

「でも、これの意味はそういうことではないのでは……」

「今私が幸せに思うことは、あなたが幸せになってくれること。だからこれがそのために役に立ってくれれば、それが私の幸せが叶うってことです」

 今朝私がこれに目を留めたのはそういうことだったのかと、言いながら初めて気がついた。そのことに、彼女を好きでいられた自分への自信が湧いてくる。やっぱり私は、彼女が好き。

「それでは、私はもらってばかりです。支えてもらって、幸せまで譲ってもらって、それなのに私は何も返せない」

 辛そうに表情を萎ませてしまいそうな彼女に、私は首を横に振ってみせた。

「そんなことありません。私の方こそいつだって気遣ってもらってますし、あなたが好きなことが私の支えなんです。それって、私の方がもらっているんだと思います」

「私は、そんな……」

「そんななんです」

 言いながらますます表情を萎ませてしまいそうな彼女を止めたくて、私は声を高くして彼女の言葉を遮った。

「だから好きという気持ちにほんの少し迷いが出ただけで、さっきまでどうしようもなく怖くなってしまっていたんです。本当に怖くて助けてほしくて、それで今日無理を言って来てもらったんです。何も返せないなんて、そんなこと絶対にないです」

 ほんの数瞬だけ彼女は凍りついたように声も表情も止まったが、しかし次にはついに目を伏せてしまった。

「それなのに私は、自分のことばかりでした……」

「それ以前に、こうして会ってくれています」

 それだけで私は救われた。それにそうやって自分のことしか考えずに彼女を振り回しているのは私の方だ。彼女を不安にさせてしまったのは、私のせいだ。

「私はそのお礼というか、お詫びもしたい」

 彼女は返事をしてくれない。やがて顔を上げて真っすぐ私に向いてくれたが、その目は私のことを見ているようではなかった。

 でもきっとそれは私のことを考えてくれている。そう信じられたから、ただ待った。

「それ、出してもいいですか?」

 目の焦点が私に合って最初に彼女が口にしたのは、それだった。

 見てみたいのだろうというくらいで深く考えもせずに、私は紙袋を渡した。受け取った彼女はテーブルの上のカップを隅にどけて、早速ブーケを取り出してテーブルの上に置いた。

 花束など見慣れないからよくわからないが、多分短めだが膨らんだようにまとめられているのだろう。それがフィルムに包まれてリボンで束ねられている。

 彼女はそれを回りながら見るようにして、自分の席へと戻った。そして椅子には腰かけずに、切り出した。

「これ、半分ずつにしませんか?」

「半分?」

 言われたことがわからなくて、おうむ返しにそれを口にするしかできなかった。

「佐藤さんは私に幸せになってほしいと言ってくれました。私も、そう思えるようになりたいです。だから半分持っていてほしいのですが、受け取ってもらえますでしょうか」

 彼女が私のことを思ってくれているということだけで胸がいっぱいになってしまい、喉までも詰まってしまって返事の声さえも出せない。私はただ、何度も何度も首を縦に振っただけだった。

 それを見て彼女はブーケのリボンを解いてフィルムを広げた。束ねられていた花束も、テーブルからこぼれてしまいそうに広がる。

 どうするのだろうと呆然と見ている私の前で彼女は自分のバッグからソーイングセットを取り出し、そこから小さなはさみを出してリボンを半分に切った。そして自分の側の半分くらいをまとめて束ね、もう半分はフィルムに包みなおしてからリボンで結んだ。

 さすがに元のようにきれいな花束にはできていないし、リボンもただギリギリの長さで縛っただけなのだが、一応半分ずつにはなった。

「受け取ってください」

 それから彼女はフィルムで包まれた方を紙袋に戻して、私に差し出した。

「でも、私が紙袋を使っちゃったら久保さんが持って帰るのに困るんじゃ……」

 なぜかそんなことが気になって受け取るのをためらってしまったのだが、彼女は差し出した紙袋をテーブルに置いてからソーイングセットをしまい、今度は布製の手提げ袋を出して広げた。

「エコバッグ…?」

「はい。私はこれに入れて持ち帰るので、紙袋は佐藤さんが使ってください」

 言いながらフィルムのない方の半分を袋に入れてしまったので、私は置いてある紙袋を引き取るしかなくなってしまった。せめてフィルムがある方にしてもらえば袋が汚れずに済むのにと思った時には、もう遅かった。

