一応、はい。
「キャリーヌ、ちょっと来てくれるか」
店頭に立っているルーカスに呼ばれて、従業員用の小部屋でお昼のサンドイッチを頬張っていたキャリーヌは急いで口に入っていたパンを飲み込んだ。一口お茶を飲み、口の周りをハンカチで押さえてパンくずがついていないか確認すると、店頭へ顔を出す。
今日のキャリーヌは薄い緑色のブラウスに、同じ色の張りのある布地をたっぷり使ったスカートを着ていた。ブラウスの胸元とスカートの裾を飾るフリルには濃い緑色の糸で刺繍が入っており、よく見ると凝っているデザインがお気に入りだ。やや赤みのある麦わら色が映えるので、髪は結わずによく梳いて下ろしていた。
「はい、何かしらルーカスさん」
ルーカスはカウンターで客の持ち込んだ防具を確認していた。来ていた客はキャリーヌも顔見知りの常連だ。笑顔で挨拶をすると、仏頂面のまま頷き返してくれる。初めのうちはにこりともしない客が苦手だったが、愛想のよい探索家の方が稀だと気づいてからはキャリーヌも気にしなくなった。
「今こっちの直しを確認してるから、客の相手してくれ」
ルーカスが顎で指した方には、普段店に訪れる客層からすると若めの――恐らくジダンより少し年上くらいの青年が立っていた。短い金髪で背が高く、がっしりとした体格をしている。キャリーヌが知る限りでは初めて来店する客だった。町で働く若者とは異なる服装から、探索家であることは見て取れる。これが顔なじみの客なら一言声をかけて待ってもらうのだが、見ない顔なのでそうもいかなかったらしい。キャリーヌは任せて、とルーカスに頷いてから、青年に近寄り声をかけた。
「いらっしゃいませ。今日は何かお探しですか? それとも装備のお手入れをご希望ですか?」
手持ち無沙汰に窓の外を眺めていた青年は、キャリーヌから声をかけられたことに少し驚いたらしい。キャリーヌを見下ろして何度かまばたきをしてから、苦笑した。振り向いた青年の目は、綺麗な青をしていた。
「ああ、すみません。最近この町に来たので、今日は下見のつもりです。しばらくこの町を拠点にするつもりなんですが、防具の手入れをお願いするならここが一番いいと聞いて。これからお世話になりそうなので」
「あら、そうなんですね。そうしたら装備は揃っていらっしゃる?」
「はい、一通りは」
若いからそうなのか、探索家にしてはかなり物腰柔らかな話し方をする青年だった。初めてこの店に来てキャリーヌに応対された客の中には、ただのお茶出し係程度に思ってキャリーヌには何も話そうとしない人もいるくらいなのだ。
「下見ということでしたら、どうぞ店内を見ていってください。出していないものもあるので、何かあれば声をかけてくださいね」
「わかりました。どうもありがとう」
青年は微笑むと、店内をゆっくりと眺め出す。キャリーヌはいつ声をかけられても良いように、少しだけ距離を取って品物の手入れを始めた。
青年は鍛えられた体つきをしていた。ルーカスよりは細身だが、ジダンよりは腕も胸板も厚いように見える。けれどキャリーヌは、一見すらりとして見えるジダンに抱きしめられると全身が包みこまれるように感じることも、その温かい腕に安心することも、髪の毛から背中を撫でられるのが心地良いことも知っている。毎日あの腕に抱きしめられたいのに、もう何日も会えていないのが寂しい。
そう、キャリーヌは寂しかった。ジダンと近い年齢の青年を見るとすぐにジダンを連想してしまうくらいに彼が恋しかった。自分がどうかしてしまったのかと思うと、恥ずかしくて誰にも相談できなかったが。
「あの、すみません」
「あ、はい!」
少しぼうっとしていたところに、金髪の青年が声をかけて来たので、キャリーヌは慌てた。オイルを塗り込んでいた革の防具を置き、青年の元へ近づく。
「はい、何かお持ちしますか?」
「いえ、商品は結構です」
「はあ」
思わず気の抜けた返事をしてしまう。商品に用がないとなると、世間話でもしたいのだろうか。キャリーヌが不思議に思って青年を見上げると、彼は照れくさそうに笑って言った。
「もしよければ、この後食事でもいかがですか?」
「はい?」
「この町に来たばかりなので、町のことを教えていただきたくて。あ、食事する店は教えていただけるとありがたいですが、もちろんご馳走します」
「……町を案内してほしいんですか?」
「どちらかと言うと君と食事をしたいんですが、まあ、そうです」
「え? えっと……」
あまりに突然のことに、キャリーヌの頭は混乱した。こんなときにどう受け応えればいいか、ルーカスには教わっていない。ジダンなら詳しそうだが、今ジダンは隣にいない。というかこんなことはジダンに聞けやしない。でももしかして、そういうことを聞いたら少しは嫉妬してくれたりするのかしら――そうじゃなくって!
