私の本当の初恋・後編
最初の二日くらいはいつもと違う重みに中指にペンだこができて痛かったが、最近は慣れてきてそんな違和感もなくなってきた。
安いボールペンでもゴムは巻かれているが、滑り止めくらいにしかならないそれとは違って、ある程度の弾力がペンを持つ指を疲れさせないようにしてくれる。
それでもやはり書き仕事は好きではない。お世辞にも字がきれいとは言えないからだ。
しかしボールペンをもらったことが嬉しくないかというと、絶対にそんなことはない。ペンを見るだけで頬が緩んでしまうほどに嬉しい。
そうしてまたペンに意識を取られているところで、ひとつ気がついた。
インクがなくなった時、替え芯はあるのだろうか。
私には、インクの交換をした記憶がない。大抵の場合、インクがなくなる前にどこかが壊れるか、ペンそのものを失くすかしてしまう。
でもこのペンだけはそんなことはしたくない。ずっと大事にしたい。
替え芯くらい、調べればわかるだろう。文房具店で見ていればわかるかもしれない。
それでも、これは彼女に聞いてみよう。そんなちっぽけな理由でも、少しでも彼女と話がしたい。一緒にいたい。
一人でにやけているのを見とがめられて、先輩からお客様用の席の拭き掃除を命じられてしまった。
しかしそれは私にとって逆効果で、他人と関わらずに一人で作業している間、余計に彼女のことばかりを考えていたのだった。
どこそこにこう書かれているからという言い方は、私たちも時々する。それはあまりに非常識なことを言うお客様に対して、規約を盾にしてお断りする場合だ。
しかし、だからといってまったく融通をきかせないということはない。本来はお客様自身がやるとされていることを、こちらで代行したりすることもあったりする。
彼女が言っていたことは、きっとそういうことなのだろうと思う。
しかしそれは仕事だからそうする必要も起きるということであって、仕事を離れてそんな必要がなくなると融通などということは思わない。
少なくとも、私はそうだ。
しかし彼女は違っていて、必要とかそういうこと抜きで、純粋に他人に気を遣って法律に対して融通をきかせている。
私はそんな彼女に惹かれて、彼女と同じ場所に立ちたくて、真似事をしている。
そうして横断歩道の手前に立ち止まっていると、時々邪魔だと言わんばかりの目を向けられることがある。
それはただ真似事をしているだけの私ではなくて彼女が否定されているようで、とても嫌だ。
だから私もついにらむような視線を返してしまう。向こうは歩きながらなのでその視線はすぐに人波に紛れて消えてしまうが、嫌な気分はそうすぐには収まってくれない。
そんな時にまた別の視線を感じて、ついそちらもにらんでしまう。
しかし真横からの視線は彼女だった。驚いた私は、小さく声を上げて正面を向いて俯いてしまう。
「ごめんなさい」
そして失礼を詫びたのだが、彼女は私のそんな目に気づかなかったらしく、わからないと言うように軽く首を傾げた。
何でもないと首を横に振りながら笑ってごまかす。彼女もそれ以上の追及はせず、路地の車へと目をやった。
そのまま二人で、無言のまま車が出られるようになるまで待つ。
彼女が隣にいてくれる、それだけで私は嬉しくて胸がいっぱいになる。
しかし私は欲張りで、車が通りすぎてこの時間が終わってしまうのが寂しかった。
だからまた彼女をお茶に誘った。
彼女は今日も嫌がる素振りもなくつき合ってくれた。
この前の紅茶専門店の戸を開けると店自体が持っているような香りが私たちを包んで、それだけでも高ぶった気持ちが少し鎮まる。
私にさっき向けられたような悪意を彼女はどう思うかを聞こうと思っていたが、せっかくの貴重な時間をそんなつまらない話で潰したくないと、その落ちついた香りが思いなおさせてくれた。
席に座り、私は彼女にメニューを渡したが、前回と違って彼女はほとんどメニューに目を落とすことはなかった。何にするかは最初から決まっているといった様子だ。
「この前の、気に入ったんだ」
「はい」
そんなにおいしいのならば、私もそれにしてみようか。
「それって、飲みやすいの?」
そう聞いてみると、彼女はちょっと考えるようにわずかに俯いた。
「紅茶に詳しいわけではないので私の感想でしか言えませんが、飲みやすいと思います」
その前置きは言い訳というより、いい加減なことは言いたくないという彼女の誠実さに聞こえる。
「それなら私もそれにします」
言うなり私は二人分を注文した。
カウンターの向こうで店主らしい人が準備をしている。何となくそんなものをちらりと見てから、彼女に目を戻した。
彼女も彼女で内装を見ていたようだったが、私の視線に気づいていつものように真っすぐ私に向いた。
「お礼が遅くなりましたが、ボールペン、ありがとうございました。毎日使ってます」
「あ、いえ……。使ってもらえたのなら、嬉しく思います」
言葉を探すようにぽつぽつと、そして言葉を選ぶ余裕がなかったのがにじみ出たような硬い言い回しで、彼女は答えてくれた。
そういうところが可愛い。
頬が緩んだ顔で黙って彼女を眺める私に、彼女は居たたまれないように目を伏せてしまう。
そこにちょうど紅茶が運ばれてきて、彼女は救われたような顔でカップを手に取った。
「いただきます」
カップで口元を隠すようにしながらも、それでもそれを言うのを忘れないところが、やはり彼女だ。
「いただきます」
私も同じようにカップを手にして、まずはすするように一口だけいただいた。
緑茶の渋みと違って、苦みがある。苦みというか、緑茶の渋みがそういう味であるように、これもそういう味なのか。
コーヒーのただ味覚を刺すような苦みと違って、これは慣れればおいしいと思えるかもしれない。そんな気がする。
慣れればというところはもらったボールペンと同じだなどと、ふと思った。
「いかが…でしょうか」
そのボールペンをくれた彼女が、私を気にするようにこちらを見ていた。
「ちょっと苦い。でも飲み慣れればおいしさがわかるようになれると思う。大人の味ですね」
「よかった……」
安心してではなく大人と言われて照れたのだろう、彼女はそれきり紅茶を味わうことだけに集中していた。
私の視線に気づいて、しかし気にしていないかのように無視して、それでも気になって時々薄目で確認するようにこっちを見るのがやっぱり可愛い。
私を避けるように、わざとゆっくり味わっていることさえ透けて見えてしまう。しかしそれは私にそれだけたっぷりそんな彼女の姿を見せてくれるだけのことで、そしてそれもいつまでも引き延ばせるものではない。
彼女が諦めたようにカップを置くのを待ち構えて、私はまたもらったボールペンへと話を戻した。
替え芯のことを聞くと、雑貨屋や書店の文房具売り場で探せばあるということだった。
わざわざそういった店で探して選んでいるということは、彼女は文房具や小物なんかが好きなのだろうか。
それも聞いてみる。彼女の好みなんかが知れたら嬉しい。
しかし、その答えは否だった。
「先輩に、勧めてもらったんです」
突風が吹き抜けたように胸の内が冷たくなる。
「先輩って、あの先輩さん?」
「はい」
鋭い針で刺されたように胸が痛む。
「あのボールペンは、先輩さんとお揃いなんだ……」
「はい……」
彼女はそれを肯定して、そして頬を染めて遠い目をした。
お揃いなのは、私とではなく先輩とだったんだ。
「そうなんだ……」
嫌だった。
先輩のことを思ってだろう、彼女はうっとりとした顔をしている。それがたまらなく嫌だった。
どうして?
こんなに可憐なのに。
私はずっと彼女を求めていたはず。それなのにどうして今彼女の顔を見るのが嫌なのだろうか。
彼女が先輩のことで辛い思いをしているのは知っているのに、どうしてその思いを嫌だと思うのだろうか。友達ならば、どうにかいい関係になれればいいと応援してあげるべきなのに。
苦しい。胸の内が激しく渦巻いて、たまらなく苦しい。
それがあふれ出しそうになった瞬間、ひとつの言葉が胸に落ちて、暴れるものがぴたりと止まった。
好き―――
雷に打たれたかのような衝撃が、全身を突き抜けた。
私は彼女が好きだったんだ。ずっと彼女に恋していたんだ。
だから気になって、隣に立ちたくて、話とかしたくて、もっと欲しくて求めて、そして先輩に嫉妬したんだ。
しかし彼女が恋しているのは先輩だ。それにもしも先輩がいなかったとしても彼女も私も女同士、決して恋は成就しない。
こんな気持ちは、彼女に迷惑しかかけない。
絶対に困らせてしまう。傷つけてしまう。そして嫌われてしまう。
怖い。
彼女に嫌われてしまうのは、何よりも怖い。
でもこの気持ちは絶対に彼女に嫌われる。
どうしよう。
例えようのない恐怖が、全身を凍りつかせる。
嫌われたくない。
嫌われるのは絶対に嫌。
嫌われずに済むにはどうすればいいのか。どうしようもないのか。
「あの…、どうかしましたか?」
声をかけられて初めて、自分が震えていたことに気がついた。
救いを求めるようにおずおずと、彼女の顔へと目を上げる。
駄目。
目が合った瞬間、反射的に深く俯いた。
「お加減でも、悪くされましたか……?」
やめて。
今私に優しくしないで。
これ以上あなたを好きになってしまったら、もう自分を抑えられなくなる。そして嫌われてしまう。それだけは絶対に嫌。
私は頭を抱えるように耳をふさいで強く目をつむり、激しく首を横に振った。
それでも彼女が心配そうにしているのがわかってしまう。彼女のことが好きだから。
今すぐこの場から逃げなくては。
これ以上彼女と一緒にいたら、絶対にボロが出てしまう。そうなる前に彼女から逃げ出さなくては。
私から誘っておいて失礼極まりないことだが、そんなことを考えている猶予はない。逃げる方法だけを、必死に考える。
私は電話を取り出した。
いつの間にか彼女は私の隣に立っていた。画面を見られないよう、一瞬だけつけた画面をすぐに消す。
「ごめんなさい、急用ができてしまって」
電話をしまいながら、さも急いでいるかのように席を立つ。急いでいるのは本当だが、急用はもちろん嘘だ。
私を気遣ってくれる彼女を無視して、テーブルの上に置かれた伝票をむしり取るように手にしてカウンターへ向かう。
ついてきた彼女が自分の分を払おうとするのをやはり無視して二人分まとめて支払い、私は早足で店を出た。
「ごめんなさい」
後ろにいる彼女を振り返りもせずにそれだけ言って、私は彼女を置き去りにして走って逃げた。
最初から胸が苦しかった。しかし足を止めて追いつかれるわけにはいかない。息が切れて足が前に出なくなるまで必死に走って走って走り続けた。
肺が悲鳴を上げてか、足が止まると今度は涙が止まらなかった。
苦しさと涙とで顔なんかもうぐちゃぐちゃだった。
でもそれ以上に胸の内の方がもっとぐちゃぐちゃだった。
こんなことは初めてだ。
顔を見たい。話をしたい。もっと一緒にいたい。ずっと思っていたい。他の人のことなんか見ないでほしい。
気持ちを知りたい。大切にしたい。幸せであってほしい。傷つけたくない。私のことを嫌わないでほしい。
彼女が好き。どうしようもなく好き。
これが本当の恋。私の本当の初恋。
それなのに、この恋は彼女に私を嫌わせる。
嫌われるのは嫌。何よりも怖い。
それなのに好きが止まらない。
混乱して頭も胸もぐちゃぐちゃして止まらなくて夜もまともに眠れない。
疲れが抜けず、思考は鈍る。
