温泉旅行
しかしそれはどう伝えたらいいのだろう。
彼女のおかげで私がちょっと大人になれたとは言えない。自分のことを大人になれていないと思っている彼女に、大人という言葉は聞かせない方がいいだろう。
出会えたことが嬉しい。これは間違いなく私の本心だが、それを言うのは唐突すぎる。
考えれば考えるほどわからなくなる。
感謝の言葉をただ彼女に言いたいのではない。感謝を伝えて彼女にも一緒に喜んでもらいたいのだ。そうでなければ意味がない。
どう伝えたらいいのかわからないが、それでも彼女に会いたい。うまく伝えられなかったとしても、今すぐこの気持ちを伝えたい。
だから今日もあの場所で待たされている車が通れるまで待つ。居合わせることになるかもしれない彼女を待つ。
来た。
まだ人の流れが激しいうちから私の隣で立ち止まってくれるのは、彼女だけだ。見なくてもわかる。
急に振り向いて彼女を驚かせないように、みっつだけ数えて、それから意識してそっと彼女に目を向けた。その視線を感じてから、彼女も私に目を合わせてくれる。
私はそれに小さく笑って答える。いや、意識せず表情が緩んだだけかもしれない。
「お疲れさまです」
私が声をかけると、彼女は無言のまま会釈を返す。それから二人並んで車がロータリーに出ていくまで待っているのが私たちの常だ。
しかし、今日は違った。
彼女の顔を見た時点でもう胸の内があふれそうになっている私が、さらに声をかけるはずだった。
そのはずだったが、先に声をかけてきたのは彼女の方だった。
「相談したいことがあるのですが、今からお時間取れますでしょうか」
彼女から声をかけてくるのは、これまで片手で数えられるくらいしかないくらいに珍しい。
彼女のことだから意味もなく声をかけてくるなどということはなくて、必ず何か用事があってのことだ。
「はい」
私に用事を持ちかけてくることだけでもう嬉しくなって、私はうきうきと返事をする。
それは歩きながら話すようなことではないらしく、いつもの店に着くまで彼女が口を開くことはなかった。しかし深刻そうな顔はしていない。最初に気にしなければいけないことなのだろうが、彼女のその顔に私は安堵した。
私たちのことを店主も覚えてくれて、席に着くとすぐにいつものでいいかと聞いてくれるようになった。彼女に目を向けると小さくうなづいたので、二人分を注文する。
それから彼女はバッグから細長い紙片を取り出してテーブルに置いた。
「商店街の福引で、温泉旅館の招待券が当たったのです」
旅館の外観が印刷された紙片には、確かにそう書いてある。
「大当たりって、本当にあるんですね……」
私は彼女の強運のことを言ったつもりだったが、彼女の返事は違っていた。
「なかったら景品表示法違反になります」
「ケイヒンヒョウジホウ?」
何のことかわからずにただその言葉を繰り返しただけの私を置いてきぼりにして、彼女は説明を続けた。
「福引を引くためには商店街で何かを購入する必要があるので、つまりは有料のくじ引きということであり、一種の商取引ということになります。そこで虚偽があるのならば、それは罰せられることになります」
以前に法律の話をしてくれた時とまったく同じだ。
それを話す彼女は真っすぐで堂々としていて、私はそれに圧倒されつつも聞き惚れてしまう。
「つまり、法律でそう決まっていると」
「はい」
的外れな返事ではあるがそれがとても彼女らしくて、そんな彼女が好きだとまた思う。
「そういうのって、だいたい二名様だよね」
それはそれとして、その招待券を何のつもりでここに持ってきたのか、目で招待券を指してその話に戻す。
「はい。ですからご一緒してもらえないかと思いまして……」
やはり真っすぐな彼女の目に、私は絶句した。
彼女と二人で温泉旅行?
そんなの夢にも思ったことがない。
絶対幸せすぎる。
「私…で、いいの……?」
幸せすぎて本当に本当のことなのかという疑いがどうしようもなく湧いてくる。
「はい。こんなことを頼めるのは、佐藤さんくらいしかいませんから……」
疑ってかかっているせいか、くらいという言葉が私のことを軽んじられているように思えて、過敏に反応してしまった。
「くらいってだって…、友達とか家族とか会社の人とか他にもいるでしょう?」
「友達は、進学してからはいませんし、家族とは離れて暮らしていますし、会社でも一緒に旅行に行こうというほど仲のいい人はいません……」
友達がいないというのは確かに前にも聞いたが、本当に一人ぼっちなのか。私だったらそんな環境なんか寂しくて耐えられないだろう。
いや、彼女も寂しいと思っているのだろう。真っすぐ私の目に向いていたはずの彼女の視線がだんだん下がっていってしまうのはきっと、寂しさを意識してしまったからだ。
私は慌てて不躾を言ってしまったことを謝った。
「気を悪くさせるようなことを言ってしまってごめんなさい。信じられないくらい嬉しすぎて、つい疑うようなことを言ってしまいました」
「では、ご一緒してもらえるのですか…?」
上目遣いではあるが、彼女は再び私に目を合わせてくれた。期待をにじませるように、おずおずと聞いてくる。
「嬉しいです。私でよければ喜んでご一緒します」
「よかった……。ありがとうございます」
一度目を伏せてほっと一息ついて、ようやく彼女は真っすぐ私に向き直ってくれた。
「ありがとうございますは私の方です。連れていってもらえるのですから」
今度はちゃんと、意図して笑って見せる。つられたように彼女の表情も緩んだところに、いい香りが私たちの鼻をくすぐった。
私たちの話が一段落するまでお茶を出すのを待ってくれていたらしい。それこそ、大人の気遣いだ。偶然でもいい店を見つけられて、運がよかったと思う。
しかしやはり、運がいいのは彼女だろう。今度こそ直接それを言うと、彼女は自分でも同意した。
「運がいいって、もしかしてくじ引きでよく当たりが出たりとかするんですか?」
そうだとしたら羨ましい限りだ。そういう機会があったら彼女に頼んでみよう。
しかし、彼女の答えは違った。
「くじで大当たりを引いたのは、これが初めてです」
「だったら他にいいこととかあるの?」
私の問いに、彼女は神妙な表情になった。
そんな話ではなかったはずなのにどうしてだろうと、私はたじろいでしまう。
「私…、人づきあいもまともにできないのに、仕事もさせてもらって、それにこんな私なのによくしてくれる人もいます……」
何それ。
「それは運がいいから助かっているだけで、そうでなかったとしたら…」
こんなという言葉が、どうしてかどうにも認められなかった。許せなかった。
「こんなって何よ!?」
彼女が見てわかるほど大きく震えて口を止めたのを見て、ようやく自分が声を荒らげてしまっていたことに気がついた。
気づいたが、それでも止められなかった。
「こんな私って何? だったらそんなあなたを好きな私って何なの?」
私まで否定されたとしか思えなくて、どうしようもなく苦かった。受け入れられなかった。
驚きに口を半開きにしたまま硬直していた彼女だったが、その口を一度強く引き結んで、それから彼女をにらむ私の目を同じようににらみつけて言い返してきた。
「わかりません。どうしてあなたがこんな私を好きでいてくれるのか、ありがたいことですが、私にはわかりません。私が教えてほしいくらいです」
どうしてって、そんなの……
きれいで可愛くて、大人で純粋で、真っすぐで気遣いができて……
「どうしても何も、全部好きだからに決まってる」
「全部なんて適当なことを言わないでください。自分しか見てなくて人づきあいもできなくて、考えることもできなくて一人では何もできない、こんな私が好きなんてあり得ません」
好きなところのひとつとして、頭がいいということを失念していた。
三倍くらいに言い返されて、私の方が押し切られそうになってしまう。
「そうやって自分を悪く言うのをやめてって言ってるでしょ? 言ってて悲しいでしょ、そういうの」
「悲しくても自分からは逃げられません。自分に嘘をついても何も解決なんてしません」
がんばって抵抗してみても、彼女は自分の発言を取り消してはくれない。
わかってくれない彼女がもどかしくて仕方がない一方で、彼女にこんな強情さがあったのかと頭の裏側あたりで驚く。その芯の強さもまた、好きになってしまいそう。
「解決とかそういうことじゃないの!」
口ではとても彼女にかないそうにない私には、後は勢いで押し潰すことしかできない。声をさらに荒らげて、身を乗り出して彼女の顔を至近距離からにらみつける。
私をにらみ返しているようで、それでも遠慮を隠しきれずにわずかに揺れるその目も好き。
彼女は今度はすぐに言い返してこなかった。
いけるかと思ったが、しかしここで別のところから声がかけられた。
騒がしくしないでもらいたいと店主からの注意が入ったのだった。
私は店主に迷惑を詫びたが、激情はまだ収まりがつかず、そのまま二人分の会計を済ませて彼女を置き去りにして店を出てしまった。
どうしてが止まらない。
どうして彼女はあんなことを言うのか。どうして私はそれにあんなに突っかかってしまったのか。どうして彼女はわかってくれないのか。
たくさんのどうしてが渦巻いているが、でも一番はやはり、どうして喧嘩別れなんてしてしまったのかだ。
だって彼女は何も悪くない。
自分の欠点を逃げずに見つめる強さがあるだけだ。
それができなくて彼女に当たり散らしたのは私。
彼女が好きで好きで仕方ないのに彼女のことをはねつけて、それで勝手に不安になっているのは私の弱さ。
喧嘩別れしても彼女が好き。嫌われるのは嫌。でもやっぱりあれは自分まで否定されたようで辛かった。
そんな自分にどうしてと思う。でもわからない。
頭の中はぐちゃぐちゃで、もうどうしてに続く疑問さえ思い浮かばない。
どうしてと思わないことはたったひとつ。
彼女が好き。それだけ。
頭の中がそのたったひとつで埋めつくされた時になってようやく、私は混乱から脱したと思う。
謝ろう。
次に会った時までなんて待てない。時間が経てば経つほど謝ることのできない私が嫌われてしまう。今すぐ謝りたい。
でも遅い時間に電話をしたら彼女は迷惑かもしれない。相手の都合を考えない私が嫌われてしまう。それでも今すぐ謝りたい。
チャットアプリ、それならば電話を見る余裕がある時に読んでもらえる。時刻も記録されるから、私の今すぐという思いも残せる。
私は電話を取り出して画面をつけた。アプリを起動して彼女と二人のグループを呼び出す。
(さっきは嫌なことを言ってごめんなさい)
いちばん言いたかったことだけを、真っ先に送信した。
しかしそこで手が止まってしまう。
私がどんな思いで謝っているかを伝えたい。しかしどんな言葉ならばそれが伝わるのだろうか。
言い訳じみたことは言いたくない。しかしごめんなさい一言だけではとても足りない。
手は動かず、そして目も画面を見つめたまま動かない。
このアプリは、送信したものをグループの誰かが受信するとその人数が記録される。ただし電話の通知欄で見ただけでは受信とはならず、アプリで見て初めて受信記録がつく。
私のごめんなさいには、まだ受信記録はついていない。
彼女はまだ電話を見ていないのか、それとも通知から私だとわかって無視をしているのか。
彼女はあまり電話を使わないようなのでまだ見ていないだけなのだろうが、もしかしたら無視されているのかもしれないと思うと怖くて怖くて仕方がなくなってしまう。
見れる時に見てもらえればいいと思ってアプリにしたのに、今すぐ見てほしくてどうしようもなくじりじりしてしまう。もう伝えたいことを考えるどころではなくなってしまっていた。
お願いだから読んで。私のことを無視しないで。
何度も画面が消えて、そのたびにまたつけなおす。
そのくせ怖くて電話をかけることはできない。
