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次回予告2 後編

作者: 山崎 あきら


     ロード乗りの痛い話


 サイクリングはけがをする確率が高いスポーツなんだそうだ。確かにゆっくり走っている時でも転べば打撲と擦り傷はもれなく付いてくるし、もっと高速で走っているロードレースだと骨折クラスの大ケガというのもよくある。ゴール前の落車で肩から路面に叩きつけられれば鎖骨など簡単に折れてしまうし、膝の皿が割れることもあるらしい。作者はツーリング派で、見通しの効く下りで時速70キロが限界なのでたいしたけがもしていないのだが、ロード乗りではない人には面白がってもらえそうな体験をいくつか紹介させていただこう。

 まずは腰痛。

 腰というか、骨盤の上辺りの背中の筋肉痛なのだが、これが走り続けられなくなるほど痛い。それはもう、錐をグリグリと揉み込まれるような痛みが出るのだ。特に峠道を上っていく時と下る時に出やすい。この痛みは60才を過ぎて、それまでのスピード第一からゆっくり長距離というセッティングに変更すると出にくくなった。具体的にはハンドルを五ミリずつ高く近くしたのだ。さらに峠道の上りでは、サドルの後ろの方に座って前方へ蹴り出すような踏み方をやめて、サドルの前の方に腰を移動して踏み降ろすペダリングに変えた。下りでもスピードを犠牲にして上体を起こしたまま下っている。要するに背中の筋肉を無理に引き伸ばさないように走れば良かったということらしい。作者には背中が路面と平行になるような空気抵抗の少ないフォームで走り続けられるほどの才能はなかったということだな。

 次は右膝の痛み。

 基礎的な説明からさせてもらうと、自転車のスピードを上げるのには二通りのやり方がある。第一に重いギヤを踏む。これはわかりやすいと思うのだが、筋肉の負荷は大きい。第二に作者のように軽めのギヤを余計に回す。こちらは筋肉の負荷は少ないが、心臓や肺の負担が大きくなる。想像はつくと思うのだが、たまに重いギヤをぶん回せるという人たちもいて、そういう才能豊かな人が世界選手権で10連覇を達成したりするわけだ。

 作者はかなり極端な高回転型(要するに力がない)だったので、標準的と言われている回転数よりも20パーセントほど余計にペダルを回して走っていたのだが、さすがにこれは回しすぎではないだろうかと思って、クランクを170ミリから172.5ミリに交換してしまったのだった。てこのアームを長くして、より重いギヤを踏み、その分回転数を落とそうというわけだ。これで峠の上りのタイムを3パーセント短縮できた上に、室内トレーナー上で回すだけなら30秒に90回転という能力は維持できたので「これが正解だ」と思ってしまったのだ。

 右膝に痛みが出るようになったのはそれから十数年後だった。平地で30キロくらい、峠の上りで8キロくらい走ると右膝が痛くなるのだ。これも走り続けられないほどの痛みだった。サドルやハンドルをいくら調整しても痛みが出るので、思い切ってアルミのロードからクロームモリブデン鋼(硬い鉄合金)のものに換えてみると、あら不思議、100キロ走っても痛くない。鉄のフレームが正解なのだろうか。しかし、さすがに鉄のフレームはアルミに比べて少々重い。そこで、それに付いていた170ミリのクランクをアルミのロードに移植してみると……ビンゴ! 膝の痛みの原因は長すぎるクランクだったのだ。と、言ってしまえば簡単なのだが、170ミリに対する2.5ミリというのはたかだか1.5パーセント足らずである。それに反応して痛みが出てしまうのだから、ヒトの肉体というものは妙な所で敏感なのだなあ。

 さてさて、ここで自転車のフレームの材質について説明させていただこう。最近のロードバイクのフレームはだいたい上級者向けがカーボン、初級者用がアルミ、一部のマニアに好まれて居るのが鉄やチタンの合金ということになってきているのだが、作者は初級者用のアルミフレームばかりを乗り継いでいる。試しに安物のカーボンフレームに乗ってみたら、てきめんに遅くなったので、ペダルの踏み方がカーボン向きではないんだろう。高価なカーボンフレームも相性が悪かった場合を考えると試してみる気にもなれない。安物のアルミフレームはどこのメーカーの製品でもレンガのように硬くてパワーロスが少ないので、作者のような非力なライダーでもそれなりに速く走れるのだ。力があればカーボンでも鉄でも速いのだろうけど。

 しかし、硬いフレームはペダルを踏んだ分しか加速しないので、昔乗っていたクロモリフレームのガツンと踏み込むと、わずかにしなって力を溜め、その直後に弓から放たれた矢のように飛び出していく感覚が懐かしいと思う時もある。

 ただし、その時代の高性能フレームは高性能と引き替えに耐久性が不足気味で、2年くらい乗ったらダウンチューブがポッキリ折れてしまった。もっとも、その頃の鉄フレームは折れるのが当たり前で、折れる前に乗り換えるのが乗り手側の常識だったのだが。

 骨折。

 二週間後のマウンテンバイクツアーに参加する予定があったので近所の林道へ足慣らしに行こうとしたら、その入り口の橋の上から2メートル下の河原に転落してしまったのだった。うまく背中から落ちることができたのでそのまま林道を走って帰宅したのだが、念のために整形外科を受診してみると医師が一言、「尾骨が折れてるね」。2週間では治るわけもなく、ツアーには骨折したまま参加したのだった。〔危険です。よい子は真似しないでね〕

 問題はない。尾骨がサドルに当たらないような乗り方をすればいいのだ。

 脳震盪。

 その日の朝は寝覚めが悪かったのだが、とにかくいつもの峠道へ朝練に出たのだった。そして、ふと気が付くと右眼の下辺りがやけに冷たい。ロードを停めてそこに触れてみると血とリンパ液でベタベタになっている。おなじみの擦り傷である。ああ、転んだんだなと思ったのだが、そこでハッとした。

(なぜ俺はここにいるんだ?)

 そこはもう峠からの帰り道だったのだが、自宅を出てからそこまでの記憶がまったくないのだ!

 峠まで走ったのかどうかもわからないのだが、右のくるぶしも真っ平らに削れているところを見ると、おそらく下りの途中で顔面から落ちるような転び方をしてアスファルトの上でスライディングした後、意識がぶっ飛んだまま再びロードに乗ってしまっていたらしい。いつものコースとはいえ、よく谷底に落ちなかったものだよ。くわばらくわばら。



   次回予告

 巨大化は男のロマンだ。

 次回「大腸キングの逆襲」目指せ、ソラリスの海。




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     大腸キングの逆襲


『次回予告1』では「巨大な大腸菌は存在できない」と書いてしまったのだが、原子力発電所のトイレで生まれた大腸キングというキャラは捨てがたいものがある。そこで、無理を承知で大腸菌が巨大化できない要素を一つずつ潰していってみようと思う。

 一橋伯一先生の『協力と裏切りの生命進化史』によると、細菌が大きくなれない理由の第一は栄養の取り込みの問題だそうだ。細菌の細胞内の栄養輸送は単純な拡散に頼っているために、細胞が大型化すると細胞の中心部分では栄養の供給が間に合わなくなってしまうということらしい。この問題は体の中心に消化管を通せばある程度は解決できるはずだ。あるいは、プラナリアのように消化管を枝分かれさせて体の隅々まで食べた物を届けるか、代謝そのものを遅くしてしまうという手もあるだろう。ただ、代謝が遅くなれば動きまで遅くなってしまいそうな気もする。いくら巨大でもゆっくりと動くしかないのではウシやウマの方がよほど怖いということにもなりかねないのだが……。

 第二は細胞内で使われるエネルギー源であるATPが細菌の場合は主に細胞膜で産生されているためらしい。細胞の縦・横・高さがそれぞれ2倍になると細胞膜の面積は4倍にしかならないのに対して、体積は8倍になってしまう。これではATP産生が間に合わなくなってしまうわけだ。これについては単細胞の厚みのまま薄く広くという形で巨大化する手がある……のだが、大腸菌らしさを残すためにはある程度のボリュームが必要だろう。そうすると真核生物のように多数のミトコンドリアと共生して、そこでATPを産生してもらう必要があるな。

 それでも単細胞の真核生物であるゾウリムシの体長は90~150マイクロメートル(0.09ミリ~0.15ミリ)、幅は40マイクロメートルでしかない。人間を襲うとなると体長2メートル以上は欲しい。多細胞ならこのサイズでも問題はないのだが、大腸キングは単細胞のままにしておきたい。

「困ったわ。なんとかならないかしら」〔出たな!〕

「お困りですね。そこでご紹介したいのがこちらの沖縄特産海ぶどうです。この海藻は食感を楽しめる大きさにまで成長する多核単細胞生物なんですよ。奥さん」

「まあ、これは便利ね」

 というわけで、この温かい海の砂地に生えている海藻は砂に潜っている部分に分布している細胞核はほふく茎(ランナー)を形成し、海中に立ち上がっている部分のそれは茎や球状の葉を形成する。それでいて全体が1個の単細胞という何を考えているのかわからない生物なのである。海ぶどうがなぜそういう体なのかはともかく、大腸菌でも多数の細胞核を等間隔に配置して互いに連携しながら生命活動を行うのなら単細胞のままでも巨大化できるだろう。

 さて、こうして大腸キングは生まれるわけだが、さらに人間を襲わないことにはお話にならない。そこでもう一度大腸菌に戻ってみよう。大腸菌の電子顕微鏡写真を見ると、どれもハーフサイズのソーセージのような形をしている。直径はどれも同じで長さだけが違うのは、太さを一定にしたまま長くなる方向へ成長するからだろう。なぜ太さが変わらないのかというと、それは大腸菌の構造による制限らしい。細菌の表面は莢膜で覆われている。これは粘液の膜ということなのでナメクジのぬらぬらのようなものなんだろう。莢膜の内側に細胞壁。これは細菌の形を決めているもので、昆虫や甲殻類などの外骨格に相当するものだと考えていいだろう。この細胞壁からは繊毛や鞭毛が生えている。さらにその内側の細胞質にリング状になったDNAやリボソームなどが漂っている。要するに毛むくじゃらでぬらぬらでしっぽの生えた巨大ソーセージである。このビジュアルだけで悪役決定だな。

 大腸キングも水中生活者だということにできれば大腸菌本来の生活環境に近いので楽なのだが、海辺や川岸だけが危険地帯というのでは面白くないので地上を移動できるようになってもらう必要がある。外骨格のソーセージだからウニの管足のように太くなった繊毛で歩いてもらうことにしよう。人間を捕まえるのには鞭毛を文字通り鞭のように振り回して絡め取るという手が使える。下水管の中に潜んでマンホールから鞭毛だけを伸ばすというのもいいな。そこなら湿度も高いから大腸キングにとっても快適な環境だろう。下水管に引きずり込んだ獲物は鞭毛の根元近くにある口で丸呑みだ。

 大腸キングのお話はホームレスが1人、2人と消えていく事件から始まるだろう。無人となった段ボールハウスの近くには蓋が外れたマンホールがあったのだが、その2つの事件を結びつけて考えられる人間は一人もいない。そしてホームレスを食べて増殖した大腸キングの群れは雨の日にマンホールから這いだして街の人々を襲い始めるのだ。

 しかし、巨大になったとは言ってもしょせんは単細胞である。勇敢な人間に傘で突かれただけで細胞の中身をぶちまけることになってしまう。さらに高温にも弱いので、最後は下水管に流し込まれたガソリンによってそこに残っていた大腸キングも焼き尽くされてしまうのだった。

         完


 さてさて、どうせ巨大化するのならスタニスワフ・レム先生の『ソラリス』に出てくる「海」のような超巨大生物を目指すのが男のロマンであろう。あれは1つの惑星の海全体が1個の生物になったものらしい(卵の白身のようなむき出しの原形質で、細胞膜すら持っていないようだが)。そういう超巨大生物でも代謝が問題になる。海の表面を覆うだけの薄っぺらい生物なら大気と海水から必要なものを取り込み、恒星からの光のエネルギーを使って生命活動を行うこともできるだろうが、海の底まで届く卵の白身にまで成長してしまうと、必要な栄養やエネルギーをどうやって獲得するんだということになる。自己を維持できる範囲で代謝を遅くできればいいのだが(海の深さを4000メートルとして地球人の細胞の数十億分の1くらいに)、ソラリスの海はかなり活発な活動をするようなのだ。ということは、核分裂か核融合のエネルギーを利用しているのかもしれない。

 また、地球人がいまだにバラバラのアミノ酸や核酸塩基などから生物を造り出すことができないでいることを考えれば「海」が地球人そっくりの「客」を造るのはとてつもなく困難な作業だったはずだ。それでもそれを行ったということは、ソラリスの海ちゃんは地球人という新しいおもちゃが現れたのではしゃいでいた、ということになるのかもしれない。超巨大生物ではあるけれど、かわいいところもあるんだね。



   次回予告

 洗濯物が凍ってしまった。

 次回「洗濯惑星」火星人のおばあさんが川で洗濯をしていると、大きな桃が……。




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     洗濯惑星


 冬が来た。今朝見たら夜の間に干しておいた洗濯物がバリバリに凍ってしまっていた。そこで作者は考えた。なぜ冬になると洗濯物が凍るのだろうか、と。出てきた答は「水の融点が0度Cと高いから」だった。というわけで、水よりも凍りにくい液体が流れる川を持つ惑星というものを考えてみようと思う。

 液体でいられる温度範囲が水よりも低温側にある物質であるならば常温では気体だろうと予想して、まずはそういう物質からチェックしていくことにする。

 第1候補はアンモニア(NH₃)。これは宇宙生物学の世界では古くから地球外生命体が生まれるための水に代わる溶媒として一般的なものなんだそうだ。それはおそらく液体アンモニアの性質が水に近いからだろう。水らしさを表す指標の1つである双極子モーメントを比較すると、水の1.85Dに対してアンモニアは1.42Dである。そしてアンモニアの融点はマイナス77.73度Cで沸点はマイナス33.34度C。これなら真冬のシベリアでも洗濯ができるし、表面温度の平均値がマイナス63度Cという火星の地表に川や海を造るのにもちょうどいい。ということは、火星人のおばあさんがアンモニアの川で洗濯をしていると、大きな桃がどんぶらこどんぶらこと流れてくるというお話が作れるわけだ。

 おばあさんが桃を家に持ち帰ってみると、桃に見えたものは実は宇宙船で、その中から現れた桃太郎と名乗る宇宙刑事の話では、鬼と呼ばれる宇宙海賊団を追って火星までやって来たものの、鬼の反撃を受けて不時着してしまったのだという。食料の補給を受け、3人の協力者をスカウトした桃太郎は鬼を撃破するためにその秘密基地へ向かうのだった。〔…………〕

 ええと、火山噴火やイオウを含む化石燃料の燃焼によって発生する二酸化イオウ(SO₂)もマイナス72.4度Cからマイナス10度Cまでの範囲で液体になれるし、双極子モーメントも1.63Dでアンモニアよりも水に近いのだが、残念ながら水と反応すると亜硫酸になって……いやいや、これは気体の二酸化イオウの話だな。二酸化イオウが液体になるような低温下では水は氷になってしまう。液体の二酸化イオウと氷が反応できるのかは調べきれなかったので、もしもという話になるが、反応できないということであれば、太陽系でいうと火星軌道辺りで二酸化イオウの川が……いやいや無理だ。溶岩の熱で氷が融けて水になってしまう。おそらく亜硫酸か硫酸の川になって……いやいや、硫酸の融点は10度Cだから火星の地表では液体にはならない。固体の硫酸になってしまうな。

 イオウ繋がりで硫化水素(H₂S)はどうかというと、これは融点がマイナス85.5度Cで沸点がマイナス60.7度C。液体でいられる温度範囲がわずか25度足らずでは冬の間は洗濯できても夏が来たら川も海も沸騰して蒸発してしまう。夏の間は洗濯できないというのでは汗臭くてたまらない。というか、冬に生まれた生命が夏が来る度に死に絶えてしまうような惑星では洗濯をするような知的生物に進化しようがあるまい。

 なんと2.89D(!)と双極子モーメントが飛び抜けて高いのが毒性が強いことで有名なシアン化水素(HCN)である。水よりもはるかにみずみずしい(?)物質ではあるのだが、融点がマイナス13.4度C、沸点がプラス26度Cと高く、液体でいられる温度範囲もあまり広くない。

 洗濯向きの塩素化合物として有名なのがドライクリーニング用の溶媒として用いられていた四塩化炭素(CCl₄)だが、これも融点と沸点がそれぞれマイナス22.9度Cとプラス76.8度Cなので低温側が狭い。むしろ塩素(Cl₂)の方がマイナス101.5度Cとマイナス34.04度Cでアンモニアよりも広い範囲で液体でいてくれる。ただし、塩素は強い漂白・殺菌作用を持っているから白いTシャツなどはともかく、色物を洗うのには向かないだろう。