それでも混乱は止まらない。恐怖が止まらない。好きが止まらない。切ないくらいに恋しくて会いたくて、でも思うだけで叫びだしそうなくらいに嫌われるのが怖い。
だから私は逃げた。
あの場所でうっかり彼女に会ってしまうことがないように、帰る時間を遅らせた。
そのために私は仕事場の近くで時間を潰す。
昨日はウィンドウショッピングをした。その前は喫茶店でケーキを食べたりした。しかし楽しくもなければおいしくもない。今日はどこで何をしよう。
眠れていないところに余計に疲れることをして、ため息が出てしまう。
それでも、彼女に会うわけにはいかない。会って嫌われるようなことをしたくない。
それだけの思いで重い足を引きずってそこらをとぼとぼと歩くが、そこかしこの街の照明がうるさく感じられてイライラするばかりだ。
昨日よりは早くなるけど、もういいかな。
諦めて帰りの電車に乗った。
この時間でも電車の中は人であふれかえっている。そして電車を降りると商業施設の方へと流れていく。
ロータリーに出る路地にはやはり車が一台、人波に遮られて待たされている。
横断歩道の手前で私は足を止めた。
彼女の隣に立てる自分になれるように、私は彼女の真似事をしていた。これは私が彼女を好きでいるために必要な資格、やらないなんて無意識にだって考えられない。
しかし今ここに彼女はいない。
彼女に会わないように自分で時間をずらしたのに、どうしようもなく切ない。目が彼女の姿を探してしまう。そしてありもしない彼女の姿を映し出してしまう。
その彼女が私に向いた。何かを言うのをためらって口ごもっているようなかすかな声さえ聞こえてくる。
これは幻覚? それとも夢? 眠れているのならば、明日は少しは疲れが抜けるかな。
何にしても私は返事をするわけにはいかない。
顔を見ればもっと彼女を好きになってしまう。口を開けば好きだと言って彼女を困らせてしまう。たとえ夢の中でも、彼女に嫌われるのは耐えられない。
諦めたように彼女は私に構うのをやめてくれた。ほぼ同時に人波が途切れて車がロータリーに出ていく。
車が通り過ぎるのを待ちかねるようにして、私は横断歩道へと足を踏み出した。そして商業施設を過ぎるところまで彼女と並んで歩き、そこで無言のまま彼女と別れる。
彼女が離れてしまう寂しさをどうしてもこらえきれず、私は後ろを振り返ってしまう。
彼女は困ったように眉をひそめた横顔で、大通りの方へと消えていった。
ごめんなさいと、その背中に呟いた。
電話が短く音を立てた。
疲れきってぼんやりしていた私はのろのろと電話を手にする。
通知欄にはチャットアプリのアイコンと彼女の名前と、そして夜分遅くにすみませんから始まる文が表示されていた。字数が多くてその先はわからない。
その名前を目にしただけで胸が音を立てて動くほどに嬉しくなり、続きを読もうと指が画面に伸びかける。
しかし指が電話に触れるよりも先に、この前の失礼を怒っているのではないかと直感して、怖さに体が竦んでしまう。
ためらっているうちに画面は消えてしまう。
その言葉を聞きたいくらい彼女が好き。でも嫌われるのは怖い。また胸の内がぐちゃぐちゃする。
でも。
もしも彼女がまだ私との約束を信じてくれていて、辛い気持ちを話そうとしていたのならば。
ぐちゃぐちゃしていたものがぴたりと止まる。
そうだとしたら、私はそれを聞かなければならない。
違う、聞きたい。
私が彼女にできることがあるのならば、何だってしたい。
たとえわずかでしかなくても、彼女の辛さを和らげてあげられるのならば、どんなことだってする。
何を言われたとしても受け止める。そう覚悟した私はもう一度電話の画面をつけ、アプリを起動した。
表示されたのは、私を嫌う言葉でも吐き出された辛さでもなかった。
あまりにも意外で、そこで思考が停止してしまう。続きを読むためにはまた画面をつけなおさなければならなかった。
(夜分遅くにすみません。最近お会いできていないのはお忙しいからかとは思いますが、どうしても気になって連絡を差し上げてしまいました)
いくつも出てきた枠の最初には、そうあった。
まるで手紙のような硬い文章が彼女らしくて、それだけで頬が緩んでしまう。
(先ほどお見かけした時、とてもお疲れの様子で、私のことに気づきもしませんでした)
緩んだ頬が引きつった。さっき見た彼女は、幻覚でも夢でもなかったのか。
でもそうだとしても、私にはああするしかなかった。そう思うと切なくて苦しくて仕方がない。
(その顔がとても辛そうで、それなのに私は声をおかけすることさえできませんでした。私が辛い時はあなたが寄り添ってくれたのに、私は何もしませんでした)
それは私の自業自得。彼女が気に病むようなことではない。
(おこがましい言い方ですが、あなたが私にしてくれたように、私もあなたが辛い時はその気持ちを聞いてあげたい。その辛さを少しでもなくしてあげたい)
胸が締めつけられた。しかしそれは痛いのではなくて、彼女が好きで好きで、どうしようもなく切ない。
(でもそう思うのは、あなたのように親切だからではなくて、私があなたに会えなくて寂しいからというだけです。勝手なことでお休みの邪魔をして、本当にごめんなさい)
私だって親切なんかじゃない。違う、親切なのは彼女の方だ。
お願いだから自分を責めないで。
画面の向こうにそう願った時、新しい枠が出てきて私が読んでいた枠を押し上げた。
今、画面の向こうに彼女がいる。
慣れない手つきで私への気遣いをぽつぽつと訴えかけてくる。
(それと、もしもこれが私の思い違いでただお忙しくてお疲れだったのだとしたら、その場合も気を悪くしてごめんなさい)
その姿が、その気遣いが、もうたまらなかった。
彼女が好き。彼女が好き。それだけでもういっぱいで、嫌われることなんて頭の外に弾き出されてしまった。
通話ボタンを私は押した。
呼び出し音が途切れた瞬間、私はほとんど叫ぶような声を上げた。
「会いたい」
応答の言葉も名前を言うのも先に潰されて、彼女は声を出せずにいた。
私も、たったひとつの伝えたいことを伝えて、言葉がなかった。
沈黙がもどかしい。
胸の内はもうとっくにあふれかえっている。
言葉なんかではとても表現できないもっと根源的な思いしか、今の私にはなかった。
「会いたい……」
震える声で馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返すことしか、できなかった。
何度めかの会いたいの後に、彼女は静かに答えてくれた。
「私もです」
「いいの……?」
「はい」
縋りつく私を抱きとめるように、アプリに私を登録してくれたあの日に聞かせてくれたしっとりとした声で、彼女は答えてくれた。
その気持ちが嘘でないことを証明するように、彼女は日時まで約束してくれた。
赤子のような言葉を成さない声で答えた私に満足したようで、彼女はしばらく待ってからそっと電話を切った。
現実に戻ると恐怖がよみがえってきた。
会えば絶対彼女に嫌われる。
いっぱいだったはずの胸の内が押しつぶされて萎んでしまい、代わりに恐怖で覆われてしまう。
でも、もう後には引けない。
会うと約束したから。会いたいと彼女が言ってくれたから。だから私は行かなければならない。
電車を降りるともう約束の時間の数分前だった。
しかしそんな私の都合にはお構いなく、いつもの人波がいつものように路地から出ようとする車を塞ぎ止めていた。
車が通るまで待ってしまったら、約束の時間に間に合わない。
しかしそれでも、私は横断歩道の手前に立ち止まった。
なぜならそれは私が彼女を好きでいるために絶対に必要なことだからだ。それを捨てたら、彼女を好きでいることなんて許されない。
悪いけど少しだけ待って。チャットアプリで彼女にそう送信してまだ車は通れていないかと電話から顔を上げた時、私の隣に誰かが立ち止まった。
その人も電話を取り出して、画面を見ている。
「あ」
どちらからともなく声が上がった。
彼女だった。
彼女は私の顔を認めて、また電話に目を向けた。何か操作をしている。
彼女が画面から指を離すと同時に私の電話が通知音を立てた。
(私も少し遅れます)
これでもかというくらいに張り詰めていたはずなのに、つい笑ってしまった。
「口で言えばいいのに」
「アプリで挨拶してくれているのを放っておくのは、気になりますから……」
少し口を尖らせて彼女はそう答えた。そんな私たちのすぐ横で緩く空気が流れた。ようやく通してもらえた車がロータリーへと出ていく。
「行きましょう」
「はい」
会うのが怖かったはずなのに、隣にいる彼女からは恐怖なんか少しも感じない。
店までの短い距離を二人で並んで歩くのが、とてもとても幸せだった。
彼女はあまり冒険をしない性格なのか、それともそれが気に入っているのか、メニューを手に取ることさえなくこの前と同じものを注文した。私もそれにならう。
注文を終えると、それまで真っすぐ前を向いていた彼女がそわそわと視線を泳がせだした。時々何かを言いたそうに口を半開きにして、しかし言葉にならずにまた閉じたりしている。
自分から誘ったのだから自分から何かを話さなければと焦っているのが透けて見えてしまう。それが見えてしまうところがとても可愛くていつまでも眺めていたくなってしまうが、会いたいと言ったのは私の方だ。
もう抑えきれない。それにやはり、好きな彼女に隠し事を続けるのは耐えられない。
「私のことで心配させて、ごめんなさい」
口の動きが止まったところを見計らって、できるだけ静かに声をかけた。
「いえ、そんな……」
彼女はどこか向こうを向いたまま、返事に困っていた。
「会ってくれるって言ってくれて、会ってくれて、すごく嬉しかった。だけど……」
言いかけて止めたその語気に引きこまれるように、彼女が真っすぐ私に向き直る。私は今からもっと彼女を困らせる。
「先に謝っておきます。今から私が言うことは、絶対にあなたを困らせる。嫌がらせるし、きっと傷つける」
彼女は息を飲んだ。そのまましばらく硬直してしまう。
彼女が聞いてくれる体勢になってくれるまで、私は待った。
「聞きます」
かなり長く待ったような気がするが、よくわからない。わかるのは彼女が真っすぐ私を見据えて私の言葉を待っているということだけだ。
たとえあなた嫌われても、私はあなたが好き。それは声には出さずに、私は単刀直入に告げた。
「私、あなたのことが好きです」
身構えていたところをいなされたように、彼女はポカンとした表情になった。
わからないのも無理はない。私だって彼女と出会うまでは女同士で好きなんて気持ちはわからなかった。
「もっと一緒にいたいし、話もしたいし、どんなことでも知りたい。一番に仲よくなりたい」
「それは…」
自分も同じだと言おうとしている彼女を制するように、私は続けた。
「先輩さんよりも一番になりたい。先輩さんのことなんか思わないでほしい。私のものにしたい」
そんなわがままを面と向かって本人に言ってしまうくらい、あなたのことが好き。
先輩への思いを否定されて彼女の眉間に一瞬だけしわが現れたが、次の瞬間には顔全体が驚きに染まっていた。
私の思いが、伝わった。
「あなたに恋しています。これが私の、本当の初恋です」
まず困って何も言えなくなるのは、私の想像どおりだった。
