ひとつだけです。
ハリエットの朝の仕事は、キャリーヌの朝のお茶と洗顔用のお湯を用意することから始まる。
厨房でお茶のポットとカップを用意し、お茶と洗顔用にそれぞれお湯をもらう。用意したものをワゴンに載せ、キャリーヌの部屋まで運ぶ。特別な用事がない限りは毎朝決まった時間にキャリーヌの部屋へ入り、朝日が入るようにカーテンを開け、薄く花の香りをつけたお茶を淹れ、お湯に水を差してちょうどよい温度に整える。
少しすると、ハリエットが動き回る気配と朝日の眩しさでキャリーヌが目覚める。寝ぼけまなこで体を起こしたキャリーヌにお茶を渡し、お茶を飲み終わったら顔を洗わせる。大体この辺りで、目を覚ましたキャリーヌから「おはようハリエット」と声がかかる。
キャリーヌの普段着をいくつか出し、今日はどれを着るのかを確認する。流石に裕福な家庭の娘なので、キャリーヌは毎日違う服を着られるくらいには普段着を持っているのだ。
「キャリーヌ様、今日はどちらになさいますか?」
「今日は……そうね、オレンジの縞のにするわ」
「かしこまりました」
これはハリエットが前任者のフィオナから引き継がれたことの一つだが、キャリーヌは気分が上がらないときほど明るい色味の服を着たがる傾向がある。
今日キャリーヌが選んだオレンジの細かい縞のベストとスカートは、彼女が持っている普段着の中では上から数えた方が早いくらいの明るめの服だ。袖をふんわりふくらませたクリーム色のブラウスを合わせると、五月に咲く花のように華やかな雰囲気になる。似合わないことはないし、もちろんかわいらしいのだが、ハリエットがキャリーヌ付きになってから初めて選ばれた明るい服だった。
――昨日、何かあったのかしら。ハリエットはほんの少し眉を寄せた。
昨晩、キャリーヌは久しぶりに屋敷の主人である父親と夕食を共にした。キャリーヌが食堂で過ごす間は別の使用人が給仕をするので、ハリエットは寝る前の準備を整え自分も簡単に食事を取っていた。つまり、久しぶりに揃った親子が何を話していたのかを知らないのだ。
何かしら事件があればキャリーヌ付きのハリエットのところにも話が回ってくるはずだが、昨晩も今朝もそれらしき話は聞かなかった。(以前キャリーヌが父親を食事をしているときに突然泣き出して中座したときは、あっという間に話が回ったのだが)
『キャリーヌ様は基本的に素直で言いたいことを言える方だけど、ときどき悩み事をため込んでしまうの。何か思い悩んでいそうだな、と思ったら気をつけてくださいね』
引き継ぎを受ける際、フィオナから言われた言葉を思い出す。あらかた仕事内容を覚えた後に引き継ぎをと言うから、余程細かな好き嫌いがあるのかと思えば、フィオナが話した内容は主にキャリーヌが好きなお菓子やお茶と、彼女が落ち込んでいるときの兆候についてだった。
前任の彼女はただ身の回りの世話をするだけではなくて、主人の内面もしっかり支えていたらしい。果たして自分にそこまでのことができるのか、キャリーヌ付きになってまだ間もないハリエットには自信がなかった。
「キャリーヌ様、今日はブラウスと同じクリーム色のリボンで髪を結いましょうか」
服を着替え、ぼうっとした表情で鏡台の前に座ったキャリーヌに声をかける。ただ寝ぼけているわけではなさそうだ。
ハリエットはキャリーヌが熱心に集めているリボンの並ぶ引き出しから、クリーム色のシフォンリボンを取り出した。軽い素材のリボンなら、たっぷり使っても重たい印象にならないのだ。複雑な髪型はまだ練習中だが、ハリエットが唯一できる、こめかみから髪の毛を編み込んで後ろでひとつにまとめる髪型はキャリーヌもお気に入りだった。編み込みにもリボンを入れてまとめたところに大きく蝶結びをすれば、服に負けないくらい華やかになるだろう。少しでもキャリーヌの気分が上がればいいと思って、彼女の髪の毛に手を付ける。
「ありがとう、ハリエット。お願い」
ハリエットが髪の毛にブラシを通しはじめてからやっとそう答えたキャリーヌは、やはりどこか上の空だった。念のため、昨夜給仕を担当した使用人に確認しておいた方がいいのかもしれない。ハリエットは無心に手を動かしながら、キャリーヌを見送った後のことについて考え出した。
◇ ◇ ◇
「いらっしゃいませ。……あら」
「こんにちは」
客を迎える準備のできた防具店に最初に入ってきたのは、前日店を訪れたばかりの金髪の青年だった。遺跡に入る準備を整えてきたのか、昨日はなかった装備をいくつか身に着けている。その一つひとつが、どれも丁寧に手入れされている。つまり、店の品物に用はなさそうだ。
「今日は何のご用件でしょうか?」
「そんなに警戒しないでください」