 フッ化水素(HF)もマイナス84度Cとプラス19.54度Cと広い範囲で液体だ。ただし、これはカルシウムイオンと問答無用で反応してフッ化カルシウムを生じるので生命活動や骨格などにカルシウムを使っている生物にとっては猛毒である。ちなみに地球人の皮膚に接触すると体内に容易に浸透して骨を侵し、血液中のカルシウムイオンを奪うことでしばしば重篤な低カルシウム血症を引き起こすらしい。フッ化水素の海を持つ惑星で生まれた生物ならばカルシウムを使わない代謝システムを獲得しているだろうが。

 地球温暖化ガスとして有名な二酸化炭素はどうだろうか? 二酸化炭素は3つの原子が一直線に並ぶので双極子モーメントは0.0Dになるから、その点では油のような性質を持っていることが予想される。そして融点と沸点はそれぞれマイナス56.6度Cとマイナス78.5度C(!)。そう、固体の二酸化炭素はドライアイスであり、これは液体にならずに直接気体になってしまうのだ。とは言っても、それは1気圧での話で、5.2気圧以上であれば二酸化炭素も液体になれる。つまり、二酸化炭素を主成分とする濃密な大気を持っている金星を火星軌道辺りに移動させることができれば、二酸化炭素の川で洗濯をする金星人が生まれる可能性もあるというわけだ。

 油のような性質の液体でもいいということなら土星の衛星タイタンにはメタン(CH₄)とエタン(C₂H₆)の川や湖の存在が確認されている。融点と沸点はメタンがマイナス182.5度Cとマイナス161.6度c、エタンがマイナス183度Cとマイナス89度C。双極子モーメントはもちろん0.0Dである。

 おおっと、ここで液体でいられる温度範囲が水よりもはるかに広く、双極子モーメントはアンモニアを上まわり、油汚れも水性の汚れもよく落ちるという、洗濯するために存在しているような液体が見つかったぞ。メタノール(CH₃OH)とエタノール(C₂H₅OH)だ。融点と沸点はメタノールがマイナス97度cとプラス78.29度C、エタノールがマイナス114.14度Cとプラス78.29度C。双極子モーメントはそれぞれ1.69Dと1.44Dだ。他にも2-プロパノールがマイナス89.5度Cとプラス82.4度C、1-ブタノールがマイナス90度Cとプラス117度Cなどと、アルコールの仲間は洗濯向きのものが多いようだ。

 しかし、炭化水素の水素をヒドロキシ基(-OH)に置換するのには大きなエネルギーが必要だ。川ができるほどの大量のアルコール類を有する惑星というのは少し無理のある仮定かもしれない。地球の大気中の酸素のように微生物の働きによって何十億年もかけて増やしていけばいいんだろうかなあ……。

 なお、メタノールもエタノールも引火性が強いから、そういう惑星で生まれた知的生物は火を使わない文明を築いているかもしれない。ということは、そんな星に地球人の宇宙船が逆噴射しながら降下していったりしたら、あっという間に川から海まで燃え広がって、海が燃え尽きるか、大気中の酸素がなくなってしまうかするまで燃え続けることになるだろう。これは大迷惑、というか、大虐殺……。



 次回予告

 理論上不可能ではないらしい。

 次回「タイムマシン」一家に一台タイムマシンという時代が来るかも。




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     タイムマシン


 いやはや、今回もタイトルを書き込んだ途端にポール・ディヴィス先生の『タイムマシンのつくりかた』という本に出会ってしまったよ。一般的な小説家の皆さんは「もしもタイムマシンが手に入ったら」というところからお話を作っていくのだろうが、科学の世界では「どうしたらタイムマシンを作れるか」ということを考える研究者が現れ始めているのである。もしかすると、タイムトラベル物がノンフィクションになってしまう時代が来てしまうのかもしれない。SFはどこで生きていけばいいのだろう? 

 さて、今さらではあるのだが、未来へのタイムトラベルは可能だということをおさらいしておこう。

 1905年、アルベルト・アインシュタイン先生が特殊相対性理論を発表した。これは①真空中の光速度を不変とする。②そのために長さや重さ、時間の速度などは変化してもいいものとする。この2つの仮定の上に成り立つものらしい。特殊相対論が正しいとすると高速で移動することによって時間の進行を遅くすることができるということになる。これは実際に航空機に積んで世界一周した時計と地上に置いていた時計を比較することによって確かめられたのだそうだ。その時の時間の遅れは10億分の59秒だったという。もっと速く移動すれば時間の経過はさらに遅くなるわけで、光速の99パーセントで航行できる宇宙船で1年間航行すると、その間に地球では7年間が経過しているということになるのらしい。これがいわゆるウラシマ効果で、実質的に未来へのタイムトラベルが可能になる。しかし、これでは過去へ戻ることはできないので、今日発売された競馬新聞を持って昨日に赴き、的中するとわかっている万馬券を買って賞金を持ち帰るということはできない。未来でも過去でも行って戻って来る機能がなければ真のタイムマシンとは言えないだろう。

 というわけで、それができるタイムマシンを作ろうというということになるわけだが、それ以前にアインシュタイン先生が光速度が変化してもいいということにしておいてくれれば、過去でも未来でも行って戻って来るタイムトラベルタイムトラベルが当たり前という世界が成立していたんじゃないかという気もする。〔んなわけあるかい!〕

 こういうお手軽なお話はすでに誰かが作っていそうだな。読んだことはないが。

 さてさて、過去へ行くのには光よりも速く移動する必要がある。そこで最初に登場する科学的アイデアがワームホールタイムマシンだそうだ。これは目的地までバイパスを通して、一般道を大回りしてくる光を追い越してしまおうというようなやり方である。これだと光速以下の速度で実質的に光を追い越すことができるのらしい。ワープ航法や超空間通信も光速を超えるという点ではタイムマシンと同じということになるわけだ。

 ただし、ワームホールを造るのはそう簡単ではないようだ。『タイムマシンのつくりかた』によると「プランク時間と呼ばれる1秒の1兆分の1兆分の100万分の1という短い時間の間なら1センチの1兆分の1兆分の10億分の1の大きさのワームホールを造ることができる」らしい。ここまでは不確定性原理によって保証されているのだそうだ。次に、そのごく小さなターゲットに約100億ジュールのエネルギーを注ぎ込んで安定させ、さらに「負のエネルギー」(それは何だ、などと聞かないでくれ。作者にもわからん。ただ、そういうものが存在してもおかしくはないらしい)を注入して拡大し、その上で粒子加速器や中性子星を使ってワームホールの両端に時間差を作ればタイムマシンのできあがりだそうだ(粒子加速器や中性子星をどう使えば時間差を作れるのかについては説明がなかったと思う)。この作業に10年をかけて10年分の時間差を作り、それからワームホールを抜けて通常空間を戻ってくれば10年前に戻れるということらしい。何ともまあ、ひとつの国家くらいでは賄いきれないような大量のエネルギーと精密な制御である。しかもこのタイムマシンの場合「ワームホールが建造された時点より前の時間を訪ねることはできないのである」のらしい。これならタイムパラドックスが生じないし、未来からやって来たタイムトラベラーがいないことも説明できるわけだが……これだけのコストをかけて制限付きの過去へ赴く必要があるんだろうかなあ……。

 他にも天文学的な長さの莫大な質量を持った「宇宙ひも」が存在すれば、それは反重力を持っているからその周りを回る事によって過去へのタイムトラベルが可能になるという話も載っている。

 要するにこの本に書かれているタイムマシンはいずれも「理論上は可能だが、今のところ実現は限りなく不可能に近い」というものばかりのようだ。何というか、これはアルキメデスが「私に支点を与えよ。されば地球を動かしてみせよう」と言ったのと同じようなものだろう。結局のところ、科学の世界のタイムマシンというものは単なる思考実験程度のものらしい。科学の進歩にはこういう議論も必要なのだろうが、この程度のタイムトラベルのために、これほどのエネルギーを投入する必要があるんだろうか? 

 こういう現在の技術ではほとんど実現不可能だろうなという大がかりなタイムマシンはある意味安心なのだが、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のようにガレージに置けるようなサイズのタイムマシンが作られたりすると、百年もしないうちに一家に一台タイムマシンという状態になってしまうはずだ。その時いったい何が起こるだろうか? 

 レースの結果が最初からわかってしまうのだから競馬や競輪などのギャンブルは成立しなくなる。野球などのスポーツも試合前に勝者がわかるのなら試合をする意味がない。残るのはジョギングのようなマイペースの運動だけだろう。

 仕事はどうなるだろう? 失敗することになるプロジェクトなどは未来からのアドバイスで取りやめになる……のか? 勝者がわかっているコンペも意味がないから仕事の無駄はなくなるかもしれない。犯罪が発生した一瞬後には警察官が犯人を逮捕できるから犯罪も成立しない。負けるとわかっている戦争を始めようする国家もないだろう。何というか、これは一種のユートピアではあるまいか。

 未来から現代へのタイムトラベルが可能になるとそういうことになるとして、現在から過去へだとどうなるだろう? 

 例えば、母親とケンカした無免許の娘はガレージに置いてあったタイムマシンに乗って、まだ生きていた頃の父親に会いに行ってしまうかもしれない。

 娘の将来を心配した母親はタイムパトロールに逮捕される前に娘を連れ戻すために隣の家の独身青年を頼ることにする。日頃からお隣の美人親子が気になっていた青年は迷わず奥さんを助手席に乗せて過去へ向かうのだ。

 三つどもえの4次元カーチェイスの末に無事娘を連れ戻すことに成功した2人は娘と3人で幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。



   次回予告

 この儂の、右手の叫びを聞くがいいっ。

 次回「隻手の声」究極奥義、超音速ジェット掌底。




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     隻手の声


 修行僧を主人公にしたマンガで知ったのだが、禅宗の代表的な公案(雲水が修行するための課題として老師から与えられる問題)に「隻手声あり、その声を聞け」(両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がするか)というものがあるのらしい。

 この「隻手の声」という公案を考案したのは臨済宗中興の祖と称えられる江戸中期の禅僧白隠慧覚はくいんえかくだそうだ。駿河国に生まれた白隠は15歳で出家し、諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて見性体験(これは禅の用語で自分の本性を見ることだそうだ。初期段階の覚りのようなものだろうと思う。ちなみにゴータマブッダの仏教にはこういう用語はないらしい)をするも増長して信濃飯山の正受老人に「あなぐら坊主」と厳しく指弾され、その指導を受けて修行を続け、老婆に箒で叩き回されて次の段階の覚りを得たという。その後、白隠は禅修行のやり過ぎで禅病になるも白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復した。

 この禅病というのは誤った座禅修行をすることで現れる、総合失調症のような症状(被害妄想、誇大妄想など)、自律神経失調症のような症状(冷えやのぼせ、動悸など)、幻覚・幻聴、頭痛や胸の痛みなど、皮膚のピリピリした痛み、感情のコントロールができなくなる、食欲・性欲の異常な昂進・または減退、下痢・便秘などだそうだ。要する危険なクスリでラリっているような状態だろう。作者も半年ほど新興宗教に入信していたからわかるような気がするのだが、大乗仏教の修行は考えたり疑ったりする能力を奪うためのものという性格があるので、やり過ぎは禁物なのである。〔おいおい〕

 話を戻そう。「内観の秘法」というのは心身のリラクゼーション法であるのらしい。ウィキペディアには、白幽子に伝授された軟酥(なんそ。クリームのようなもの)の法とは「頭の上に鴨の卵ほどの軟酥の塊があるとイメージして、それが次第に融けて流れ出し、自分の体の調子の悪い部分を浸し、症状を洗い流してしまうと観想する方法である」と書かれている。要するに心身の異常を自ら創り出した幻覚によって克服したということなんじゃないかと思う。さすがに並みの人間ではない。

 白隠の著書『夜船閑話』(やせんかんな)には軟酥の法以外にも仰臥して丹田から両足にかけての範囲に意識を置くための4つの公案を静かに唱えるというものもあるらしい。これは1932年にドイツの精神科医ヨハネス・ハインリッヒ・シュルツによって創始された自己催眠法でありリラクゼーション法である自律訓練法に似ているとされているそうだ。また、気功でいう丹田呼吸法に相当すると考えられるともいうから、西洋の医学や東洋の民間療法の世界と同じようなレベルに到達していたということでもあるのだろう。

 その後、白隠は42歳の時にコオロギの声を聞いて仏法の覚りを完成したという。ここまで来ると、なかなか愉快な坊さんという印象なのだが、禅宗には「日常生活のすべてが修行である」という思想があるらしいので、いつ何をきっかけに覚りを得てもおかしくはないのだ。

 さてさて「隻手の声」という公案は作者のような無知蒙昧な衆生からすれば矛盾以外の何ものでもないのだが、こういう正解があるのかどうかすらわからないものに答を見いだす努力をするのが禅の修行なのだろう。ウィキペディアには「公案を与えられた雲水はこれに取り組むのであるが、数年間の修行中は僧堂で座禅をしたり、寺の業務に従事しながら毎日、多い時には日に数度も、老師のもとに呼び出され回答を求められる。思考の限りを尽くしてもそのたびに老師に追い返され、なおも回答の提出を求められて懊悩する日々の生活は、きわめて厳しい」とある。これは雲水がどんな答を持ってきても「それは違う」と言えるように仕掛けられているんじゃないだろうか? 精神的にまいってしまった雲水は「よく頑張ったね」と言われただけで覚りを得たような気になってしまうのだろう。うまいやり方である。

 しかし、現代はすでに末法の世、科学万能の時代である。江戸時代には答が存在しなかったであろう隻手の声を聞くことも不可能ではないのだ。

 スラストSSC(スーパーソニックカー。つまり超音速車)というイギリスで設計された速度記録専用車がある。全長16.5メートル、全幅3.7メートル、重量10.5トン。エンジンはイギリス仕様のF-4ファントムジェット戦闘機と同じロールスロイス・スペイを2基。最高速度時の燃費はリッター当たり約18メートルだそうだ。この主翼を持たないジェット戦闘機のようなスタイルの車は1997年10月に時速1227.985キロ(マッハ1.016)の速度記録を打ち立てた。ということは、その尖ったノーズの先端からは衝撃波が発生していたはずである。それなら老師にこのノーズに腹這いの姿勢で乗り込んでもらい、先端に開けた穴から右手を出した状態で音速を超える速度で走らせれば、走路脇に待機している雲水は老師の手のひらから発生する衝撃波音を聴く聞くことができる。これこそがまさに「隻手の声」である。

 スラストSSCでは手のひらの空気抵抗のために音速を超えられないようなら、時速1600キロを目指すというブラッドハウンドSSCも完成しているそうだ。こちらはユーロファイタータイフーン用のユーロジェットEJ-200ターボファンエンジンとロケットエンジンの混合動力で、そのロケットエンジン用の酸化剤を供給するポンプの駆動用にV型8気筒レシプロエンジンも搭載しているらしい。固体燃料と液体酸化剤のハイブリッドロケットなら酸化剤の供給量を増やせば推力を上げられるということなんだろう。

 地上走行にこだわらなくていいのなら、そこらの超音速ジェット戦闘機からレーダーを降ろして、機首のレドームに開けた穴から手を出してもらってもいいだろう。こちらの方が簡単かもしれない。

 なお、衝撃波を発生させる生身の手のひらが無事でいられるのかという問題はあるのだが、弟子を覚りに導くためなら片手くらいどうということはないはず……だよね。

 禅宗の目的は修行によって個人が覚りを得ることにあるのだろうと思う。だからこそ、雲水を悩ませることだけを目的とする公案が存在するのだろうが、これは社会や国家に対しては大きな害はない。危険なのは銭儲けを目的としてしまった宗教だ。特に平和でない時代に財産を貯め込んでしまった宗教はそれを守るための武力も必要になる。日本史でいうと比叡山とか、石山本願寺などがそれだ。こういう宗教に入信してしまうと、偉い坊さんに「戦え!」と言われた時に「私はいやです」とは言えないはずだ。だから作者は一切の宗教を信じない。戦うくらいなら地獄に落ちた方がましだから。



   次回予告

 3つのクォークがひとつになれば。

 次回「陽子ちゃんの体重問題」質量が50倍!