ちょうどいいというべきか間が悪いというべきか、その沈黙に割りこむようにお茶が運ばれてきた。ということはここまで意外と短い時間しか経っていないということらしい。
「いただきませんか? 私も一度気持ちを落ち着けたいですし」
「え? あ、はい……」
促されて、彼女はほっとしたようにカップを手に取った。
私と目を合わせないように、目を閉じてちびちびとお茶をすすっている。
言いたいことは全部言った。
こんなことをしておいて言える筋ではないが、後は彼女の思うようにしてもらう。
自分で言ったとおり、私もそれを受け止める心構えを取るために、ゆっくりとお茶を味わった。
苦みの中にあるおいしさが、今の私の気持ちに少し似ていた。
向こうのソーサーが小さく音を立てた。カップを置く手が震えて思わず立ててしまったような、小さな音だった。
「私は…その気持ちにこたえることはできません」
伏せた目を上目遣いにして、どうにか私のことを見ようとしながら、彼女は言った。
「確かにすごく困っています。ですが、嫌ではありません。傷ついてなんかいません」
無理にしぼり出したような震える声で、必死に私に伝えようとしてくる。その姿に、私は切なくなってしまう。
「だから、謝らないでください。あなたの気持ちを受け入れない私なんかが言っていいことではありませんが、自分を責めないでください」
「それは私。悪いのは私。自分を責めないでほしいのはあなたの方」
「悪いなんて言わないで」
彼女の目が真っすぐ私に向いた。
その視線が、言葉を止めた。
彼女は他人を気遣ってくれる人だ。しかしそのために嘘をつくことはしない、真っすぐな人だ。だから今私を嫌っていないと言ってくれているのは、嘘偽りない本当のことだ。
期待してしまう。もう私の胸は喜びに跳ね上がりそうになっている。
でも喜ぶのはまだ早い。
それは彼女を信用できないからなどではなくて、彼女がどう私のことを許してくれるのかをきちんと知ってからでなければならないから。
だから私は真っすぐ彼女に視線を返して、彼女がそれを話してくれるのを待った。
「あなたの好きとは違いますが、私もあなたのことが好きです」
私は目だけでうなづいて、続きを促した。
「あなたがいてくれたから、私は前向きになれました。それは過去形ではなくて今でも、あなたがいてくれるから私は前を向いていられるのです。もしもあなたがいなかったら、私は下を向いたまま、ずっと自分しか見ていなかった」
私は余計なことをして彼女を傷つけるばかりだ。そう言いたかったが、今は彼女が話してくれる番だ。
だから私は何も言わず、さらに続きを待った。
「だから私はあなたにいてほしい。あなたの好きを受け入れない私をあなたは嫌いかもしれませんが、それでも私はあなたが好きです。私だけわがままですが、あなたが必要なのです」
うるんだ目が私の胸を締めつける。
彼女に無理を押しつけているのは私。それでも彼女の隣にいたいのは私。なのに彼女は自分こそがそうだと思いこんでしまっている。
そんなことは許せない。そんなことをさせている私自身が、絶対に許せない。
「大丈夫です。側にいます。だって私はあなたのことが好きだから、嫌うとか離れるとか絶対にできません。安心してください。わがままだなんて言わなくていいです」
嬉しくて申し訳なくて、切なくて切なくて、胸の内と、さらに涙があふれてしまう。
私は、苦笑いしながら泣いていた。我ながら忙しい。
そんな私に彼女は手を伸ばして、指の裏で涙をぬぐってくれた。
それがたまらなく、温かかった。
休日に遊びに行きましょう。
その誘いを、彼女は受けてくれた。
彼女には絶対に言えないが、これは初デートだ。
彼女と会うのはいつも仕事帰りで、日中に会うのは初めてだ。もちろん休日の彼女を見るのも初めてになる。どんな彼女が見られるだろうか、楽しみで仕方がない。
いつもの駅で朝十時に落ち合って隣の駅に行く予定だ。私の仕事場もある大きな商業施設には、映画館も食べるところもあるし、いろいろ買い物だって不自由しない。そこ以外に何もないというわけではないが、そこだけでも一日過ごせる。
まず映画を見て、軽くお昼を食べて、適当にいろいろ見て、流れ次第ではご飯を食べていこう。私が誘ったことであり、行くところも私が知っている場所なので、デートコースは私に一任されている。
もっとも彼女との間では一日適当に過ごすという話でしかなくて、気合いが入っているのは私だけだ。
どれくらい気合が入っているのかというと、休日はお客様が多くて忙しい日なのだが、それを先輩に無理を言って休ませてもらったくらいだ。
妙にあっさり休ませてもらえて拍子抜けしたが、それは気にしないことにしておく。
何を着ていこうか。私の目下の悩みは、それだった。
気合いを入れすぎて、彼女と並んで立った時に悪目立ちしたら格好悪い。そうなると、彼女がどんな服で来るかを想像しなければならない。
彼女のことだから絶対に大人っぽいと思う。シックな感じか、フェミニン系か、逆にマニッシュなのも似合いそう。
頭の中で彼女にいろいろ着せ替えてもらう。なんだか楽しくなってきた。
私の頭の中の彼女は何を着ても似合っていて、私がそれを褒めると赤くなって俯く。可愛い。当日これは絶対やろう。
前日の日付が変わる直前まで考えて考えて、そのほとんどは彼女の着せ替え遊びだったが、あまり女の子女の子していないものに決めた。
そして約束の時間の十分前、いつもの横断歩道を渡ると、駅の入口の脇に彼女の真っすぐな姿が見えた。
私の想像は当たりと言えば当たりかもしれない。ベージュのセーターにデニムパンツと、何系どころではなく至ってシンプルなものだった。しかしそれがすごく大人に見える。
しかし見とれている場合ではない。私は小走りで彼女へと駆け寄って、待たせてしまったことを詫びた。
「待たせたって、まだ十分前です。謝らないでください」
謝りながらも上から下まで不躾に見てくる私に、彼女はそっぽを向いてしまった。
私の予定では服を褒めて彼女を照れさせるはずだったが、何と言うか、これはずるい。
「美人って得ですよね。何着ても似合うし」
恨みがましく言ってやる。この嫉妬は正当なものだろう。
彼女はもう、返事さえしてくれなかった。ちょっといじめすぎただろうか。
「行きましょう」
なかったことにするように私が満面の笑みを作って見せると、彼女はやっとこっちに向いてくれた。
私も彼女もいつもこの駅から電車に乗り、向かう方向も一緒だ。だから二人とも定期券がそのまま使える。
ただしいつも乗る車両は違っていて、ホームに出た時に二人別々の方向に行きかけた。今回は私がいつも行く駅が目的地なので、私がいつも乗っているやや前方に来てもらう。
それほど待たずに電車は来たが、休日の半端な時間にもかかわらず座席はほとんど埋まっている。後ろから老夫婦が乗ってきたので、私たちはとりあえず反対側の扉の方へと避けた。
お年寄りや体が不自由な人のための優先席も、一人分しか空いていない。それなのに、見た目からはそれに当てはまっていなさそうな男の人が老夫婦のことなど気に留める様子もなくふんぞり返っている。譲ってあげればいいのに。
残った一人分の席に、奥さんが座った。それしかないだろうと私が興味を失って窓の外に目をやったところでに、隣にいた彼女が小さく声を上げた。
「どうしたの?」
「席を譲られた奥さんが旦那さんの手荷物を受け取ったのが、素敵だなと思って……」
言われて見てみると、座っている奥さんの膝の上にはバッグと紙袋がある。紙袋の方は、確かさっきまでは旦那さんが持っていたはずだ。
彼女の言うとおり、その気遣いは素敵なものだろう。しかし私にはそれ以上に、そんな小さなことに気づいて感動できる彼女の方が素敵に思えた。素敵などという言葉を何のてらいもなく真っすぐに言える彼女が、私には素敵だった。
彼女のことが、もっと好きになる。今日一日で私はさらにどれくらい彼女を好きになるのだろう。
まだ老夫婦に感じ入っている彼女の横顔を、私は電車に揺られながらうっとりと眺めていた。
電車が駅に着いて、私たちは電車を降りた。同じように降りる人はけっこういて、さっきの旦那さんもようやく座れそうだった。
駅から長い歩道橋を渡って、昇り降りなしでまっすぐ商業施設に行ける。その歩道橋の途中で、彼女が下を気にする様子を見せた。
「何かあるんですか?」
私は彼女を遮るように前に回りこんで手すりに両手をかけた。眼下のロータリーでは、あちこちに向かうバスとそれに乗り降りする人たちがコーヒーに落としたミルクのように入り乱れていた。
「あそこ。歌っている人がいます」
しかし彼女が指したのはそれではなくて、駅舎寄りの広い場所の人の動きが止まっている所だった。壁際でギターを手に歌っている男の子を、聴衆が二列くらいの厚みで囲んでいる。
「歌、好きなんですか?」
そうだとしたら、どんな歌が好みなのだろうか。そんなことも知れたら嬉しい。
しかし彼女の答えはそうではなかった。
「いえ。ただあんな所で歌う人がいるなんて珍しいと思って」
いつもここに来ている私はこういう光景を見慣れているが、これはどこでも見られるものではない。少なくとも私たちが電車に乗った駅では見たことがない。
「ここは音楽の街と言われています。そう言われるくらいだから、こういうのも珍しくないんですよ」
「そうなのですか……」
彼女も手すりのそばまで寄って、やはり真っすぐにあの男の子を見ている。歌っているのはわかるが、ここからでは何を歌っているのかは聞き取れない。
「行ってみませんか?」
「でも、予定とか行きたいところとか、あるのでしょう……?」
こんな時でも彼女は聞きながら答えるようなことはしない。ちゃんと私に向き直ってくれる。そういうところが好き。
「そんなのいいんです。思いついたところをぶらぶらしようと思っていただけですから。だから、行きましょう」
意識するまでもなく勝手に笑みがこぼれてしまう。
私は彼女の手を引いて近くの階段を降り、人波に苦労しながらも囲みの後ろについた。
そのつもりではなかったのだが、彼女と手をつないでしまった。
そのつもりではなかったからたどり着いた時に手を放してしまったが、もったいないことをした。そのままずっと手をつないでいればよかった。
しかしもうそれは言い出せない。彼女は真っすぐ歌に聞き入っている。
その歌はとても激しくて、自分は今ここで生きているのだと必死に叫んでいる。テレビよりもネット上の配信チャンネル向きな、聞く人を選ぶ歌だと私には感じられた。
一曲終わって、聴衆がまばらに拍手をする。私も形だけそれに加わったが、彼女は一番熱心なくらいに本気で拍手を送っていた。
「気に入りました?」
「気に入ったのとは違うのですが、すごいと思って……」
彼女が言葉を探している間に、次の曲が始まってしまった。まだ何かを言おうと悩んでいる彼女に、私は歌を聞こうと促した。
彼女はずっと歌に夢中で、結局私たちは彼が歌い終えるまでずっと聞いていた。
歌い終えて自主制作CDの売り込み文句を始めたところでほとんどの聴衆は立ち去ってしまい、私たちも同じように商業施設へと向かった。
「ずっと、聞いていましたね」
「あ、ごめんなさい。つき合わせてしまって……」
文句だと勘違いした彼女が、ほんの少し泣きそうな顔になって頭を下げてしまった。
「違うの。嫌だったとかじゃなくて、楽しかったのならよかったなと思って…。私も、たまにはあんなのもいいなって思いながら聞いてました」