何もできない。何も考えられない。ただ受信記録を待つ。
気づくと送信時刻から三十分は経っていて、電池残量もかなり減ってきていた。
いつ彼女が受信してもそれをすぐ確認できるように、充電器のコードを電話に挿す。
ずっと無音だったところに電話が短い音を立て、驚いた私は電話を手から落としそうになってしまったが、それはただの充電開始の音だった。
しかし同時に、画面には充電以外にもうひとつ変化が現れていた。
受信記録が、ついた。
今電話の向こう側に彼女がいる。
私のごめんなさいを読んでくれている。
彼女がそれをどう思っているのかはわからないが、読んでくれたということだけで私の胸の内はあふれそうになってしまっていた。
伝えなければ。
私がどれだけ彼女が好きで、嫌われるのが怖くて、あんなことを言ってしまったことを後悔しているのか。
それなのに言葉が胸に詰まって出てこない。
また嫌なことを言ってしまうかもしれない。考えなしに彼女を傷つけてしまうかもしれない。そして今度こそ無視されてしまうくらいに嫌われてしまうかもしれない。
でもこのままなんて耐えられない。こんなに好きなのに、その彼女が今電話の向こう側にいることがわかっているのに、言葉ひとつかけることができないなんて、苦しくて苦しくてどうにかなってしまいそう。
一人悶えている私の目の前で、画面が動いた。
いちばん下にあった私のごめんなさいの枠が、上に押し上げられる。
(私の方こそ、気に障ることを言ってばかりでごめんなさい)
違う。
違わないけど違う。彼女に謝ってほしいのではない。
彼女のごめんなさいにも続きはない。つまり彼女が一番言いたかったことも、それなのだろう。
(謝らないでください)
彼女にそんな思いをさせてしまった自分が嫌。
(謝らせてしまって、ごめんなさい)
彼女にはそんな思いなんかしないでいてほしい。
(自分を責めるようなことを言わせて、本当にごめんなさい)
彼女らしく真っすぐ前を向いていてほしい。
私ばかり立て続けに送信していて、彼女もずっとそれを読んでくれているが、答えはない。
今彼女は何を思っているのだろうとようやく思って、そこで気がついた。
彼女はあまり電話を使わないので手早く送信してくることはないし、そもそもきちんと考えて言葉にしてから口にする人だ。だから返事には少し時間を要する。
きっと今彼女は私への返事を考えている。
それが私が望むように自分を責めることをやめてくれるものであることを願いながら、私はそれを待った。
(気遣わせてしまってごめんなさい。でも同時にありがとうございます。私は私で欠点がなくなるわけでもないのに、ああ言ってもらえて少し救われたような気分になれました)
しかしそれは私の勝手な希望に過ぎなくて、彼女がそれに従わなければならない理由なんてどこにもない。
彼女はやはり彼女だった。
(やめて)
またそんなことを言わせてしまって、もう送信されて二人の前に表示されてしまっているので手遅れではあるが、そう言わずにはいられなかった。
できることならばそれを言う彼女の口をこの手でふさいでやりたかった。
(ごめんなさい)
彼女はまた私に謝ってしまう。
どうしてこうなってしまうのだろう。
友達とだったら、ちょっと諍いになってしまったとしても次の日くらいにはごめんねの一言で終わるかもう気にしてないよで流されるかくらいだ。それくらいならば、チャットアプリで十分できる。
でも彼女にはそうできない。
どんなことでも気にせずにはいられない。謝っただけで放ってなんかおけない。ちゃんと伝えて話してわかってもらいたい。わかりたい。
(私、初めて知りました)
送信した瞬間に受信記録がつく。しかし、返事はない。
私は構わず書き続けた。
(文字だけでは、本当の気持ちは全然伝わらないんですね)
これも即座に受信記録がつく。
(顔を見て、声を聞いて、息づかいとか感じて。そういうの全部必要なんだって、初めて思いました)
(はい。私もそう思います)
彼女が私と同じことを思ってくれた。それだけでも嬉しい。
(だから会いたい。会って謝りたい。また会って、いいでしょうか)
ひとつ前のようにすぐには返事が来ない。
呼吸何度か程度の間でしかないのに、もう怖くなって息が浅くなってきてしまう。
(私も会いたいです。会いたいと言ってもらえて、今とても安心しました)
それは私の方だと思わず口に出して言ってしまった。もちろんその声は彼女には届かない。
安堵のため息をついて、それからひとつ深呼吸をする。
そして遅い時間につき合わせてしまったことを詫びて、おやすみの挨拶をした。
まだちゃんと許してもらえたのでもないのに安心感と充足感とですぐに眠りにつけたのは、どうしてだったのだろうか。
いつ会おうか約束していなかったことに気づいたのは、翌日になってあの場所に立った時になってだった。
前に同じようなことがあった時には彼女の方からそれを決めてくれたのに、私はそんなことなどまったく気がつかなかった。
間抜けすぎる。彼女からも何も言ってこないのは、そんな私に呆れてしまったからだろうか。
それを肯定するかのように、来た時には三台待たされていた車が全部ロータリーに出ていっても、彼女が来ることはなかった。
私の考えなしのせいで彼女が私に失望してしまっていたらどうしよう。
最初の時のように隣に立っても視界にも入れてもらえなかったらどうしよう。
胸が握りつぶされるかのように苦しい。
それなのに間抜けの上書きをするのが恥ずかしくて、何度も電話に手が伸びるのに、それを使って彼女に連絡をすることができない。そんな場合ではないのに。
横断歩道を渡り、商業施設を過ぎて、裏通りに出るためにビルの間に入る。途端に風が正面から吹きつけてきて思わず顔をそむけてしまう。その目の端に、彼女の姿が映ったような気がした。
それは一瞬のことで、振り返った時にはもうその姿は見当たらなかった。思わずビルの間から出て表通りへと出ていく人の流れを見つめてしまったがもう遅く、見知らぬ背中が次々に私を置いていくばかりだった。
私はまた幻覚を見てしまったのか、それともあの時のように本当に彼女がそこにいたのか。
聞きたいが、聞くのが怖い。
また手が電話に触れて、力なく離れた。
彼女が遠かった。
遠すぎて私の方を向いてくれているのか背を向けてしまっているのかわからないのが、たまらなく辛かった。
視線が下がっていると先輩から怒られた。
その先輩が昼休憩のためにロッカー室へと下がっていく。呼べば来てくれるとは言え、先輩がいない間は自分たちでどうにか乗り切らなければならない。
今は彼女のことは忘れなければ。違う、彼女も会いたいと言ってくれたことを信じてがんばろう。
そう決めただけで、不思議とがんばれた気がする。
買い替えを考えているというお客様に見本品を見てもらいながら案内をして手続きまでこぎつけることができたのは、単なる偶然だったかもしれないし、彼女のことを思ってがんばれたおかげかもしれない。
そんな日の帰り、そのご褒美であるかのように、あの場所に彼女の背中が見えた。
今日こそちゃんと謝ろう。
彼女は嘘をつかない。その彼女が会いたいと言ってくれた。だから大丈夫。
嬉しさと緊張とで弾む胸を息を整えることでどうにか抑えて、彼女の隣に立った。
言葉に詰まってか、彼女は口をほんの少し開けたりそれをつぐんだりしながら気まずそうな顔をしている。
ここで私が一言でも詫びの言葉を口にすれば、彼女はまた謝りだしてしまう。もう少し落ち着いたところでちゃんと話がしたい。
「また、お茶なんかつき合ってもらえませんか?」
だから私は挨拶も詫びも抜きにして彼女をいつもの店に誘った。
開きかけた口を結んで、彼女はこくりとひとつうなづいて答えた。
「今日はね、いいことがあると思ったんですよ」
いつものように路地から出られない車がいなくなるまで待ちながら、私は今日会ったことを彼女に話した。
彼女にとっては何の面白みもない話だろうに、彼女は律義に相槌を打ちながら聞いてくれていた。そして話し終えたところで私のことをねぎらってくれた。
なんだか学校であったことを母親に話したくて仕方がない子供みたいだと我ながら思うと、笑いがこみ上げてくると同時に、そうさせてくれる彼女はやはり大人なのだとしみじみと思った。
お店に入ると、早速店主と目が合った。一瞬だが、店主の表情が動いた。
私が先日のことを改めて詫びると、向こうも失礼をしたと謝ってくれた。
「あんなことがあったからもう来てもらえないかもしれないと思いましたが、お二人で来てもらえてよかったです」
二人でとわざわざ言ったことが言外に仲直りできてよかったと言っているように聞こえて、心配してくれていたことがありがたく思えた。
「ご心配をおかけしました」
頭を下げる私の隣で、私たちの話に入ってこれずに心細そうにしていた彼女も一緒に頭を下げた。
「いつもので、よろしいでしょうか」
そんな彼女に目を向けて、店主が聞いてくれる。
一度私に目を向けて、私がうなづいたのを見てから、彼女は言葉短く二人分を頼んだ。
いつものようにテーブル席に向かい合わせで座る。
いつもと違うのは、彼女が真っすぐ私の目を見てくれないことだ。
見てくれないというのも少し違う。目を向けようとしては、遠慮したように伏せるのを繰り返している。
何かを言おうとして言葉が喉から出ずにいるのが見てわかる。しかしきっと言おうとしているのは私への詫びの言葉だ。そんなことは言わせたくない。
「私、すごくわがままなんです」
だから私が先に口を開いた。
彼女はパッと顔を上げて、ようやく私を真っすぐ見てくれた。
「久保さんが自分のことを悪く言うのがどうしても嫌で耐えられなくて、それであんなことを言ってしまいました」
「ごめんなさい…」
「謝られるのも嫌」
やはり彼女はその言葉を口にしてしまい、私は覆いかぶせるように語気を強くしてしまった。
鋭い声に怯えたように彼女は首を竦めて下を向いてしまう。
どうしても、わかってもらうのは無理なのか。
「私がわがままなの。私が勝手に久保さんの気持ちを無視してああだこうだ言ってるだけなの。久保さんは何にも悪くない」
言葉だけではなくて、この声から、今の私の表情から、伝わってほしい。読み取ってほしい。
「でも、佐藤さんにそう思わせたのは、私の方です」
「やめて。お願いだから」
お願いだから、わかってほしい。
「私、あの時すごく気持ちが不安定でした。不安定って嫌な気持ちとかじゃなくて、久保さんに旅行に誘ってもらえたことが嬉しすぎてすごくはしゃいでいて、それでちょっとのことでもすごくけちをつけられたような気になってしまったんです」
嬉しいという言葉に応じるように、彼女は目を上げた。
「そんなに……?」
「はい。そんなにです」
すぼめた口をほんの少し開いたまま、彼女は絶句した。驚いたように目をぱちくりさせている。
二人とも何も言わなくなったのを見計らってか、ここで紅茶が運ばれてきた。
気を遣ってもらえたことに私が感謝を言うと、店主もどうぞごゆっくりと答えて静かにカウンターへと下がっていった。
「では、私が喜んでいるところに水を差してしまったということでしょうか」
一口だけ紅茶を口にした彼女が、カップを置いて話を戻してしまった。
「やだなぁ、そういう言い方はもうなしにしてほしいんだけど……」
不安そうに眉を下げてしまった彼女に、私は思い切って言った。
「じゃあこれは信じてください。あなたのそんな自分を曲げない芯の強いところも好きです」
好きな人に面と向かって好きと言うのは、何度言ってもものすごく照れる。顔がサッと赤くなるのが自分でもわかる。きっと慣れる日なんて来ない。
それは彼女も同じらしく、耳まで赤くして俯いてしまう。
その姿勢のまま紅茶を一口だけ含んで、彼女は独り言のように呟いた。
「そんなの……、全部好きって、本当に……」