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     陽子ちゃんの体重問題


 量子の世界は謎に満ちている。『日経サイエンス』2019年9月号によると、観測可能な宇宙で電子とともに原子を構成している陽子と中性子は質量とスピンをどこから得ているのかわかっていないのらしい。

 陽子も中性子もクォークという粒子3個とそれらを結びつけるグルーオンという粒子からできている。陽子は2個のアップクォークと1個のダウンクォークで、中性子は2個のダウンと1個のアップで、という具合だ。アップクォークの電荷はプラス3分の2でダウンクォークはマイナス3分の1だから陽子と中性子の電荷はそれぞれプラス1とゼロになるわけだ。ところが、陽子と中性子の内部にあるクォークの質量を合計してもそれぞれの質量の約2パーセントにしかならない(グルーオンには質量がない)。残りの98パーセントの質量とスピンは構成粒子であるクォークとグルーオンが複雑な相互作用を通じて結びつく中で生み出されるようだと言われているのらしい。

 わかりやすく言えば、体重40キロの陽子ちゃんを三枚おろしにして、右身、左身、中骨に分けるとワタまで合わせても0.8キロにしかならないのに、それらをグルーオンでくっつけて陽子ちゃんをよみがえらせると40キロに戻ってしまう。〔よい子は真似しないでね〕

 その差39.2キロはいったいどこへ行っていたんだ、というような話である。

 こういう現象がなぜ起こるのかを理解するために電子・イオン衝突型加速器(EIC)の建造が計画されているそうだ。これは十分に高いエネルギーで電子とイオンを衝突させる深非弾性散乱実験を行うと、跳ね返った電子のエネルギーと跳ね返りの角度から陽子や中性子の内部の様子がわかるというものらしい。この場合、電子は陽子全体とぶつかるのではなく、陽子の中のクォークまたはグルーオンの1つと衝突して散乱される形になって陽子の内部構造がわかるのだそうだ。乱暴な例えをすれば、戦車に野球のボールを投げつけてもはね返されるだけだが、ランボーが対戦車ロケット弾を撃ち込むと砲塔が吹き飛んで中が丸見えになってしまうようなものなんじゃないかと思う。〔違うだろ〕

 さてさて、ここでクォークについておさらいをしておこう。とは言っても、量子論を正しく理解するためには数学的な知識が必要になるらしいのだが……。

 ウィキペディアによると、クォークは6種類(フレーバーと呼ばれる)存在し、3つの世代を形成する。すなわち、第一世代のアップとダウン、第二世代のチャームとストレンジ、第三世代のトップとボトムである。各世代は電荷が正のものと負のもので対を作っている。クォークの質量は世代が上がるごとに増加する、ということらしい。アップクォークとダウンクォークは安定だが、チャームとストレンジ、およびトップとボトムは宇宙線や粒子加速器の中で起こるような高エネルギー衝突の中でしか生成されないし、粒子崩壊(高質量状態から低質量状態への変換)によって、すぐにアップクォークとダウンクォークに変化してしまう。また「クォークは電荷、色荷、スピンおよび質量などさまざまな固有の性質を持つ。クォークは標準模型において唯一、4つの基本相互作用全ての影響を受ける素粒子のグループである」とも書かれている。そして奇妙なことに、自由状態の陽子や中性子の内部にあるクォークと、原子核に束縛された核子の内部にあるクォークでは振る舞いがまったく異なるらしい。職場では真面目なOLが、会社から一歩出た途端に性格が変わって男漁りを始めるというようなものだろう。〔不適切だぞ〕

 なお、ここに出てきた色荷というのは「強い相互作用を記述する量子色力学に関連するチャージ」だそうだ。あえて不適切な例えをすれば、若々しい色香を放つクォークの3人娘がグルーオンという一つ屋根の下で暮らしている状態が陽子や中性子という安定した核子だというようなものだろう。また、同年代だけれど正反対の電荷を持っているクォークと反クォークがごく短い時間だけペアになって安定する場合があって、これが中間子と呼ばれるものらしい。正反対の性格だと暮らしやすいような気がして共同生活を始めたものの、やっぱりクォークは3人でないと安定することはできないとわかって別れてしまうというようなものだろうか。ああ、念のために言っておくと、色荷は「しきか」と読むらしいよ。

 スピン(スピン角運動量)というのもややこしい。スピンが半整数、つまり2分の1・2分の3・2分の5……になる粒子を「フェルミオン」と呼び、整数、つまり0・1・2……になる粒子を「ボソン」と呼ぶのらしい。フェルミオンにはクォーク、電子、ミュー粒子、ニュートリノ、そして3つのクォークからなる陽子や中性子があり、ボソンには素粒子に質量を与えるスピン0のヒッグス粒子やスピン1の光子、ウィークボソン、グルーオン、そして未発見だが重力を媒介する重力子のスピンは2と予想されているらしい。素人にとっては「それがどうした」という話だが。

 初の深非弾性散乱実験と同様の実験により陽子と中性子のスピンがそれらの粒子を構成するクォークのスピンに由来するのではないことがわかったのだそうだ。つまり、陽子や中性子を構成しているクォークとグルーオンのスピンを足し合わせても陽子や中性子のスピンには足りないというわけである。〔困ったもんだ〕

 量子テレポーテーションという奇妙な現象もある。これは1つの粒子が反対方向のスピンを持つ2つの粒子AとBに分裂させ、それらを遠くに引き離しておいて粒子Aのスピンの向きを測定すると、瞬時に粒子Bのスピンの状態が判明するという現象を言う。ちなみに1997年に世界で初めて無条件の量子テレポーテーション実験に成功したのは古澤明博士だそうだ。

 これらの現象をSF的に説明するとしたら「超空間」とか「亜空間」、つまり我々には観測できない別の宇宙を持ち出すのがいいだろう。クォークを鍵に例えれば、3つの鍵が揃うと観測不能な超空間への扉を開くことができるとするのだ。その超空間から質量が供給されている状態が陽子や中性子として観測されているということにできるし、3つのクォークのスピンを合成したものと陽子や中性子のスピンが一致しないことも説明できるのではないかと思う。自由状態と原子核内部ではクォークの振る舞いが変わるというのも、超空間が複数存在していて、外部の環境によって繋がる超空間が決まってしまうのだという考え方ができるかもしれない。ただし、これは単なる思いつきなので「そのメカニズムまで説明しろ」と言われると困るのだが。

 量子テレポーテーションについても、粒子Aと粒子Bは観測不能の超空間を通じて繋がっている(超空間通信?)という仮定を導入すれば説明できるんじゃないかと思う……のは作者だけだろうかなあ……。



   次回予告

 戦力差はゾウとアリのそれをはるかに超える。

 次回「太陽フレア砲の脅威」彼らに勝つことは事実上不可能です。




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     太陽フレア砲の脅威


 21XX年。人類は月と火星に定住して自給自足の体勢を確立し、次の目標として小惑星帯の資源開発に着手し始めていた。

 そんな中、かつて行われた太陽黒点に生息するプラズマ生命体に対する殲滅戦、通称ワルキューレ作戦以後に打ち上げられ、水星軌道の内側で太陽黒点を監視していた軍用探査機三機が太陽フレアの影響によって次々に作動を停止するという事件が発生した。地球を直撃したわけではなかったが、大量に噴出した高エネルギー荷電粒子のごく一部は宇宙ステーションや人工衛星の電子機器のいくつかを焼き切った。そして地上では大規模なオーロラと共に磁気嵐が発生し、地球の経済活動は一時的に麻痺したのだった。

「偶然が3度も重なることなどあり得ん!」

 数十年前のワルキューレ作戦を記憶していた連邦宇宙軍司令官は、比較的被害が少なかった月面の基地からフライバイタイプの探査機を太陽に向けて発進させた。しかし、この探査機も水星軌道の内側で太陽フレアの直撃を受け、機能停止してしまうのだった。


「探査機からの最後の画像をご覧ください。水星軌道の内側に入ったところから早送りします」

 多くの将官を前にした情報参謀は緊張した面持ちでタブレットを操作した。

 大型スクリーンに具の入っていない味噌汁のようにうごめく巨大な赤い円盤が現れた。大小の黒点があることから減光した太陽の画像だとわかる。

「ターゲットコンテナで囲まれている小型の黒点群の動きに注目願います」

 大きな黒点は左から右へと動いていくのに対して、黒い正方形で囲まれた数個の小さな黒点は赤い円盤の中央に集合しつつあるように見える。

「これらの小型黒点群は太陽の自転と逆方向に移動しています。つまり常に探査機の方を指向しようとしているのです。表現を変えれば『照準を合わせている』ということになります。これらの黒点群が一点に集まると……」

 黒点群が接近していくと、その中心に白く輝く小さな雲が現れ、それが急速に広がってスクリーンがホワイトアウトする。さらに画面全体に砂嵐が発生した後、画面は真っ黒になった。

「撃破されました。なお、機能停止直前にエックス線やガンマ線の急激な増加が観測されています。したがってこれは、コントロールされた太陽フレアによる攻撃である可能性が大です。そして4回の攻撃のデータを解析した結果、我が方にとって不利な兆候が見つかりました。発射回数が増えるごとに総エネルギー量と照準精度が向上しているのです」

「一発ごとに威力が増しているということか」

「はい。これは太陽の磁場そのものをエネルギー源とする超巨大荷電粒子砲であると言えます。生物に対する直接的な殺傷力はほとんどありませんし、これまでの攻撃でも人工衛星がいくつか機能停止したのと宇宙ステーションが一時的に軌道を外れたくらいですが、地球が直撃を受けた場合は厳重に遮蔽されている電子機器以外はサージ電流によって回路が焼き切れてしまうでしょう。その復旧には少なくとも年単位の時間が必要になると予想されます。しかも、その間、敵が攻撃を控えてくれるという保証もありません」

「わかった。ご苦労」

 司令官は椅子の向きを戻してテーブルを囲んでいる将官や参謀たちを見回した。

「さて諸君。この通り、敵はきわめて強力な武器を持っている。この敵に勝つ方法を提案して欲しい」

「ワルキューレ作戦のように機関銃を使えばいいでしょう。多数のダミー衛星をおとりにして、それらが攻撃されている間に接近して掃射するんです」

「太陽フレア砲の効果範囲は地球の断面積の百倍を超えます。狙われたのがダミーならガンシップは無事、というわけにはいかないと思われます」

「大出力レーザーはどうだ? 宇宙空間では減衰し難いんだから金星辺りから狙撃しても効果が得られるだろう」

「太陽プラズマに吸収されてしまいます。太陽黒点の底までは届きません。それに敵の探知範囲がどこまで伸びているのかもわかりません。アウトレンジされる可能性があります」

 決定的な対策はなかなか出て来なかった。なにしろ戦力の差はゾウとアリのそれをはるかに超えると予想されるのだ。

 ざわつく会議室の中、一人の参謀が手を上げた。

「小官は発想の転換を提案します。彼らに勝つことは事実上不可能です。ここは勝つことを目的とせず、負けない戦いをするべきです」

「……具体的な攻撃手段を説明したまえ」

 司令官は不快感を押し殺しながら促した。

「小惑星帯で適当な小惑星を選び、ロケットエンジンと照準用の電子機器を取り付けて地球の反対側から太陽に1個ずつ突入させるのです。彼らの位置はわかっているのですから、太陽フレア砲を発射される前に突入軌道に乗せることができます」

「小惑星というのは、つまりはただの岩だろう。それで太陽フレア砲に勝てるのか?」

「この場合は太陽フレア砲を撃たせることが戦術目標になります。彼らが太陽の内部で生きている知的生命体であるならば、武器として使えるものは太陽フレアしかないと思われます。エックス線やガンマ線にしろ荷電粒子にしろ、電子機器に対する破壊力は大きいものの、物理的な打撃力は極めて弱いので、ただの岩を破壊することはできません。考えてみてください。自分たちが開発したたった一つの武器がまったく役に立たないとわかったらどういう心境になるでしょうか」

「……戦意を喪失してしまう……か」

「そうなればしめたものです。彼らが小惑星に対する攻撃を諦めたならば、我が方も小惑星や探査機を接近させるのをやめましょう。彼らが増殖して太陽のエネルギーを大量に消費するようになれば、地球はまた氷河期に向かうことになるかもしれません。ですが、太陽フレア砲を地球に向けられるよりはましなはずです。つまり戦略的痛み分けの停戦とするのです。さらに、彼らとコンタクトして和平条約を締結することができればベストでしょう。彼らも知性体です。話し合うことは不可能ではないと考えます」

        完



   次回予告

『シン・ゴジラ』を超えて。

 次回「核融合生物」この原子核は狙われているんだ!




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     核融合生物


 作者は『シン・ゴジラ』が好きで、いまだにDVDを見ながら室内トレーニングをしたりしている。で、あのゴジラは核分裂に伴って発生するエネルギーで生命活動を行っていたらしい。

「映画が核分裂なら小説は核融合だ!」というわけで、核融合エネルギーを使って生命活動を行う地球型生物を作ってやろう、と思ったのだが……これが意外に現実的だった。越えるべきハードルなど何もなかったのだ。

 さてさて、まずは核分裂と核融合についておさらいしておこう。

 鉄よりも重い原子核は分裂することによって、軽い原子核は融合することによってエネルギーを放出して、より安定な原子核になることができる。特にウランのような重い原子核や水素のような極端に軽い原子核は核分裂や核融合を起こしやすく、その際に放出されるエネルギーも大きいので利用しやすいわけだ。

 次は核分裂について。一般的な軽水炉で使われている燃料棒の中身は二酸化ウランのペレットなのだが、このウランのうち、実際に核分裂を起こすウラン235は3~4パーセントで、残りはウラン238であるのらしい。天然ウラン中に含まれるウラン235は約0.7パーセントなので、ここまで濃縮しないと核分裂の連鎖反応を起こせないんだろう(核爆弾用だと最低でも70パーセントだそうだ)。

 ウラン235の原子核は中性子を吸収すると2つに分裂して余ったエネルギーを放出するのだが、この時、同時に2個か3個の中性子も放出する。この中性子がまた他のウラン235の原子核を分裂させ……というふうに反応が進んでいくのが連鎖反応で、この反応が暴走しないようにコントロールしているのが制御棒である。要するに原子力発電所というのは、いったん始動するとブローするまで勝手に回転が上がってしまう上に排気ガスも有害なエンジンを積んだ乗用車にブレーキをかけながら運転しているようなものだと考えればいいのだろう。ブレーキをかけ損なったのがチェルノブイリ、かけるのがギリギリ間に合ったのがスリーマイル島、ブレーキそのものが故障してしまったのが福島第一原発だな。

 次は核融合だが、こちらは今のところ「商用小型核融合炉を開発中」とか「今世紀半ばには核融合発電を実現したい」とかいう段階らしい。

 核融合の何が問題かというと、太陽のような恒星の中心部では、高温のために電離した原子核(プラズマ)が太陽自身の強い重力によって押しつけられているので核融合が起こりやすいのに対して、地球上ではそこまで圧力をあげるのは難しいということだ。そのため、トカマク型などの核融合炉ではごく薄い重水素や三重水素のプラズマを磁場で閉じ込めて1億度以上にまで温度を上げて融合させようとしている(太陽の中心部の温度は1500万K)。しかし、温度はともかく、プラズマが炉壁に触れて温度が低下しないようにするのが難しいらしい。車に例えれば、排気ガスは比較的きれいだがエンジンを始動させるのが難しく、うまく始動できてもすぐにエンストしてしまう大型バスというところだ。

 なお、1億度以上のプラズマなんかを生命活動のエネルギー源に使ったら一瞬で燃え尽きて灰まで蒸発してしまうじゃないかという心配はいらない。常温核融合という奥の手がある。

『ナショナルジオグラフィック別冊 科学の謎』には「ミューオン触媒核融合は、触媒により核融合を達成できることが知られているほぼ唯一の事例だ」と書かれている。このミューオンというのは宇宙線の中から発見された電子と同じマイナス1の電荷を持ちながら200倍の質量を持つ粒子である。つまり、ミューオンは電子と入れ替わることができ、しかも質量が大きいので軌道半径(電子が存在できる範囲)をより小さくできる。その結果、いままで電子同士の電磁気的反発力によって遠ざけられていた重水素の原子核同士がより接近することができて、核融合が起こりやすくなるのだろう。しかもこの場合、ミューオンは単なる触媒なので、核融合によって生じたヘリウムの原子核を離れて他の重水素の電子と入れ替わることもできる。こうして常温核融合反応が進行していくのである。

「電子ちゃんはいつもと同じだ。でも質量が違う。この原子核は狙われているんだ!」〔原子核を侵略してどうするんだ!〕

 しかし、ミューオンにも弱点はあった。その質量の大きさゆえに核融合によって生じたヘリウムの原子核のプラス2の電荷を振り切ることが困難だったのだ。ヘリウムの牢獄に捕らえられてしまったミューオンたちは次々とその短い寿命を終えていく。こうして原子核の平和は守られたのだった。〔…………〕

 このミューオン核融合は反応がすぐに止まってしまうし、発生するエネルギーも大きくはないので発電所などで用いるのには向かないのだが、生じる熱が少なくて連鎖反応も起こらないのなら、逆にそれを利用して生命活動を行う生物にとっては好都合なのではないかと作者は思ったわけだ。常温核融合の場合、放出される中性子の量が一般的な核融合よりも何桁も少ないというのも生物向きだろう、と。

 しかし、常温核融合の研究は作者の想像をはるかに超えていた。ミューオンでなくても、適当な触媒と電流によって非常に小規模で低密度の常温核融合(核種変換とも呼ばれる)が起こったという実験結果がいくつも報告されているらしいのだ。重水素の原子核などは大きなエネルギーを持っているのだから、原子が触媒に吸着された状態で不確定性原理から導き出されるごく短い時間で発生する大きなエネルギーのゆらぎが作用すると核融合が起きて、より安定なヘリウムの原子核になってしまってしまうのだ(擬人化するなら、電子ちゃんたちがよそ見をしている間に陽子ちゃんたちの背中をそっと押してやるようなものだろう)。