昨日は少し慣れ慣れしい口調だった青年が、苦笑いで答える。キャリーヌが警戒していることをわかっているのか丁寧な口調に戻っていた。取り繕った感もない柔らかな物腰が、やはり一般的な探索家とは違う。この人、本業は別にあるのかしらとちらりと思う。
「今日はちゃんとした用事ですよ。午後に遺跡に入るんですが、店主の方に話を聞きたくて来ました。いらっしゃいますか」
「ルーカスさんね。お待ちください」
青年はどうやらまっとうな用事があって訪れたらしいと知って、キャリーヌはほっとした。自意識過剰と言われてしまえばそれまでだが、今日も食事に誘われたりしたらどうしようと少し身構えていたのだ。
オレンジのスカートを翻して店の奥へ入るキャリーヌを、青年は目で追いかけていた。
「ルーカスさん、昨日も来ていた方が来ているんですけど。ルーカスさんに遺跡について聞きたいんですって」
「あー? んなもんここじゃなくても聞けるだろ」
奥で品物の在庫を確認していたルーカスが頭を掻きながら出てくる。その言葉が聞こえたのか、店内で待っていた青年は両手を広げて答えた。
「それが、私がよそ者だからか喋ってくれる人はほとんどいませんでした。せめて階層ごとの傾向くらいは知りたいんですが」
「なるほどな……もうそんなことになってんのか」
「どうやら私が一番乗りみたいですね。遺跡の利益を取りに来たって、相当冷たい目で見られましたよ」
やれやれと首を振った青年に、ルーカスが来客用のソファを顎で示す。どうやら腰を据えて話をすることにしたらしい。それならお茶を用意しないと、とキャリーヌが店の奥に入ろうとしたところで、背後から「あの」と青年の声がかかった。
「君の名前を聞いても?」
「え……?」
キャリーヌは今日初めて、青年の目を真正面から見つめた。はっきりとした青い目だ。綺麗だった。きっと町で見かけたらついつい目で追いかけてしまうような人だ。でもキャリーヌが見つめたいのは、この瞳じゃない。
「……キャリーヌ・エルシックです。私はルーカスさんの娘じゃないわ。この店を経営しているエルシック社の、社長の娘です」
青年の目が少し見開かれる。ただキャリーヌとだけ答えればよかったのに、キャリーヌはどうしてか自分の父親のことまで告げていた。自分の身分を明かすことで、相手の立場を図りたかったのかもしれない。
「そうだったんですね。……昨日は失礼なことを言って申し訳ない。私はアーロンといいます」
整った顔に一瞬浮かんだ驚きはすぐに消え、青年は完璧な微笑みを浮かべた。今日初めて、取り繕ったように見える笑顔だった。やっぱり何も言わない方がよかったのだろうか?
キャリーヌは「アーロンさんね。どうぞおかけになってください」と返して、今度こそお茶を淹れるために店の奥に入った。
◇ ◇ ◇
「お帰りなさいませ、キャリーヌ様」
ハリエットの声がする。防具店での仕事を終え、考え事をしながら帰り道を歩いていたキャリーヌは、その声でいつの間にか屋敷についていたことに気が付いた。「お疲れですか?」と心配そうな顔をするハリエットに、「少しだけね」と笑って答える。笑ったはずなのに、ハリエットはますます眉間を寄せた。
アーロンは不愉快な人ではなかった。それどころか話していて楽しい人だったし、キャリーヌの知らない知識をひけらかしたり、偉そうに語ったりもしなかった。
どうやら新しく町に来た若者というだけで、元々この町を拠点にしている探索家に受け入れられてないらしい。実際に反感を抱いているのは一部でも、もめ事に巻き込まれたくないがために、アーロンのことを見て見ぬふりをする層もいるらしい。前途多難なようだが、うまくいけばいいと思うくらいにはアーロンに肩入れしたくなっている自分がいた。それだけ魅力的な人物ということなのかもしれない。
(でも、私が会いたいのはあの人じゃない……)
アーロンは確かに素敵な人だった。背も高いし、鍛えられた体をしているし、金髪も青い目も綺麗だ。立ち振る舞いやキャリーヌへの接し方だって紳士的だった。けれど、アーロンの素敵なところを見つけるたびに、キャリーヌは心の中でジダンを思い出した。そうして、ジダンに会いたいと思った。
離れているからか、ほんの少しのこともジダンに全て話したくなる。でも同時に全部隠しておきたくもなる。どんな気持ちでいるのか知ってほしいけど、どんなことを考えているのかには気づかれたくない。忘れないでほしい。いつも考えていてほしい。でも、嫌な私には気づかないで。
その夜、キャリーヌはジダンに手紙を書いた。寝る直前に書いた手紙は、少々感傷的な気分も相まって思い返すと恥ずかしい内容になってしまったのだった。