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そのまま、大きく深呼吸をしてみると、肩の強張りが抜けていくのを感じた。
この場についてから、固まったように動いていなかった足は、踏み出せば、なんてことない。軽かった。
建物内に入ることは難しいが、建物周辺などの敷地に立ち入ることは簡単なキャンパスではあった。それは、キャンパス自体、ある程度密集はしているけれど、住民も利用できる施設を併設している地域密着型とも言える作りである。そのため、建物と建物の間の小道に制限はなく、キャンパスと統一した作りでキャンパス内を歩いているように見えて、実のところ、街中にある路地のようになっている。
だから、こうして、深夜にも関わらず、明るくそして、立ち入りがしやすい場所なんだ。
また、最近できたこともあり、近代的で整備されていて、街中の存在としては不思議に思えど、不気味さは感じない。
ここは”明るくて”、”綺麗”で”不気味でもない”場所。
お金などの持ち合わせがない人間でも立ち入ることのできる場所。
徒歩圏内で、これほど、臆病な人間に優しい場所はないだろう。
ユリはきっと、ここにいる。・・・はずだ。
入り口から建物の裏へと通り抜け、外周の小道を進む足を早める。
立ち入ることができる場所をくまなく足を進めて、確認するけれど、見当たらない。
ドクドクと胸を打つ音がやけに耳につく。
ここにはいないのか?
でも、ここ以外になると、かなり薄暗い路地を歩いて移動しなければならない。
果たして、歩いていくだろうか?
勢いで行ってしまった可能性も捨てきれないし、遠くに行っているのならば、移動範囲を広げなくてはいけない。が、この生活圏外になってしまうと目星もつけられない。
・・・そうなれば、自宅で待つほかないかもしれない。
この明るい場所で、最も可能性の低い場所が最後残った。
施設と施設の隙間にある移動用か、休憩スペースか、中2階のような場所に繋がる階段に近く。
この場所の中では薄暗く不安に感じてしまうけれど、駅前や広場などに比べれば明るい。
一抹の望みをかけながら階段を登り、その場所に立つ。
街灯などが足元に広がっているが、この場所はその漏れた灯りで、ほのかな明るさを感じるのみ。
肉眼でなんとか見えるけれど座椅子のような石が点在しているだけで……見当たらない。
どこにいるんだよっ。
立ち入ることのできない建物の前まできて、折り返す。
「っ」
前髪から後ろへと髪を荒く搔き上げながら、視界を覆う。
自ずと足は止まる。
「……ユリのバーカ」
やりきれない気持ちから出た言葉は、子供すぎて、笑えない。
喉の奥に詰まる空気を吐き出そうとした瞬間だった
「ーーっ」
空気を震わすにはわずかすぎる音。
俺は”なにか”と判断する前に、視界を覆っていた手を反射的に外していた。
その”なにか”の気配がした方向へ目線を向けると……座椅子があるだけ。のはずなのに、違和感が拭えず近づいてみた。座椅子が点在しているだけ場所なのに、そこにある一つの影と目が合った。
「りょ、りょーちゃんのいじわるっ」
一度会った目線をウロウロと彷徨いさせつつ放ったユリの言葉に、思わず笑ってしまったのは許してほしい。
……別に、安心したとか、気が抜けたとかじゃない・・・はずだ。
「あっ!」
帰路の途中、突然、声をあげて離れていくユリ。
数分前までは座椅子と同化していたとは思えないほどの復活だ。
「……どうしたんだ?」
おかげさまで……この数時間の間に色々振り回された俺はもはやユリの突飛な行動に動じなくなっている。ある意味、悟りのようなものを開いた気がする。
「ちょっと、ねぇ。遠回りしてかない?」
コテンと首を傾ける動作は幼く感じさせる。
まぁ、こんな目が冴え切った状態では家に帰ったところで、眠れる気がしれないしな。
「仕方がねぇーな。付き合ってやるよ」
ただ、素直にYESと言うのは癪なので、ひねくれた言い方をしてしまう俺はまだまだ子供であることを自覚してしまう。自覚したからと言って、治るものでもないことをこの濃厚な時間の中で痛感している。
「やった。良ちゃんはそうこなくっちゃねぇ」
しかしユリの前では無力となる。
朗らかに笑うもんだから、なんとも、子供っぽい自分が嫌気がさしてしまう。
とっとっと寝静まった街中で聞こえる軽い足音はそよ風のような穏やかさを感じる。
その足音に続くようについていく。
なんでもない、いつもの路地のはずであった。
普段は人のざわつきが絶えない場所なのに、真上にいた月は中間ポイントを超え、終盤であるこの時間、静かで、月明かりの陰影により、はじめてきた街のように新しく、また美しく目に映った。
目の前には、つかず離れず、上下に揺れる頭が一つ。
まるで不思議の国のアリスになった気分だ。
知っている場所が知らない場所のように変わり、ピョコピョコと動くウサギを追いかけるアリス。
時計を持たないウサギは何に想い、歩いているのだろうか?
「あのさ……」
それは突然、聞き逃してしまいそうなぐらいな声だった。
ユリの視線は前を向いたまま。
「叩いてごめんね」
「……まだ、気にしてんのか? その話は終わっただろ」
ピタリと足が止まる。
そして、ユリは振り返った。
「うん、そうだよね。これは私の自己満。そんでもって独り言で言い訳。くだらないなーって思うかもしれないけど、ちょっとだけ、付き合って、ね」
声は明るいくせに。
眉を寄せて困ったように、笑うなよ。
「・・・」
視線をまた正面に戻して、ユリは言葉を続ける。
ただでさえ小さいのに、その背中は、さらに小さく見えた。