 核融合生物が生きているのは、寿命を終えた恒星系の凍り付いた地球型惑星や巨大ガス惑星の衛星の氷の下に存在する海の中だろう。そして重水素は恒星の内部で陽子2個が融合した後、陽電子とニュートリノが放出される反応によって生まれるらしいから、恒星が高密度に存在している銀河のバルジ部分に位置する恒星系がいいかもしれない。

 恒星の光や海底の熱水噴出孔がなくても、細胞内でごく小規模な核融合反応を必要なだけ起こすことができれば生命活動を行うのに十分なエネルギーが得られるはずだ。原子核サイズの恒星を内蔵した生物と言えるかもしれない。つまり、エネルギーまで自給できる究極の独立栄養生物である。

 水の海と異常に多くのヘリウムを含む大気を持つ惑星があったなら、その星には核融合生物が存在している可能性があるということになるだろう。



   次回予告

 イッちゃんとルーちゃんは金魚の餌が好き。

 次回「エウロパのイルカ」海底方向に新たなアンノウン。急速に接近してきます。




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     エウロパのイルカ


 貨物宇宙船から発進した小型シャトルは滑らかにエウロパベースに着陸した。

 貨物船は木星圏でも無人運行が基本になったが、このシャトルには心理学カウンセラーが1人だけ乗っている。その役目はエウロパベースに常駐している単身赴任の研究者とタイムラグなしの会話を行い、その受け答えを分析することで精神状態を把握することにある。エウロパで発見された生物が地球人にとって有害であった場合の犠牲者は最小限に抑えたいが、辺境の研究施設にたった一人というのはかなりの精神的ストレスになるだろうという判断である。

「ちわーっす。お荷物をお届けにあがりましたー」

 まずは軽いジャブ。同時にモニターでちゃんとひげを沿っていることや眼球の動きなどを確認する。

『ご苦労様です。ドアは開けてありますからそこに置いていってください』

 ジョークにジョークで応じる。ここまでは問題ない。

「お仕事は進んでますか? イルカを発見したという話も聞いてますが」

『いや、それ……イルカじゃなくて、イルカ程度の大きさで、ある程度の知性を持っているらしい生物、なんです。少々長い話になりますからお茶でもいかがですか』

「いただきましょう。暇ですから」

『コーヒー? 紅茶? それともわたし?』

 この程度の悪ふざけは許容範囲内だろう。男同士だし。

「コーヒーを。砂糖ひとつとミルクたっぷりで」

 とは言っても、コーヒーパックは持参したものだ。ここでシャトルのエアロック外扉を開けたりしたら、それだけで何ヶ月かは隔離されて毎日採血ということになる。

『さて、まずはイッちゃんとルーちゃんをご紹介しましょう』

 月面の約半分という低重力に合わせてゆっくりカップを持ち上げる動作にも不自然さはない。

「それはイ・ル・カからのネーミングですか?」

『ええ。今呼びますね』

 彼が画面の外で何か操作すると、カーン、カーンという音が聞こえてくる。

『イッちゃんとルーちゃんはこのピンガ-音を聞くと寄ってくるんです。できれば今回届けていただいた網で捕獲しようと思ってます』

 モニターの隅のコンテナマークはすでにエウロパベース内に移っている。

「捕獲してどうするんですか」

『体組織を少し採取させてもらって、後は、できれば肛門の位置も確認したいですね』

「……好きなんですか、お尻の穴?」

『説明が足りませんでしたね。クラゲなどの刺胞動物には肛門がありません。消化できなかったかすは、また口から排泄します。ゴカイのような環形動物だと口の反対側に肛門があります。脊椎動物である魚なら尻びれの前です』

「ああ、肛門の位置でどの程度の進化段階にあるかがわかる、と」

『そうですそうです』

 その時アラームが鳴った。

『アンノウンを探知。海底方向から接近中』

 AIらしい女性の声が告げる。

『お、来たかな。モニターをソナーとサーマルイメージの合成画像に切り替えます』

 画面が一面緑色になった。その中央辺りをぼんやりした薄緑色のものが接近してくるようだ。

『照明を当てられればいいんですけど、彼らは光を嫌うんですよ。彼らにとって危険な発光生物がいるのかもしれないなと思うんですけどね』

『確認しました。アンノウンはイッちゃんとルーちゃんです』

(AIにまでそんな呼び方をさせてるのか。反乱起こされても知らんぞ)

『イッちゃんは体長約4メートルで比較的積極的な性格。ルーちゃんは少し小さめでイッちゃんについて行くタイプです。地球の生物なら夫婦か兄妹だろうと判断するところなんですが、そもそも彼らに性別があるのかどうかもわかっていません』

 近寄って来た2匹はウナギかミミズのように見えた。進行方向が頭なのだろうが、はっきりしない。ピントを外したモノクロ画像のようなものなので細部までは見えないのだ。

 突然大きい方の頭が丸く広がった。

『これが彼らの口です。口を開けるのは餌をくれというメッセージですね』

「口……ですか。アサガオの花みたいですが……」

『ええ。餌を海水ごと呑み込むための口ですね。地球だとヒゲクジラやジンベイザメに相当する生態だろうと思います。そうすると、彼らより小型の歯を持った捕食性の生物、つまり彼らの天敵がいてもいいはずなんですけどね。カメラを切り替えます』

 今度は袋状の網の奥からの画像らしかった。網の開口部の向こうに口を広げたりすぼめたりしているイルカ(?)2頭がいる。カメラの後方からは粒状の物がイルカたちに向かって漂っていく。

『与えているのは金魚の餌です。ちぎったパンは無視。猫用のカリカリもほとんど吐きだしてしまいました。大きな物や硬い物は苦手のようです。ほらほら、おいで~』

 イッちゃんが口を広げながら網の中に入ってくる。ルーちゃんは警戒しているのか、入り口辺りでうろうろしているようだ。

『よーしよし。おいで~……それっ』

『キュイーッ』

 網の口が絞られると網の外にいるルーちゃんの方が暴れ始めた。

『キュイイー! キュイイー!』

 少し遅れてイッちゃんも網の中で暴れながら声を合わせ始める。悲鳴のデュエットだ。

『カーン!』

 突然、大音量のピンガ-音が鳴り響いた。

『海底方向に新たなアンノウン。推定体長20メートル以上。急速に接近してきます』

『キュイイー! キュイイー! キュイイー!』『カーン! カーン!』

『ああ、おカーさんもいたんですねー』

(バカだ、こいつ……)

          完



   次回予告

 空と海の間に膜はいらない。

 次回「ソラリスの日に」地球型にあらずんば生命体にあらず。




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     ソラリスの日に


 例によってタイトルは出せないが、古書店で手に入れた宇宙生物関係の解説書を読み終えた。これがまあ、何というか……これを書いた人は「地球型にあらずんば生命体にあらず」という考え方をしているようだ。

 それはしょうがないとしても、中学卒業程度の学力があれば気が付くような間違いが書かれているというのはどうかと思う。例えば土星の衛星タイタンに存在するであろう生物の細胞膜の図が地球の生物のそれと並べられているのだが、親水基が内側を、疎水基が外側を向いた脂質二重膜の中に「水」と書いてあるのだ! 

 タイタンの地表の温度はマイナス180度である。そんな環境で液体の水が存在できるのか? だいたい液体のメタンやエタンの中で生きている地球型生物を考えるのなら細胞の中もメタンやエタンで満たされていると考えるべきではないのか? 

 その他にも「トンビがタカを産んだりしない」という記述もある。確かにトンビは卵生だから胎生に進化しない限りはタカもスズメも産めるわけはないのだが、トンビの卵から孵化した雛が成長したらタカになった、ということは進化論的にあり得るはずだ。進化が絡む話でこういう例えは出さない方がいいのではないかと思う。

 この本にはソラリスの海についてもとんでもない事が書いてある。「生命の本質的な特性」として「多くの科学者が考える最大公約数は『代謝を行う』『自己複製を行う』『外界との境界を持つ』『進化する』の4つだろう」と書かれているのだ。それは「地球型生物の最大公約数だ」とは言えるだろう。作者は科学者ではないからその程度は認めてもいい。問題はその先だ。「ポーランドの作家レムのSF小説『ソラリスの陽のもとに』では、惑星ソラリスの海全体が知性を持つ1つの生物体として描かれているが、このようなタイプも生命と考えるならば、これは「外界との境界をもたない」生命だ」と書かれているのだ! どうもこの人は「境界」という言葉の意味を知らないのらしい。

 地球の海を思い浮かべてみて欲しい。液体の海と気体の大気は混じり合っていない。したがって、そこには明確な境界がある。泥があると少々不明瞭になるが、海底の地殻は固体なので、ここにも境界があるのだ。ソラリスの海が持っていないのは「膜」であって「境界」ではない。言い方を変えれば、外界との境界が明確なので膜を必要としない生命体なのだ。

 さてさて、いい機会なので今回はソラリスの海について考えてみることにしよう。

 まずは「地球型生物の本質的な特性」とかいうものにについて。

(1)代謝を行っているか?

 不明……では話が進まないのでエネルギー代謝と物質代謝に分けて考えてみよう。

 エネルギーは恒星からの光のエネルギーなり、熱水噴出孔のような惑星の地下からのエネルギーを使うなり、海中で核分裂や核融合を起こして、発生するエネルギーを利用するなりすればいい。物質の方は地殻から得るか、大気から取り込むか、だな。ここは以前書いたように代謝速度を極端に遅くする必要があるかもしれない。

 問題は排泄だ。ソラリスの海の場合、体外に排泄するのは非常に難しい。しかし、排泄物まみれではかわいそうなので、あり得る可能性を2つ考えてみた。1つはプレート運動があるという前提が必要だが、日本海溝のようなプレート沈み込み帯に固形のウン〇をするというやり方。この場合、本体の一部もいっしょに巻き込まれてしまいそうなのだが、あれだけの巨体ならお尻の一部が巻き込まれても気にしないだろう。

 もう一つは共生している生物に無機物にまで分解してもらうというやり方だ。これで物質循環のループができれば一種の生態系と言えるものが成立するだろう。ああっと、「客」が排泄物という可能性……は、ないだろうな。かわいそうだし。

(2)自己複製を行っているか?

 不明。自己複製をするとしたら、胞子のようなものを恒星系の外へ射出して系外惑星に新たなソラリスの海を形成するしかないだろう。その場合でも遺伝子は何なんだという問題は残りそうだが。

(3)外界との境界を持っているか?

 持っている。というか、生命体に進化する前から境界が存在している。

(4)進化するか? 

 ただの有機物から生命体へという化学進化は起こったはずだ。その後は1個体しかいないのだし、世代交代もしないようだから地球型生物のような進化はできないし、する必要もない。海がまるごと生命体になってしまうほど惑星環境が安定していたのなら、環境の変化を乗り越えるための進化も必要なかっただろう。ただ「客」を造るようになったのが地球人と出会ってからだというのなら、それは新たな形質を獲得したということになるかもしれない。

 というわけで、ソラリスの海はただの生物学者なら「生物ではない」と言い切ってしまえるようなシロモノなわけだ。SF的にはちゃんとした地球外生命体なのだが。

 ソラリスの海の謎はまだある。第一に、あの海はラスト近くでかなりダイナミックな動きを見せるのだが、どうやって運動していたんだろうか。あの海は卵の白身のような原形質の塊なのだから筋肉のような運動のための器官は持っていないはずだ。……もしかして、局所的な重力制御だろうか? それなら繁殖のために胞子を飛ばすくらいはわけもないだろうが……。

 第二に、なぜ「客」を造ったのかが最後までわからない。地球の生物には何の意味もない「遊び」と呼ばれる行動が観察されることがあるのだが、わざわざ地球人の記憶を探ってまで「客」を造るというのは手間をかけ過ぎだろう。以前軽々しく「はしゃいでいた」と書いてしまったのだが、もっと切実な理由があったのかもしれない。

 遊びでないのなら地球人へのメッセージだったと考えるべきだろう。そこでもう一度、ソラリスの海の生物学的特徴である膜を持っていないという点に戻って検討し直してみよう。

 ソラリスの海は天敵がいない環境で生きてきたのだろうから、免疫システムを持っていない可能性が高い。アミノ酸にはL型かD型かという問題があるのだが、糖の類なら地球産の微生物でも消化できるだろう。つまり、地球人が持ち込んだ細菌などにとってソラリスの海は惑星規模の寒天培地のようなものになるはずだ。となると、あの海全体が地球産の細菌に食い尽くされるのも時間の問題ということになる。自分の体内を何ものかに食い荒らされることによって自分以外の生物の存在を知らされたソラリスの海はどんな行動を取るだろうか? 他の生物の存在を知らなかったのなら、呼びかけるという考えにも至らないだろう。もしかしたら、あの「客」はソラリスの海の「痛いよう! 痛いよう!」という悲鳴だったのかもしれない。



   次回予告

 パラリラパラリラ。

 次回「水疱瘡日記」それは暴走!




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     水疱瘡日記


 3月13日。レーサーパンツに着替えようとした時に右股関節の外側辺りに赤い発疹がいくつかあるのに気が付いた。不定形だが、長径はだいたい15ミリくらい。厚みはほとんどないから皮膚の変色という表現の方が適切かもしれない。

 70キロ走って帰宅すると左眼が充血していた。


 3月14日。手の甲にも発疹が出る。視線を右に向けると左眼だけが痛む。体温を測ってみると37.4度。発疹と発熱ということはどう見てもウイルス性疾患だ。最悪の場合は麻疹、またの名をはしか。真ん中かスプーンだといいんだが……。〔「端か」でも「箸か」でもない!〕


 3月15日。体温は37.9度から38.4度。今日は日曜なので、明日になってからかかりつけの内科医院に行くことにする。


 3月16日。内科医の診断は「典型的ではないが水痘(水疱瘡)の疑い」だった。確かに水疱瘡の発疹はもっと小粒で数が多いようだし、胸や腹には出ていない。ちなみに「典型的ではない」と言われるのは何十年も前にぜんそくの診断を出してもらった時に続いて2回目だ。どうも作者は典型的な体質ではないらしい。

 念のために感染力について質問してみると「治るまで自宅待機だね」。そういう大事なことは質問される前に言って欲しい。まあ、「内科」の看板を掲げていても専門はリュウマチらしいから感染症対策の知識には疎いのかもしれない。

 1日3回、毎食後に2錠ずつという抗ウイルス薬と軟膏を処方される。解熱剤はぜんそく発作の引き金になる場合があるので断った。ああっと、受け取っておいて飲まないという選択肢もあったかなあ。

 帰宅してから水疱瘡について調べてみると、飛沫感染・空気感染・水疱液の接触感染と非常に強い感染力を持っているらしい(同じ部屋はもちろん、同じフロアも危険ゾーンだそうだ)。また治癒した後もウイルスは神経節などに潜んでおり、免疫低下時や疲労・ストレス時に再活性化し、帯状疱疹を発症することがあるらしい。

 明確な病名がわからないのが気になる。麻疹のような治療薬のない病気でなければいいのだが……。


 3月17日、午前4時。体温は36.9度。午前10時。37.9度。

 両膝の周辺にも直径3ミリほどの発疹が20個ほど出る。左眼は充血したまま。右眼も充血し始めている。

 夕方からロードバイクの部品交換を始めた……のだが、うまくいかない。何年か前から部品に組み立て説明書が付かなくなったのだ。「ショップで組んでもらえ」ということなんだろう。多分こうだろう、で組んでいくのだが、難しい。何度もやり直す。

 やっとまともに作動するようになった頃、体の方に異常を感じた。体温を測ってみると39.1度! 自己最高タイ記録だ。すでに午後9時になっていたので、ここまでだと判断してシャワーを浴びて寝ることにする。

 午後10時。寝る前に体温を測ると37.9度だった。


 3月18日、午前2時。体温は37.9度。午後4時。38.2度。

 朝のうちにロードを組み上げる。

 たまに咳が出るようになってきたのが気になるが、ピークフロー値は正常の範囲内。呼吸器系までは炎症が及んでいないようだ。

 ウィキペディアには「水痘は成人になってから初感染すると脳炎や肺炎の合併症が多く危険な場合があり、早期治療が重要である」と書かれていた。これ以上頭が悪くなっては困るのだが、もう手遅れだな。週末だったことだし。

 発疹の成長パターンが見えてきた。直径2ミリほどから始まって、最大25ミリくらいまで大きくなっていくようだ。直径20ミリを超えると中心部がやや濃い色になったり、水疱になったりする。今のところ、変色と水疱は1ヶ所ずつ。1ミリ以下のかさぶたが何カ所かある。

 気が付いたら右眼も左と同じくらい充血していた。これもウイルスによるものなのかもしれない。もしかして眼から感染したのか? 左右とも瞳の外側が強く充血している。ただし、左眼の痛みは治まりつつある。いい要素はこれだけ。


