今のところは、はい。
部屋の扉が静かに開いて、閉じる音が聞こえた。うっすら覚醒しかけていた意識がその音を捉え、フィリップは半分だけまぶたを上げる。部屋の中はまだ薄暗く、自分以外の人の気配がない。
どうやらジダンが早朝から遺跡に行ったらしい。普段は寝汚いジダンも、早朝にしか採取できないものを狙って遺跡に入る時にはかなりの早起きをするのだ。
そう見当をつけて、フィリップは再び目を閉じた。眠気がいなくならないうちに二度寝をしないと、用事もないのにとんでもなく早起きをすることになってしまう。
次にフィリップの目を覚ましたのは、無遠慮に扉を叩く音だった。どんどんどん、と絶え間なく木の扉が叩かれる音が頭に響く。頭まで毛布をかぶり直しても騒音は少しも和らがず、うるさい、と思っていると扉が開く音がした。
「うるさいな。同室のやつ寝てるんだけど」
「あれ、フィリップまだ寝てんの? 珍しいね」
「あいつは遅く起きても問題ない時は思いっきり朝寝坊するんだよ。フィリップに用事か?」
「んー、起きてたら先週の研究講義のメモ見せてもらおうと思ったんだけど……寝てるならいいや。出直す」
「ああ、そうしてくれ」
ジダンがそっけなく返して扉を閉めようとするのを、フィリップは「待って」と寝起きのかすれた声で止めた。二人の話し声を聞いているうちに目が覚めたのだ。ベッドの上で寝ぐせを撫でつけながら体を起こすと、ジダンがこちらを振り返っていた。訪ねてきている専攻学科が同じ友人のエドガーだった。
「フィリップ起きた?」
「あんだけ扉叩かれたら起きるよ……ええと、研究講義だっけ」
「そうそう、老タンゲラン教授のやつ」
ジダンが仕方なさそうに一歩部屋の中に入り、エドガーが遠慮せずに部屋の中に足を踏み入れた。フィリップが少し申し訳ない気持ちでジダンの方へ視線を向けると、彼は仕方ないとでもいうように肩をすくめて見せた。
ぐっと伸びをしてベッドを出る。目にかかる長さになってきた金髪が鬱陶しくて、頭を振りながらベッドを下りる。実家であればこんな姿で友人に会うなんてありえないが、ここは学園の男子寮、しかも自分の部屋の中なのだ。四年も過ごせばフィリップもある程度のだらしなさを自分に許すようになってしまった。
「寝起きのフィリップとか貴重だね。女子が見たら喜びそー」
「余計な口きくなら部屋の外で待ってろ」
「お~コワ」
減らず口を叩くエドガーを一瞥して、フィリップは自分の机周りから目的のメモを探し始めた。後ろではジダンが律儀に友人に茶をすすめている。フィリップだけでなく、ジダンにまでこまめにお茶を淹れて飲む習慣がついているのは、間違いなくフィリップ――ひいてはキャリーヌの影響だ。彼女はフィリップたちとは違い、お茶以上にお菓子を愛しているが。いや、お茶を飲みながらお菓子を食べるあの時間を愛しているのかもしれない。
研究資料や講義のメモが散らばる机を漁ると、ようやく目的のメモが出て来た。老タンゲラン教授――同姓の甥も学園の教授なので、区別するために専らそう呼ばれている――の研究講義は講義時間に対して課題が多く、集中して取り掛からないと全ての内容を講義時間内にカバーするのは難しいのだ。大方エドガーも、講義時間内に内容をまとめきれず助けを求めにきたのだろう。
「悪いけど、僕も今日これ見返そうと思ってたから写すならここで写していってくれる?」
「もちろん。そのつもりで準備してきたから。机借りていいか?」
「どうぞ」
エドガーがいそいそと椅子に腰かける。ちゃっかりジダンにお茶を出してもらったようで、机には既にティーカップが出ていた。黙々と講義メモを写し始めるエドガーを少しの間眺めてから、フィリップは自分がまだ寝間着のままだったことに思い至った。さすがにもう寝直すつもりはないので、着替えようと机に背を向ける。背中にジダンの声がかかった。
「そういえばフィリップ、朝飯食べるよな? 今朝遺跡に入ったついでに市場で買ってきた」
普段着のシャツを羽織りながら振り返ったフィリップに、ジダンが紙の包みを持ち上げて見せる。フィリップにも見覚えのあるそれは、ジダンがよく行く遺跡の近くで開かれる朝市の軽食屋の包みだ。パンに野菜や卵や肉を挟んだシンプルなものだが、具材はありがちでもソースがおいしいのと、おまけでつくピクルスが好きで、一度一緒に遺跡に入ったあとに食べてからすっかり好きになった店だ。以来、ジダンは朝市に立ち寄ることができた時にはこうしてフィリップの分も買ってきてくれる。
「食べるよ。ありがとう」
「そしたら俺、食堂でスープだけもらってくる。あんたは? スープだけになるけど飲む?」
「あー、おれはもう朝飯食べて来たからいいや。これ写したらすぐ行くし。ありがとう」
「はいよ、じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
小鍋を持って出ていくジダンに、もう一度悪いな、という気持ちを込めて視線を送る。彼は気にしていないようで、何だ?というように首を少し傾げて出て行った。
少し静かになった室内で、エドガーが口を開く。
「……今のがフィリップのルームメイト? 公開告白補講野郎」
「なんだその呼び方……別に、ジダンは告白のせいで補講してたわけじゃないよ。その前にちゃんと講義に出てなかっただけ」
「そうなの? まあそれはいいんだけどさ。あの公開告白のときおれの友達も居合わせたらしいけど、相手の顔は見えなかったんだって。フィリップ何か知ってる? あいつを参らせる女の子ってどんな子だろ」