戸惑っているということは、私の好きを真っすぐ受け取ってくれたということだ。
それだけでもう十分。どちらが悪いとか謝る謝らないとかなんてもうどうでもいい。
「嘘じゃないです。全部好き。あなたのことが好きだから、どんなことでも全部好きになっちゃうんです。嫌だって思っても、それでも好き。それも好き」
私の胸の内はそのたったひとつだけであふれていた。
「好きだから、いつも真っすぐ前を見ていてほしい。下を向いちゃうような思いなんて、してほしくないです」
だからわかって。
言葉とか語気とかだけでは足りない。力みのこもった目、真っ赤な顔、前のめりになってしまう姿勢、他にもあるなら全部、私の全部からこの思いが伝わってほしい。
しかし、彼女は俯いたままだった。これでは目で見えるものが伝わってくれない。
そうだ。
今彼女に下を向かせてしまっているのは私なのだ。
口では下を向かせたくないと言いながら、自分で彼女にそうさせてしまっている。
頭の後ろあたりが冷たくなった。
そんなことをしたら彼女に嫌われてしまう。どうしよう。
「ごめんなさい」
嫌われたくない一心で、私は謝った。
彼女が小さく声を上げたようだったが、焦りに駆られた私は止まれなかった。
「また私の気持ちを押しつけて、困らせて…」
どう言えば、許してもらえるのだろうか。
考えようとしても、頭の中はぐるぐるするばかりだ。
「確かに、困っていないと言えば嘘になります。でも、嫌ではありません」
それを止めたのは彼女の、小さいながらもきっぱりとした声だった。
その言い方は前にも聞いたと、即座に私は思い出した。私が最初に、彼女に好きだと言った時。
「私はあなたの気持ちにこたえられない。だから困っています。ですが好意を向けられて嫌なんてこと、あるはずがありません」
あの時も同じようなことを彼女は言った。
だから、それ以前にいつだって真っすぐな彼女が嘘をつくようなことなどあり得ないが、その言葉に嘘はない。
「じゃあ私のこと、許してくれますか?」
彼女は首を横に振って違うと言った。
一瞬で私の目の前は真っ暗になった。
「私は嫌な思いなんてしていません。ですから許すとかそういうことではありません」
何か音が耳に入ってくる。
これは私に向けられた声なのか。
「その気持ちにこたえられないのにこんなことを言うのは勝手ですが、好きと言われて、嬉しく思います」
これは彼女の声だ。
彼女が私に、嬉しいと言っているのか。
「本当に……?」
目がやっと彼女の像を映した。
私の好きな、彼女の顔。
「嘘ではありません」
その真っすぐな目は正確に私の目に向けられている。
言葉も声も、姿勢も、全部が真っすぐ私に向けられている。
「よかった……」
また胸の内があふれてしまう。
それに押し出されるように、目の縁から熱いものがこぼれてしまう。
駄目。泣いたりしたらまた彼女を困らせてしまう。
面倒だと思われて、嫌われてしまうかもしれない。
それなのに、自分のことのはずなのに、涙は止まってくれない。
「あ……」
その目の縁に、温かいものが触れた。
彼女が伸ばした指先が、涙をぬぐってくれていた。
「また泣かせたりして、ごめんなさい……」
困ったような戸惑ったような顔をしながら私に触れている彼女の手を、両手で包むようにしてそっと外した。
「気遣いは嬉しいですけど、わかってほしいかな。これは、うれし涙です」
作ろうとしなくても自然となった笑顔で細められた目から押し出されて、最後の一滴が頬を伝った。
呆然としている彼女にもう大丈夫だと伝えたくて、私は冷めかけの紅茶で失った分の水分を補給した。
私と同じ動作をする操り人形のようなぎこちない動きではあったが、彼女もカップを手にしてくれた。
冷めてしまってせっかくの紅茶の香りはもうかなり霧散してしまっているが、それでも残り香が高ぶっていた気持ちを落ち着かせてくれるような気がする。
今もまた気持ちが不安定だったのだと、やっと気づいた。そしてそれが彼女を不安にさせてしまっていたことに、ようやく気がついた。
そんな私ではいけない。私はもっと大人にならなければならない。
「あの…」
それなのに、先に気遣いを見せてくれたのは彼女の方だった。
「温泉……」
元はと言えばその話だった。
どうしてこんなことから喧嘩なんかしてしまったのだろう。自分が情けない。
嬉しいのだから、そう言えばよかっただけではないのか。彼女のように、真っすぐに。
「ご一緒したいです。連れてってください」
「はい」
私が不安定にならなければ、彼女も真っすぐ私を見てくれる。それが嬉しい。
だからやはり、私はもっと大人にならなければならない。
招待券には期限があるが、それまでならばいつでもいいとされている。
彼女が有給休暇を使うと言ってくれたので、私の平日の休みにもう一日休みを取らせてもらって、そこで行くことに決めた。
せっかく遠くへ行くのだから観光とかもしたいと私が言うと、彼女はゆっくりできるところがいいと答えた。
そうだよね。観光なんかよりも彼女と二人でいられることの方がずっとずっと大事。
この二日間は、彼女は私だけのもの。
瞬間的に動悸が激しくなった。
どうしよう。幸せすぎる。
こんな幸せ、どうすればいい?
激しすぎる心臓とあふれそうになる胸を両手で押さえて、どうにか押しとどめようとする。
しかし呼吸までが浅く早くなって、音を立ててしまう。
「あの、具合でも悪くしましたか…?」
隠すこともままならず、彼女に見つかってしまった。心配そうに眉をしかめてしまう。
そんな顔なんてしてもらいたくない。正直に白状するしかなかった。
「違うんです。嬉しすぎて、今からもうドキドキしてきちゃったんです」
それが移ったかのように、彼女までが顔を赤くして胸に手を当てた。
どちらからそうしたのか、競うようにカップを手に取って紅茶を一口喉に流しこんだ。
「私、予定を考えてきます。そうしたらまた相談しましょう」
まだ真っ赤な顔をしたまま、しかしそれを無視するように、彼女は少し声を高くして話を締めくくろうとした。
私から何か言うどころではなかったので彼女から話を切り出してくれたのは助かったのだが、しかしこれでは何もかも彼女にしてもらうだけになってしまう。それは申し訳ない気がする。
私がそれを言うと、彼女はこの前遊びに連れていってもらった時には全部考えてもらっていたから今度は自分の番だと答えた。
それは違う。あの時はただ私が私のペースで好きなようにしていただけだ。
しかしそれならば今度は彼女のペースで行った方がいいかもしれないと、ふと思った。
これは彼女の旅行で、それに私がつき合わさせてもらうのだ。だから今度は彼女の思うようにするべきだろう。
「お願いして、いいですか?」
「はい」
私も私で少し考えておいて、彼女が迷っているようであれば、答えられるようにしておこう。
彼女と二人、どんな所へ行けば楽しいだろうか。それを考えようというだけでもう楽しくて仕方がない。
もういくつ寝るとという童謡の、お正月には凧あげてより先が思い出せない。小さい頃は楽しく歌っていたはずなのに、忘れてしまうものだとちょっと寂しく思う。
それはともかく、もういくつ寝ると彼女との温泉旅行だ。楽しみで仕方がない。
楽しみなのだが、旅程を決めて以降一度も彼女と会えていない。
もう何日も会えていないのだから今日くらいはと思っても、今日もやはりあの場所に彼女の姿はない。
それでもいつものように路地には車が待たされていて、私もいつものようにそれが出られるまで待つ。彼女が来てくれることを待ちながら。
しかし二台並んでいた車がいなくなっても、彼女が隣に立ってくれることはなかった。仕方なく私も流れの一滴になって横断歩道を渡る。
私は休みを取るといっても特別何かをしなければならないこともないので気がつかなかったが、もしかすると彼女は二日も休みを取るために今忙しくしているのかもしれない。そうだとしたら、私のために無理をさせてしまったことになる。
申し訳なく思うと同時に、私のためにそこまでしてくれることに、胸が締めつけられる思いがする。
そんな彼女に、せめて応援くらいしてあげたい。しかしアプリにでもそう書こうものなら、律義な彼女のことだからわざわざ時間を割いて返事を考えてしまうのは間違いない。そんなことで邪魔はしたくない。
こんな時に何もできない自分が悔しい。
こんなに彼女が好きなのに、彼女にはいつも幸せであってほしいのに、彼女のためにできることが何もないのがもどかしい。
彼女に会いたい。会って私がこの寂しさを消し去りたい。
私はやはり、わがままだ。
前日夜になって彼女から明日よろしくとアプリで連絡があって、どれだけ浮き立った気分で私が返事を返したか、彼女には伝わっただろうか。
仕事柄、私の出勤時間は一般的なそれよりも遅い。
だから彼女が指定した時刻は私にはいつもよりも早起きを要するものだったのだが、それでも難なく起きることができた。むしろいつもよりもゆっくり朝食をとることができたくらいだ。
今日のために買ってきたボストンバッグにいろいろ、胸にも言いようのない気持ちをあれこれ詰めこんで、ちょっと肩は重いけれど足どり軽く、私は駅へと向かった。
彼女に会ったら最初に何を言おう。
連れていってもらえる感謝か、そのために無理をさせてしまったかもしれないことへの詫びか、それとも今日行くところへの期待か。
あるいは胸が詰まって何も言えなくなるかもしれない。そうなってしまったら、どうしよう。
胸の高鳴りは増すばかりだが、足を止めて呼吸を落ち着ける時間の余裕はもうなくて、とても無心になんかなれないがそういうことにして交互に足を前に出し続ける。
ビルの間から商業施設の前に出て、いつもの横断歩道に着く。
その向こうの駅前には、今回もすでに彼女の姿があった。私に気づいて顔を上げた彼女を見て、今度彼女と待ち合わせをするときには十分くらい遅く言っておこうと思った。
駆け出してしまいそうになったが、私の斜め前には車が一台いた。一瞬迷ったが、私はいつものようにそこに立ち止まった。
私が向いている向きも空の色もいつもと違っているのだが、いちばん違うのは私の他に歩行者が誰もいないことだ。
だからなのか、運転席の男の人が手振りで私に先に渡るようにと促してくる。彼女を待たせているのでと言い訳をして、私はその人に頭を下げて先に通してもらうことにした。
彼女と挨拶を交わして、駅へと入る。切符は窓口で買うのだろうとか私が思っていると、彼女は改札の脇の紫色の機械へと向かっていった。
機械を相手に言葉も何もないが、彼女は私をおいて無言のまましばらく操作をして、やがて二枚の切符を私に渡した。それはちゃんと目的地までの乗車券と指定席特急券で、こんなに簡単に買えるものかと私は唖然としてしまった。
そんな私に気づいていないように、彼女は私を促して改札からホームへと案内するように先を歩いていった。
そしてちょうど来たいつもとは逆方向に向かう電車に乗る。この時間でも通勤と思われる人たちで席はほとんど埋まっていて、私たちは入った扉の反対側に並んで立った。
彼女はこの間のデートの時とまったく同じ格好で、ボディバッグを肩から斜めに掛けている。とても一泊旅行とは思えない軽装だ。
それを言うと、コンビニも何もない秘境へ行くのでもないので必要になったらその場で買えばいいという答えだった。
潔すぎる。むしろ男前だ。
切符もあっさり買ってくれたところから旅慣れているのかと思ったが、それは仕事で電車で遠くに行くこともあるので多少慣れているだけということだった。彼女がそう答えてくれたところで、電車が乗換駅に着く。
大きな駅で、私なんかはどこに行けばいいのかすぐにはわからなかったが、彼女は頭上の案内をちょっと見ただけで迷いもせずに階段を上り下りして目的のホームへと移動してしまった。
格好いい。とっくに惚れているのだけれど、惚れてしまいそう。