 3月19日、午前7時。体温は36.9度。午後7時。37.7度。

 久しぶりの36度台、と思ったら17日にも記録していた。

 古い発疹は輪郭があいまいになってきている。直径2ミリクラスの新しいものは左右の股関節付近と右手の甲に合わせて10個ほど。


 3月20日、午前6時。体温は37.2度。

 新たな発疹は両膝の周辺に数個のみ。山は越えたかもしれない。左眼の痛みも消えた。


 3月21日、午前6時。体温は36.8度。午後1時。37.1度。

 膝の発疹は直径7ミリほどで消えつつある。眼の充血も薄らいできた。


 3月23日、午前6時。体温は36.5度。午後1時。36.9度。

 発疹の痕は色素沈着のみ。最初に現れた右股関節付近のものは色がやや濃いめだが、手の甲や膝はほとんど地肌と見分けが付かない。

 内科医からは「自宅待機解除」の宣告を受ける。後は熱さえ下がれば……。


 3月25日、午前6時。体温は35.6度。

 ほぼ平熱。しかし、あれが水疱瘡だったのなら帯状疱疹の原因を抱え込んでしまったということになる。考えようによっては体調不良を知らせてくれるアラームなんだろうけど……。



   次回予告

 飛ぶのが怖い。

 次回「鳥のように」航空機は間違った方向へ進化してしまったのかもしれない。




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     鳥のように


 近所の水田で白いサギや青みがかったグレーのサギをよく見る。白いサギはダイサギ・チュウサギ・コサギ・アマサギ(アマサギは冬羽のみ)の4種類がいるらしいのだが、多分ダイサギだと思う。グレーの方はアオサギだろう。

 で、横目でサギを見ながら走っていて気が付いたのだが、彼らは首をS字形に曲げた姿勢で飛ぶのだな。気になったので調べてみると、ハクチョウやカモなどは首を真っ直ぐに伸ばして飛んでいるようだ。もちろん首を伸ばした方が空気抵抗は少ないだろう。見た感じでもサギの仲間は比較的ゆっくり飛んでいるようだった。

 彼らはなぜ、わざわざ空気抵抗の大きなフォームで飛ぶんだろう? くちばしが幅広でないと揚力を発生し難いのかとも思ったのだが、くちばしが細長いツルも首を伸ばして飛ぶようだ。となると、長距離の渡りをするかしないかの問題なのだろうか。海を越えるような長時間の飛行をする場合は首を伸ばしたフォームの方が空気抵抗の面で有利になるはずだ。ハクチョウやカモやツルなどは長距離を飛ぶために首を伸ばしたフォームを身につけたのかもしれない。首を伸ばせば空気抵抗の低減と同時にくちばしから首にかけての部分でもいくらかは揚力を稼げるだろうし。

 話は変わるが、作者は海辺の街に住んでいたことがあるのでトンビ(正しくは「トビ」らしい)が飛んでいるところをよく見かけたものだった。彼らは幅が広くて翼長(翼の付け根から末端までの長さ)が短い翼をいっぱいに広げて上昇気流を受け、ゆっくり滑翔(ソアリング)していることが多い。ただし、トンビのソアリングは一見優雅に見えるのだが、広げた尾羽は細かく動いて姿勢をコントロールしているようだった。自転車や航空機と同じで低速では安定しないのだろう。

 さてさて、人間の飛行についても書かねばなるまい。気球のようなものは別として、人間が乗って飛ぶことができる翼を持った機械というと、まず思い出されるのが19世紀にオットー・リリエンタールが作ったハンググライダーだろう。しかし、リリエンタールが有名なのは写真を初めとして多くの記録が残っているからで、それ以前にも空を飛ぶ試みは行われていたらしい。

 11世紀のイングランドではマルムズベリーのエイルマーという修道士がギリシャ神話のダイダロスの話(太陽に近づきすぎたイカロスが墜落したというあれだ)を事実だと思い込み、両手両足に翼を取り付けて修道院の塔から飛び立ち、大けがをしたという。

 日本でも江戸時代に浮田幸吉が竹の骨組みに和紙と布を貼り、柿渋で補強した翼で橋の欄干から飛んでいる。これは数メートル滑空したとも、すぐに落下したとも言われているそうだ。

 ちょっと許しがたいのが、飛行のさまざまな理論面を研究したので最初の航空力学者と言われているイングランドのジョージ・ケイリーだ。リリエンタールはケイリー考案のハンググライダーを実際に作って試験を行い、その詳細な記録を取ったというからリリエンタールの師匠筋にあたる人物なのだろうが、ケイリーは10才の少年や自分の御者をテストパイロットにしていたらしい。飛行のパイオニアたちの中で自分で飛ばなかったのはこいつだけだろう。嫌いだよ、こんな奴は。

 鳥のように、ということで羽ばたいて飛ぼうとした人たちもいる。有名人ではレオナルド・ダ・ヴィンチがいくつかのタイプの羽ばたき式飛行機(オーニソプター)の設計図を描いている。琉球でも1780年代に花火師の飛び安里(とびあさと)が竹の弾力を補助として脚力で羽ばたく人力オーニソプターを制作している。これは実物も設計図も失われてしまったらしいが、1999年に制作されたレプリカは有人飛行に成功したそうだ。また2010年にはトロント大学の学生チームが人力オーニソプター「スノーバード」による191.3秒間の世界初の持続飛行に成功したという。

 人間の体は地上で生きるようにできているので人力で飛ぶのには無理がある。そこでエンジンの力でプロペラを回転させて推進力を得ようとしたのがライト兄弟のフライヤー号だ。世界初という点ではドイツ系アメリカ人にグスターヴ・ホワイトヘッドの方が2年早いとか、フライヤー号のレプリカは飛べなかったが、ホワイトヘッドの飛行機のレプリカは飛んだという話もあって、ホワイトヘッドの方が優れたものを作っていた可能性もあるのだが、ホワイトヘッドの飛行は新聞記者のスケッチ以外は記録も写真も残っていないのでアメリカのスミソニアン協会は認めていないらしい。ドイツ系のせいもあるのかなあ。

 飛行するための推進力はエンジンによって得るというやり方は成功し、乗客定員850人以上というエアバスA380とか、最高速度が時速2169キロのコンコルドなどに繋がっていく。しかし、エンジンのパワーにものを言わせて強引に空に浮かんでしまえ、というやり方には上昇気流に乗っているトンビの優雅さはない。ジェット旅客機は確かに高速・大量輸送向きの移動手段だが、それはバスや船の延長線上にあるものだろう。鳥のように、ということにこだわるならリリエンタールのハンググライダーのように基本的に一人乗りか、せいぜい2人乗りがいいと思う。ハンググライダーで上昇気流に乗れば、トンビが見ているものと同じ物が見られるはずだ。

 ああっと、念のために言っておくと、ハンググライダーは尾羽を操作する代わりに固定式の翼の傾きを変化させて操縦するので物足りないような気がするかもしれないが、贅沢を言ってはいけないよ。レオナード・ウォーデン・ボニーというアメリカの石油王によって作られた、可変迎え角で可変後退角、外翼部は可変上反角で見た目もカモメのような翼を持つ、その名もボニー・ガルという2人乗りのプロペラ機があったのだが、この機体はボニー自身の操縦で離陸した後、高度30メートルに達したところで墜落しているのだ。

 作者にはこの事故の原因がわかるような気がする。作者の実家ではチャボという小型のニワトリを飼っていたので、1羽の翼を両手で押さえ込んで前後左右に傾けてみたことがあるのだが、その時のチャボの頭は空中の一点に静止していた。鳥にはこういう空を飛ぶために必要な3次元感覚とそれに直結している操縦感覚が生まれつき備わっているのだろう。それに対して、コウモリから進化したわけでもないヒトは基本的にそういう感覚を持っていないはずだ。ということは、主人公にそういう天才的な能力を持たせれば、鳥のような翼を操って自由自在に空を飛ぶというお話が作れるかもしれない。ただ、作者は高いところが苦手、というか、怖いので実際にハンググライダーなどに乗って取材する気にもなれないのだが……。

※実はこのテーマで短編小説を書いてしまったことがある。しかし、やはり実際に飛んでみないことには、その感覚を読者に伝えることはできないような気がするのだよなあ。



   次回予告

 ターゲットロック!

 次回「ブラックホール爆弾」焼き払え!




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     ブラックホール爆弾


 林譲治先生の『ウロボロスの波動』だったと思うのだが、ブラックホールの重力場を使って発電するという小説を読んだ記憶がある。何もかも呑み込んでしまう重力井戸からエネルギーを汲み出せるのかと感動したものだった。

 ブラックホールが近寄ってはいけない危険なだけの天体ではなく、利用する方法があるというのなら、発電以外の用途もあるのではないかと考えるのがSF者だろう。そこで今回もまた踏み外してみることにしようと思う。

 ブラックホールを利用するというと、まず思いつくのがワームホール航法なのだが……これはまだまだ未解決の問題が多いようだ。ウィキペディアには「ブラックホール熱力学はホーキング放射によってブラックホールが最終的には蒸発することを予言するが、このプロセスも時間反転に対して対称であるため、熱的平衡にあるブラックホールの時間反転解もブラックホール解である。そうであるなら、ブラックホールとホワイトホールは同じ天体として解釈され得る」と書かれている。つまり、ブラックホールがすべての物質を呑み込んでしまう重力井戸であるように、物質が湧き出すマイナスの重力井戸(重力の泉?)としてのホワイトホールの存在も熱力学的には許されるということらしい。実際、2006年に観測されたGRB060614という超新星爆発を伴わない102秒のガンマ線バーストがホワイトホールかもしれないとされているそうだ。

 しかし、ブラックホールは作ろうと思えば作れるとしても、それを目的地のホワイトホールに繋げる技術はまだ確立されていないはずだ。とりあえずブラックホールを作ってしまって、そこに探査機を突入させ、どこのホワイトホールから飛び出して来るかを観測するんだろうか? これを目的地の近くで探査機が飛び出すまで続ける、とか? それ以前に、ブラックホールに飛び込んでも潮汐力で引きちぎられないような観測機を作れるのかも問題になりそうだな。

 決定的な不都合は我々の銀河系の中心にも存在している超巨大ブラックホールだろう。ブラックホールに呑み込まれた物質がホワイトホールへ供給されているとしたらブラックホールは巨大化できないはずだ。それとも、たまたまホワイトホールに繋がっていない行き止まりのブラックホールだけが巨大化できたという解釈なのか? いずれにせよ、ワームホール航法は越えなくてはならないハードルがいくつあるのかさえわかっていないという段階のようだ。

 もう少し現実的なところではブラックホールをハードディスクやSSDのような記憶装置にするというアイデアもあるらしい。量子力学の世界では時空の微小な領域で粒子と反粒子の対生成が絶えず発生しているということになっている。ブラックホールの事象の地平面近くで対生成が起こると、反粒子がブラックホールに落ち込み、対になる粒子が飛び去って行くこともあり得る。これがホーキング放射で、ブラックホールは少しずつ蒸発するのだ。1970年代に一般相対論と量子場理論に基づいて創始された当初のブラックホール熱力学では、ホーキング放射によるブラックホールの蒸発には情報が保存されないと思われていたのだが、その後、ホログラフィック理論によって情報は保存されているということになったのだそうだ。情報が保存されるということなら、一定のパターンで光子を打ち込むことで書き込みができるかもしれない。問題は読み出しで、事象の地平面の内部からは光でさえ脱出できないのだからブラックホールの表面を直接観測することはできないはずだ。いったいどうやって読み出しをするつもりなんだろう? 反粒子は時間を逆行するという解釈も可能らしいから、ブラックホール内の情報は反物質のホーキング放射という形で脱出してくるという考え方なんだろうか? 量子論の世界のことはよく分からん。

 いずれにせよ、あと100年、いや50年くらいはブラックホールメモリー搭載のノートパソコンなんてのは発売されないだろうと思う。うっかり落としたりすると、支持装置から外れたブラックホールがパソコン本体を呑み込み、持ち主を呑み込み、ついには地球の中心まで落下していったりするのも困るし。

 ブラックホールを兵器として使うという手もあるだろう。使い方は簡単。内側に核爆弾を必要な威力に達するまで等間隔に取り付けた硬い殻で木星のような巨大ガス惑星を包み込み、ブースターで敵艦隊に向かって加速しておいてから核爆弾を一斉に爆発させてガス惑星をシュワルツシルト半径以下にまで圧縮してしまえばいいのだ。このブラックホール弾にはミサイルもビーム砲も効かない。迎撃不能の超兵器である。ただし、この究極兵器にも弱点はある。軌道を変更した目標を追尾する機能を搭載できないのだ。つまり威力は大きいが「当たらなければどうということはない」のである。〔そんなもんが使えるかあ!〕

「困ったわ。何とかならないかしら……」

「お困りですね。そんなあなたにお勧めしたいのがこちらのブラックホール爆弾です。ブラックホールの質量は直径の3乗に比例して大きくなるのに対して、その表面積の増加は2乗に比例するんです。ということは陽子質量よりも小さいマイクロブラックホールではその表面からのホーキング放射の強度が加速度的に増加していって最後は爆発するんです。これなら射程距離は短く、威力も小さくなりますが、狙い撃ちができるんですよ、奥さん」

「まあ、これは便利ね」

 マイクロブラックホールが消滅する直前には10の32乗Kというとんでもない高温が発生するのだそうだ。つまり、マイクロブラックホールでできた弾丸を撃ち込めば、目標の体内に侵入したところでドッカーン! ではあるのだが、陽子1個の質量は1.67✕マイナス27乗キログラムくらいで、これがすべて熱エネルギーに変化したとしても0.36✕10のマイナス13乗キロカロリーにしかならない。〔合ってるのか、その計算?〕

 これだと瞬間的に超高温になるのだからガンマ線が放出されるのだろうが、発生する熱の総量はごくわずかなので温度そのものはほとんど上がらない。これではガンマ線でDNAを切り刻んで細胞1個を殺すくらいが精一杯だろう。

 しかし、医療の分野ではこの発熱量の少なさが逆に役に立つかもしれない。がん細胞を1個ずつ狙い撃ちできれば、周囲の正常な細胞を傷つけずに、がん細胞だけを殺せるだろう。

 性格のきつそうな女医さんが「焼き払え!」とか言いながらマイクロブラックホールを撃ち込んでくれるのなら、一度くらいはがんになってみるのもいいかもしれないなあ。〔焼き払われてしまえ!〕



   次回予告

 ルビーのような赤。タンパク質と鉄のニュアンス。そして処女のような初々しさ。

 次回「吸血鬼はトイレが近い」健康のため、バランスのよい食事をしましょう。




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     吸血鬼はトイレが近い


 単なる思いつきなのだが、アイスクリームを通貨としている異星人というのはどうだろう? 為替相場の世界で使われる「〇〇万円が溶けた」というような表現からの連想なのだが、早く使ってしまわないと溶けてしまう通貨だ。経済がものすごく活性化するんじゃ……いやいや、気温も体温もマイナス20度以下なら、ただ単に重くてかさばる硬貨でしかないな。ボツ。


 さて、本題に入ろう。今回はもしも吸血鬼が哺乳類であったならば、彼らは頻繁に排尿する必要があるだろうという話である。超自然的な存在ならばトイレに行く必要もないだろうが、それ以前に栄養を摂取する必要もないはずだ。

 ウィキペディアの「吸血鬼」のページには「民話や伝説などに登場する存在で、生命の根源とも言われる血を吸い、栄養源とする蘇った死人または不死の存在」という説明がある。血液は全身の細胞に酸素や栄養などを届けるという役目を持っているので一種の完全栄養食品と言えるのだが、見ればわかるように相当に水っぽい流動食なわけで、そういうものを主食としている吸血鬼は余分な水分を頻繁に排泄する必要があるはずなのだ。ああっと、大量の汗をかくという手も……汗っかきの吸血鬼に襲われる女性は気の毒だな。〔そういう問題か?〕

 アフリカのマサイ族の伝統的な主食は牛乳と牛の生き血で、野菜を食べることはごく少ないらしいのだが、ちゃんと健康に暮らしているそうだ。ということは、人間の生き血などと贅沢なことを言わずに牛の血に切り替えてアフリカに移住していれば心臓に杭を打ち込まれることもなく、マサイ族の村で幸せに生きていけたんじゃないだろうか。そういう意味ではヨーロッパに住み続けたのが彼らの不幸の原因だと言えよう。

 ただ、「蘇った死人または不死の存在」というのがわからない。吸血と不死がどうして繋がってしまったんだろう? この疑問に対する答としては中世の庶民の栄養状態が挙げられるかもしれない。ブラム・ストーカー先生の『吸血鬼ドラキュラ』の舞台は19世紀の末頃らしいのだが、その頃の庶民なら主食は麦の類だろう。栄養のバランスもあまり重視されていなかっただろうから、一般的に不健康であまり長生きもできなかったはずだ(その頃のフランスやイギリスでも平均寿命は40~50歳だったらしい)。それなのに、お貴族様はいつまでも健康で若々しい。しかもそれが吸血によるものだとわかったら……心臓に杭を打ち込みたくもなるだろう。自分だけ長生きしていないで、せめて「牛乳や牛の生き血を飲めば長生きできるぞ」とでも言っておけば、ああいう不幸な結末にはならなかったのではないだろうか。〔いくら牛でも生き血はどうかと思うぞ〕