頭を上げてくれた彼女だったが、また言葉を探すように、私ではなく前方のどこか遠くを見ながら私の隣を歩いていた。
そのうちに商業施設に着いてしまい、私もどこに行こうともすぐに思いつかなかったので、外周に沿って並んでいるベンチのひとつに彼女を誘った。ベンチとベンチの間には木が植えられているので、割と広く感じられる。
「歌って…不思議だなと思いました」
言葉が見つかったらしくやっと私に向いてくれた彼女が、そんなことを言いだした。
「同じことでもただの言葉だったら聞くつもりにはならなかったでしょう。でも歌だったら聞いてしまう」
そんなことなど考えたことがなかった。しかし、彼女の言っていることはごく当たり前のことではないかと思う。
私は恋の歌が好きな方だが、同じ言葉を歌でなくただ大声で言っているだけなのを聞いたら、何言っているんだろうこの人と思うに違いない。
「そうですね。不思議ですね……」
当たり前のことを見過ごしにせずに当たり前に感じる。そんな彼女だからこそあの横断歩道での行動があるのだろうと、私は妙な納得をした。
「きっと頭で考えるより前の、感覚に訴えかけてくるんじゃないかな」
その感覚が彼女は純粋で、だから彼女は美しくて可愛いのだろう。
「頭で考える前……?」
しかし彼女は法律でこうだと私に語ったことがあるように、どちらかと言えば頭で考えて行動することを良しとする人だ。だから意識されずに手つかずの感覚が、純粋なまま残されているのだろう。
そんな彼女だから、感覚のことさえも考えようとしてしまう。
それを聞かれても私にだって答えられなくて困る。
「そう。だから考えてもわからないってことです」
だから私は笑ってごまかした。
彼女も納得しない顔をしながらも、それ以上の追及はやめてくれた。そうやって他人のことを気遣ってくれる彼女が好き。
けっこう長く歌を聞いていたらしく、もう昼前になっていた。
「それより、お腹すいてませんか?」
私は世間一般で言う昼休憩の時間に食事をとることがほとんどないのでこの時間にお腹がすくことはないが、彼女はそうではないだろう。話を変えるのにはちょうどよかった。
「そうですね」
「じゃあ、どこかで軽く食べます?」
「はい」
ベンチを立って商業施設に入り、階段を下りてファストフードの店などが並ぶ区画へと向かった。
まだ十二時前なのでそれほどでもないだろうと期待してみたが、行ってみるとどこもかしこも店の外まで人が並んでいる。
並ぶかと聞いてみると、彼女は並んで食べたいほど空腹ではないと首を横に振った。
吹き抜けから上の方を見ても、食べ物屋のある上の階にも人が並んでいるのが見える。
今ここで食事というのは無理だろう。よそへ行くか、それともここで時間を潰すか。
「どこも混んでますし、食べるのは後にして、適当にいろいろ見て歩きませんか?」
彼女がそこまで空腹ではないと言っていたので、そちらを取った。彼女もそれでいいと言ってくれたので、今度はエスカレーターでさっきの階に戻って、まずは上り口にあるカジュアル系のお店に入ってみる。
見ているとちょっと欲しいかもと思うものがいくつも出てくるのが私の常なのだが、彼女は着るものにあまりこだわりがないのか、反応が薄い。
興味を示したのが靴下専門店くらいのものだったので、全部見ないうちにもう少し大人向けのお店が多い上の階へと移動した。
この階には駅につながる通路もなく、そして今は昼時なので、下の階と比べて人通りはやや少ない。ゆっくり見ることができてちょうどよかったかもしれない。
若い子向けのお店のショーウィンドウで気になるものを見つけて、私は足を止めた。
「スカートは、はきませんか?」
隣でやはりそれほど興味なさそうにしている彼女に声をかける。
いつもあの場所で見る彼女もパンツスーツであり、私は彼女のスカート姿を見たことがない。
私に言われて真っすぐマネキンを見ていた彼女だったが、どういう訳か私の問いに目を伏せてしまった。
もしかすると過去に何かあったとか、触れてはいけないことに触れてしまったのだろうか。どう声をかければいいのかと私が焦りだした時、彼女は呟くように小さく言った。
「可愛いとかきれいとか、私には似合わないから……」
「え?」
声に出して驚いてしまった。
彼女は嘘をつかない真っすぐな人だ。だからこの言葉も、本心からそう思っているのに違いない。
朝私が言った嫌味は、彼女を傷つけてしまっていたのだろうか。そうだとしたら申し訳ない。
「そんなこと、ないよ……」
どう言えばいいかわからないけどとりあえず似合わないという彼女の言葉は否定する。しかし彼女はそれを認めないように返事をしてくれなかった。
せっかく美人なのにと言いかけて、それは飲みこむ。
でも美人なのにもったいないと私が思ったのは本当だ。それに理由があるのならば、何とかしてあげたい。私なんかにできることはないのかもしれないが、似合わないなんて悲しいことを思わせないようにしてあげたい。
そのために、踏みこまなければならなかった。
「どうしてそう思うかって、聞いていいですか?」
私に振り向いてくれた彼女は眉が下がったままの晴れない顔はしていたものの、辛そうというほどではなかった。それだけでも私は少し安堵する。
「見た目だけよくても中身が可愛くもきれいでもなかったら、おかしく見えるだけです」
ものすごく拍子抜けした。
一人で何とかしてあげたいとなどと舞い上がっていたのが馬鹿馬鹿しかった。
それで口を開かないでいる私のことを彼女は自分の言ったことを肯定していると思ったらしく、さらに表情を萎ませてしまう。
本当に馬鹿馬鹿しい。
「あのねえ、久保さんは可愛いしきれいだし見た目も中身も美人さんなの。着飾らなくてもいいくらい」
怒られた子供のように上目遣いでこちらを見る彼女もその例にもれず、可愛い。
「着飾るのが好きじゃないならそれはそれでいい。だけど似合わないなんて思うのは駄目。そうやって下を向いてるのはよくないです」
下を向いているというのは例えにすぎなかったのだが、その言葉を額面どおりにとらえたらしい彼女は顔を上げてがんばって正面から私を見てきた。
そういうところが可愛くて仕方がないのだが、今はそれを愛でている場合ではない。
「だからこれ、試着してみましょう」
そんな彼女を励ますように、私はマネキンを目で指した。
マネキンがはいているのはマーメイドスタイルのデニムスカートだった。上も今彼女が着ているものに近いベージュのブラウスで、だからきっと彼女にも似合う。
少しためらってから彼女はこくりとうなづいた。それでもまだ行きづらそうにしている彼女の手を引いて、私たちはそのお店に入った。
私よりも背が高いのにウエストは変わらないという彼女に私はまたしても嫉妬したが、それを口にすることだけはどうにかこらえる。
試着室に入った彼女が、それほど待つことなくカーテンを開けた。
わかっていたことだが、よく似合っている。
「どう、でしょうか……」
自分でどう思っているのかわからないが、私の感想をものすごく気にしている様子だ。
「靴、履いてみて」
「はい」
私に言われるまま、彼女は自分のウォーキングシューズを履いて私の前に立った。
色気とかそういった余計なものが一切ない純粋な、きれい。
「いい」
それしか言えなかった。
それ以外の言葉は余計でしかなかった。
「あの……?」
しかし彼女には伝わってくれず、不安そうにおずおずと私の言葉を促してきた。
これ以上何かと言われても困るが、彼女が困っているのをそのままにはしておけない。
「ごめんなさい、見惚れてて。すごく似合ってます。そのまま着ていってもいいくらい」
「そうですか」
それでも顔を上げてくれなかった彼女だったが、私を置いて少し向こうへ歩いて、振り返って戻ってきた。ファッションショーのウォーキングが、こんななのだろうか。
「ちょっと歩くのに気を遣いますね」
しかしそれはモデルごっこをしてみたなどではなくて、本当にスカートをはかない人の感想だった。
「やめますか?」
「はい」
結局彼女はスカートを元の場所に戻し、そのままお店を出たのだった。
ちょっと残念かなと思いながら別のお店のショーウィンドウをのぞいたりしていると、彼女の方から声をかけてきた。
「さっきは、ごめんなさい。せっかく勧めてくれたのに……」
「え?」
残念だとか口に出してしまっていたのかと、私は今度は本当に声を上げて驚いてしまった。その声に彼女も驚いて口をつぐんでしまう。
私は慌てて驚かせてしまったことを謝った。しかし彼女は私の好意を無にした自分の方が悪いのだと言って聞いてくれない。
彼女にそんなことを思わせてしまった、押しつけがましい自分を反省する。そこで、気がついた。
「私、ちょっと安心しました」
「え……?」
私の唐突な言葉に、今度は彼女の方が小さく声を上げて硬直する。
「私の方こそ、押しつけがましくしてばかりでごめんなさい。断れない人だったら悪いなとちょっと思わないこともなかったんですけど、何でも聞いてくれるのでついずっと甘えてました」
私の言葉に少し遅れて、彼女は頬を赤くして俯いてしまった。
「私、そんないい人ではありません……」
「いい人と断れないのは違いますよ。それに嫌な時は断ってくれる方が、聞いてくれるときはちゃんといいと思ってくれてるんだって安心できます」
「ごめんなさい……」
何に謝っているのかわからないが、彼女はそう言って私に謝った。
わからないが、そんな彼女が好きだと思った。
「そんなの、気にしなくていいです」
だから私は、彼女に安心してもらいたくて笑顔を向けた。
彼女もぎこちなく笑ってくれて、そんな彼女が好きだとまた思った。
その後さらに何軒かお店を冷やかして二時近くになってようやくご飯を食べて、また服とか化粧品とかを見て、結局私だけが新作なんかをいくつか買って帰ることになった。
帰りの電車もそれなりに混んでいて、座ることはできなかった。買ったものを全部まとめて入れた紙袋は少し膨らんでいて、そんな荷物を片手に持ちながら空いた片手で手すりを握る私を、彼女は吊り革を握りながら気になるように見ている。
その視線が気になって私が首を傾げて見せると、少し間を置いて彼女は口を開いた。
「今日は誘ってくれてありがとうございました。楽しかったです」
「楽しかったって、本当に? 私の買い物につき合ってもらっただけでしょう」
疑うようなことを言うのもよくはないのだろうが、やっぱり彼女には気を遣ってもらいたくない。お互いに気を遣わなくてもいい距離感でいたい。
「誰かとこうして出かけるのは進学してからほとんどなかったので、久しぶりで楽しかったです。誘ってもらえたことが、とても嬉しかったです」
進学というのは大学進学のことだろう。そうなると何年もそういう機会がなかったということになる。私には信じられないことだ。
「だって、友達とかは……?」
信じられなかったからそう口にしてしまったが、その言葉に彼女は悲しそうに目を伏せてしまった。
「あ、ごめんなさい。不躾を言っちゃって」
「いえ…私自身が友達を必要と思わなかったから……。でも佐藤さんがいてくれて、こんな私でもこうしてつき合ってくれることが、今はとてもありがたいです」
友達を必要と思わないなどとは、かなり極端だろう。そうだとすると私がこうしてつきまとっているのも相当な迷惑ではないのだろうかと不安になる。
あれ?