多少時間に余裕があったらしく、目的の特急の前に別の普通電車が来た。彼女が乗降の邪魔にならないように横に避けたので、私もならって彼女にひっつくように移動する。
大きな駅だけあってか、こんな時間でもかなりの人の流れがある。そのことに私は少し驚いたが、彼女は平然としたものだった。
すごく頼もしく見える。仕事中の彼女は、こんな感じなのだろうか。
私が一人で内心忙しなくしているうちに特急電車が到着したので、乗りこんで自分たちの席を探した。探すといっても前を行く彼女が見つけてくれて、自分は通路側だからと私を先に窓側の席へと通してくれた。
あまりにも自然すぎて、窓際の席を譲ってもらえたことに気づいたのは電車を降りる時になってからだった。
ようやく腰を下ろして落ち着いたところで、私は彼女に彼女の仕事の話をいろいろねだった。
やはり、今日明日のために最近は忙しくしていたらしい。無理をさせてしまったことを詫びると、彼女は今日のことが楽しみで苦にならなかったと言って私をなだめてくれた。
なんだかかえって彼女に気を遣わせてしまうばかりな気がする。それなのに気持ちが弾みすぎているせいか、ひとつ知るともっといろいろ知りたくなって、彼女を質問攻めにしてしまった。
そもそも私と彼女では出勤時間が違うのに、どうして帰りが一緒になるのか。聞いてみれば答えは簡単で、それだけ遠いというだけだった。混んでいる時間帯にそれだけ長い通勤を毎日しなければならない彼女のことが、ちょっと気の毒になる。
しかも彼女は一人暮らしであり、朝早く起きてご飯を用意しているのだという。夜はその残りものだというが、それでも到底私には真似できそうにない。すごいの一言しか出なかった。
そうなると自分の時間などほとんどないのかもしれない。私がお茶に誘ったりしているのはそのわずかな時間さえも奪ってしまって迷惑なのではないかと怖々聞いてみると、彼女は即座に首を横に振って否定した。
「確かに時間はちょっと厳しいかもしれません。だからというのも少し違いますが、人づきあいなど必要ないとずっと思っていました」
迷惑というのを否定してもらって安堵していたところにまた違うことを言われて、やっぱり本当は迷惑だったのかと頭の後ろあたりが一気に冷たくなった。どうしよう。
「でも誰かがそばにいてくれることが、好意を寄せてくれることがとても心強くて、だから逆にありがたく思っています」
「そう…なのですか……?」
それが心強いという感覚が私にはわからなくて、また彼女が私に気を遣ってくれているだけなのではないかと思ってしまう。
しかし彼女はそんな私の不安などないもののように、また即答だった。
「一人きりでいると、自分しか見なくなってしまいます。自分一人だけで生きているのではないのに、自分以外に目を向けなくなってしまう」
これもわからない。
「それでは駄目なのです。でもそれさえ気づかない。私は佐藤さんに構ってもらって、やっとそれに気がついたのです。やっと少し周りにも目を向けられるようになって、それだけでも私の世界は一変しました。それは全部、佐藤さんがいてくれるおかげなのです」
彼女の伝えようとしていることはやはりよくわからないが、彼女に出会って世界が一変したのは私の方だ。彼女や先輩が私のことを大人だと言ってくれるようになれたのは、それこそ全部彼女のおかげだ。
「私は、そんな……」
「佐藤さんのようにきちんと人づきあいができる人ならば、こんなことは思いもしないのかもしれません。しかし、私にとってはそうなのです」
真っすぐ私の目を見て話す彼女に、嘘などあるはずがない。
もしも彼女の言うとおり、私が彼女のために何かできていたとしたら、すごくすごく嬉しい。
信じたい。
「じゃあ…これからも久保さんのこと、お茶とか遊びにとか誘ったりします」
してもいいかと聞くのではなく断言してしまうところが、我ながら図々しい。
なのに彼女は一考もせずにうなづいて答える。
「でも都合が悪いとか疲れているとか気分が乗らないとかの時は、遠慮なく断ってください。そんなことで私に気を遣ったりしないでください」
「気を遣うとかではありませんが…、そうします」
実際のところは彼女を誘って断られたことが今までに一度もないので、そう言われても不安になってしまう。
「絶対ですよ?」
だからつい念を押してしまう。断られたら断られたで寂しくてたまらなくなるのはわかりきっているのに、それでも言わずにはいられない。
「はい」
彼女は神妙な顔になって硬い声で答えた。そんな顔をさせてしまって、ちょっと悪い気がしないでもなかった。
話に夢中で気がつかなかったが、いつの間にか窓の外が明るかった。
それは日が高くなったからというだけではなく、景色のほとんどを海が占めていてそれが日を照り返しているからだった。
私たちの住んでいるところも海からそれほど離れていないのだが、それでもわざわざ海を見に行くことなどない。それに、今見えている海のようにきれいではない。
思わず窓に張りつくようにして景色に見入ってしまうと、後ろからクスクス笑い声が聞こえてきた。
子供みたいだったかとちょっと恥ずかしく思いながら彼女に向き直ると、彼女はまだ小さく笑っていた。
「海を見てはしゃいでいるところが、可愛いです」
もう恥ずかしいどころではなかった。顔も頭も火照って、まるで熱に浮かされているかのようだ。
「可愛い……?」
真っすぐ彼女に向き合うことなんかできなくて、でも本当なのか彼女の顔を見て確かめたくて、私は何とか上目遣いで彼女をうかがう。
「はい」
彼女はその笑顔のまま私を真っすぐ見て、何のてらいもなくそう答えてくれた。
どうしよう。頭とか胸とかもう沸騰しそうで、どうすればいいどころかどう思えばいいかさえわからない。
そうだ、海。海ならばこんな私を鎮めてくれそう。
私はことさら彼女に背を向けて、青黒かったりところどころ白かったりする海をずっと眺めていた。
海はやはり偉大なのか、それとも彼女が私のことをそっとしておいてくれたからか、目的の駅に着く頃には私もそれなりに落ち着くことができたと思う。
電車を降りたら次はバスに乗ることになっているのだが、さすがの彼女も来たこともない場所のバス乗り場まではわからないとのことだった。
駅前はかなり広めのロータリーになっていて、それを囲うようにバスの停留所がいくつかある。私たちが乗るのは隣町行きのバスだ。彼女と私とで左右に分かれてひとつずつ見て探すことにする。
私が端まで見る前に、彼女からの呼び声が聞こえてきた。
駆け寄ってくるでもなく、離れたところからの声だ。彼女がそんな大きな声を出すなんて珍しいと思って振り返ると、彼女の隣には老婦人がいたのだった。
小走りで二人のところに駆け寄って婦人に会釈をすると、にこやかに挨拶を返してくれた。婦人というよりもお婆ちゃんといった感じだ。
お婆ちゃんも同じバスに乗るので案内してくれるという。私たちはその厚意に甘えて、一緒に並んでバスを待った。
私たちが行こうとしている植物園のことを聞いてみると、植物園前のバス停を下りてすぐなので道に迷う心配はないことと、地方であるためにバスの本数が少ないので帰りの時刻は見ておいた方がいいだろうということを教えてくれた。
しかしお婆ちゃん自身は行ったことはほとんどないという。地元の人は観光名所にはそうそう行かないというのは、彼女の言だった。そんなものなど何もないただの街に住んでいる私には、その感覚はわからない。
お婆ちゃんは時間を見計らって来ていたらしく、それほど待たされることなくバスが来た。私の知っているバスとは逆で、中央から乗って前から降りるものらしい。
乗りこんだのはいいのだが、お金を払っていない。しかし彼女もお婆ちゃんもまっすぐ後部座席に向かってしまったので、流されるように私もついていって、三人並んで座る。
そこでやっと私がお金を払っていないことへの疑問を口にすると、お婆ちゃんは不思議そうに首を傾げてしまった。代わりに彼女が、定額ではなくて距離に応じて後払いであると説明してくれたのだった。
バス乗り場の場所は知らなかったのにそういうことに詳しいのがちぐはぐな感じがしてそれを彼女に聞いてみると、彼女も地方出身であり、地方では逆に定額の方が見ないものだという話だった。
言われてみれば、彼女が地方出身であることすら私は知らなかった。そんなことさえ知ろうとしていなかった自分が悔しいと同時に、彼女が当たり前のようにそれを話してくれたことがとても嬉しい。
それからは彼女とお婆ちゃんとで彼女の故郷の話に花を咲かせていた。私一人が置いてきぼりのような気がしなくもなかったが、初めて聞かせてもらう彼女の故郷の話を聞きもらさないことの方がもっと大事だった。
バスが植物園前に着いたので、私たちはお婆ちゃんと別れてバスを降りた。別れ際もお婆ちゃんは楽しんできてねと笑って私たちを送り出してくれた。お婆ちゃんの家は、まだ先なのだという。
お婆ちゃんが言っていたとおり、すぐ向こうに植物園の入口らしいゲートが見える。しかしまずは帰りのバスの時刻の確認が先だった。
道の反対側のバス停で時刻を見てみると、確かに少ない。一時間に何本ではなく、何時間かに一本しかない。ひとつ間違えば何時間も待たされるということだ。
「私だけでは不安なので、佐藤さんも覚えておいてください。お願いします」
彼女は見るからに不安そうな顔になってしまっている。時間を忘れることがそんなに不安なのかと私が聞くと、彼女はさらに眉を下げて書くものを用意していなかったと呟くような小声で答えた。
「それなら大丈夫です」
私は電話を取り出して、カメラを起動した。彼女はそんな私を、何をするのか訝しむような表情で見ている。
そんな彼女の目の前で私は時刻表を撮影し、ついでにやっとその目的がわかって驚いたような顔をしている彼女にもレンズを向けた。
「や…こんなところ、撮らないでください」
サッと背中を向けてしまった彼女に苦笑しながら、私は電話をしまう。
「今のは冗談です。でもどこかで写真撮らせてくださいね」
「はい」
背中を向けたままではあったが、拒否はされなかった。
写真で記録したとはいえ、それを忘れてしまっては意味がない。時間のことは気にしておかなければならないだろう。
しかしまずはせっかくの植物園を楽しむことだ。入場券を買って、ゲートをくぐる。
この植物園にはテーマごとにいくつもの区画がある。季節ごとにいろいろ楽しめるということだが、逆に言えばちょうど季節を迎えている区画以外はそれほど見るようなものもない。
バラは品種によって花をつける時期が違うからどの季節でも何かしらあるだろうということで、まずはバラ園に行ってみた。
バラと言えば赤や白の花弁が何重にもなっている豪華な花の印象なのだが、そんな印象とはまったく違う花なんかも咲いていて、バラ以外の花もあるのかと思いきやそれもバラなのだという。
彼女も花には詳しくないようで、私と似たような感想を口にした。二人で同じ気持ちになれたことが、嬉しかった。
それから回り道をして植物園を作る前からここにあったという小さな神社を通って、彼女の目当てだというハーブ園に出た。
「うわぁ……」
いかにも山中といった景色から急に視界が開けて、私は思わず声を上げてしまった。
そこは植物園というよりも、テレビの旅番組でしか見られなさそうな外国の豪邸の庭園のようだった。
煉瓦で仕切られた内側にはいろいろなハーブが盛られたようにこんもりと植えられ、外側は煉瓦と同系色のタイルを敷き詰めた通路になっていて、どちらも色とりどりでその両方がうまく調和している。
その中心に、小さな白い噴水があった。
「ここいい。ここで写真撮りましょう」
浮かれていた私は彼女の返事も待たずに、彼女の手を取って噴水の前まで引っ張っていってしまった。