 もちろん、そういうことは考えないのがお貴族様なのだろうし、優しくて親切な吸血鬼ではホラー小説にはなりようがないのだが。

 次は狼男。

 ウィキペディアの「狼男」のページには「実際の伝承では、映画などで知られた狼と人間の中間的な形態を持つ人型の狼男というものは少なく、人語を話すオオカミ、もしくは人間と同じ大きさの狼という形で語られているのが普通である」と書かれている。いやはや、直立二足歩行の狼男というのは映画などによって植え付けられたイメージだったのだなあ。しかし、これでは面白くないので、ヒマラヤの雪男や北アメリカのサスカッチまで同族と考えて、寒冷な気候に適応するために断熱性に優れたダブルコートの体毛を獲得した未知の人類が生き残っていたということにしてしまおう。普段は人間たちが入り込まないような山奥で暮らしているもふもふの人類がいて、食べ物が少なくなる時期に人里近くまで降りてきて目撃されてしまうというわけだ。

 そこで少々不謹慎なのを承知の上で言わせてもらえば、作者は冷え性なので、もふもふの狼女さんに冬の間だけでもいっしょに寝てもらえるとありがたいな。もちろん、春が来るまでの食と住は保証するという条件で。この場合、もふもふの子どもたちでもいいのだが、大人の狼男だったら……ホカロンの方がマシだな。〔性差別はよくないぞ〕

 フランケンシュタインの怪物はというと……これはもうどうしようもない。細胞レベルで死んでしまった人間を蘇生させることは基本的に不可能だ。

 まず心臓。完全に止まってしまった心臓の拍動を再開させることはできない。最近はAED(自動体外式除細動器)を置いている施設が多くなったが、これは酸素不足などで痙攣を起こして正常に血液を送り出すことができなくなっている(心室細動という)心臓に電気ショックを与えることで心臓の動きをリセットするための機械である。擬人化するなら「もうだめえェェェェェ」と悲鳴をあげている心臓の横っ面をひっぱたいて本来の仕事を思い出させるようなものだ。〔ひどいな〕

 悲鳴をあげることもできないほど死んでしまった心臓をいくらひっぱたいたところで、それは死者に鞭打つようなものでしかないのである。ただし、低体温症などで拍動が極端に遅くなっているだけなら体温を上げることで拍動が正常に戻る可能性はある。この場合は脳が必要とする酸素の量も少なくなっているので障害が残らずに回復するケースが多いそうだ。

 そして脳。ある雑誌の2020年7月号がちょうどいいタイミングで「死とは何か」という特集をしてくれたのだが、それによると脳の神経細胞(ニューロン)は血液から大量の酸素と栄養であるグルコース(ブドウ糖)を受け取って消費しているので、脳への血流が途絶えるとすぐに脳の機能が低下して意識を失い、数分でニューロンが死んでしまうということらしい。呼吸や心臓の拍動を調節しているのは脳の下部にある脳幹なので、脳が死んでしまうと肺も心臓も停止してしまう。心筋細胞がまだ死んでいない心臓なら電極を突き刺して拍動させることもできるだろうが、それを「生きている」と言うのは死体にかんかんのうを踊らせるようなものでしかないだろう。〔若い読者は知らないぞ、『かんかんのう』なんか〕

 ただし、困ったことに2019年に「死後4時間経ったブタの脳について、微小循環(毛細血管および細動脈、細静脈での血液の流れ)や細胞機能を回復できた」という実験結果も発表されているらしい。つまり、脳の細胞は従来考えられていたように一気に死ぬわけではないということのようだ。酸欠に強い神経細胞があるのか、あるいは共食いのようなことをしながら生き残っていた細胞があったのかもしれない。それでも、このブタが意識を回復したとは書かれていなかったから、死んでしまった脳の機能がすべて復活するということはおそらくないのだろう。合掌。



   次回予告

 もうあなたでもいいわ。来てっ。

 次回「40億年前の浮気」い、いけません、奥さん。




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     40億年前の浮気


 今回は古書店で見つけた阿部豊先生の『生命の星の条件を探る』という本からネタを拾ってみた。なお、阿部先生は2018年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)でお亡くなりになっている。合掌。

 これは、少なくとも作者にとってはよい本である。論理的でわかりやすく、しかも驚きに満ちている。トラックにはねられて異世界に転生したら無敵になってました、というような気楽なお話を読むのも楽しいのだが、何度も読み返す気になる作品は少ない。コミック化されているのならそっちを読めばどういう話なのかはわかるのだし。まあ、何も考えずに読み流して、読み終えたらきれいさっぱり忘れてしまうのが異世界転生物の読み方なのかもしれないのだが。

『生命の星の条件を探る』の内容は地球の生物が液体の水を必要とする理由や陸地の必要性など、地球という星の条件がいかに地球型生物の誕生に適していたかという説明からドレイクの方程式にまで言及するというものになっている。いやはや、ケイ素生物やら鉱物質生命体やら、酸化リチウムの海だとかアルコールの海だとかで遊んできた作者は「目を覚ませ!」とひっぱたかれたような気分になった。いやいや、人をひっぱたいたりはしないだろうな、この人は。「それではいけませんよ」と優しく諭してくれそうな気がする。作者は基本的に人間が嫌いなのだが、阿部先生にだけは直接お話を聞いてみたいとも思った。残念ながらもう遅いのだが。

 さてさて、『生命の星の条件を探る』では最初に地球に豊富に存在する水について検討していく。それによると地球が「水惑星」であるためには3つの条件が必要なのだそうだ。

 第一に惑星が水を取り込むこと。これは水分子の形でなくても水素と酸素でもいいのらしい。最近の話では2018年にアリゾナ州立大学の研究者チームから「地球の水の起源は単一ではなく、さまざまな起源を持つものが複合している」という説が発表されたそうだ。今までは地球は小惑星の合体によって生まれたとされていて、これだと小惑星に存在する水素が地球の海水に含まれる水素と同じ同位体比になっていることを説明しやすいし、小惑星の衝突時に高熱が発生してもすべての水が宇宙空間へ逃げていくことはないと考えられていたのらしい。しかし、海水と地球の地下深くから得られた水素では重水素の比率が一致しないのだそうだ。ということは、地球内部の水素は小惑星由来ではないということになってしまう。

「困ったわ。何とかならないかしら……」

「お困りですね。そんなあなたにお勧めしたいのがこちらの太陽系星雲ガスです。最近では太陽系形成後でも惑星の周辺に太陽系の素になった星雲ガスが残っていたと言われているんです。この星雲ガスから水素が供給されれば水素の同位体比を変えられるんですよ、奥さん」

「まあ、これは便利ね」

 というように、新たな水素の供給源候補が現れたのらしい。月の形成でも原始地球に衝突した小惑星は1個ではなく、複数回の衝突があったという説が出てきているし、最近は話を複雑にするのが流行っている……わけではなく、観測精度が向上するにつれて細かい矛盾点が明らかになってきているということなんだろう。

 第二に水が地表面に存在すること。現在の火星の表面には川も海もない。水が流れた跡や季節によっては地下から塩分濃度の高い水がしみ出すこともあるらしいのだが、それだけである。水を地表面に繋ぎ止めておくには重力が弱すぎたということだろう。

 第三にそれが液体の水であること。水蒸気や氷になっていたのでは使えない(少なくとも地球型生物には)。金星の二酸化炭素を主成分とする大気には水の雲が存在していて、これが微小な水滴ならばそこに生物がいる可能性があると言われているものの、地表面の平均温度は460度C以上になっているので液体の水は存在できない。

 惑星の地表面の温度は恒星からの放射と惑星からの放熱のバランスによって決まる。恒星からの放射はともかくとして、惑星の方は雲や地表面の反射、二酸化炭素などの温室効果によって変わるのでややこしい。『生命の星の条件を探る』には「実は最近になって、水蒸気の温室効果が従来考えられていたよりも強いことがわかってきました」「なんと太陽放射が2パーセント大きくなるだけで、暴走温室状態になります」と書かれている。しかも太陽の放射は少しずつ強くなっているというデータもあるらしい。地球もいずれは金星のような星になるわけだ。

 ただ、温度条件はともかく、水の存在量については「現在の地球の海洋質量の8分の1以上」であれば液体の水が存在する状態を維持できるのらしい。だいたい太平洋の3分の1、大西洋なら半分くらいだな。地中海程度では足りなそうだが、意外に小さな海でも間に合ってしまうわけだ。しかし、逆に陸地がないと困ったことになるらしい。

 地球の生物が使っている元素の多くは海水中に存在している。水素と酸素は水分子になっているし、炭素は二酸化炭素や炭酸イオンの形で、カルシウム、イオウ、ナトリウム、カリウム、塩素などもイオンの形で海水中に溶け込んでいる。ところが、リンだけは海水中には少ないのに、生物の体には多く含まれているのだ。

 リンという元素はDNAやRNAにも、細胞のエネルギー通貨とも呼ばれるATPにも使われているし、細胞膜も主にリン脂質でできている。しかし、リンは主に地殻の中にリン酸塩鉱物という形で存在している元素なので、地殻が水によって浸食されなければ海に供給されないだろう。地球で生まれた最初の生物はなぜこんな手に入りにくい元素を使ってしまったんだろう? 周期表の一段上には窒素があるのだからそれを使えばよかったはず……ではないな。作者は最初の生物ではないから断言しかねるが、おそらく窒素は使いたくても使えない元素だったのだろう。

 生命誕生以前の地球の大気の主成分は窒素で、他には二酸化炭素と水蒸気くらいだったはずだ(その他に雷放電や隕石が大気圏に突入した時のエネルギーによって生じるシアン化水素やアセチレンのような高エネルギー分子も存在したはずだが、存在量はわからない)。その窒素分子は水に溶けてもイオン化せず、頑なに窒素分子のままなのだ。アミノ酸をバラして窒素原子を取り出すとアミノ酸が不足してしまう。どうしようもないので、わずかながらも海水中に溶け込んでいたリン酸イオンを使うことにしたんじゃないだろうか。つまり、本当に好きな人は振り向いてもくれないので、迂闊に声をかけてきたナンパ野郎を捕まえてしまったというようなものだったんだろうな。



   次回予告

 最強と称えられたダンクレ王も死んだ。

 次回「古生代三国志」女王様のたたりじゃあ。




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     古生代三国志


 軟体動物である頭足類(イカやタコの仲間)は化石になりにくい。アンモナイトの殻などは別だが、その場合でも化石からわかるのは殻の大きさだけで、おそらく死んだ時に抜け落ちてしまったであろう軟体部については推測するしかないことが多いだろう(ナゾロジーというサイトによると、白亜紀後期の「アンモナイトの足の内側には複数の「フック」が含まれていた」とする論文が2021年に発表されたそうだが)。まして4億年以上も前に生きていた頭足類がどんな生活をしていたかなどはほとんどお手上げである。

 主に古生代オルドビス紀に生息していた直線的な殻を持つオウムガイの仲間であるオルトセラス属のカメロケラスについても同様だ。カメロケラスの推定全長は最低でも6メートル、最大で11メートルとされている。マイクロバスの全長が7メートルだそうだから、それと同じくらいか、さらに長いということだ。ある古生物の解説書には「オルドビス紀における最大の動物です。当時の海で最も恐ろしい存在だったことでしょう」とも書かれている。最大のウミサソリでも2メートルクラスと推定されているから長さだけなら最長だろう。しかし、この細長くて固い殻では「最も恐ろしい存在」にはなりようがないだろうと作者は思う。

 市販されている長さ3メートルの物干し竿の重量が1キロくらいのようだから、そういう物を使っている人は一方の端辺りを持って振り回してみて欲しい。そして次は1リットル入りのペットボトル。どちらが振り回しやすいかは明らかだろう。カメロケラスは6メートル以上の物干し竿である。しかもそれを振り回すのは海水を噴射する漏斗だけ。これほど遅く、小回りも効かない体で獲物を追いかけるのは無理だろう。ウィキペディアによると、カメロケラスの殻の開口部から3分の1には軟体部が入っていたので残り3分の2では浮力が足りず、「特に巨大な個体は海底に鎮座し、移動することはほとんどなかったとまで言われている」のらしい。

 海底にいて、ほとんど移動しないとなるとイソギンチャクのような生態になるかもしれない。海底の泥に殻を突き立てて直立し、魚などを補食していたとすれば、先端まで繋がったままの化石が見つかっていないことも説明しやすいし、上へ上へと成長するのにも無理はないのだが……カメロケラスのファンは納得しないだろうな。

「困ったわ。何とかならないかしら……」

「お困りですね。そこでご紹介したいのがこちらの女王様システムです。男どもに貢がせれば、自ら獲物を狩る必要はないんですよ、奥さん」

「まあ、これは便利ね」

 というわけで、ここではオトナになったカメロケラスの雌は海底に横たわったまま産卵に専念し、小型で軽快に動ける雄たちは女王様のためにせっせと獲物を獲ってくるというアリやハチのようなシステムだったと考えることにする。何のことはない。魚ではよくある雌の方が大きい体型と小鳥の雄が雌に対して行う求愛行動としての吐き戻しを組み合わせればいいのである。

 進化のシナリオはこうだ。代表的なオルトセラスは15センチほどだそうだから、カメロケラスの祖先ももともとはそれくらいの大きさだったとしよう。しかし、精子だけを造ればいい雄と違って、雌は卵のために大きな体と多くの栄養を必要とする。ところが、あまり大きくなると獲物を捕らえるための素早い動きが難しくなるのだ。この矛盾を解決するために雌は海底に横たわったまま巨大化し、複数の雄が精子を提供する権利と引き替えに雌に獲物を運んでくるというシステムを構築したのである。これなら雌が6メートルになろうが11メートルになろうが何の問題もない。

 しかし、カメロケラスが女王様システムを構築している間に体長数センチから数十センチで尾びれ以外のひれを持たず、口はただの穴という一方的に狩られる立場だったはずの魚たちが強力な武器を獲得しつつあったのだった。オルドビス紀の次のシルル紀に顎を持った魚たちが現れ、大型化の道を歩み始めたのだ。さらに次のデボン紀後期にはついに古生代の海では最強とまで言われる甲冑魚、ダンクレオステウスが現れる。ダンクレオステウスは軟骨魚類なので頭部の化石しか見つかっていないのだが、推定全長は6メートルから10メートルとされている。このダンクレ王ステウスの強靱な顎に歯はなかったが、ナイフのように薄い骨が歯の代わりをしていたらしい。そんなダンクレ王にとって海底に横たわっているだけで逃げることもできない頭足類の女王様は格好の獲物だったはずだ。殻から出ている軟体部を食いちぎってしまえばいいのだから。

 こうしてカメロケラスの女王様たちは食い尽くされ、ダンクレ王が覇権を握ることになる……と思ったら大間違い。カメロケラスがいなくなると、背中に棘が生えていたり、ひれの前縁が棘になったりしている棘魚類なども襲う必要が出てくる。この棘が口蓋に刺さり、喉を詰まらせて死んだダンクレオステウスの化石も発見されているらしい。また、強力な顎と歯のような形はしていてもしょせんは薄い骨という歯モドキの組み合わせにも無理があったはずだ。カメロケラスを食い尽くして他の獲物を狩るしかなくなったダンクレオステウスがついうっかり岩などを噛んでしまって、歯モドキが欠けてしまうということも多かっただろう。これはつまり骨折である。

 あまりの痛みにのたうち回るダンクレ王を横目で見て「無様ね……」とつぶやきながら死ぬまで生え替わり続ける本物の歯を獲得したのが現生のサメとほとんど変わらない体型の軟骨魚類のクラドセラケである。ウィキペディアの「ダンクレオステウス」のページには「身体の前半部は装甲で重く、泳ぎは緩慢だったと推測される」とも書かれているから、クラドセラケを追いかけて補食するのは無理だっただろう。大型動物は逃げる獲物を追いかけるという狩りには向かないのだ。

 こうして落ちぶれていったダンクレ王にとどめを刺したのがデボン紀後期の大量絶滅である。この災厄によってダンクレオステウスのような板皮類や甲冑魚など多くの海生生物が絶滅し、三葉虫も大打撃を受けた。特に温暖な海域に生息していた種が滅ぶ傾向があったことから、地球の気温や海水温の低下が原因だったのだろうと言われているのだが、寒冷化の原因はよくわかっていないらしい。土屋健先生の『古生物たちの不思議な世界』には「大規模な氷河はその痕跡が確認されておらず、また大陸配置や地球の軌道などの様々な要素を計算しても、氷河が発達する根拠が見いだせていない。二酸化炭素濃度の激減もなぜ、それが生じたのかという理論武装に欠けている。隕石衝突に至っては、大絶滅を引き起こすに足るレベルの隕石が衝突した証拠、すなわち、クレーターがみつかっていない」と書かれている。