 私がそんな手遅れなことを思っている間に彼女は台拭きを借りてきて、散ってしまった細かい葉などを拭きとってくれた。さすが一人暮らしをしている人は何でもしっかりしているものだと、私はまた今さらなことを思いながらぼんやり見ているだけだった。

 台拭きを返して戻ってきた彼女が、今度こそ椅子に腰かける。私も座るように目で促してきて、ようやく私は身動きが取れたようだった。

 ブーケの半分を私に譲ってくれたことや半分に分けるのを全部やってもらったことなどお礼を言わなければならないことはいろいろあるのに、私はぎこちなくありがとうと言うしかできなかった。そのためか、彼女の返事もごくあっさりとしたものだった。

 もっと何か言わなければと、私は一人焦る。

「最近、レジ袋も高いですよね」

 言うに事を欠いて、どうでもよさそうなことを言ってしまった。しかし彼女はそんな話にも律義に答えてくれる。

「容器包装リサイクル法できちんと対価を取るように定められたからです」

 そう言えば私の仕事でもかなり前にそんな言葉を聞いたことがあった。関係しないという結論で、すぐに聞かなくなったような気がする。

「確か、紙袋は含まれないんですよね。どうしてビニール袋だけそんなことに……」

「プラスチックごみの散乱が問題視されたからです。有料化が決まった頃によく、マイクロプラスチックの問題が報道されていました」

 法律の話となると彼女は見違えるほどにはきはきと話す。

 戸惑う私の様子からマイクロプラスチックという言葉を知らないことを見て取って、まずはそこから説明してくれた。詳しくはないのでちゃんとした説明ができないと彼女は言っていたが、何も知らなかった私にはそれくらいがちょうどよかった。

 それからプラスチックごみ削減のために使い捨てコップやストローなどを紙製に変える動きなども教えてくれて、ようやく話がレジ袋有料化に戻ってきた。

「レジ袋などよく道端に落ちているのを見かけますが、そういったものを減らすために元々のレジ袋の使用を減らそうと経済的手法を用いたのが、この有料化なのです。ですから、いつか腐ってなくなるような紙は対象とされていないのです」

「つまり、ごみ問題ですか」

「はい」

 マイクロプラスチックの話でそれが深刻なことはわかったが、それにしても何か納得がいかない。

「何か、冷たいですね……」

 抽象的な言葉に、彼女はわからないというようにほんの少し首を傾げた。

「だってごみを捨てることが問題ならごみを捨てないでって言えばいいのに、どうしてそんな回りくどいことをしてお金まで取るのかなって」

 納得がいかないのは、やはり現実に財布に痛手が来ているからなのだろう。文字どおり、現金なものだ。

「ごみをみだりに捨ててはいけないという規則は、すでに廃棄物処理法にあります。しかしそれだけでは効果が不十分だということで、このような手法が補助的に取られることになったのでしょう」

「そんな当たり前のことにも、法律があるんですね……」

 ごみを捨ててはいけないという当たり前のことさえも実は法律で定められているのだということに、私は驚く。

「細かい決まりだけではなくて、当たり前のことにきちんと枠を定めておくのも、法律の役割です。大きなもので言えば、民法などがそれに当たります」

 当たり前だと思っていることは実は当たり前なんかではなくて、見えないところで誰かががんばって当たり前にしてくれているからだという。災害の報道なんかで電気や水道などにそう思ったりするが、法律もそういうものなのかもしれない。

 それはそれとしてと、彼女は話をレジ袋に戻す。話を脇道にそれたままにせずに本題を見失わないその姿勢が、見た目の真っすぐな姿勢と相まって格好いい。

「廃棄物処理法でごみをみだりに捨ててはいけないと定められていますが、実際にそれをすべて取り締まるのは現実的ではなく、それに風で飛ばされたなど意図せずにごみになってしまうこともあります。それが、ただの文でしかない法律の限界です」

 なるほど確かに私にもそんな経験はあっただろう。それがこのような問題になるとは思わず、仕方ないくらいですぐに忘れてしまうだけだ。

「ですから、実効性のある手法としてレジ袋有料化というものが考えられたのです。人間というものをよく研究したやり方だと、最初に聞いた時私は感心してしまいました。ですが……」