彼女も抵抗するのでもなく、噴水を背に私の隣に並んでくれる。私はバッグを足元に下ろして電話を構え、よさそうな向きを探した。
背後の景色を気にしながら、彼女を連れて噴水の周りをぐるぐるする。海を背景にしたかったが、光の向きがあまりよくなくて、結局何かの建物が写る向きでの写真になった。
二人で写真を確認したついでに、私はすっかり忘れてしまっていたバスの時刻を確認した。ちょうど一本出ていって次は二時間後くらいのようで、これならしばらく忘れていてもよさそうだ。
バラそのものが見ものだったバラ園とは違って、ハーブ園はきちんと整えられた庭園がきれいだった。ハーブと聞いてそう思っているだけなのか実際にそうなのか、吹き渡る風さえも爽やかに感じられる。
そのハーブを使った手作り石鹸を作らせてもらえる工房が、さっき写真に写った建物にあるという。やってみたいと私が言うと、彼女も乗り気な様子で受付らしいところへ向かった。そして他にも来ていたお客さんと一緒に、石鹸づくりが始まった。
用意されたものは粘土のような何かと蜂蜜と、乾燥させたいろいろなハーブだった。粘土のようなものが石鹸の元で、それに蜂蜜や好みのハーブを混ぜ込んでオリジナルの石鹸を作るのだという。
蜂蜜から甘い匂いがするから、すっきりした香りのハーブがよさそう。私がいろいろ嗅ぎながら迷っている間に、彼女はもう混ぜたものをこね始めていた。
せっかくなので蜂蜜もハーブもたっぷり使ってやろうと欲張って石鹸の元に用意された蜂蜜を全部注いでやったのだが、こね始めてすぐに後悔することになってしまった。混ざりきらない蜂蜜で手がべたべたになってしまったのだ。
そうしてこねるのに苦労している私の向こうで、彼女はこねて色がついてきた石鹸にさらに蜂蜜を少し垂らしていた。
ずるい。そんないい方法があるのなら私にも教えてくれればいいのに。
しかし彼女は私のそんな恨みがましい視線にも気づきもせずに、真っすぐ石鹸だけを見て一心にこねている。周りが見えなくなるほど夢中になる彼女のその姿が格好よくて、それもやっぱり好きになる。
彼女にというよりも石鹸に負けないように私も懸命にこねていると、べたべたはやがて石鹸らしいぬるぬるになってきて、ようやくそれらしくなってきてくれた。
最後に丸い型で形を整えて、冷蔵庫に入れて固まるまで待つことになった。その間に、ハーブティーがご馳走される。
「おいしい……」
温かいのにどこか冷たいような感じが、お茶やコーヒーとはまるで違う。
彼女も気に入ったようで、香りを確かめるように何度もカップを鼻先に持っていきながら、少しずつ味わっていた。
透明なビニール袋に入れられた石鹸は、何か別物のようだった。お菓子に見えないこともなくて、そんな私のような食いしん坊への対策か、食べ物ではありませんと書かれた小さな紙が入っていた。
さっきのハーブティーがよほど気に入ったのか、彼女はさらに隣のお土産コーナーでハーブティーセットも買っていた。
次のバスの時間が近づいてきたので、行きとは違う区画を通って植物園を出た。ゆっくり歩いて時刻ちょうどにバス停に着くようにしたのだが、バスの方が時刻どおりには来てくれなくて、来るまで十分ほど待たされたのだった。
今度は駅まで戻らずに、途中で降りた。海と山が近くてそれほど広い町ではなさそうだが、そこかしこに旅館やホテルがあるのが見える。
まだ日は高く、旅館に入るのには早そうだったので、彼女に誘われるまま町を散策した。
いつもあの場所で見る確かな歩調とは違って、周囲にいちいち目を奪われながらゆったりと歩いている彼女に、私も黙ってついていく。どこに行こうとしているのか、きっと彼女にもわかっていない。それでも、彼女と一緒にいられるだけで私はとても幸せだった。
また何かに気を取られたのか、彼女の手がこっちに振れてきて、私の手に触れた。その手を私は思わず取ってしまった。
驚いた彼女が私に目を向ける。私も自分のしたことに自分で驚いてしまって返事も何もできなかったが、握ったその手は離さなかった。
彼女はその手を振りほどいたりせずに、海を見てから旅館に行こうかと声をかけて、私の手を引いてくれた。
当てずっぽうに歩いたために何度も道を曲がったりしたが、そんなことはどうでもよかった。彼女が自分の意思で私の手を取ってくれていることが幸せすぎて、私の胸は高鳴りっぱなしだった。その鼓動さえ、つないだ手から伝わってしまっていたかもしれない。
やっと海辺に出て、並んで停泊しているたくさんのクルーズ船を眺めながらお金持ちの多さに感嘆して、それから町中へと引き返して旅館へと歩いた。
彼女がそこだと言った建物に入る直前で、私は足を止めた。彼女が一歩前に出て、つないだままだった手が外れる。
「あ……」
小さく声を上げて、彼女は振り返った。
突然足を止めた私に、問いかけるような目をしている。
「ずっと手をつないでくれて、ありがとうございました」
すれ違うくらいの人目ならば構わないが、さすがに旅館の人に正面から見られるのは恥ずかしい。
「あ、その…いえ……」
そんな私の胸の内までは伝わらなかったようで、彼女は言葉を濁しただけだった。
彼女が二つ折りの財布から招待券を出して、私たちは旅館の一室に通された。窓から町並みとその向こうに海が見える、明るい部屋だ。部屋の隅にバッグを下ろして、私は窓際の座椅子に腰を下ろした。
今日一日けっこう歩いたし、石鹸作りで手も使った。ようやく落ち着けたところでそんな疲れが出てきて、私はだらしなく姿勢を崩してしまったが、直後にそれを後悔することになった。
「どうぞ」
部屋に用意されていた急須で、彼女がお茶を淹れてくれた。
「ごめんなさい、全部やってもらっちゃって」
慌てて私は立ち上がったのだが、彼女が私の向かいに腰を落ち着けてしまったので、私もそれにならうようにまた腰を下ろした。
みっともなくて彼女と顔を合わせられない。彼女が景色に見惚れているのがちょうどよかった。
彼女の淹れてくれたお茶は、香りが心を落ち着けてくれそうだったが、彼女が淹れてくれたと思うとやはり心が暴れてしまう。温かいことだけはわかったが、味はわからなかった。
「いい所ですね」
窓の外に向いたまま、ほっとした様子で彼女が言った。
「そうですね」
景色とかそういうことだろうと思って私は返事をしたのだが、彼女が思っていたのは別のことだった。
「親切な方ばかりで」
植物園の人も旅館の人も確かに親切だったが、同じお客様相手の仕事をしている私から見れば、それは仕事だからだ。だから彼女の感想には内心ちょっと首を傾げてしまう。
「誰もがもう少しだけ優しければ、世界もここみたいに温かいものになるのに……」
語尾が萎んでいったのに引きこまれたように、私は彼女の横顔を見る。穏やかな表情だけど少し寂しそうに目を細めて、複雑な顔をしている。
そんな彼女を見ているうちにその目がどこを見ているのかわかったような気がして、彼女の思いがじわりと伝わってきた。
仕事であってもそうでなくても、親切は親切なのだ。純粋な彼女にはそんな区別なんて存在しない。そして彼女自身も義務も何もない気遣いを他人に与えられる人だ。
そんな彼女に、私はどう見えているのだろう。彼女との距離を感じて、私の方が寂しくなってくる。
「私も、そうなりたい……」
あなたの側にいさせてもらえるように。
あなたのために。
「佐藤さんは、優しい人です」
呟いた私の声が届いて、彼女は真っすぐ私へと向きなおった。
私はあなたとは違う。あなたの側にいられるように、私はそうしているだけ。
今あなたが私を気遣ってそう言ってくれているのとは、全然違う。
「バスで出会ったお婆さんに、私はずっと未来の佐藤さんを見たような気がしました」
「え……?」
意外な言葉に、私の思考が一瞬停止した。距離感から来ていた寂しさも、そこで強制的に途切れる。
「私は、久保さんに似てると思った…」
「え……?」
今度は彼女の方が思考停止してしまったようで、言葉が途切れてしまう。
「だって、すごく話しやすそうだった。私よりも話しやすいのかってちょっと寂しかったくらい」
人づきあいが苦手だという彼女があんなに楽しそうに話をしていたのは、きっと他人だという気がしなかったからなのだろう。今になって、私は合点した。
「それは違います」
しかしそんな私の納得を、彼女は正面から否定した。
「私が気兼ねなく話せるのは佐藤さんしかいません。その佐藤さんに似ていると思えたから、つい話しこんでしまいました。それで寂しい思いをさせてしまったのならば、ごめんなさい」
「謝らないで」
申し訳なさそうに目を伏せてしまった彼女に、私は鋭い声を上げることでしか顔を上げさせることができなかった。そんなことを思わせてしまったことも、こんなことしかできないことも、悔しい。
「だってそれは私が勝手に思っただけ。親切にしてくれた人にちゃんと応対するのは、当たり前のことです。久保さんは何にも悪くない」
上げてくれた視線をつなぎとめるように、私は真っすぐ彼女の目を見据える。
そのかいあってか彼女は表情を緩めて、改めて私の目を真っすぐ見てくれた。
「ありがとうございます。やっぱり佐藤さんは優しい人です」
違うと口にできないことがもどかしくて、しかし優しいと言ってもらえたことがとても幸せだった。
食堂でご飯を頂いている間に部屋に布団が敷かれていることに感動して、そしていよいよ温泉だ。
用意されたタオルや浴衣に包むようにして持ってきたシャンプーなんかを持って、二人並んで脱衣室に入る。左側には鍵付きの大きなロッカーが、右側にはドライヤーが備え付けられた洗面台が並んでいて、いかにもそれらしい。
彼女が一番端のロッカーを選んだので、私もその隣を開けて、まずは浴衣なんかを置く。着やすく脱ぎやすい服装のせいか、彼女の方が脱ぐのが早かった。
もう準備ができてしまったのかと彼女を横目で見た私は、そのまま彼女に釘づけになってしまう。
女性的な柔らかさはあまり見えず、むしろ動物的なしなやかさが美しい。
彼女を待たせていることも忘れて、見入ってしまう。
「あの……、あまり見ないでください……」
そんな私の視線を感じて、彼女は背中を向けてしまう。
しかしその背中はもっと美しかった。
キュッと上がったお尻に、これならば私が転びそうになった時に助けてくれたあの俊敏さも納得だと、初めて彼女の声を聞いた時のことが思い出された。
「先…行ってます」
とうとう彼女は私から逃げるように浴室の方に行ってしまった。
暖房は利いているとはいえ、あのままでいつまでもいたら体が冷えてしまう。待たせたことを悪いと思いながら、私は急いで服を脱いで彼女を追いかけた。
しかしとっくに浴室に行ってしまったはずの彼女は、まだ浴室の入口にいた。引き戸の脇の何かの掲示を、真っすぐに見ている。
「ごめんなさい、待ってもらって」
「いえ、これを読んでいました」
それは温泉の説明だった。
源泉から引いている天然温泉であること、泉質は塩化物温泉であること、それから効能が小さめの字でいろいろ書かれている。
「疲労回復だって。今日けっこう疲れたし、ちょうどいいですね」
「冷え性にもいいそうです」
「久保さん冷え性なの?」
「はい。ですから寝る時も靴下を履いています」
そう言えばデートの時も靴下専門店に興味を示していたような気がする。
「じゃあ、ゆっくり入ってかないとですね」
「はい」
引き戸を開けると、いきなり湯気がお出迎えしてくれた。
それを押しのけるようにしてまずはシャワーへと向かう。
私の隣に腰かけた彼女が、そのままじっと動きを止めた。その視線は、正面の鏡ではなくてその脇に向けられているようだ。
そこにあるのは、ボディソープとリンス入りのシャンプーのふたつの大きなボトルだ。
なるほど彼女はシャンプーなんかも持ってきていない。リンスくらいはあるものと思っていたのかもしれない。
「これ、よかったら使ってください」