「今、私のこと名前で呼んでくれました?」
「はい」
「うわ、嬉しい」
「そうなのですか……?」
私が舞い上がっている理由がわからなくて、彼女は怪訝そうに私を見ている。
「だって名前を呼んでくれるって、私のことをどこかの誰かじゃなくてちゃんと私だって思ってくれるってことだから」
彼女はまだわからなさそうな顔をしていたが、やがて頬を赤くして呟くように答えた。
「そちらが私の名前を呼んでくれたから、私もいいかなと思って……」
「そうだっけ?」
覚えがない。
「はい。スカートなんか似合わないと私が言って、違うって言ってくれた時」
彼女が自分を否定するのが嫌でちょっときついことを言ってしまった時か。
覚えていなかったこととはいえ、これでもう名前で呼んでいいと認めてもらえたことになる。たったそれだけと言えばそうかもしれないが、とてもとても嬉しい。
欲を言えば下の名前で呼び合ってみたいが、それは多分私も恥ずかしすぎる。心臓が止まるかもしれない。これで満足しておくべきだろう。
「じゃあ、もうこれからは久保さんって呼びます」
「はい」
真っすぐ私を見て、彼女は答えてくれた。
「それで、迷惑じゃなければ久保さんのことをまた誘ったりします」
「はい」
嘘偽りなど微塵も感じられない真っすぐな答えで、彼女は私のわがままを受け入れてくれた。
あまりの幸せに私は陶然としかけたが、電車が駅に着いたので意識を足に向けなければならなかった。
時間帯が違うからかそれとも単なる偶然か、いつもの横断歩道に車はいなかった。
「ここを素通りするなんて、ちょっと変な感じ」
「そうですね」
横断歩道を歩きながら私に合わせて小さく笑ってくれるのが、また嬉しい。
「今日はありがとうございました」
商業施設を過ぎようとしているところで、彼女が先にお礼を言った。
「ありがとうは私の方です。つき合ってくれて、すごく楽しかったです」
「それでは、また…」
「はい」
私の返事を聞いて、彼女は大通りの方へと歩いていった。
またというのはいつもの横断歩道でまた会った時ということだろうが、また遊びに誘ってもいいと言ってくれていると思ってもいいのだろうか。
未来への期待が今日が終わる寂しさを紛らわせてくれた。
久しぶりに怒られた気がする。
お客様が説明を理解できていないのにこちらが話を先に進めてはいけない、きちんとお客様の顔色を見てそのあたりは察しなければならないという。
それはそのとおりではあるが、あの時は他のお客様を何人も待たせてしまっていて急いでいたのだ。
そういう時、後で何かを読むなりすればわかるようなことは端折ってもいいのではないかと思うのだが、雑な仕事をするものではないと正論を言われると返す言葉がない。
お客様の顔色を見るよう言われたことを頭の中で復唱して、私はまた彼女のことを思ってしまう。
私は彼女の気持ちを察していられているだろうか。彼女の好意に甘えてただ押しつけがましくしているだけではないだろうか。
彼女のように他人を気遣うことは簡単ではない。
弱気になりかけたが、ふと手がボールペンに触れて、それで気分が上向いた。
彼女も今このボールペンを手にがんばっている。だから私もがんばらなければならない。
がんばってもっと彼女のことをわかってあげられる自分にならなければならない。
どうすればそうなれるのかなどわからない。
彼女のようにと思っても、彼女が何をどうすることであの気遣いに至っているのかなどわからない。
彼女の真似をして横断歩道で待つ車に先を譲ってみても、そんな形だけのことで身につくものではないのだと思い知らされる。
先輩はお客様の顔色を見るように言った。
見て、感じて、察する。私にそれができるかはわからないが、手掛かりになりそうなのはそれしかない。
しかしそれはやはり難しかった。
何日かぶりにあの場所で彼女に会って、軽く挨拶をした。互いに無言で会釈だけをしていた頃と比べて距離感が縮まっていることがわかって、嬉しくなる。
しかし、私から話しかけるか彼女に何か用件があるかでなければ、彼女から口を開くことはほとんどないのは変わらない。
そんな彼女が何を思って私の隣にいてくれるのかは、横顔からだけではわからない。そうなると私からも何を話していいのか、何も話さないのがいいのかわからなくなってしまう。もどかしいが、それでも時間は過ぎてしまう。
彼女は私の歩調に合わせて歩いてくれて、そして商業施設を過ぎたところで別れ際に会釈をしてくれた。
私は何もできないのに、彼女はそうやって私を気遣ってくれる。
一朝一夕でできれば苦労はないが、それにしても難しそうだ。
彼女のことをもっとわかることができれば、このもどかしさも少しはなくなってくれるのだろうか。
それと意識しなければただの背景になってしまう紅茶専門店を通り過ぎ、交差点の赤信号で止まる。
横断歩道の手前で立っている私の前を、左右から車が通り過ぎていく。広くもない歩道がそれほど多くもない人で埋め尽くされてしまい、青信号を渡ろうとする人が車道に出て私の目の前を急ぎ足で横切っていく。
これほど窮屈になってしまうのだから、もう少し広く作ればいいのに。
それならばと、ふと思った。
あの場所に信号があったら、どうだろう。
あそこの歩道は、人通りが多い駅前だけあってかなり広く作られている。信号があったとしても、歩行者がそこで信号が変わるまで待っていることはできるのではないか。
彼女の気遣いはとても素敵なものだが、私のようにそれが難しいのならば、そこが彼女の言っていたルールを用いる場面ではないだろうか。
彼女が言っていたことが少し理解できて、私はとても嬉しくなった。
この気持ちを彼女に話したい。そうだ、このことを今度彼女に話そう。
真っすぐ前を見ている彼女から何かを察するのは、私には難しすぎる。話をしている時ならば、場合にもよるが彼女は敏感に表情を変えることもあって、そこからならば察することができるかもしれない。
せっかく話したいことができたのに、次の日も彼女はそこにいなかった。
そんな日でもやはり車は人波を前に立ち止まらされていて、私はその車に通ってもらおうと横断歩道の手前に立ち止まった。
しかしこれは、気遣いではない。私が彼女を好きでいるためにしなければならないことで、それ以上にここで彼女に会うためにしていることだ。
その証拠に、私は車の人たちには何も思わない。彼女に会えたらとそわそわしているだけだ。
この路地は一方通行で、ロータリー側から進入することはできない。だから信号機は路地側から見えるひとつだけが必要だ。
それを向こう側に立てて、横断歩道の両側に歩行者用の信号機を付ける。それはできそうだ。
そうした時に、ここにどれくらいの人だまりができるだろうか。
それを今、見よう。
私が乗ってきた電車の次の電車が到着する直前くらいの人波が収まってくる頃合いになってようやく止まってくれる人が出てきて、人波がせき止められる。
それでもちろちろと漏れ出す流れまで止まるのを待って、車がロータリーへと出ていく。今だ。
しかしその場で振り返っても分厚い人壁がどこまで続いているのかは見通せず、それを見極めようにもこちらに崩れてくる壁の圧力でもうこの場には立っていられない。
押し寄せる人波に飲まれて私も商業施設の方へと歩いていくしかなかった。
悔しかったが、危なかったと胸をなでおろす方が先だった。いつかのように転びそうになったりしなかっただけ、幸運だったのかもしれない。
ただの空想にむきになっても何の意味もないのかもしれない。
しかし私はそれを止めることができなかった。
彼女と話をしたい。もっと話をしたい。そのためにちゃんと話ができるようにしておきたい。できること、思いついたことは何でもしたい。
もちろん待たされている車を先に通してから横断歩道を渡った私は、ガードレールに半ば囲われた吹き溜まりのような場所へとたどり着いた。
周囲すべてに人か車の流れが絶えない中でここだけが何の動きもなく、中洲といった様相だ。ここからならば周囲がよく見える。
たどり着いて一息ついた時にはやや緩やかになっていた人の流れが、電車の到着を境に激しくなった。先頭を走ってくる人たちは、さながら波しぶきだ。
そうしてしばらくは押しあうような激しい流れが続く。また路地の方から車が来たが、当然流れに遮られて止められてしまう。こうして外から見てみると、それを押しとどめるようにあの場に立つことが怖くなってくる。
やがてまた流れが緩やかになって、誰かが気を遣って立ち止まり、やがてその杭に木の枝なんかが引っかかるようにして流れをせき止める。そこを止められていた車が通ると、せき止めていたものが崩れてまた流れになる。
せき止められていた間の分だけ、直後の流れは増える。しかしそれは、あの場所からあふれてしまうほどではなさそうだ。駅の入口まで詰まっているようには見えない。
観察が面白くなってきて、仕事帰りで疲れもあるはずなのにもう一巡くらい見たくなった。
思ったとおりに電車が来て流れが激しくなってくるのを見ると、まるで自分の思いどおりにものごとが動いているようで楽しくなってくる。
今度はまだ流れが激しいうちに誰かが横断歩道の手前で止まった。激しい流れに抗ってその場を動かずにいるのは、やはり見ていて怖い。大丈夫かと心配になってしまう。
やがてまた流れが緩やかになって、その人の姿が見えてくる。暗くて顔まではわからないが、その真っすぐな姿勢は間違いなく彼女だった。
私は胸の前で小さく手を振ってみたが、人通りからも車からも外れている私の立ち位置は、彼女の認識の外だった。
流れがせき止められて車が通り、また流れ出す。その先頭を歩く彼女に、私は商業施設の方からの流れをかき分けて寄っていった。
見向きもしなかった方から現れた私に彼女は驚く。それは挨拶でごまかして、私は彼女をお茶に誘った。
お店は比較的すいていて、私たちは窓際のテーブル席に座った。
やはりメニューを手に取らない彼女にいつもと同じでいいかと確認して、二人分を注文する。その労に彼女はまずお礼を言って、さらに続けた。
「先ほどは、いたのに気づかないで失礼しました」
そういうことを必ず見過ごさないで詫びるところが彼女らしい。
しかしこれは彼女の認識違いであり、彼女に落ち度はない。
「実は私、一緒に待っていたわけではありません。向こう側から久保さんのことを見てました。だから私の方が驚かせてごめんなさいなのです」
私の訂正に、彼女はもう一度軽く驚きを示した。
「本当はそれもちょっと違って、あの場所を少し離れた所から見たかったんです。そうしたら久保さんが来て、それで嬉しくなってあんなことをしてしまいました」
あの場所を見たかったと言った私に一度は気になるような目を向けた彼女だったが、会えたことが嬉しいと言われて目を伏せてしまった。