 それまでずっと真っすぐ私を見て話していた彼女が、急に眉をひそめて言いよどんでしまった。それがなぜかわからない私は、またそんな彼女を見ているだけしかできない。

 待っていても何も言ってくれなくてこちらから声をかけた方がいいのだろうかと思い始めた頃になって、ようやく彼女は晴れない表情ながらも口を開いてくれた。

「佐藤さんの言ったとおり、冷たいやり方なのでしょう。そんなことを思いもしなかった私は、やはり他人のことなど考えることができない冷たい人間なのだと思います」

「違います」

 いつも私のことを気遣ってくれる彼女が、あの横断歩道で待たされる車のことを考えてくれる彼女が、冷たいだなんてあり得ない。

「だって感心したってことは、どうすればいいのか本気で考えたからでしょう。環境のためにごみをどうにかしなければって思ったからでしょう。それって冷たくなんてないです」

 俯いてしまった彼女が、上目遣いに私を見る。縋るようなその目をつなぎとめるように、私は目に力をこめて彼女の目を見る。

 少しでも目をそらせてしまえば彼女はまた下を向いてしまう。そんなことはさせられない、させたくない。だから私は考える間もなくとにかく言葉を発し続けるしかなかった。

「そんなこと思わないでほしいです。そんな顔してる久保さん、見てて辛いです」

 しかし、考えなさすぎだった。しまったと思った時にはもう遅かった。

 私が辛いなどと言ってしまったら、間違いなく彼女はそれを気にしてしまう。そして実際に、目の前の彼女はまたうなだれてしまった。

 私は彼女を傷つけてばかりだ。好きなのに、そんなことばかりしてしまう自分が悔しい。

「ごめんなさい。また佐藤さんを傷つけて……」

 それなのに彼女は逆のことを言う。

「それは違う…。私、傷ついてなんかいません。それに無神経なことを言って久保さんを傷つけてるのは私の方。だから私の方が謝らないといけないんです」

 今度は私が彼女の隣にかがみこんだ。

 私と違って彼女はきちんと私に顔を向けてくれる。そんな彼女が好きだと、切なく思う。

「私はあなたが好きです。冷たいなんて思いません。私にできることなんて何もないかもしれないけど、久保さんがそんなことを思わないようにしてあげたい」

 彼女は首を横に振った。

「違います。佐藤さんが側にいてくれるだけで、私は支えられているんです。何もできないなんてこと、ありません」

 それは彼女を気遣おうとしてもまともにできない私のことを気遣って言ってくれているだけなのかもしれない。そう頭では思っても、胸の内は嬉しくて切なくていっぱいになってしまう。

「それに佐藤さんは、私に幸せを分けてくれました」

 彼女は目でブーケの半分が入ったエコバッグを指した。

「辛さも、分けあいたいです」

 やはりあまり考えずにぽろりとこぼした言葉に、彼女は驚いたように私に目を戻した。

「私も…、そうありたいです」

 やっと真っすぐ私を見てくれたことに、私は心底安堵した。


 店を出て彼女と別れ、一人になったところで気がついた。

 この花束を枯れさせてはいけない。

 もちろんいつまでももつものではないが、せめて花瓶に入れるくらいして大事にしなければならない。

 それがこれをくれた築山に対する礼儀であり、何より幸せを分けてくれた彼女のためだ。

 しかし普段花に興味を持たない私は、花瓶など持っていない。家に帰って両親に聞いてみても、答えは同じだった。

 仕方なくごみ箱にあった醤油の空きペットボトルを切って花瓶代わりにする。部屋の風景がほんの少しだけ変わったことが、ちょっとくすぐったいような気がする。

 昨日今日不安に思っていたことは何だったのだろうか。もうわからなくなっている。

 不安を消してくれた彼女にチャットでお礼を言おうかと思ったが、遅い時間に彼女を煩わせたくないと思いなおして、アプリを起動しただけで手を止めた。代わりに築山から来ていた返事を見る。

(君たちは私を祝いたいのかそれとも茶化したいのか。でもまあ私は十分幸せだから許してあげる)

 言葉は辛辣だが、末尾のスマイルマークが冗談であることを示していた。

(君たちも幸せ探しなさいね。特にブーケを受け取れなかった水野と鳥井)

(うわ、調子に乗ってるよこいつ)

 名指しされた水野がこれまた容赦のない物言いを返している。もう一人の鳥井の方は、ただ流すだけの返事だった。

 かなり出遅れてしまったが私も一言くらいは返しておこうと、入力欄に触れた。

(応援ありがとう。おかげで私も幸せになれそう)