私は横から自分の一式を差し出した。
湯気で霞んでいるが、彼女がほっとした様子になったのがわかる。
「いいのですか?」
「はい。これくらいはお役に立ちたいですから」
こんなことでも彼女のためになれれば嬉しい。
「それでは、ありがたく使わせてもらいます」
小さなボトルを二人の間において、交互に使った。
ボトルを取る時、私は彼女を盗み見る。
彼女は一心に体を洗っていて、その間は私のそんな視線に気づかずにいてくれたが、同時にボトルに手が伸びた時についに気づかれてしまった。斜め向こうを向いて、体を縮こませてしまう。
しかしそれは、彼女のいちばん美しい部分を私にさらすだけだった。そのことに彼女は気づいていない。
「ジムとか、通ったりしてますか?」
私の問いに、彼女は首だけでこちらを見た。
横顔しか見えないが、そこには疑問の表情が浮かんでいた。
「体、引き締まっているから、何かやってるのかなって思って」
補足すると、彼女は姿勢こそそのままだったが、私の問いに答えてくれた。
わざわざジムなどには通っていないが、通勤で毎日少し余計に歩いているのだという。本当は電車を乗り換えればすぐ近くまで行けるのだが、乗り換えないまま近めの駅で降りて十分ちょっと歩いているのだと話してくれた。
「それってアレですか? 通勤手当の差額っていう」
私のところでは聞いたことがないが、そんなことがあるとどこかで聞いたことがある。しかし彼女は、わざわざ向きなおってまでして否定した。
「そんなことはしません。それにそういうことが多発したために、今では領収書の提出が義務づけられているところが多いそうです」
「あ、ごめんなさい。失礼なことを言って」
真っすぐな視線で真っすぐなことを言われて、真っすぐではない私は後ろめたくなってしまった。
そんな私を敏感に察して、彼女も強く言ったことを謝ってしまう。
会話が続けられなくて、何となく無言のまま体を洗って、流した。体は温かいが、どこか強張った感じが解けない。
しかしそれも、湯船につかった途端にあっという間に緩んだ。
「気持ちいいー……」
寝そべるように体を伸ばす私の隣で、彼女は膝を抱えて小さくなっている。
「せっかくの大きなお風呂ですよ。体伸ばした方が気持ちいいですよ?」
それがもったいない気がして彼女に声をかけたのだが、彼女はこのままでいいと応じてくれなかった。
どうやら私がじろじろ見るのを気にしているらしい。改めてそれを謝ったりするのもはばかられたので、私は彼女を見ないように目を閉じて、温泉の温かさだけを感じることにした。
こんな広いお風呂、しかもこのたくさんのお湯が温泉だなんて、すごく贅沢だ。それを惜しげもなく使わせてもらえるなんて、とても幸せ。夢みたい。
「そうですね。夢みたいです」
夢心地の私は、それを口にしてしまっていたらしい。答えてくれた彼女の声に驚いてついそちらに向いてしまうと、彼女はぎゅっと自分を抱きしめるようにしてますます体を縮こませてしまった。
「あまり、見ないでください……」
彼女らしくもなく顔をそらせてしまう。しかし自分が相手を見なければ相手も自分を見ないなどということはない。そんなことわざを学校で習ったような気がするのに思い出せないのは、温泉のせいで思考まで緩んでしまっているからだろうか。
とにかく、そんなことさえ気づかないうかつな彼女が可愛い。
ずっと見ていたいのはやまやまだが、それでは彼女が温泉を楽しめなくなってしまうので、とても残念だが彼女の言うとおりにするしかなかった。
彼女のことをうかつだと笑った私だったが、実はうかつなのは私の方だった。
お風呂に入ればお化粧は落ちる。その顔を彼女に見られてしまうということに、今の今まで気づいていなかった。
温泉から上がった彼女はもういつもの彼女で、真っすぐ鏡に向いて長い髪をドライヤーで乾かしている。私の方が早く乾かし終えて椅子の上でぼんやりしていると鏡越しに彼女の目が私に向いて、そこでようやく気がついた。
それはただの偶然だったらしく、私が椅子を立っても視線は追いかけてはこなかった。
しかし今は逃げられてもこれから一晩ずっと一緒だ。見られずに済むなんてことはあり得ない。
彼女の方は実はお化粧など何ひとつしていないのではないかと言いたくなるくらい何も変わっていない。これはずるい。ずるすぎる。
髪を乾かし終えた彼女と部屋へ戻り、私はバッグから化粧水を取り出して洗面台に逃げこんだ。
そこからちらりと彼女の様子をうかがうと、彼女は大きめのチューブからクリームを出して腕に塗っていた。
「保湿クリームですが、よろしければ使ってください」
私の視線に気づいて、今度は彼女が自分のクリームを私に勧めてくれた。
彼女の美容の秘訣はこれなのか。せっかくの好意でもあるし、私も使わせてもらうことにした。
私は手にだけ使わせてもらったが、彼女は腕から顔にまで広く塗りこめている。肌荒れする方なのか。
そう思って彼女を眺めていると、彼女も私を見てくる。顔を見られてしまうことを思い出して、私は顔をそむけた。しかしそれは、やっぱり思い出せないことわざそのままでしかない。
そうして彼女を避けている私の態度を不審に思ったのだろう、彼女が具合でも悪くしたのかと心配そうに声をかけてくれた。
心底からそう思っている様子で、そもそも彼女が嘘を言ったりすることはないのだが、それでも私は素直には答えられなかった。
「美人って得ですよね。お化粧しなくてもみっともなくならない」
わからなそうに彼女は小さく首を傾げる。
「私なんか化粧しなければみっともなくて顔を見せられないです」
まだわからないというように、彼女は眉をひそめてしまう。そういうところがずるい。でも好き。
意固地な私を扱いかねたということか、クリームをバッグに片づけて彼女は立ってしまった。
何やら物音を立てていたが、ことさら私が無視を決めこんでいると、そのうち物音がやんでどうぞと声をかけられた。
窓際の小さなテーブルの上に、湯気を立てる湯飲みがふたつあった。そして彼女が真っすぐ私のことを見ていた。
「また、ありがとうございます……」
せっかく淹れてくれたお茶は無駄にはできなくて、私は彼女と向き合って薄めのお茶をいただいた。
「どう言えば気に障らないかわかりませんが…」
少し言いにくそうに私の顔から視線を外して、彼女がおずおずと切り出した。
「みっともなくなんかありません。佐藤さんは佐藤さんです」
それはただの慰めの言葉にしか聞こえなかったが、続いた言葉はそれどころではなかった。
「そんなことで避けられたら、少し寂しいです……」
語尾が消えいって、そのまま彼女自身までもが消えいってしまいそうに俯いてしまう。
「駄目……!」
自分の想像が怖くなって、思わず彼女の手に触れてしまった。
弾かれるように顔を上げて、視線がぶつかる。
「つまらないことを言ってごめんなさい。寂しいなんて思わせて、本当にごめんなさい」
彼女に寂しいと思わせてしまうことに比べれば、本当につまらないことだ。
こんなことで彼女を悲しませるなんて、自分が嫌になる。
それなのに彼女を求めることを止められない。彼女が好き。一緒にいたい。
そんな私の、そして彼女の気持ちを落ち着けてくれたのは、夕方食べずにまだ残っていたお茶請けの最中だった。
甘い味が胸にまでしみて、今こうして二人でいられることがただ幸せに思える。
交代で歯を磨いて、彼女はそのついでに湯飲みや急須も洗ってくれて、豆球だけを残して灯りを消してふかふかの布団に入った。お風呂の時に言っていたとおり、いつの間にか彼女は靴下を履いていた。
身も心も温かい。
幸せ。すごく幸せ。
幸せすぎて陶然とする。でもこの幸せをもっと感じていたくて眠れない。
「まだ、起きてますか?」
彼女との今日をまだ終わらせたくなくて、寝ようと言っていた彼女に声をかけてしまった。
「はい」
いつもほどはっきりとしない、ちょっと眠そうな返事。
「眠れませんか?」
それなのに、そんな時でも彼女は私を気遣ってくれる。申し訳なくて、でも嬉しい。
「眠るのがもったいなくて。もっとおしゃべりとかしたいです」
そんな彼女につい甘えてしまう。
「そうですね。もったいないという気持ち、わかります」
「じゃあこのままでおしゃべりしましょう。眠くなったらそれでおしまい、遠慮はなしってことで」
「なんだか楽しそうですね」
彼女が小さく笑ってくれたので、私はまず旅行に誘ってもらったことへのお礼を言った。
やはりと言うべきか、彼女も彼女で一緒に来てくれたことへの感謝を口にする。そんな話から始まったものがどう転んだか、お互いに相手のことをどう思っているかの話になっていた。
それは二人が衝突した時に何度か言い合っていることなのだが、今は眠気で思考が緩んでいるからか、素直に言えた気がする。
それは彼女も同じらしかった。
「私も佐藤さんのように素直な気持ちで先輩を好きでいられればいいと、思うようになりました」
ぽつりと漏らした先輩さんへの思い。
その声は寂しそうだったのに私がさらにその続きを言わせてしまったのも、眠気のせいなのだろうか。
「先輩さんのこと、どう好きなんですか?」
答えは、なかった。
彼女にとって先輩さんは初恋の人であり、しかし家族がいるために好きと言ってはいけない人だ。思うだけで辛いのかもしれない。
彼女を傷つけてしまったかと表情をうかがおうとするが、暗くてわからない。見てわかるのは、真っすぐ仰向けになっていることだけだ。
「社会人になったばかりの頃、私は自分がちゃんと社会人ができるのか、とても不安でした。どうすればちゃんと社会人になれるのか、全然わかりませんでした」
その姿勢のまま、彼女は自分の過去を話してくれた。
「そんな時、背筋を伸ばして堂々としている先輩の姿を見て、理想像を見つけた思いがしました。先輩のようになればいいのだと、憧れの目で先輩を見るようになりました。それで最初に真似をしたのが、背筋を伸ばすことでした」
私はそんな不安なんか感じたことはなかったと思う。今思えば、そんな暇がないほど先輩からあれこれ叩きこまれていたような気がする。
「そうして先輩ばかりを見ていました。そんな先輩に仕事のことを気にかけてもらえたり、ねぎらってもらったり、声をかけてもらっただけでも嬉しかったです」
その気持ち、わかる。
私も彼女に同じようなことを思っていたし、今でも思っている。
「そうして少しは仕事に慣れてきた頃になって、先輩とその上司との会話で先輩が結婚していることを知って、放心してしまうくらいの衝撃でした。先輩のことが好きになっていたのだと、その時になって初めて気づいたのでした」
それからずっと、先輩を好きな気持ちにふたをし続けていたのだ。それに、私が無遠慮に触れてしまった。
あの時の彼女の激しい抵抗と、そしてとても辛そうに思いを話してくれたことが思い起こされて、胸が切なくなる。
「それから先輩のことを思うのが辛かったです。好きになっても好きになってもらえることはないのに、優しくしてもらっても本当に優しくしてあげる人が別にいるのにと、そう思うたびに辛くて、思うことに疲れ果てて、思わないように心を閉ざして」
私と彼女とで、置かれている状況の違うところは、ここだ。
私が彼女を好きなことを、彼女は私に許してくれている。しかし彼女の場合はそうではない。
「でも本当は先輩のことを好きなままでした。背筋を伸ばそうと真似をするのもやめなかったし、先輩が勧めてくれたボールペンをずっと使い続けていたのだから」
好きな人に好きだと言える私は、とても幸せなのだ。
「やっぱり先輩のことは格好いいと思いますし、今でも理想像です。私のことを好きになってもらえないとしても、それは変わりません」
彼女のおかげで私は幸せなのに、そんな彼女に何もしてあげられないのが悔しい。辛い。
「それを私に教えてくれたのが、佐藤さんなのです」
え……?
