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どこもかしこも腹の空く香りを身にまとう人々で溢れている。
もちろん、俺もその一人だ。
「あー……。今日も美味いわ」
しみじみとした声が漏れる。
お椀から口を離し、身体中に広がる味噌汁を堪能する。実家とは違う味付けだけども、味噌汁というだけで、なぜ、こうも人の心を癒してくれるのだろうか。
「また言ってる」
「好きだねー」
講義を終えた俺たちは食堂に足を運んでいた。
この大学には2つの学食があって、オシャレなカフェっぽいスタイルの学食と、定番とも言える、テーブルに流れるようにメニューを出される学食との2つのスタイルに分かれている。
やはりと言うか、カフェスタイルが人気があって人が混み合っていることが多いので、俺らは、定番の学食スタイルをほぼ利用している。
「そうそう、そう言えば、良に言ってたやつ持ってきたよー」
宇汐がCDが入ったケースを目の前に出してきた。
俺は味噌汁の次に、日替わり定食の生姜焼きに箸を伸ばしかけていた手を止めた。箸を置いて、手を伸ばす前に、うっかり汚れていないか確認してから、受け取る。
「サンキュー! 結構、いろんな曲入ってる感じ?」
ケースを開くと、パッケージには丁寧な文字で、曲目とアーティスト名が入っていた。その中には、以前、耳にしたことがある文字も見つけた。
「そうそう。前、ウォークマンに入ってるの聞いてもらった時にイイって言ってくれたものから、好きそうかなぁって思ったものも選曲して、何曲か追加してみたんだー」
宇汐は俺の反応に微笑むと、パッケージの文字をなぞり、追加した曲を教えてくれた。
「へー。部屋でゆっくり確認するわ。そん時も思ったけど、宇汐って、イメージと違ってロックとか聞いてるし、ジャンル問わず聞いてて、色々知ってるよな」
俺は自分で言うのも見た目通りで、聞いたことがあるJーPOPなど「今、流行っている音楽をとりあえず、押さえとく」なんて言うスタイルだ。周囲との会話に困らない程度、おしゃれにも最低限の身だしなみが出来れていればいいだろう、それが基本。だから、なかなか新しいものに触れる機会がなかった。
しかし宇汐は、言葉の通り、見た目と違って、激しいロック曲も、聞いたことがないような外国の音楽なども聞いていて、純粋に「すごい」と言う言葉が浮かぶ。
「うん。そういう職業に就きたいなって考えているからねー」
予想とは違った答えだった。
きっと”音楽が好き”なのだろう、そんな単純な答えでなく”職業”。
「そういう、職業?」
しかし、音楽をたくさん聞いていることから繋がる職業のイメージが全く浮かばなかった俺は、思わず聞き返していた。
宇汐はそんな俺の反応に目元をゆるやかに下げた。それから、口元を少し引き結んで口を開く。
「んー。色々言い方があるから一概には言えないんだけど。音響関係に就きたいんだよね」
「音響系って?」
全ての答えに「なぜなぜ」と「?」で返してしまう俺に、宇汐は困ったように笑いながら丁寧に説明してくれた。
「んー。スタジオの音響? とか、わかるかな?」
そう言われて、なにかのドキュメンタリー映像が記憶の底から湧き上がってくる。
「……なんとなく? テレビとかでたまに出てくるやつ? 歌手とかアーティストが録音するレコーディングスタジオとかで機械いじっている人ってこと?」
「うん、そう。そういう仕事にできたらなって」
半信半疑なところであったが、どうやら当たってらしく、宇汐はいつもの柔和な笑顔を浮かべた。
「へー」
「なかなか口では説明しにくいんだよー。裏方な職業だしね」
宇汐は珍しく苦笑した理由を説明するかのように言葉を足した。