敏感に表情を変える時だけは、彼女がどんなことを思っているのかが手に取るようにわかる。しかしそれがわかっても、それに対してどのような気遣いをすればいいのかわからなければ意味がない。
やはり彼女のような気遣いは、私には難しい。そんなことより話がしたくてたまらなくなってしまう。
そんな私を止めたのは、意外と早く出てきた紅茶だった。
せっかくの紅茶も冷めてしまってはおいしくない。気遣いも何もなく、紅茶を勧めるしかなかった。
頬が赤くなっているのは温かい紅茶のためかもしれないが、まだ少し視線をさまよわせたりしているのは照れが残っているからに違いない。
それも紅茶のおかげで落ち着いてきたところで、私は話を再開した。
「それで、向こう側から人の流れを見て思ったんです。あの横断歩道に信号があったらどうなるのかなって」
彼女はまた驚いたようにしばらく口を半開きにして硬直していたが、それから今度は目を伏せるどころか悲しげに眉を下げて俯いてしまった。
彼女は何と言ってくれるだろうかとばかり楽しみにしていた私は、想像とまったく違う展開に焦ってしまう。
どうして悲しそうになってしまったのだろうか。違う、まずは悲しませてしまったことを謝らなければ。しかしどうしてかわからなければ謝りようがない。でもとにかく嫌われたくない。
どうしようと頭の中がぐるぐる空回りしている私に、彼女は少しだけ顔を上げて、上目遣いでどうにか私のことを見ながら呟くように言った。
「そういうこと、全然考えたことがありませんでした」
悲しげな表情は、まだ晴れない。それがどうしてなのか、私にはまだわからない。
「私は…考えるということができない。考えればわかること、できることがあるのに、考えられないから何もできない……」
彼女が言っていることがどういう意味なのかはよくわからない。しかし彼女が自分を否定していることだけは痛いくらい伝わってきて、それはたまらなく嫌だった。
「考えたってできなければ意味ないです。それに久保さんは何も考えてなくなんかない。考えて、それであの場所で車に先を譲ってます。実際に行動してるんだから、何もできないとは違います。思っただけで何もできないのは私の方です」
「それは、違います」
上げかけた顔を彼女はまた伏せてしまう。
「思って考えるから、新しいことが生まれてくるのです。成果につながらないこともたくさんあるでしょうが、その中から成果が表れて、それが発展につながるのです。考えることができない私では、その可能性さえない……」
やめて。
そんなことを言わないで。
「だったら、私と一緒に考えて。私は信号をつければいいと思う。だけどどうすればそれができるのかはわからない。それを一緒に考えて。久保さんとだったら何かいい方法とか考えられるかもしれない」
かもしれないという言い方では、彼女は受け入れてくれないだろうか。しかしそれは私にだって約束できることではない。
だから。
「考えることができないなんて最初から諦めないで」
押し切るしかない。
彼女の悲しそうな顔が辛くて、私の方が涙声になってしまう。
辛いのは彼女なのに、私が泣いたりしたら彼女はもっと辛くなってしまう。また気遣わせてしまうかもしれない。
それでも私はその感情を止められなかった。それをぶつけるように、きっと涙でうるんでいるだろう目をきつく彼女に向け続ける。
「ごめんなさい、気を遣わせてしまって……」
やはり、彼女に気遣わせてしまった。
「謝らないでよ」
それなのに私はその気遣いをはねつけてしまい、そんな自分が嫌になる。
「考えます。信号をつけるために私たちにできることを考えます」
そんな私なのに、彼女は真っすぐ向き合ってくれる。そして私はそれを嬉しく思ってしまう。そんなのは身勝手すぎる。
そうして胸の内がぐちゃぐちゃになってしまっている私をよそに、彼女は冷めてしまった紅茶の残りを飲み干した。
その間は何かを思うように目を閉じていたが、カップを置いてから少し遅れて開いた目を私に向けてきた。
それに射止められるように私の思考は止まる。
「行政に施策を要望する時には、陳情という形をとります」
止まった思考では彼女の言葉は音にしか聞こえなかった。
言葉として聞き取ることはできなかったが、その声に彼女の意志が込められていることだけは、わかった。
しかし、次に口を開いた時にはその語気が弱まってしまう。
「しかし陳情は多くの人の賛同を背景にするものです。そのためによく用いられるのが、署名運動です。それは、一市民には難しいことでしょう……」
署名という言葉だけはわかった。
私の仕事場がある駅の近くでそんなことをやっているのを一度くらい見たことがある。確か、何かの団体の名前を名乗っていた。
そういう背景のない私たちが同じことをやるのは難しそうだし、何より見知らぬ人を相手にお願いごとなど、怖くて尻込みしてしまう。
それにしても。自分で言ったことに自分で竦んでしまったように見える彼女に、私は声をかけた。
「すぐ答えが出てくるなんて、立ち直り早いです。もしかして、私なんかが今になってちょっと思うよりもずっと前に、もうとっくにそこまで考えていたとかですか?」
そうだとしたら、浮かれていた自分がちょっと恥ずかしい。
しかし彼女の答えは違った。
「立ち直れたのは佐藤さんが励ましてくれたからです。それに今私が言ったことは、学校で勉強したことをそのまま言っただけです」
面と向かってそう言われるのも、それはそれで恥ずかしい。
恥ずかしいのはそれだけではなくて、自分だけ学校で習ったことを覚えてもいなかったこともある。
「えーっと…、それって公民だっけ?」
「あ、いえ、大学の行政論で。公民の授業でもあったかもしれませんが……」
「大学かぁ。やっぱり頭のいい人は違うね」
私の言葉に彼女はまた目を伏せてしまった。
「知識があっても、それを基に考えることができなければ何もできません。多少の知識だけでは、何の意味もありません」
「やめてやめて、久保さんは今どうしようか考えて私にその知識を教えてくれたの。考えてなくなんかない。いい?」
にらむような私の視線を感じて彼女は上目遣いに私を見て、それから真っすぐ私に向いてくれた。
「はい」
なんだか私が慰めたというより、慰めた私に気を遣ってくれているような気がする。
気遣いとは、どのようにすればいいのだろうか。
そんな今の話題と違うことを私が考えているところに、彼女が再び意見を口にした。
「これはもっと細かい、個人の要望などのことになりますが、相談窓口というものもあります」
「何も考えられないとかないじゃない」
あまりの展開の早さに、私はまず嫌味のようなことを言ってしまった。
彼女が口をつぐんでしまい、慌てて私が謝る。
しかしまた、続きを話す彼女の声は弱かった。
「その場合も、該当する部署を調べて、探して、出向かなければならないでしょう」
「そうかな?」
私がすぐに疑問を返したことに驚いたように、彼女は小さく声を上げて私を見つめたままになってしまった。
「今時、オンラインの窓口もあって当たり前だと思う。ネット上ならばそういうのは検索でわかるから、難しいことはないと思いますよ」
それがいわゆる電子化だ。そしてそれは会社だけではなく行政でも求められ、進められていることだ。
「そう、ですね」
「ちょっと調べてみますね」
そう言って電話を取り出した私に、彼女はまた小さく声を上げて驚いていた。こういうことは、彼女にとっては日常的ではないのかもしれない。
検索する言葉を変え、後から思いついたものを増やして、四度めくらいにようやくそれらしいものを見つけた。その画面を、彼女に見せる。
「早いですね」
彼女を待たせてしまったかと三度めあたりから私は焦っていたのだったが、彼女にしてみると待つどころか早かったということらしい。
それはそれぞれの感覚の話になってしまうので、その賞賛は素直に受け取っておくことにする。
差し出した電話を受け取って画面をひととおり見た彼女が、ひとつうなづいて電話を返してくれた。
「ここに要望を上げてみましょう。一人の意見なので採りあげてもらえる可能性はそれほどないかもしれませんが」
そしていつもの真っすぐな目で、そう言ってくれた。
「それでもやりましょう、私たちができることを。私たち二人で考えたことを」
「はい」
意気込む私に、彼女も力強くうなづいて答えた。
これでもしかしたら本当にあの場所に信号ができるかもしれないと思うと、彼女に話して本当によかったと思う。
しかし、要望のための文章というなんだか難しそうな宿題ができてしまった。彼女と一緒にということは嬉しいけれど、これは嬉しくない。
作文なんて小学校の読書感想文以来だろうか。
読書感想文なんてどこが好きだったか書いておけばよさそうなもので、私は実はその本にある後書きを写していたようなものだった。
しかしこれにはそんな手本なんてものはなく、仕事の時のようなマニュアルもない。自分で考えて自分で文章にしなければならない。それは思っていたよりもずっと難しかった。
自分は考えるということができないと彼女は言っていたが、それは彼女ではなくて私なのではないだろうか。今ならば彼女が自分を否定していたあの気持ちが、ちょっとわかるかもしれない。
だからといって放り出すわけにはいかない。
これは彼女と二人でやると決めたことだ。それを放り出すことは彼女を裏切ることになってしまう。それにやはり、彼女と一緒に何かをするということは、やりたい。
私は時間があればずっと電話を片手に顔をしかめていた。
おかげでバッテリーの出番は増えた。
ほんのり温かい電話を手に、私はまた首をひねりながらどのように要望するのかを考えていた。
先輩にみんなが不気味がっていると言われるまで、私は自分が変な顔をしていることに気づいていなかった。
あの場所で彼女がいなくてよかったと思ったのは、多分二度めだ。
まだ宿題は終わっていない。怒られるということはないだろうが、すごく気まずくなるのは間違いないだろう。
彼女はもう、書き上げているのだろうか。
彼女のことだから宿題を忘れるなどということは絶対になさそうだ。しかも頭のいい彼女のことだ、私がずっと考えて書いてくるよりも整った文章を持ってくるに違いない。きっとそっちをそのまま出すことになる。
任せてしまおうかと思ってしまい、小さく首を振ってそれを振り払う。たとえそうなったとしても、これは二人でやりたい。私だけ何もしないなんてしたくない。
ここに信号をつけてほしい。
なぜ? 車がずっと待たされるのがよくないと思うから。
なぜそう思うか? 彼女がそう思っていることに胸を震わされたから。
これは違う、要望で書くようなことではない。それなのにこんなことが思い浮かんでしまうくらい、私はいつも彼女のことを思っている。