それを言った彼女の表情は、やはり暗くてわからない。視線は変わらず天井に向いていて、その気持ちは読み取れない。
「好きな気持ちに素直であること、そして相手の重荷にならないように自分の好きを押しつけないこと、そうすれば好意的な関係を築けること。それが佐藤さんが私にしてくれていることだと、私は思っています」
全然そんなではない。
好きと気づいた時には彼女から逃げ出したし、好きだと言っては彼女を困らせてばかりいるし、私は彼女に甘えてばかりだ。
「だから私も顔を上げて、先輩が好きなことを隠さないようにしました。もちろん恋しているようなことは言えませんが、それでも先輩のことをちゃんと見れるようになれてよかった」
やはり彼女は大人だ。
「それで…いいの……?」
それに引きかえ、そんなことを聞いてしまう私は、我ながら子供だと思う。
「誰かを好きになることと誰かに好きになってもらえること、それはとても幸せなことだと思います。それを教えてくれる人に出会えた私は幸せ者だと、今改めて思いました」
彼女の思いに、胸がしくしく痛む。
痛む胸をかばうように、私は布団の中で丸くなった。
「幸せになってほしい…」
どうなればそうなるかわからないが、そんな我慢を伴うものではなくて、心の底から幸せになってもらいたい。
「私は、幸せです」
「違うの。そうじゃなくて、もっと幸せになってほしい……」
これではただの駄々っ子だ。
それなのに彼女はやはり大人で、手を伸ばして私の頭をそっと撫でてくれた。
彼女の手から伝わる体温が、私に安心感を与えてくれる。
「こんな私で、ごめんなさい」
私だけ幸せでごめんなさい。大好きです。
その温度の感覚がなくなるまで、彼女はずっと私を撫で続けていてくれた。
そろそろ起きてください。
優しく起こされる。
そんなに優しくされたら、心地よすぎてまた眠ってしまう。
でも、私のことをそんなに優しく起こしてくれるのは誰なのだろう。
そう思った瞬間、私は跳ね起きた。急に身を起こした私に、彼女は驚いた顔をしている。
寝過ごしてしまったのかと焦ったが、まだ朝食の時間ではなく、身支度があるだろうから早めに起こしたのだと彼女は少し申し訳なさそうに言った。
申し訳ないのは私の方だ。
気を遣ってもらって、わざわざ起こしてまでもらって、何から何までしてもらってばかりだ。
彼女の方はもう身支度はできているようで、浴衣からもう着替えていた。
昨日寝る前と同じ顔をして、私の機嫌をうかがうように視線をやや下に向けている。やはりお化粧など何もしないのだろうか。
そして昨日と同じセーターとデニムパンツを着ている。そう、昨日とまったく同じ格好をしている。
「あり得ない……」
彼女のバッグの大きさから考えれば替えの服など入っているはずもないのだが、実際にそれを見てしまうとやはりそういう感想しか出てこない。
これは、必要なもの以外は持たない潔さとかそういうことではない。
「二日同じ服なんて、女子としてあり得なさすぎます」
つい声が大きくなってしまい、彼女は怯えたように首を竦めてしまった。
それから上目遣いになって、もう女子というような歳ではないからと、子供が言い訳をする時のようにぼそりと呟く。
「そんなことないでしょう。だってまだ…」
言いかけてようやく気がついた。私は彼女の歳を知らない。
そんなことをずけずけと聞くなんて失礼なのだろうが勢いで聞いてしまうと、五歳も上とのことだった。
ふたつみっつ上くらいに思ってずっと接していたのだが、もしかすると大変な失礼をしていたのかもしれない。それをどう思われているかが怖くなってきたが、今は後回しだ。
「女子を引退するのは早すぎます。というか、諦めたらお終いです」
強い語気に、彼女はまた首を竦めてしまう。
しかしここは妥協できない。
「いくら久保さんが美人でも、そういうところでずぼらだと思われたら印象が悪くなってしまいます。もうちょっとくらいは見た目に気を遣ってください」
でも、と彼女が何か言いかけたが、その口調が言い訳がましく聞こえてしまった私は、さらに言い募ってしまった。
「だいたい、この間のデートの時も同じ格好だったじゃないですか。他に服を持っていないのですか?」
ついこの間のことをデートだと口走ってしまったが、彼女はそれどころではないようで、その言葉に反応することはなかった。
「よそ行きは……」
そしてそんなことを言う。嫌味で言ったことのはずなのに本当にそうだったという事実に、私は唖然としてしまう。
彼女のことだから本当にずぼらということはないだろうが、それにしても見た目に頓着しなさすぎる。
「お洒落したら気分が浮き立つじゃないですか。それでそれを褒めてもらえたら嬉しいじゃないですか」
同意を求めるが、彼女は首を竦めたままで返事をしてくれない。
本当にそういう感覚がないのか。それこそ女子としてあり得なさすぎる。
「先輩さんだって、きっとよく思ってくれます」
「でも、そんなことしても……」
「そうじゃないです。人からよく思われたら嬉しいし、それが好きな人であればなおさらです。そういう幸せを、久保さん逃がしちゃってます」
彼女はますます萎れてしまう。それは、そう言われてもどうすればいいのかわからないと言えずにいるように見える。
「決めました」
それならば。
「今度一緒に服を買いに行きましょう。不肖ながら私が見繕いますから」
怒っているわけではないと伝えたくて私がかなりわざとらしく笑って見せると、彼女もおずおずと顔を上げて、私の目を真っすぐ見つめてうなづいてくれた。
「ちょっと今月は土日の休みがないので来月になってしまいますが、絶対ですからね?」
「はい」
まだ神妙な顔のままだったが、即答してくれたのは、嫌々同意させられているのではないからだと思いたい。
「あっ!」
話が一段落してようやく、今そんなことをしている場合ではなかったことを思い出して、私はまた大きな声を上げてしまった。その声に驚かされて、また彼女は首を竦めてしまう。
慌てて電話の画面をつけると、もう朝食の時間だった。
化粧しないまま食堂で人に見られることになってしまうが、旅の恥はかき捨てということにするしかないだろう。
それから朝食をいただいて部屋へ戻り、私が着替えている間に先に彼女が洗面台で歯を磨いた。それから私が洗面台を占拠して、歯磨きとお化粧を始める。
彼女の方は後はもう出るだけであり、ずいぶん待たせることになってしまう。しかし急ごうとしたところで、彼女の目に触れることになるお化粧に失敗は許されないので、結局は時間短縮などできない。
それでもバタバタしている私を見かねてか、彼女の方から今日も予定はひとつしか入れていないのでゆっくりでかまわないと言ってくれたのだった。その言葉に甘えて、念入りにお化粧をする。
その間彼女はずっとテレビを見ていたらしい。映っているのはただの情報番組なのだが、彼女は食い入るように見ている。
何の話題かと思ったら、ゴミ屋敷をどうするかという話だった。司会の人が難しいようなことを言っていて、彼女はいちいちそれにうなづいている。
「こんなの近所迷惑なんだから、処分しちゃえばいいのに」
準備ができたと言う代わりにそんなことを言ってみると、彼女の真っすぐな視線が急にこちらに向いた。
「確かに迷惑ですが、それでも持ち主にとっては財産なのです。それを他人が勝手に処分するのは、権利の侵害になります」
テレビに移されているボードにも、確かにそう書いてある。
「じゃあこういうのはどうにもできないんですか?」
こと法律の話になると彼女の応答は早く、しかもきっぱりとしている。
「条例で対処しようとする自治体もありますが、自治体の責任でできることしか言えないので強制力は弱いです。原則としては裁判に訴えてということになりますが、誰の権利がどのように侵害されているかを立証するのは、実際のところ困難です」
「難しいんですね、法律って」
やはり私にはさっぱりわからなくて、圧倒される。
「法律よりも、みんなそれぞれ違う人の方が難しいと、私は思います。その違う考えに対応しなければならないために、法律の運用が難しくなるのです」
人がそれぞれ違うというのは、わかる。
私の仕事でも、いろいろなお客様がいていろいろなことを言ってきて、よくそんなことを考えるものだと呆れてしまうようなことも珍しくない。それにいちいち規約をあてはめなければならないのだ。
「確かに、そうですねぇ……」
みんな言うことが違うのに、通勤電車なんかではみんな同じ水のように流れる。そう思うと、人とは何なのかわからなくなってくる。
頭がこんがらがってきてしまい、考えるのを諦めてテレビに目を向けると、朝食前とは逆に今度は彼女の方が声を上げた。のんびりしすぎてチェックアウトの時間になってしまうのを心配してのことだった。
幸いまだ時間に余裕があるうちに彼女が気づいてくれたので、身支度を整えて旅館を出て、駅へと向かうバスに乗った。
そう言えば昨日お婆ちゃんに忠告してもらっていたバスの時刻のことなど私はすっかり忘れてしまっていたが、彼女はそこまで考えて出発を言い出したのかもしれない。やはり何から何まで彼女にしてもらってばかりだ。
駅まで行ってバスを降り、そこからさらに電車で一駅移動して向かったのは、大きな神社だった。今日の彼女のお目当ては、国内有数の巨木だという。
鳥居をくぐると、右手にそれらしいものが見えてきた。街路樹や公園なんかでは見られないような、とんでもなく大きい木だ。
行ってみると、案内に樹齢千年以上だとある。木の寿命は知らないが、こうして祀られているくらいなのだからすごいものなのだろう。
しかしそれでも、目当てのものとは別物だという。そうだとするとそれはどれほどのものなのだろうかと楽しみになってくる。
階段を上るとお社らしい建物に囲まれた広い場所に出た。人の流れは正面の大きなお社から左奥へと向かっている。私たちもそれに沿って、まずお社にお参りした。
神社にちゃんと参拝するなんていつくらいぶりだろう。作法などあっただろうかと不安になって小声で彼女に聞いてしまうと、二拝二拍手一拝であると教えてもらえた。
実際はどんななのか、失礼ながら前の人がしているのを後ろからのぞきこませてもらって、なんとかそれらしくお参りさせてもらう。
目的の巨木は、そのお社のすぐ裏手にあった。
さっき見たものよりももっと大きく、のけ反るようにして見上げなければ枝葉が見えない。まるで私が小人になってしまったようだ。