「あの、私……」
「もし君のお父さんに許可を取らないといけないなら聞いてみるけど、まずは君がどうしたいか聞きたいな」
少し顔を近づけて来た青年がそう言ってルーカスの方をちらりと見たので、キャリーヌはやっと冷静になることができた。
「誰が、私のお父さんですって?」
◇ ◇ ◇
結局、キャリーヌは青年の誘いを断った。店の仕事は夕方まであるし、ルーカスに聞けば早上がりさせてくれたかもしれないが初対面の男性と食事に行くことには抵抗があった。いくら相手が防具店の客で、下心がなかったとしてもだ。
青年は初めから断られることを予測していたのか、気を悪くした様子もなく「また来ますね」と言って帰っていった。
「……いや、下心はあるだろ」
「そんな風に考えたら失礼じゃないかしら。町を案内してほしいって言ってたもの」
「どう考えても建前だろ。お前を食事に連れ出すための口実だよ、口実」
「そういうもの?」
「そういうもんだよ」
ふうん、とキャリーヌは納得のいっていない顔で相槌を打った。つくづく自己評価が低い。この話題をこれ以上続けても意味はないだろうとルーカスは思った。一朝一夕にはキャリーヌの意識は変わらない。
「さっきの客は新規参入の探索家だったろ」
「新規……? しばらくこの町を拠点にするって言ってたわ」
「この町に駅ができるって話を聞いて来たんだろうな。駅ができれば人の行き来も物の流通が増える。店も増える。これから盛り上がっていく町だからって早めに移動してきたんだろ。人の集まる町の遺跡の方が、遺物は高く売れる」
「なるほど、先を見据えて来た人なのね」
「若いうちはそうやってあちこち回る探索家が多い。そういう新参者が、もともとその町を拠点にしてる古参とそりが合わなくてやり合うのもお決まりのことだな。お前も余計な争いに巻き込まれないように気をつけろよ」
「私がどう巻き込まれるのよ……」
「この店で働いてりゃ、出くわすこともあるかもしれないだろ」
「そうかしら」
ため息をついたキャリーヌは、どこからか茶色のリボンを出して髪の毛を一つに縛った。これから店じまいの掃除に取り掛かるらしい。きゅ、と形良く結ばれたリボンから、麦わら色の豊かな髪がゆるやかに波打って背中に広がった。働き始めたころはほんの子供のようだった少女は、この数年でずいぶんと大人びた。
「私のこと、ルーカスさんの娘だと思ってる人って他にもいるのかしら」
「まあ、あえて否定することもないだろ。この町を拠点にしてる探索家には、駅の開発に反対してる奴もいる。お前が駅開発を推し進めてる会社の社長令嬢だって知られれば、それこそ何かに巻き込まれるかもしれないだろ」
「あら、そんな人たちもいるの? お父様は万全の準備で臨むって言っていたのに……大事にならないといいんだけど」
ルーカスと話しつつ、キャリーヌは丁寧に棚のほこりを取っていく。本来なら彼女は働く必要はない家の娘だ。ある時期から母親が家にいなかったせいか、同じくらい裕福な家庭の同じ年頃の子と関わることなく育ったキャリーヌは、普通の娘はどうやって過ごしているのかを知らないようだった。
キャリーヌと同じような裕福な家庭の娘たちは、キャリーヌが働いている間に着飾って買い物をしたり、観劇や夜会を楽しみ、自分に釣り合う若者を見つけたりして過ごしているのだろう。
父親は何をやっているんだと思わなくもないが、一度ルーカスがそれを言ったところ「キャリーヌが望まなかった」と一言返されただけだった。そのとき望まなかったからといって、それきり機会を与えないからジダンのような若造にかっさらわれるのだ、と言ってやりたかった。流石に雇われ店長の身で雇用主の地雷を踏むわけにもいかず、口を噤んでいたが。
ルーカスは決して彼女の親のつもりでいるわけではないが、キャリーヌが着飾ったところは見てみたかった。普段着とは違った綺麗なキャリーヌを見たい気持ち一割、着飾って本人に自信をつけてほしい気持ち三割、着飾ってあのろくに会いにも来れない恋人をぎゃふんと言わせてほしい気持ち六割だ。
「ルーカスさん、掃除終わりました。もう上がろうと思うけどいいかしら」
「ああ、今日もありがとな。ご苦労さん」
「こちらこそ。お疲れさまです、明日もよろしくね」
キャリーヌはにっこり笑って店を出て行った。いつのまにか来ていた迎えの使用人と連れ立って帰っていく後ろ姿を、ルーカスはいつものように見送った。
実のところ、今日の見慣れない青年に限らずキャリーヌを気にしているらしい若者は町にもちらほらいる。いるにはいるが、探索家ではないからこの店には入ってこないし、キャリーヌをルーカスの娘だと思っている者たちはルーカスを恐れて中々声をかけてこないのだ。その程度の男ならまだジダンの方がマシだな、と思うルーカスなのだった。