彼女が好きだと、改めて思う。
やっぱり今ここに彼女がいないのは残念だ。気まずくなったとしても、それでも彼女と一緒にいたい。
勉強を教えてもらうように二人で一緒に書くことができたら、楽しいだろうな。
そんな想像は、目の前を車が横切って幕引きとなった。ここに立ち止まっている理由がなくなれば、横断歩道へと足を踏み出さなければならない。
読んでくださいと差し出された紙に、私は二度瞬きをした。
四つ折りに畳まれていた紙は二枚あって、一枚めのいちばん上には駅前ロータリー脇横断歩道についての要望とある。妙に行間を広くとっているが、それでも私が書いてきたものの三倍くらいの分量がありそうだ。
私も、電話のメモアプリで書いた、書いても直してもなんだか今ひとつ満足できなかったものを彼女に渡す。
電話を渡された彼女は、意外そうにその場でやはり二度瞬きした。メモアプリで書けてしまうくらいの短さでしかないことを、呆れられているのだろうか。
彼女が何も言わずに私の電話に目を落としたので、私も彼女が用意した文書を読む。
私はいつまでも待たされる車が気の毒だとしか書かなかったが、彼女は主張からして違っていて、交通整理をしなければ接触事故の危険性があるということを主眼にしていた。
その上で最後に、車の利便性のためにも信号による交通整理が有効ではないかと述べている。感情は表に出さず、最後まで理知的な、硬さを思わせる彼女らしい文章だった。
「降参。もうこれでいいでしょ」
ため息交じりに紙をテーブルに置くと、先に読み終えて待っていたらしい彼女と目が合ってどきりとした。そんな私の内心に気づいていない彼女は、何の気もなく私に電話を返してくれる。
「私はそうは思いませんでした。私が書くとどうしても事務的な、訴えかけるものがない文になってしまう……」
「そんなことはないです。私が読む側だったら絶対に採用です」
少し眉根を寄せていた彼女の顔が、じわりと晴れた。
「ありがとうございます」
柔らかな顔で、ほんの少し笑って見せてくれた。稀にしか見られない彼女のこの表情は、何度見てもどきりと胸が跳ね上がってしまう。
「でも、ここは変えましょう。そうした方がいいと思うとくらい、言った方がいいと思います」
二枚めを上に差し替えて彼女が指したのは、最後の利便性の部分だった。そこの行間に、私が書いてきた感情的で幼稚な文を書きこむ。
訂正のための行間だったのかと、今になって私は気づいた。こういう気遣いが当たり前にあることが、私とは根本的に違う。
その差に私は落ちこみかけたのだが、例のボールペンで書かれる彼女の字があまりうまくないことでクスリと笑ってしまった。
それを聞きつけて彼女は訝しむような目を私に向けたが、何でもないと答える私にごまかされてくれて、また書く方に戻った。
彼女は美しいし可愛いし大人だし、それに他人に向ける気遣いが素敵な人で、そんな彼女が私は好きだ。しかし何でも彼女の方が優れているばかりでは、やはり劣等感から距離を感じてしまうことがある。
欠点をひとつ見つけたことに、私は安心感を覚えた。彼女には悪いが、嬉しいとさえ思ってしまった。
そのあまりきれいではない字で書き換えられた文は、彼女が書いたからか、私が書いてきたものとは少し異なっていた。しかしそれで硬さがほぐれて取っつきにくさが和らいだと思うのは、私の自画自賛だろうか。
「いいと思います。これで出しましょう」
目を通しただけで賛同した私に彼女はまた訝しげな目を向けてきたが、私が笑って見せると納得したように表情を緩めてくれた。
「では、元のファイルを書き換えて、家のパソコンから窓口に送ります」
「待って待って」
紙を片づけようとする彼女を私は慌てて止めた。
このままではほとんど全部が彼女一人の仕事になってしまう。それが疎外感を感じて嫌だった。
「今、私が書いて送ります。そのくらいはさせてください」
「でも、スマホで書くのにはけっこう長いですよ…?」
「それでもです。久保さんだけにやってもらうんじゃなくて、二人でやりたい」
彼女の言うとおり、非効率的だと思う。それに書いている間彼女を待たせることになってしまう。これは単なる私のわがままだ。
「そうですね。二人で考えたことですから、最後まで二人でやりましょう」
それでも彼女は聞きいれてくれて、畳んだ紙をもう一度広げて私に渡してくれた。
その彼女が見ている前で私は閲覧履歴から窓口のサイトを呼び出して、そこに彼女が用意してくれた文章を書き写していく。
字数があっても友達なんかとチャットアプリでずっと会話していることを考えればそれほど違いはしないだろうと思ったのだったが、まとまった文章を書くというのはそれとはまた違ったものだった。
目の前で彼女を待たせているということもあって、次第にじりじりしてくる。途中で彼女の声が聞こえた気がしたが、話しかけられているようではなかったので無視してしまった。
彼女の書いた字は、きれいではないが読みにくいほどではない。それが書かれているのは終わりの方だ。
あと一息と気を入れなおしてがんばって書き終えるとほぼ同時に、今日二杯めの紅茶が運ばれてきた。
「お疲れさまです」
不思議に思って彼女の顔を見ると、彼女は私の労をねぎらってくれた。
「ありがとうございます……」
呆けたような声でそれに礼を言うと彼女は私に紅茶を勧めて、促すように自分もカップを手にした。
送信する前に彼女に確認してもらおうと思っていたが、彼女もカップに口をつけてしまったのでそれは後回しにする。
温かい紅茶がおいしくて、ほっと落ち着く。
私のためにそれを用意してくれた気遣いが胸にしみて、彼女をもっと好きになる。
ぼーっと彼女に見惚れていたのは、慣れないことをして疲れていたせいかもしれない。
「あの…、何か……」
居づらそうに声をかけてきた彼女に書き写した文章を見てもらうために電話を渡して、私は引き続き彼女に見惚れていた。
真っすぐな目が左から右へ、また左へと画面をなぞっていく。時々する瞬きまで、私はうっとりしながら見つめていた。
「これで、いいと思います」
その真っすぐな目を私に向けて、彼女は電話を返してくれた。
「それでは、送信しますね」
後は送信するだけと送信ボタンを押そうとしたのだが、必要事項とされているものにまだ空欄があったのだった。
「あ、私の名前で出しちゃっていいですか?」
文章は書きこんだが、それ以外の名前や連絡先なんかはまだ何も書いていなかったのだった。
その文章はほとんど彼女が用意してくれたものだから、私の名前で出すのは盗用しているようで気が引ける。
「佐藤さんのスマホから送信するのですから、そうしておかないと不都合があるかもしれません」
しかし彼女の答えは至極現実的だった。
「それならそうします。何か返事とか来たら絶対お知らせします。質問とかだったりしたら…その時はお願いします」
「はい」
彼女が快諾してくれたので、私は空欄に自分の名前や連絡先を書きこんで、今度こそ送信した。
それから飲みかけのまま冷めてしまっていた紅茶を飲み干して、今日のところはお開きにした。
二杯めの紅茶は勝手に頼んだからと言って彼女が私の分まで払うと言い出したが、それは譲ることはできずにちょっと口論になってしまった。
知らないアドレスからメールが来た。
題名もお問い合わせの件と、いかにも怪しい。
読まずに削除しかけた時になってようやくそれがこの間出した要望への返事だと気がついて、確認のためにメールを開いた。
返事が来たら彼女と二人で読もうと思っていたのに、そんなことで慌ててしまったために私だけが先に読むことになってしまった。
それは私たちの仕事でも見られるような、事務的で中身のないものだった。
「一個人の要望では、よほどのことでない限りそんなものでしょう」
メールを読んだ彼女の感想は、あっさりしたものだった。
彼女に言われるまでもなくそうだとは思うが、それでも心無い対応にはちょっと気分が悪くなった。
「でも、私たちにできることをやりきったと思います。ですから私は今、達成感を感じています」
「達成感かあ……。ほとんど久保さんにやってもらったようなものだから、私はそんな気がしてないけど…」
「それは違います」
急に彼女の表情が硬くなり、語気が強くなった。
「信号があったらいいということを佐藤さんが考えてくれたから、ここまで来れたのです。私はそれに乗っかっただけで、むしろ私の方がやってもらった側なのです」
雲行きが怪しくなってきた。彼女の気分は下り坂だ。
私は慌ててそこから逃れた。
「私は達成感というより、久保さんと二人でやったってことが嬉しかったです。だからつき合ってくれてありがとうございますなのです」
照れるように少し頬を赤く染めた彼女に押しつけるように笑顔を見せると、首をすくめて上目遣いになってしまった。可愛い。
「私の方こそ…ありがとうございます」
よかった。彼女がまた自分を否定しだしてしまったら、せっかくの嬉しさも台無しになってしまうところだった。
なぜかそれから信号機の設置費用の話になって、検索してみたら数百万円とか出てきて、それに維持費が加わるのであれば一人二人の要望程度では難しいだろうと二人で納得してしまったのだった。
それ以来進捗の連絡などもなく、もちろん現地でも何も起こらない。
だから私たちも変わらず、横断歩道の手前で立ち止まって待たされている車を先に通そうとする。
彼女は腐ることなく、それが当たり前だというように真っすぐな姿勢でいるが、私は要望が無視されたことが面白くなくて、時々自分の横を過ぎ去っていく人だったりそのせいで動けずにいる車だったりをにらむような目で見てしまう。
そんな時、それは彼女へ向けたものではないのに、彼女が怯えたように眉を下げて首をすくめてしまう。そのたびに彼女に対して怒っているのではないと伝えてはいるのだが、彼女はやはり私の目に敏感に反応してしまう。
その時の私はよほど機嫌が悪かったのだろうか、彼女にどうしてそんな顔をするのかと詰め寄ってしまった。
そんなことを言ってしまうなんてどうかしているとその声を自分で聞いてようやく気づいたのだが、それはもちろん遅すぎで、彼女の耳にも届いてしまっていた。
「元はと言えば私の勝手に佐藤さんをつき合わせてしまっているから、それで気分を悪くされたのならばやはり私のせいだと申し訳なく思って……」
彼女の答えは、胸に痛かった。
彼女は他人の感情にただ怯えるだけの子供などではない。その感情がどこから来ているのかを察してくれる大人なのだ。子供なのはそんな幼稚な感情で彼女に気を遣わせてしまっている私の方だ。
それに、彼女の言う元も間違っている。元はと言えば私の方が彼女に惹かれて勝手につきまとっているだけなのだ。何ひとつ彼女のせいではない。
「違うの、久保さんのせいなんて私全然思ったことないです。そんなことを思わせてしまって、私の方がごめんなさい」