しかし私が驚いたのはその大きさよりも、目の前の幹の質感だった。確かに木の色をしているし、模様のような木肌の割れも見えるのだが、まるで岩のようだ。
こんなものがこの世界にあることが、不思議だった。
一周すると一年寿命を延ばしてもらえると彼女に促されるまで、私はただ呆然としていた。
木の周りには道が整備されていて、眺めながら一周することができる。
どこから見ても圧倒される。岩のようだと思ったが、大きくなりすぎて実際に岩を抱くようになってしまっている。それさえもちゃんと見なければこの木のこぶのひとつくらいに見えてしまう。
この木は樹齢二千年を超えるという。
二千年なんて歴史の教科書の最初の方だ。それでいて今なお若い葉を茂らせている。確かにこれならば一年くらい寿命を分けてもらえそうだ。
「どんなに人がたくさんのいろいろなものを作っても、及ばないものがあるのですね」
彼女の言葉に、私は生返事しかできなかった。言葉にならない。
彼女もそれきり何も言わず、二人とも無言のままお社まで戻ってきた。
言葉にならなくて、しかしこの気持ちを胸の内だけに抑えておくことはできなくて私がため息をひとつつくと、彼女がカフェでひと休みしていこうと言ってくれた。
疲れているのではないが、せっかく気遣ってもらっているので寄っていくことにする。
そこは和風カフェで、お汁粉やあんみつ、甘酒などスイーツと言うよりも甘味と言うのが適切だろうメニューがたくさんあった。いろいろ迷って結局二人ともお汁粉にする。
「すごかったですね」
お汁粉を一口含んで、ようやく彼女が口を開いた。
「はい……」
私はまだ、感じたものを言葉にできない。
それを私が沈みこんでいるものと思ったのか、彼女が心配そうに声をかけてくれた。
「ごめんなさい。そうじゃなくて、言葉にならなくて……」
何の説明にもなっていないのに、彼女は私に大きくうなづいた。
彼女が何を思ってそうしたのかが気になって、彼女に縋るような目を向けてしまう。
「言葉にならない純粋な気持ちこそが、本当の気持ちです。それこそが、あの木に対して思うべきことなのでしょう」
私の気持ちをわかってもらえたことが嬉しくて、今度は私が何度も何度もうなづいた。
それきり彼女もあの木について何も言わなかった。
しかし深く感じたものがあることが、彼女自身から伝わってくる。きっと彼女も私のそれを感じてくれている。それがとてもとても感激だった。
お汁粉はとても甘くておいしかったが、今の私の気持ちにはそぐわなかったかもしれない。こんな時こそお茶な気がした。あるいは紅茶でもよかったかもしれない。
駅まで戻って、後は電車を乗り継いで帰るだけだ。
また紫色の機械に向かおうとする彼女を呼び止めて、使い方を教えてもらった。
使い方を覚えたかったこともあるが、このまま彼女にやってもらうと往復分の電車代を全部彼女に払ってもらうことになってしまう。お世話になるのは旅館だけにしたかった。
彼女も自分が払うとは言わずに私が頼んだとおりに使い方を教えてくれて、私が渡した窓側の席の切符を受け取ってくれた。
初めてお茶に誘った頃にはお金のこととか席のこととかで軽く言い合いになってしまったこともあったが、今はその頃よりも私に気を許してくれているのだろうか。そうだとしたら嬉しい。
しかし大人な彼女のことだから、私に気を遣って私の気遣いをあえて受けてくれているのかもしれない。そんなところも好き。
特急電車に乗り換えてしばらくは、石鹸作りが楽しかったとか温泉が気持ちよかったとかそんな話をしていたが、窓から海が見えなくなった頃にはどちらからともなく口数が減って、ついには二人とも無言になってしまった。
今ここに彼女がいてくれる。結局いちばん大事なことはそれ以外になかった。
彼女を隣に感じて、同じ時間を過ごしている。それがとてもとても幸せ。
言葉にならない。言葉なんていらない。
視線さえもいらない。いてくれるだけでいい。
そうして胸の内がいっぱいなまま、いつもの駅で電車を降りていつもの横断歩道をいつもとは違って素通りする。
商業施設を過ぎたら、彼女と別れなければならない。この胸の内は言葉にできなくても、旅行に連れていってもらったお礼だけはちゃんと言わなければ。
それなのに私の口は開かず、手が勝手に彼女の手を取ってしまった。
足も止めた私に引っ張られて、彼女が振り返る。彼女の気を悪くしてしまったかと怖くなって、私は目を伏せてしまう。
それなのに彼女はいつものように真っすぐに私を見て、私の気持ちを察しようとしてくれる。
そして先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「またいつか、どこかに旅行に行きましょう」
それは寂しがっている私を慰めてくれるような、柔らかい声だった。
「はい……」
「その前に、私は着ていく服を買わないといけないのでしょうけど」
わざわざそんなことまで口にしたということは、社交辞令で言っているだけではないと思っていいのだろうか。期待してしまって、思わず顔を上げて彼女の目を見てしまう。
いつだって彼女の目には嘘なんてあるはずがない。胸の内で嬉しさが一気に膨らんで、あふれてしまう。
「はいっ」
ぐしゃぐしゃの顔のままがんばって作った笑顔で、私は大きくひとつうなづいた。
そんな約束の後。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
私が彼女を見つけて声をかけると、彼女も挨拶を返してくれるようになった。
口数の少ない彼女のことなので用事でもない限りそれきりなのだが、それでも彼女が私に声をかけてくれることが、声を聞かせてくれることが、とても嬉しい。
今日も路地にはロータリーに出たくても出られずにいる車が待たされていて、二人並んで、特におしゃべりもせず、通れるようになるまで待つ。
彼女と一緒にいられるこの瞬間が幸せ。彼女のようになれた気がするこの時間が好き。
もっと欲しいけれど、これだけでも十分胸の内が満たされる。
だから私は、一人暮らしでやらなければならないことが多い彼女の時間を奪うことは控えるように心がけるようになった。
どうしても寂しさなんかで胸の内があふれてしまった時にだけ、一緒にいてもらうようにしている。
今は大丈夫。自分が幸せで満たされていることが感じられる。
「あの……」
彼女から発せられる幸せを残さず感じ取ろうと私自身の全部を澄ませていたところに、彼女の声が届いた。
感じ取るだけよりも、声を聞けた方が何倍も幸せ。思っていることを伝えてくれることがとても嬉しい。
「最近、あまりお茶に行っていませんが、お忙しいのでしょうか。それとも、何か私に遠慮をしているのでしょうか」
仕事で忙しければこうして会う機会そのものが減ってしまうし、彼女のように一人暮らしではない私が仕事以外で忙しくなることなどほとんどない。遠慮という方が正しい。
しかしそれを言ってしまっては遠慮ではなくなってしまう。それでも、下手に答えを濁せば、彼女はまた私のことを心配し始めてしまうだろう。
彼女に余計な気遣いなんてさせたくない。そんなことで彼女を疲れさせたりなんてしたら、私は自分を許せない。
「ごめんなさい。本当のことを言うと、一人暮らしで大変なのを邪魔したら悪いかなってちょっと遠慮してます」
こんな時、彼女のように頭がよければ、丸く収まるようなことが言えるのかもしれないが、私にそんな器用なことはできない。
これを言えば彼女はまた自分を悪く思ってしまうだろうと思ったとおり、彼女は眉をひそめてしまった。そんな顔をさせてしまって申し訳なく思う。
それをどう伝えようかと、間が開いてしまう。
「そんな遠慮をされるのは、少し寂しいです」
その沈黙を先に破ったのは彼女の方だった。
口を開いたというよりも、すぼめた口でぼそぼそと呟く。
そんな顔が、ちょっと拗ねているように見えて可愛い。つい私が小さく笑ってしまうと、彼女は咎めるようににらんできた。
「私も、どうしても寂しい時は遠慮なんか捨てて誘ってます。だから、そういう時は久保さんの方から誘ってください」
一瞬で彼女の表情は驚きに塗りかえられた。
「私から……?」
呆けたようにそれを口にしたところ、そんなことは考えたこともなかったらしい。
「それこそ遠慮なんて必要ありません。それに久保さんから誘ってもらえれば、時間を取ってしまってもいいのかなって心配をしなくて済みます」
「あ……」
こんな子供のような純粋な反応も含めて、人づきあいが希薄な彼女らしい。
「そうですね。私、佐藤さんに甘えてばかりでした。自分から何もしないのに寂しいとか言うなんて、単なるわがままです」
「や…、そこまで言うほどのことではありませんし、それにわがままを言っているのは私の方です」
もごもご口ごもる私に、覆いかぶせるように彼女はさらに続けた。
「それなら、今からお時間をいただけませんでしょうか」
時間を取っていいかどうか教えてほしいなどという私のわがままを、彼女はまともに受け取ってくれた。申し訳なくてありがたくて、しかしそれ以上に彼女も私といたいと思ってくれていることがすごくすごく嬉しい。
嬉しすぎてほとんど声にならなくて、私は大きく首を縦に振って答えた。
そのかすかな声はちょうど私たちの側を通り過ぎていった車の音にかき消されてしまったが、動作だけで十分に伝わり、強張っていた彼女の表情が晴れていくのが見て取れた。
人波に乗るようにして並んで商業施設へと歩き、ビルの間から裏通りへと出る。
彼女はやはり無言だが、私に合わせている歩調が私のことを見てくれていることを教えてくれる。そんな彼女が好きだと、何度でも思う。
恋って不思議。
今だって彼女のことを思うだけで胸の内がいっぱいになってしまうのに、明日になればもっと彼女が好きになる。
知らなかった彼女を見つければ、それは全部好きになる。それで喧嘩になったとしても、結局それさえも好きになる。
もっと欲しい。全部欲しい。だけどそれで彼女が迷惑するならば、欲しがりたくなんかない。
彼女が好き。ただそれだけ。
この関係はきっととても脆いもので、何かがほんの少し違っただけで崩れ去ってなくなってしまうのだろうと思う。
それでも今は、彼女を好きでいたい。
しばらくぶりに紅茶専門店の扉を開けるとまだ忘れずにいた心地よい香りが鼻をくすぐって、何となく彼女と笑い合った。