 文面は純粋な礼意で、実際に私は彼女のことを好きでいられて幸せなのだが、気持ちとしてはお世辞とか嫌味なんかも混じっている。

 早速受信確認がひとつついた。

(そう。それはよかったね)

 いたのは水野だった。素っ気なく見える短い文は、私にだけ本心からそう思っていることを伝えたいからだろう。

(水野もありがとう)

 だから私も短く返した。

 水野は自分が言ったことが私を傷つけたと思っているかもしれないが、確かに私は不安になってしまったのだが、しかしそれが私の思いを自省させてくれた。

 恋だと浮かれるだけではなくて、もっと深く彼女のことが好き。思い思われていることがとても幸せ。

 せっかくきれいなのにペットボトルのせいで飾り気が半減してしまっている花束が、私にそれを確信させてくれた。


 彼女は、あの花束をどうしたのだろうか。考えもせずに押しつけてしまったのだが、迷惑ではなかっただろうか。

 わざわざ連絡までするようなことでもなくて、また会った時に聞いてみようと思っているうちに、何日か経ってしまった。

 分けてもらった私の分は、もう萎れ始めてしまっている。きっと彼女の方も同じだろう。話を蒸し返すには、遅すぎるだろう。

 そんな他愛もない話でもしたかったと、少し寂しく思う。しかし同時にそんな他愛もない話で彼女の時間を奪ってしまうのは、彼女に悪いと思う。

 何日も会えないと、会いたくてたまらなくなる。毎日忙しくて帰りが遅くなってしまっているのかと心配になったりもする。彼女の事情を知ったところで私には何もできないのだろうが、それでも知りたくて、そのためにもやはり会いたい。

 今日も帰りの電車は目いっぱいだ。人の流れにおぼれてしまいそうになる。

 それでも流されるのではなく、自分の意志であの場所に留まらなければならない。それが彼女のようになりたいという私の意志の表れだ。だから駅を出たあたりから一歩一歩を意識して足を踏み出す。

 もちろん足だけに意識を集中するわけにはいかず、前も見ていなければいけない。その前方、車のヘッドライトが見え隠れしている手前に、明らかに意志を持ってとどまっている一人の姿があった。

 それは流れに飲まれることなく自らの意志を貫いていて、むしろ流れの方がそれを避けていく。そんな彼女の姿に、私は改めて胸を打たれた。

「しばらくぶりです」

 隣に立ち止まった私に気づいて顔を向けてくれた彼女に、私は先に挨拶をした。彼女もいつものように、短く挨拶を返してくれる。

「最近あまり会えないのって、忙しいからだったりしますか?」

 この場所では長話ができないということはあるが、それにしても単刀直入に聞いてしまう。自分からばかり聞きたがるなんて、まるで子供だ。

「いえ、そんなことはありません。たまたま会えなかっただけだと思います」

 彼女はやっぱり大人で、そんな私にちゃんとつき合ってくれる。

「むしろ最近は少し早めに帰っているかもしれません。いただいたお花が気になって」

「そうなんですか」

 あの花束を大事にしてくれているとわかって、私はもう嬉しくなってしまう。

「飾ったりなんかしてます?」

「あ、いえ…。飾るようなものは持っていないので、牛乳パックを切ってそれにいけています。それだけなので長持ちはしないでしょうが、それでも少しでも長くもってほしくて」

「久保さん、牛乳飲む人なんですね」

「え…あ、はい。子供のころからの習慣で」

 彼女は私より少し背が高い。私が平均的な背丈なので、つまり彼女は平均よりも背が高い。そんな彼女が牛乳を飲み続けているのは健康のためか、あるいは別の目的なのか。

 聞いてみたかったが、さっき少し口ごもったところからしてあまり言いたくなさそうだったので、やめておく。

「私も、花瓶とかなかったのでペットボトルを切って使ってます。なんだかお揃いみたいで嬉しいです」

 そんなことが嬉しくて、作らなくても笑みがこぼれてしまう。照れてしまったのか彼女は一度目を伏せて、それから路地に待たされている車を数えるように私の向こうへと顔を向けた。私が来た時には二台いたはずだ。