「……」
こいつ、メモを見せるのやめてやろうか。
その、ジダンを参らせた人は自分の異母姉だと言いたくなったフィリップだったが、エドガーの話題拡散力を考えるとどう見ても得策ではないのでやめた。代わりに、相手の泣きどころを突いてやる。
「ひとの噂気にして講義メモ写してばかりいると、今度エリサさんに会ったときにエドガーは講義に集中できていないみたいですって報告するからな」
「は? 姉貴は関係ないだろ、やめろよ。絶対言うなよ」
「お前の態度次第だな」
「フィリップぅ!?」
エドガーがあからさまに慌てる様子に少し溜飲が下がった。相変わらず、姉には頭が上がらないらしい。
エリサはフィリップが学園に入学する前、一足先に寮に入ったときに構内を案内してくれた先輩である。君と同じ年の弟なんだ、と入学後に紹介されたのが同じく新入生だったエドガーで、何の偶然か専攻する学科が一緒だったので今日まで付き合いが続いている。
しっかり者で後輩から慕われていたエリサとは違い、エドガーは噂好きでときどきだらしないところがある。エリサの言葉を借りれば「甘ったれの末っ子」らしい。世話になったエリサの弟でなければとうに見放してる、と思うようなこともあったが、反面助けられたこともあるのでなんだかんだで友人のままなのだ。
エリサとエドガーを見ていると、自分とキャリーヌと形は違うものの弟は姉に絶対に叶わない法則でもあるのだろうか、と思ってしまう。
「真面目に講義受けてたら何も言わないよ。ほら早く写して」
「はいはーい」
◇ ◇ ◇
必要な部分はほんの一部だったらしく、エドガーは思ったよりも早くメモを写し終えた。お茶を飲んで無駄話をした彼が部屋を出た少し後に、ジダンが戻ってきた。おまけでもらってきたのか、手にはスープの入った鍋の他に果物も持っている。
「おかえり。ごめん、遺跡から帰ってきたところだったのに部屋追い出して」
「いや別に。もう終わったのか」
「うん。ジダンもまだ食べてないんだよね? 遅くなったけど朝食にしよう」
朝食の準備はすぐに整った。学年が上がると寮の部屋や研究室で課題に取り組むことが多くなり、食堂で食事する回数は減った。代わりにこうして部屋で食べることが増えたので、簡単な食事の準備も慣れたものだ。二人とも部屋でゆっくり食事をとってみると、そちらの方が騒がしい食堂で済ませるよりも性に合っていることに気づいたのだ。
温め直さなかったスープは少し温くなっていたが、フィリップはかまわず啜った。
「今日も課題で入ったの?」
「ん? いや、今日のは私用……課題でばっか入ってると収入にならないから」
ジダンは大きく口を開けてパンに噛りついた。フィリップはふと、食べようとしていた手元のパンを見つめた。
特費生や一部の学生を除いて、学園にいる学生はほとんどが実家に仕送りを受けている。フィリップも例にもれず、学園から支給される以外の資料や文具、嗜好品などのために定期的に仕送りを受けている。しかしジダンはどうやら、彼自身が語ったことはないが、仕送りのようなものはほとんど受けていないらしい。ジダンは入学してすぐの頃から遺跡で小遣い稼ぎをしていたので、彼が仕送りを受けていないらしい、ということにフィリップはしばらく気づかなかった。
「どうした、何か変なもん入ってたか」
「あ、ううん。挟まってる野菜の葉脈見てた」
「は? 葉脈はいいから早く食べろよ」
ぼーっとするあまり変な返しをしてしまった自覚はあるので、ジダンの呆れた声音にむっとしても言い返せなかった。大人しくパンに噛り付くと、久しぶりに味わう豊かな味が口の中に広がる。この店の店主が毎朝摘んだバジルやその他ハーブをその日の気分で配合して作っているらしいソースだ。毎度味が微妙に違うが、毎度おいしいのだからあの店主にはきっとソース作りの才能があるのだろう。
ひとくちめのパンを飲み込んで、フィリップは唇についたソースを舐めとった。無言が続いても居心地の悪くない食事はどうも気が緩みすぎるのか、こうして口に出すほどでもないくだらないことを考えてしまう。
頻繁に女子学生と遊んでいたときも、キャリーヌに何度も会いに行っていたときも、ジダンは学業のかたわら遺跡に入って収入を得ていたらしい。キャリーヌに会いに行っていた頃は頻繁に王都を離れすぎて、やや学業が疎かになっていたようだが、その熱心さとある程度の金額をあっさり稼いでしまう器用さ――実力とは言うのは少し癪だ――には感心してしまう。留年にならなくてよかったな、と思うばかりだ。
依頼した仕事を完遂できなかった上に娘が泣かされたので、フィリップたちの父親はまだジダンのことを認めたつもりはないらしい。キャリーヌに本気で抵抗されたら敵わないのは父親の方かもしれないが、フィリップは今のところ二人の関係に口添えするつもりはなかった。
ジダン本人もそれを望まないだろうし、何より、認めたくはないがフィリップ自身が少し面白くないと感じてしまうのだ。姉のまっすぐな愛情を受け取る相手が、自分だけではなくなったことが。
やはり、弟にとって姉というの大きい存在なのだろうか。エドガーが聞いたら、「一緒にするな!」と叫びそうなことだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
また、誤字報告をくださる方ありがとうございます。
大変助かります。