 このように科学では説明できないことに対して答を提供するのもSFの役目の一つだろう。ならばあえて言おう。それは逃げることも戦うこともできずに滅んでいったカメロケラス女王様のたたりであると。〔そんなものは科学じゃない!〕



   次回予告

 会話が成り立たない。

 次回「液体アンモニア生物」電子メールでコンタクトしよう。




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     液体アンモニア生物


 今回は水ではなく、液体アンモニアの中で生まれるであろう生物についてのヨタ話をしようと思うのだが、枚数を稼ぐ都合上、2020年に起こったベイルートの爆発事故から話を始めさせてもらう。〔時事ネタはすぐに風化するぞ〕

 2020年8月4日、レバノンの首都ベイルートで巨大なキノコ雲を伴う大爆発が発生した。レバノン当局の発表で死傷者5000人、行方不明者はそれ以上とされているこの大爆発の原因は、ベイルート港の倉庫に6年間保管されていた2750トンの硝酸アンモニウムだったらしい。

 硝酸アンモニウム(NH₄NO₃)というのはアンモニアと硝酸の化合物で肥料や爆薬の原料に使われる白い結晶である。肥料と爆発がどう結びつくのかという疑問を持つ読者も多いと思うが(思ってもらわないと話が進まない)、その説明は窒素分子から始めなくてはならない。

 窒素原子が他の原子と結合するための「腕」は5本あるのだが、通常はそのうちの3本だけを使っている。ということは、窒素分子(N₂)というのはN夫くんとN子ちゃんが三本の腕をしっかりからめているような状態だと言えるわけだ。窒素分子が二酸化炭素と並んで非常に安定した性質を示すのはそのためである。

 したがって、窒素分子からアンモニアを製造するのは大事になる。有名なハーバー・ボッシュ法だと、触媒の存在下で窒素と水素を400~600度C、200~1000気圧で反応させないとアンモニア(NH₃)は生成しないのだ。人間に例えるなら、水辺でいちゃいちゃしていたN夫くんとN子ちゃんに水素原子というピラニアの群れが襲いかかり、うっかり離してしまった三本の腕にそれぞれ水素原子が食いついているようなものである。

※ウィキペディアによると、2010年には「モリブデンを含む触媒により、常温常圧でアンモニアを合成する手法が発表された」そうだ。まいったね。


 このようにアンモニアという分子はかなり無理矢理な反応によって生み出された分子なので、その分大きなエネルギーを内蔵している。アンモニアと空気を適当な割合で混合して点火すれば爆発するくらいだ。

 話は変わって、植物が生育するためには窒素とリンとカリウムが必要なのだが、気体の窒素分子はあまりにも安定しているので利用できない。ああっと、植物が光合成の原料として二酸化炭素を使っているように、窒素ガスを直接利用できる植物が生まれていたら、二酸化炭素から有機物を合成する過程で生じた廃棄物である酸素を硝酸(HNO₃)の合成に使えることになる。そうすると、酸素濃度が上がることははないから、酸素呼吸ができない嫌気性の動物が生まれていた可能性もあったわけだな。〔無理だろ、それは〕

 話を戻すと、気体であるアンモニアは肥料には向かないので、さらにもう一手間、いや、二手間かけることが必要になる。アンモニアを白金触媒の存在下で900度C程度に加熱すると一酸化窒素(NO)が生じる。一酸化窒素は自発的に空気中の酸素と反応して二酸化窒素(NO₂)になるので、これを温水と反応させると硝酸(HNO₃)と一酸化窒素が生じる。これがオストワルド法である。要するに大きなエネルギーによってアンモニア分子から水素原子を無理矢理引きはがし、酸素原子に置換するわけだ。

 さてさて、酸素原子の腕は二本である。それが3個で六本。硝酸分子の酸素原子には水素原子が1個結合しているから残り五本。これでどうして窒素原子と結合できるかというと、硝酸の形になった窒素原子は普段は使っていない奥の手二本を繰りだして酸素原子と結合するのらしい。こういう無茶な事をさせるからまたエネルギーが溜まってしまうわけだ。

 硝酸イオンの形になった窒素ならば植物も利用しやすい……のだが、硝酸は強酸で、しかも液体なので取り扱いが難しい。アンモニアもガスなので高濃度になると粘膜に対して有害である。ところが、この2つを反応させると生じる硝酸アンモニウムは固体なので扱いやすいのだ。硝酸アンモニウムが肥料として使われるようになったのはそういうわけである。〔長い説明だったな〕

 ここまでの説明で見当がつくと思うが、この分子は非常に大きなエネルギーを内蔵しているので、条件によっては窒素と水蒸気と酸素に戻ってしまう。これらはすべてガスで、しかも溜め込んでいた大量のエネルギーが一気に熱に変わるから爆発になるわけだ。さらに硝酸アンモニウムは爆発物としては非常に安定しているというから、大量に保管したり、雑な扱いをしがちなのも大事故に繋がる要因になるだろう。

 予想以上に枚数を稼いでしまったのだが、ここからが液体アンモニア生物の話になる。水分子(H₂O)は水素原子と酸素原子が三角形を形成しているために、2個の水素原子側がプラスに、酸素原子側がマイナスに帯電している。アンモニアも水素原子3個が一方に偏った分子構造になっているために、水分子ほどではないものの水素原子3個の側がプラスに、窒素原子側がマイナスに帯電していて、その点では水分子に近い性質を示すのだ。

 そこまではいいとして、液体アンモニアの融点はマイナス77.73度C、沸点もマイナス33.34度Cである。さらに、アンモニアの海や川ができるためには地殻も必要だから岩石惑星でなくてはならない。となると、太陽系で言えば火星と木星の間くらいの軌道を巡る地球型惑星ということになる。ただし、地球の水のように火山から噴出する水蒸気や彗星や隕石をあてにするわけにはいかない。窒素と水素を主成分とする大気から雷放電によるエネルギーで地道にアンモニアを合成していくしかないんじゃないかと思う。そうなると、生命が生まれるほどの液体アンモニアが溜まるまで数十億年、数百億年ということにもなりかねない。まあ、質量の小さな赤色矮星なら恒星としての寿命が長いから、いつかは液体アンモニアの海ができることもあり得るだろう。

 ただし、そういう低温環境では化学反応が遅くなるから生物の代謝も遅くなる。生命が誕生するまでにかかる時間は長くなるだろうし、知的生物に進化するのにも、文明を築くのにも長い時間がかかるだろう。それでも地球人が滅びる前にコンタクトできる可能性はゼロではない。しかし、そのコンタクトがこれまた大変なことになりそうなのだ。知的アンモニア生物の会話は地球人にはひどくゆっくりしたものに感じられるはずだ。地球人がゆっくり喋るのにも限度があるだろうから筆談か電子メールのやり取りのような形で会話することになるんじゃないかと思う。これではまるで、何十年も前には一般的に行われていた文通である。そうまでして液体アンモニア生物とコンタクトすることに意味があるのかどうかも問題になるだろうな。



   次回予告

 眼よりも口がものをいう。

 次回「アノマロカリス誕生」トゲトゲの大付属肢は痛いぞ。




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     アノマロカリス誕生


 今回はアノマロカリス・カナデンシスを含むラディオドンタ類について踏み外してみよう。ただし、今回の話は完全に作者の思いつきなので、古生物学の世界に「そういうこともあり得る」という認識がある程度広まるまでは口にしない方がいいだろうと思う。

 さてさて、動物は一般的に食べなければ生きていけない。不時着したアストロノートが、その惑星の栄養豊かな海の上に浮かんだまま何年か何十年か漂い続けるというSFを読んだ記憶があるのだが、この場合、ただ海水を飲んでいれば生きられるというのなら、眼や鼻や耳のような食べ物を探すための感覚器官も運動するための手足も必要ない。しかし、口から肛門までの消化器系を含む内蔵はなくすわけにはいかないだろう。となると、その位置も簡単には変更できないということになる。脊椎動物の口が頭部に付いているのも眼や鼻などの感覚器官の近くに口があった方が食べ物を探すのに便利だったからだろう。なお、プラナリアなどの口は腹部中央の腹面にあるのだが、これは栄養を運ぶ血管系の代わりに消化管が前方に一本、後方に二本伸びていて、さらに枝分かれした消化管から体の各部に直接栄養を供給するためらしい。補食することよりも血管を省略することを優先した体制と言えるかもしれない。ちなみに肛門はない。食べかすはまた口から排泄するんだろう。乱暴な表現をすれば、プラナリアは細長くなったクラゲのような生物なのだ。

 話を戻す。まず三葉虫の口器を見てみよう。この章を書くために調べてみたのだが、三葉虫の口器は頭部の腹面にあったのらしい。そしてその口を頭部の前方から伸びるハイポストーマという付属肢由来の板状のものが覆っていたようだ。つまり、三葉虫の口は実質的に後方に向かって開いていたことになる。この口で食べるためには前進しながら有機物を含む海底の泥を脚でかき回して脚の前方にある口で吸い込むという形が基本になるはずだ。この時、巻き上げた泥が前方から流れてくる海水で後方へ押し流されてしまっては困るので、それを防ぐために付いていたのがハイポストーマなのだろう。ハイポストーマがあることで後方にある脚から口の方へ向かう流れが生じるのだ。

 ラディオドンタ類の口器も同じように頭部下面にあったようだ。その後のオルドビス紀に現れるウミサソリの口器も同じような位置にあるから、下向きに付いている口器にも何かしらの利点があったのかもしれない。もちろん現代では口器が頭部の前下方に位置する(前方から口器が見える)動物が多数派だから、古生代限定の利点だったのだろうが。

 さて、ここからは完全にSFだ。5億年前の海でどんな進化が起こったのかを想像してみよう。

 その物語は海底を這いまわって泥を吸い込んでいた1匹の節足動物から始まる。彼こそはラディオドンタ類と三葉虫の共通祖先である。ある日、彼は海中を泳ぐ魚の祖先や小型の甲殻類たちを見上げながら考えたのだった。「なぜ俺は毎日毎日泥なんかを食べ続けなければならないんだろう? なぜあそこを泳いでいる連中みたいに泳ぐことができないんだろう?」と。

 考え抜いて出た答は「こんな生活を続けなくちゃならない理由なんか何もない!」だった。意を決した彼は二叉型付属肢を必死に動かして海底から舞い上がった。

 しかし、理由はあった。海中ではどんなに二叉型付属肢で水をかいても下向きの穴でしかない口には十分な量の獲物が入ってこないのだ。彼は泣きながら海底の泥の上に戻るしかなかったのだった。海底に戻った彼の子孫の一部は二叉型付属肢のうちの二本を板状に変化させて、その後ろの脚で巻き上げた有機物を含む泥を効率よく口に運ぶ方向へ進化する。これが三葉虫である。

 それとは別に蠕虫(ミミズやゴカイのような体型の動物たち)のような大型の獲物を捕らえるために二本の付属肢を棘の生えた大型のものに変え、口器にも獲物を逃がさないために缶詰のパイナップル形の歯を獲得した者たちもいた。こちらがラディオドンタ類の祖先だ。

 しかし、まだ多くの二叉型付属肢が残っている。このままでは海底を這う捕食者にはなれても遊泳型のアノマロカリスにはなれない。遊泳専門なら歩行用の内肢はなくてもいいのだが、呼吸用のえらと推進器官を兼ねている外肢をなくすと呼吸も遊泳もできなくなってしまうのだ。作者はラディオドンタ類の祖先にもコペルニクスのような天才がいて、固い外骨格を脱ぎ捨ててしまえば柔らかい皮膚の表面で呼吸ができることに気が付いたのではないかと思っている。〔おいおい〕

 さらに呼吸能力を向上させるために大面積のひれを獲得すれば遊泳能力も向上する。あるいは逆に、遊泳能力を高めるためのひれが呼吸にも使えたということなのかもしれない。いずれにせよ、一石二鳥で高い遊泳能力と呼吸能力を両立させることに成功したのだろう。ただし、これは見方を変えれば、泳ぎ続けないと呼吸ができなくなるということでもある。アノマロカリスは休むことを許されないサメのような動物だったのだ。

 カンブリア紀は眼を持った動物たちが生まれた時代であるのらしい。ラディオドンタ類はそんな世界に初めて登場した遊泳型捕食者だった。だからこそ成功し、大型化もできた。しかし、彼らはしょせん「捕食者の試作品」でしかなかった。彼らに続いて現れたウミサソリの多数の脚の方が獲物をしっかりホールドできただろうし、縦長の口を囲んでいる脚の付け根部分には獲物を噛むことができる顎器を形成していた。この辺りにラディオドンタ類がウミサソリに敗れた要因がありそうだ。いわゆる「口では負ける」というやつである。〔そういう意味じゃない!〕

 ああっと、これでは尺が足りないな。もう一歩踏み外すことにしよう。

 今はまだ無理だろうが、アノマロカリスの知名度がもっと上がって、恐竜並みに有名な存在になったら、カニやトンボなどの節足動物の中に眠っている遺伝子を目覚めさせてアノマロカリスを蘇らせるというお話が書けるかもしれない。三葉虫やオパビニアなどといっしょにアノマロカリスを展示する施設を舞台にしたサバイバル物だ。タイトルはもちろん『カンブリアンパーク』である。〔パクりはよくないぞ〕

 クライマックスでは、脚がないという弱点を逆に生かして、さらに大型化したひれを羽ばたかせ、空中を飛ぶ能力を獲得するまでに進化した全長1メートルのアノマロカリスの群れが水槽から逃げ出して人間たちに襲いかかってくるのだ。トゲトゲの大付属肢は痛いぞ。〔缶詰のパイナップル形の歯で囓れるのは指先くらいだろうが!〕



   次回予告

 アノマロカリスは見た。

 次回「5億年前の視覚」何を?




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     5億年前の視覚


 まずは大事なお知らせ。前回は「アノマロカリスの大付属肢」という表記にしたのだが、アノマロカリスに代表されるラディオドンタ類のそれは収斂進化によって他の化石節足動物の大付属肢と似たものになっただけらしい。

 ウィキペディアでは「アノマロカリスの前部付属肢」という呼称を使っているし、さらに「アノマロカリス類の前部付属肢の神経は前大脳(先節)に対応し、有爪動物の触角と真節足動物の上唇に相同であることが示唆される」とも書かれている。三葉虫のハイポストーマが現生節足動物の上唇にあたるということらしいので、三葉虫とラディオドンタ類の共通祖先が持っていた多数の脚のうちの二本を、三葉虫は1枚の板状のハイポストーマに変え、ラディオドンタ類は多数の関節を持つ前部付属肢に変えたということなんじゃないかと思う。この間捕まえたバッタの後脚にも多数の棘が生えていたから、前部付属肢さえできてしまえば、そこにいろいろな形の棘を生えさせるのは簡単なのだろう。


 さて、本題に入ろう。今回はアノマロカリスは世界をどのように見ていたのかということについて考えてみよう……と思ったのだが、その前に「見る」ということについておさらいしておく必要がありそうだ。

 ウィキペディアによると、「視覚とは、光のエネルギーが網膜上の感覚細胞に対する刺激となって生じる感覚のことである」「脊椎動物の神経系では、可視光は網膜において符号化され、外側膝状体(LGN)を経て大脳皮質において処理される」のだそうだ。また、人工視覚として「失明を含む視力障害者にカメラが撮影した画像などを電気信号として脳や視神経に送ることで不完全ながら視覚を獲得させる技術・機器が研究されている」とも書かれていた。つまり、視細胞はただ光の強さを感じているだけであり、視神経を流れているのもただの神経電流であって、その信号から「眼の前にはこういうものがあるに違いない」と思うのは脳の働きなのだ。だから動いていないものが動いて見えたり、そこにはない染みが見えたりというような錯視現象が起こるのだろう。また、幽霊の存在を信じている人には見える幽霊が信じていない人には見えないという現象もこれで説明できる。つまり、眼からの信号ではなく、脳内で発生したノイズこそが幽霊なのだ。いわゆる「幽霊の正体見たり、脳内ノイズ」というやつである。〔ことわざをねつ造するんじゃない!〕

 そこでアノマロカリスの脳はというと、これが蠕虫(ミミズのような体型の動物たち)程度のものだったらしい。もちろん脳の構造が原始的だったとしても、その機能まで原始的だったとは言えない。眼を持った捕食者であるからには視覚情報を狩りに利用できるだけの情報処理能力は持っていたはずだ。

 アノマロカリスの脳が世界をどのように見ていたのかはわからない。なにしろすでに絶滅している動物だ。そうなると、今も生きている節足動物たちの視覚から類推していくしかない(作者は脊椎動物なので限界はあるのだが)。

 ヒトは三色型色覚を持っている。これは赤と緑と青に対応する錐体細胞を持っているからだ。しかし、哺乳類の祖先は中生代の夜行性の小動物だった時代に四色型から二色型に変わってしまったのらしい。その後、明るい森の中では緑色の葉の中から熟した果実の赤色を識別できた方が有利だったために霊長類だけが三色型の色覚に戻ったのだそうだ。