 すぐ照れる彼女も可愛くていいのだが、今は私のことを見てほしい。

「花束なんて押しつけて迷惑じゃなかったかなんて後になって思ったのですが、大事にしてくれてありがとうございます」

「迷惑なんてとんでもありません。あの時、私に幸せになってほしいと言ってくれた佐藤さんの気持ちが、ずしりと響きました」

 思ったとおり、律義な彼女は真っすぐ私を見て答えてくれる。

「思われていることがどれほど心強いことか、ありがたいことか、改めて感じました」

 珍しく彼女の言葉が続く。

 彼女にとってそれは、一言二言では済まないほどに重大なことだったのだろう。その重さが、私の胸に響く。

「今はお礼を言うくらいしかできませんが、私も他の人に、佐藤さんにも幸せを分けることができるような大人になりたいと思っています」

 真っすぐな彼女は嘘は言わない。つまり彼女は本心から、私のことを大人だと思ってくれているのだ。

「私なんて、全然子供です」

 今度は私の方が照れてしまう。しかし視線をそらそうにも、真っすぐな彼女の目が私を逃がしてくれない。

「そんなことはありません。佐藤さんは当たり前に他の人を気遣うことができる、しっかりした大人です」

「それは、久保さんの方です……」

「違います。私はただそうしようとやっているだけの自己満足で、だから当たり前にはできないのです」

 言い返そうにも、頭のいい彼女にかなうはずがない。そうしてきちんと芯に自分の考え方があるからこそ、彼女は大人だと思うのに。

 照れをごまかすとかはもうどうでもよくて、このままではまた彼女が自分を否定してしまう。そんなことはさせたくないのに、どうすればいいのかわからない。やはり私は子供だ。

 その時、私たちの横を低い音が通りすぎていった。彼女の視線がそれた隙に私も横に目をやると、いつの間にか流れが途切れていて、車が一台ロータリーへと出ていったところだった。もう一台は抑えきれずにあふれ出てきた流れに止められてしまう。

 待っている間に後から別の車が来ることもあり、だからいつも車が全部いなくなるまで待つのではないのだが、今回は出遅れてしまったのでもう一台が出ていくまで待つことにする。

 それはそうしようと言い交わしたりすることなく、二人の間で何となくそうなる。そんなことも、彼女と心が通じあえたようで嬉しい。

「ごめんなさい」

 それなのに彼女は詫びの言葉を口にして、突然のことに私は戸惑ってしまう。

「自分の駄目なところなど口にするようなことではないのに、余計なことを言いました」

 私が気にするからそのことを謝っているのかと、ようやく気づく。

「余計じゃないです。久保さんの気持ちとか思ってることとか、何でも聞きたいです。私を気遣って遠慮なんてしないで、辛いことは辛いって言っていいんです」

 そのためには、彼女が自分を否定するのを聞くのが嫌だなどとは言ってはいけない。私が彼女の辛さを受け止められるような、本当の大人にならなければいけない。

「ですが……」

「私は、そういうことを言ってもらえるような大人になりたいです」

 彼女は不意をつかれたように表情を、瞬きさえも止めた。

「はい」

 息をつくように言ったたった一言に、すべての思いが込められているのを感じた。そんな思いを伝えてもらえることが、幸せだった。

 次の電車が来るまでの流れが緩くなる時間帯だったためか、もう一台の車がロータリーに出るのにはそれほど時間はかからなかった。今度こそ私たちも横断歩道を渡る。

 彼女はいつものように言葉少なく、私に歩調を合わせて隣を歩いてくれる。

 それだけで十分幸せなのだが、それを感じているだけではいけない気がする。私が幸せなことを、幸せに思わせてくれる彼女への感謝を、伝えたい。

「あ……」

 彼女の手を取った時に小さく漏れたのは、彼女の声なのかそれとも私の声なのか。

 ちらりと視線を交わしたが、それだけで言葉もなく、足を止めることもなく、手をつないだまま商業施設の方へと歩いていく。

 彼女が好き。それだけ。

 どう好きとかどれだけ好きとか、そんなことは今つないでいる手に感じる温もりに比べればどうでもいいことだ。

 商業施設を過ぎたところで私の方から手を離す。おやすみなさいと挨拶すると、彼女も挨拶を返してくれて、そして大通りの方へと足早に歩き去っていった。

 さっきまでつないでいた手を見て、握り、開く。

 この手から彼女の体温はもう消えてしまったが、それでもまだ温かさを思う。

 心がつながっているのだと思えて、とても幸せになる。

 この幸せがあれば何があってもがんばれる。この幸せのために何があってもがんばらなければならない。

 真っすぐ前を向いて、私は裏通りへと歩いていった。

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