彼女のせいでないということは私のせいであり、そのせいで彼女に嫌われてしまうことが急に怖くなって私は必死になって謝った。
「あの、そんな謝らないでください。私が気にしすぎているだけですから」
彼女と私の態度の差が他人への気遣いができる彼女とできない私との差を目に見える形でさらけ出しているようで、また胸が痛かった。
彼女のことは好きだが、こんな時は少し近寄りがたく思ってしまう。
いや、そんなところを含めて私はずっと彼女に惹かれていたのだろう。
私がそんなことを思っている時でも、彼女は変わらず私に歩調を合わせて並んで歩いてくれる。
久しぶりに先輩と一緒の昼休憩になった日、ベンチに腰かけて一息ついた先輩の今日の機嫌をその声音から計ろうと耳だけそちらに傾けていた時に、ため息だけではなくて声も一緒に耳に届いた。
「最近の佐藤さんってさ、ちょっと大人になった感じがするんだよね。何があったの?」
「大人、ですか……?」
私は彼女のように自立した自分というものを持っていない。それに質問を質問で返してしまったあたり、やはり私は大人ではないと思う。そんな私の何が先輩には大人に見えているのだろうか。
私の問いに、先輩は失礼を咎めもせずに答えてくれた。先輩も大人だ。
「大人って、他人の気持ちがわかる人のことだと私は思う」
そうだとすれば彼女は大人だ。先輩も、わかってくれないことも少なくない気もするが、大人だと思う。
しかし。
「私は、そんなではないです…」
大人と言われたのは少し嬉しかった。しかしやはりそれは買いかぶりに過ぎなくて、嬉しかった分だけ悲しくなってしまった。
「そうだね。他人の気持ちがわかるなんて、本当はそんなことあり得ないよね。言い換えるよ。他人の気持ちをわかろうとできる人が、大人なんじゃないかな」
気遣いもできない、察することもできない私は、他人の気持ちをわかろうとなんてしていると言えるのだろうか。わかろうとしていたところで何もできないのならば、意味がないのではないだろうか。
私のその問いを、先輩は否定した。
「気持ちをわかろうとしてくれているのって、相手にも伝わるものなのよ。そうやってお互い歩み寄っていくの」
まだ理解できない私に、先輩はこれ以上ないくらいの具体例を挙げてくれた。
「同じマニュアルに沿って同じように話をしても、それがあるのとないのとではお客様の感触は全然違う。そしてギリギリのところで最後に決め手になるのが、そこなの」
私の仕事ぶりにはそれがあると、先輩は見てくれているのだろうか。
「でもそれって教えてどうにかなるものじゃなくて自分で身につけるしかないから、周りがどうこう言ってもどうにもならないのよね。で、佐藤さんは最近になってそうなれた。それで何かあったのかなって思ったの」
私が変われたのか、他人の気持ちをわかろうとできているのか、それはさておき、何かどころではないことがあったことは間違いない。彼女を好きになったこと、それは私にとってこの上ない大事件だった。
しかしそんなことは、いくら先輩であっても言うことはできない。
そうかといって私のことを褒めてくれた先輩に何も答えずにただごまかすのも、気が咎める。
私が内心でどこまで言おうか迷っているところに先輩は驚くべきことを言って、迷いどころか一切の思考を吹き飛ばしてしまった。
「いやね、ちょっと前までの佐藤さん、ずっと心ここにあらずって感じでどうしようもなかったからね。誰が何を言っても全然届いてなかったし、これで問題を起こしたらもうやめてもらうしかないかなって思ってたんだよね」
「え…!?」
「あー、やっぱ自覚なかったんだ」
いつ頃かを聞いてみると、先輩は思い出すように視線を泳がせながら小さくうなった。
やがてその視線が私の胸元あたりに向いた瞬間、短く声を上げて答えを教えてくれた。
「そのボールペン。それを使うようになった頃だった」
彼女とお揃いのボールペン、彼女にとっては先輩さんとお揃いのボールペン。それが私に恋心を自覚させて、混乱して眠れなくて疲れきっていた、あの時だった。
あの時だって私は彼女のことが好きで好きで、だから彼女のそばにいられる自分にであるためにちゃんと仕事はしようとしていたはずだった。しかし実際は、そうではなかったらしい。
ちゃんとできていない自分だと自分でもわかっていたから、あの時の私は彼女に嫌われるのが怖くて彼女から逃げようとしていたのかもしれない。
「その時の私、ある人に嫌われるかもしれないってことが怖くてたまらなくて、それでいっぱいいっぱいだったんです」
先輩があそこまで言ったということは、間違いなく迷惑をかけただろう。そして私のことをかばってくれていたはずだ。せめてその謝意を示すために、先輩が気にしてくれたことには答えなければならない。
「で、今は仲直りしたんだ」
「はい」
「その経験が佐藤さんを大人にしたんだね。待って正解だったって訳だ」
やはり、迷惑をかけていたのだ。
「すみませんでした、迷惑をおかけして」
「結果よければすべてよし。まあそう言うなら、これからの働きで返してもらおうかな」
「はい」
私は真面目に返事をしたつもりだったが、先輩には返事だけは調子がいいと笑われてしまった。
「ところで」
そのにやにや笑いのまま、先輩はさらに声をかけてくる。
「友達とかじゃなくてわざわざある人なんて言い方をするってことは…、もしかして、彼氏?」
色恋沙汰ではないと前に言ったはずなのだが、覚えていないのか信じていないのか。もっともそれを言った時にはすでに、まだ自覚していなかっただけで私は彼女に恋をしていたのだが、何にしても彼氏ではない。
「男の人じゃありません。友達ともちょっと違ってて、だからどう言えばいいかわからなかったというだけです」
先輩はまだにやにやしていたので、もう無視して食事に出かけた。
やはり私は大人にはなれない。
「ねえ、大人って何だと思いますか?」
彼女はすぐには答えず、考える様子も見せず、そう言った私をまだ真っすぐ見ていた。
「何か、ありましたか?」
私の顔色を見て答えよりも先にそれを聞くべきと判断したのだろう。そういうところが、彼女はやはり大人だ。
「先輩に言われたんです。私はちょっと大人になったって。他人の気持ちを考えられるようになったって。でも私、そんなことできてない…」
「私は佐藤さんとのつき合いがまだ短いので、なったという部分はわかりません。ですが佐藤さんが大人だというのは、その先輩さんの言うとおりだと思います」
今度は即答だった。
「佐藤さんはいつも私のことを励ましてくれます。気遣ってくれています。それは私の気持ちを思ってくれているからです」
「それはだって、あなたのことが好きだから」
この言葉を彼女に向かって言ったのは告白の時以来だ。不意に口から出てしまった本音に、さあっと顔が熱くなる。
鏡写しのように彼女の顔も見る見る赤くなった。互いに目を合わせることができずに俯いてしまう。
好きな人に好きと言うのは、こんなにドキドキすることだったんだ。
きっと言われるのもすごくドキドキするに違いない。だって、私と同じ好きを私に対して持っていない彼女でさえ、そうなっているのだから。
そう、私は彼女に恋しているが、彼女はそうではない。こんなことを言ったら、彼女が困るだけだ。
「ごめんなさい。そういうこと言うの、迷惑ですよね」
「それだけではありません。あの横断歩道で、待たされている車を通そうとしてくれています」
私の謝罪に覆いかぶせるように、彼女は声の調子を上げてさっきの続きを言い出した。
「それは久保さんがいるから…」
「それで要望まで出そうってなったのは、私のためではなくて車の人たちの気持ちを考えてくれているからです」
確かに彼女の言うとおり、信号があったところで彼女には何の得にもならない。
しかしそれは彼女の、本当の気遣いがあって、それが報われてほしいと思ったからだ。それにその発想も、彼女がルールというものについて私に教えてくれたことをなぞったくらいのものに過ぎない。私は彼女以外の誰のことも考えていない。
「私は、他人を気遣えるのはその人が確固たる自己を持っているからだと思います。自分がしっかりしているから、そこから他人のことを見ることができる。そういう基礎がなければ、ただの自己満足でしかありません」
だんだん語気と表情までもが萎んでいく彼女を見ているのは、少し辛かった。また彼女は自分を否定している。
彼女のそんな姿は見たくない。そうさせた自分が嫌。
「だったらやっぱり、久保さんは大人です」
彼女の言葉を遮った私を、彼女は上目遣いでちらりと見て、しかしすぐ目を伏せてしまった。
信じてほしい。私を、そして彼女自身を。
「久保さんは考え方がしっかりしているから、それを基にして他を見ることができるし行動できる。さっき言ったのが久保さんの理想なら、なれてますよ。そんな理想の自分に」
顔を上げて嬉しげに目元をやや緩めた彼女は、しかし次の瞬間にはそれを隠すように表情を消してしまった。
「それは佐藤さんです。だから佐藤さんは、先輩さんが言ったとおり大人なのです」
その言葉は気遣いなのか照れなのか。目は真っすぐこちらに向いているが、彼女の表情は何とも言えず複雑で、両方が混じっているように見えないこともない。
しかしどちらにしても、彼女の言うことに嘘偽りなどないことだけは間違いない。だから反論なんかして彼女の気分を損ねたくない。
もっと話とかしたいといつも思っているはずなのに、好きすぎてうまく話せない。
ちょっとしたことでも彼女の気を悪くしてしまいそうで、ためらってしまう。
今日もそうして話が続かなくなってしまい、もどかしい思いを抱えたまま、それぞれの帰路へと別れることになってしまった。
それでも別れ際に彼女がまたと言ってくれて、それだけで私は幸せに浸ってしまう。
私も、少しは信じてもいいのだろうか。先輩が言ったように、彼女が言ってくれたように、私がちょっと大人になれたということを。
恋は人を変えるという。
彼女に出会って、私は彼女のことばかりを思うようになった。
彼女の隣に立てる自分になるために彼女の真似事をして、仕事もちゃんとやろうと思うようになって、彼女を傷つけることを怖がるようになって。
それが彼女だけではなく、彼女以外の他人のことも思うことができるようになれたとすれば、本当に彼女の隣に立てる自分に近づけたのだと思う。
そうだとしたら嬉しい。
そうさせてくれた彼女のことをもっと好きになる。もっともっと好きになりたい。
今度会った時にはこの感謝を伝えよう。
その時私はまたどれくらい彼女のことが好きになるだろうか。
それが楽しみで楽しみで仕方がなくて、彼女から遠ざかるはずの帰路でさえ未来へ続く進路に思えて、足どりが軽くなったのだった。