 それに対して、ミツバチの色覚はカール・フォン・フリッシュ先生が明らかにしたように紫外線・青・緑の三色型だ。これは複眼を構成している小さな個眼では赤色側(波長が長い側)の光は回折現象のためにきれいな像ができないので色覚が全体に短波長側へシフトしているためらしい。そしてアゲハは紫外線・青・緑・赤の四色型色覚だそうだ。この2種は逃げることのない花を目指して飛んでいけばいいので、この程度の色覚で十分なのだろう。

 ところが、現代の海に生息している捕食性の節足動物であるシャコは12色を見分けられるのらしい。これは獲物と背景のわずかな色の違いを感知するための適応だろう。つまり、シャコは色によって獲物を見つけているということだ。もっとすごいのが同じく捕食性のトンボの仲間で、アキアカネは16種類の色覚タンパク質用遺伝子を持っているらしい。さらにギンヤンマになると30色だ! 色鉛筆のセットを使いこなせるような色覚だが、トンボの場合は子虫が水中生活者なので水中用と空中用の色覚遺伝子を持っているということかもしれないとのことだ。

 さてさて、ここからはSFだが、5億年前のアノマロカリスもシャコやトンボのように多数の色を見分けていたのではあるまいか? 砂や泥の上にごくわずかに色合いの違う物があったならば、それは獲物かもしれないから、とりあえず前部付属肢で捕まえてみるというのがアノマロカリスの狩りだったのではないかと作者は思う。

 その証拠の一つがウィワクシアとマーレラである。最近では軟体動物ではないかと言われているウィワクシアは全長25~50ミリの楕円形の動物で、背面は多数のウロコ状の骨片で覆われ、そこから左右に分かれて10本前後のナイフ状の棘が生えていた。この骨片や背面の棘には幅数百ナノメートルの微細な溝があり、生きていた時にはCDやDVDの裏側のように虹色に光っていたのではないかと言われている(構造色という)。体長20ミリ未満のマーレラも頭部から伸びている2対の長い突起の外側のものに微細な溝があり、これも虹色に光っていた可能性があるという。

 こんなもの目立ってしょうがないだろう、と人間は思ってしまうのだが、キチン質の層構造によってCDのように色が変化するタマムシは天敵である鳥に避けられるのだそうだ。四色型色覚を持つ鳥は「色が変化するもの」を怖がるのらしい。四色型の色覚でそれなら、もっと多くの色を見分けていたであろうアノマロカリスがウィワクシアやマーレラに接近していくと、赤だった部分が緑や青へ、またその逆へとめまぐるしく色が変化して狙いを外されてしまったのだろうと思う。つまりタマムシと同じで目立つことで身を守るというやり方である。無理を承知の上で人間の感覚に置き換えるなら、向こうからやって来る人の顔がヒゲぼうぼうからのっぺらぼうまで連続的に変化するようなものだろう。そんな妖怪顔変化が現れたら、たいていの人間は逃げ出すに違いない。

 とは言っても、ウィワクシアの化石には棘を囓られたものもあるらしいから、完全な防衛策にはなっていなかったようだ。まあ、棘くらいなら囓られたところでどうということもなかっただろうし、トカゲのしっぽのように本体に代わって攻撃を受けるための器官だったかもしれないのだが。



   次回予告

 大変だ! タンパク質起源説のアドバンテージがなくなってしまう。

 次回「RNA起源説の逆襲」大日本帝国が太平洋戦争に勝利するようなものだが。




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     RNA起源説の逆襲


 困ったことになった。『別冊日経サイエンス 生命の起源 その核心に迫る』というムックを手に入れてしまったのだ。この本はタイトルの通り、生命の起源についての記事を集めた特別編集版なのだが、その6ページめからいきなり「分子から生命へ」という見出しで、RNAの四種の塩基、アデニン(A)・グアニン(G)・シトシン(C)・ウラシル(U)のうち、CとUのリボヌクレオチドを生命誕生以前の地球のような環境下で合成することに成功したという記事が掲載されていたのだ。さあ、大変だ。タンパク質起源説がRNA起源説に対して持っていたアドバンテージがなくなってしまう……と思ったら大間違いだった、というのが今回のテーマである。

 作者は『次回予告1』で地球における生命誕生を陸上競技の100メートルに例えて、増殖するタンパク質が無生物的に生じる過程と自己複製ができるRNAが生成する過程を比較している。タンパク質の原料であるアミノ酸は、少なくともその一部が隕石などにも含まれている、宇宙ではありふれた分子であるのに対して、核酸塩基とリン酸とリボース(糖の一種)でできているリボヌクレオチドの場合はせいぜい核酸塩基とリボースしか見つかっていない。リン酸は地殻から供給されるにしても、この3種類の原料を地球上で、しかも正しい位置で結合させないとリボヌクレオチドは生成しない。つまり、RNAはアミノ酸の待っているスタートラインにたどり着くまでに何十キロか何百キロか余計に走らなければならないはずだ。長距離走でへろへろになったリボヌクレオチドなどアミノ酸の敵ではないと作者は思っていたのである。

 このムックによると、2009年春にマンチェスター大学のサザーランドらが「ヌクレオチドが自然に生成しうる方法を見つけたと発表したのだ」という。「彼らの方法はシアン化物、アセチレン、ホルムアルデヒドの誘導体など、以前に使われていたのと同じ材料から出発している。ただ、別々に作った塩基とリボースを後から結合させるのではなく、出発材料をリン酸と一緒に混ぜ合わせた」「複雑に絡み合った反応のいくつかの段階でリン酸が重要な触媒として作用し、2-アミノオキサゾールという小さな分子ができた。この分子は糖の断片が塩基の一部に結合したものと考えることができる」のらしい。

 この2-アミノオキサゾールというのは、オキサゾール(水素原子1個が結合した炭素原子3個と酸素原子と窒素原子でできた環状の分子)の酸素を1番として、2番の炭素に結合している水素をアミノ基(-NH₂)に置き換えた分子である。ちなみに3番は窒素、4番と5番は水素が結合した炭素で、5番の炭素が1番の酸素に結合しているという構造になっている。この説明ではイメージしきれないという人はウィキペディアの「オキサゾール」のページに掲載されている構造式を参考にして欲しい。

 この2-アミノオキサゾールという分子は安定している上に非常に蒸発しやすいという特徴があって、いったん蒸発してからまた液化することによって不純物(デタラメな構造のがらくた分子群)から分離することができるということらしい。で、さらにリン酸基の存在下で反応が進むと「完全な形の糖と塩基が互いに結合したものができあがった」のだそうだ。その上、この連鎖反応の重要な特徴として、初期に作られた副産物の一部が後の段階の変化を促進し、また原始地球の浅瀬に降り注いでいた太陽からの強烈な紫外線が同時に生成した糖と塩基が正しくない位置で結合した分子を破壊してしまうので、不純物が混じることなく塩基のCとUが生成するとしている。つまり、今までとはまったく異なる巧妙な反応経路で2種のリボヌクレオチドを高純度で合成することができたというわけだ。車の製造に例えると、まず大ざっぱにキャビン部分を作って、不良品を取り除いてからボンネットとトランクを結合するようなものだろう。素晴らしい。

 しかし、このRNA起源説派にとっては非常に有益であるはずの情報がウィキペディアの「生命の起源」のページには採用されていないのだ。これはいったいどういうことなんだろうか? 

 作者はプロの研究者ではないので理由を推理することまでしかできないのだが、これはRNAに使われている4種類の塩基(A・G・C・U)の半分だけができても意味がないということなんじゃないだろうか。考えてみて欲しい。前の2輪だけ、あるいは後ろの2輪だけしか付いていない4輪車があったとして、それは何かの役に立つだろうか? RNA起源説派の人たちも、例え多数のがらくた分子群の中から選び出すことになったとしても4種のリボヌクレオチドが同時に生じなければ使い物にならないと考えているのだろう。原始地球のどこかで残り2種のリボヌクレオチドがまったく異なる反応経路で生成していたとしても、それらと出会うまでCとUのリボヌクレオチドが無事でいられるという保証もないだろうしな。

 この記事の後半部分には粘土の表面に吸着された状態であれば、単体のリボヌクレオチドが次々に重合していけるだろうとも書かれているのだが、これはアミノ酸が重合するのにも使える話だし、どこか他の場所で生成したAとGのリボヌクレオチドも粘土に吸着されてしまったら4種が揃う確率はほぼゼロにまで低下してしまうはずだ。これでは生命誕生の謎の解明に繋がる実験結果ではないと判断されてもしかたないだろう。

 ああっと、2種類の核酸塩基だけでできたRNA生命体というのもSF的には面白いかもしれないな。地球の生物が使っている3塩基コドンの代わりに5塩基で1つのアミノ酸を指定するということにすれば20種類のアミノ酸を問題なく指定できるはずだ。ただし、これだとDNAが1.7倍くらいの長さになってしまうからコピーミスやmRNAへの転写ミスが増えてしまうだろうが。しかし、そうなれば進化も加速されるはずだ。それはそれで面白いことになるだろう。

 このムックでは「銀河系のハビタブルゾーン」についても論じられている。太陽系のハビタブルゾーンは「惑星の表面に液体の水が存在できる領域」と言うような意味になるわけだが、銀河系にも重元素の存在量・恒星の衝突確率・超新星爆発の確率などによるハビタブルゾーンが存在していて、それは太陽系を含むドーナツ状の領域になるだろうというのがこの記事の論点のようだ。「銀河系の中心に近い部分では軌道の不安定性、放射線バーストと彗星の脅威などに苦しめられる。外側の部分は比較的安全だが、金属量が少なくなるために地球型惑星は小さいものしかできない」ということらしい。軌道が不安定というテーマは劉慈欣先生の『三体』で使われてしまったが、放射線バーストや不定期に襲来する彗星などの災厄に耐えながら生きている生物とか、恒星系から放り出されてしまったものの、豊富な放射性元素による地熱エネルギーを利用して文明を維持している放浪惑星とかのSFならまだまだ書けるぞ。



   次回予告

 謎はまだ解かれていない。

 次回「狂牛病の死角」プリオン病発症のメカニズムを追う。




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     狂牛病の死角


 古書店で『〇〇〇〇説はほんとうか?』という本を見つけた。もちろん、1997年にP氏がノーベル賞を贈られたプリオン説の解説書である。なお、著者のH氏は反P氏派らしいので、念のためにP氏の下で研究をしていたというK氏が書いた『〇〇〇〇病の謎に挑む』も追加で読んでいる。

『〇〇〇〇説はほんとうか?』では第一章からヒツジのプリオン病であるスクレイピーや狂牛病の歴史、感染源は肉骨粉であること、プリオン病とは何か、アルツハイマー病との違い、病原体による感染症であるにもかかわらず免疫反応が起こらないこと、ニューギニアのフォレ族で死者を食べる風習によって発生していたクール-病、P氏の仮説や実験方法に対する疑問などが理路整然と述べられていく。この辺りには証拠を集めて真犯人を追い詰めていく過程のような面白さがあるのだが、最後の第九章で、プリオン病の病原体はごくゆっくり増殖するスローウイルスであろうという仮説を立ててウイルスの核酸を検出する実験をしてみたものの、「発症に直接関係する核酸を捉えることはできなかった」で終わることになる。科学はきちんと構築された小説のような結末にはならないこともあるのだな。

 もっとも、『〇〇〇〇病の謎に挑む』にも「異常型プリオンタンパク質が正常型を異常型に変化させるのだ」というP氏派の立場で、異常型プリオンタンパク質が正常型を異常型に変化させやすくなるように正常型の構造をほどく働きを持っているであろうタンパク質「プロテインX」を探してみたものの、結局見つけられなかったと書いてあった。要するにプリオン病の発症メカニズムはいまだに解明されていないのだ。P氏のノーベル賞は、ただ単に審査員に気に入られたというだけのことだったんだろう。〔おいおい〕

 さて『〇〇〇〇説はほんとうか?』だが、読み進めていくうちに気になる記述が見つかった。「草食動物であるはずの牛は、実は、人為的に食物連鎖を組み替えられて肉食を強いられていたのだった」というのだ! なんとまあ、F氏はウシが哺乳類であることを知らないのらしい。と思っていたら、『〇〇〇〇病の謎に挑む』にも「英国を中心としたヨーロッパで、なぜ18万頭余という大規模なBSE(牛海綿状脳症)の発生がおきたのかという点を考えると、これは肉骨粉を介した共食いの問題ともいえる」と書かれていたのだった。やれやれ、分子生物学者や感染症の研究者というものは分類学の知識がなくても勤まってしまうものらしい。〔いらないんだろ、そんな知識は〕

 すべての哺乳類はその名の通り、母乳しか摂取しない期間がある。もともとは血液である母乳は完全に動物性食品であり、そういう意味ではウシもヒツジもライオンやトラと同じ肉食動物なのだ。草食の哺乳類というのは二次的に草も消化できるように進化した肉食獣というだけのことでしかない。実際、肉骨粉を与えると成長が促進されるのらしい。そもそも食べられないものなら食べようとしないだろうし、食べても消化できないのなら成長が遅くなるはずだ。そんなものを酪農家が家畜に与えるわけがあるまい。

 気になる記述はまだある。『〇〇〇〇説はほんとうか?』では正常型プリオンが異常型へ変化するとしても、そのエネルギーはどこから供給されているのかということも問題にしている。「理論的にはタンパク質は、エネルギー的にもっとも安定した構造を自動的に取ることで、立体構造を完成させる(アンフィンセンの原理)。正常型プリオンタンパク質もおそらくエネルギー的にもっとも安定な構造を取っているはずである」というのがそれだ。しかし、その前には「異常型プリオンタンパク質は凝集性の不溶体を形成してしまうので、これを再び可溶化してNMR(核磁気共鳴分光法)に供したり、さらには結晶化してX線解析を行うのは至難の業であり、世界中でまだ誰も成功していない」とも書かれているのだ。作者は元化学屋なのでそのせいかもしれないが、個人的には「水溶性のタンパク質」と「凝集性の不溶体を形成するタンパク質」では後者の方がより安定しているような気がする。だいたい、アンフィンセンがノーベル賞を贈られたのは1973年であるのに対して、他のタンパク質が正しい立体構造になるように手助けするシャペロンタンパク質の存在が報告されるのはそれ以後のことになるのだし。分子生物学者ならこの程度の知識は持っているはずだと思うのだが……ただの不注意なのか、それとも意図的に見落としたのか? 

 ただし、『〇〇〇〇病の謎に挑む』に掲載されているプリオンタンパク質の立体構造の図にも問題があって、左側の正常型はともかく、右側の感染型の図(これはノーベル賞のパンフレットにも使われたそうだ)は正しくないことが後で確認されている。つまり、P氏は「素人にはわからないだろう」と考えて感染型の構造をでっち上げたということだ。

 どうもP氏は研究者というよりも山師というタイプのような気がする。そもそもP氏が「タンパク質だけからなる、まったく新しいタイプの病原体プリオンが、多くの重要な病気の原因である可能性が高い」と発表したのは『サンフランシスコ・クロニコル』という新聞だったのだ。同時に『サイエンス』という科学雑誌にも投稿していたらしいが、どう考えても新聞の方が先に発行される。これは狙ってやったとしか思えない。おそらく「大発見だぞー!」と大声で騒いで研究を続けるための資金を集めようとしたのだろう。ノーベル賞は計算外だったのではないかな。

 まあ、研究者の人間性や倫理観などどうでもいい。作者が興味を持っているのはプリオン病の発症メカニズムだ。作者は細胞学や病原体の専門家ではないが、それは同時に専門家には見えないものを見付けるかもしれないということでもある。ならば、あえて一歩踏み外してしまおうではないか。

 まずは2つの「もしも」を導入しよう。第一にプリオンタンパク質は異常型が最も安定した構造であるということ。つまり、正常型は時間が経つと自動的に異常型に変化していくということだ。

 第二に、本来、正常型プリオンタンパク質は異常型に変化するまえに細胞自身によって分解されるものだということ。正常型が減った分は新たに補充されていれば問題はない。これはH氏の大好きな動的平衡の状態だと言えるだろう。そこへ体外から大量の異常型プリオンタンパク質がもたらされると、この非常に分解し難くなってしまったタンパク質まで分解しようとするために正常型の分解が間に合わなくなって異常型が溜まっていき、最終的にプリオン病を発症することになるという考え方である。

 こういう発症メカニズムがると仮定すれば、潜伏期間が異常に長く、30分煮沸しても死なない、ホルマリンなどで化学処理をしても強い病原性が残る、紫外線にも強い抵抗性を示すという不死身のスローウイルスも、正常型プリオンが異常型に変わるのを手助けする裏切り者のプロテインXも必要ないのだ。



   次回予告

 あたしにかまわず逃げて!

 次回「ブラックホールの情報パラドックス」できないわよ、そんなこと!




     『次回予告3 前編』に続く

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