けれど、俺自身、大学1年の春でもう将来のこと、それも漠然とした会社員ではない職業を考えていることに驚いた。だって、俺のような人間が大多数だと思っていたからだ。
「そういうの言ったら、あゆかもそうだよねー」
「あゆかも!?」
予想外な会話のパスに思わず大きな声が出た。
まさかのいつも一緒にいる友人二人が揃いも揃って、将来のことを明確に考えていることに驚いた。
人生最大に見開いているであろう顔のまま、あゆかに問いかけるように視線を向ける。あゆかはちょっと面倒くさそうに口を開く。
「……そうね。と言っても、ウチは録ってもらう側だけど」
「と、とってもらう? 何を?」
あゆかにも「なぜなぜ」が発動してしまう。あゆかは、少なからず動揺している俺をいじりもせず、淡々と応えた。
「歌よ、ウチはプロのシンガーソングライター、目指してるの」
言い終わると日替わりスープを飲むのは、平常運転だ。
「しんがーそんぐらいたー」
驚きの情報が多すぎて、出てきた言葉を反吐する。
「何。その奇妙な目は」
あゆかの瞳がギラリと光ったような目の錯覚が起き、ぶるりと背筋が震えた。
「いっ色々、意外な情報が多くて、それに、あゆかってゴリゴリのロックとか歌いそうだなって思ってたから……」
「はぁ?」
どこから出ているのか分からないぐらいのドス黒い声。カップの影から覗く表情は怒りの空気をまとっている。むしろ殺気を感じるほどだ。
その空気に呑まれ、言い淀む俺に救世主が現れた。
「ステージ上のあゆかは雰囲気、ガラッと変わるんだよー。俺はすごく好きだよーそのギャップー」
「はっ!? なにば、バカにしてんの!?」
「してないってば。あゆかのそういうところも含めてファンもいるんだよねー」
柔和な宇汐のフォローをしてくれたので、怒りの炎が燃え広がる事なく鎮火したが、さすがのあゆかも褒められていることに慣れていないのか、言語不明な唸りをしたあと「あっそ」と平静な装いでスープをすすりはじめた。
「あ、てか、ステージ上ってことは、宇汐は観たことあるってことか!?」
「うん、そうだよ。バイトで、ライブハウスのスタッフとかしてたりするからねー。そこで、俺たち出会ってんだよー」
宇汐は「ねー」とあゆかに同意を投げかけるが、ツンと顔をそらされていた。
「言ってなかったけー?」
あゆかの反応に苦笑しながらも、俺に向き直った宇汐はのんびり言葉を続ける。
「聞いてない。……そうだったんだ」
「うん。言ったつもりだったよー」
俺の驚きの表情が面白かったのか、喉を鳴らして、他意のない声で「びっくりしたでしょ?」と宇汐は笑った。
確かに疑問はあった。二人とも雰囲気違うのに通じ合っているのが不思議で、なんとなく幼馴染みだったり、同じ高校なのでは、と予想していたが、まさかの答えだった。何よりも、そんな付き合いが、繋がりがあったことが、驚きを増させていた。
「びっくりした」
「でしょー?」
柔和の雰囲気に和みそうなる。
「でしょーじゃないわよ。というか、業界的には狭いけど、学校が一緒っていう偶然は、なかなかないわよ」
剣呑としたあゆかの鋭い言葉が入る。
「え、学校合わせた、とかじゃないんだ」
「そうだよー。ほんと偶々、ばったり一致したんだ」
「え、まじ。ドラマかよ、やば」
思わず、驚きの声が出た。
「あーのーねー。こう言うドラマみたいなことばかり起きるわけないじゃない。男子ってホント、バカよね」
呆れたように呟いて、その話は終わりとばかりに俺たちは食事を再開した。
なんでもない、ただの昼下がりの会話。
そう、今までの日常でもよくある、何気無い1コマであるはずの会話、だったはず、なのに……俺の心の奥底にはもやもやとした想いが生まれていた。
ーー俺以外ちゃんと夢を、将来を考えてるんだ。
ーー衝撃的だった。
いつも一緒にいる二人が将来を考えていただなんて。
考えていないとは思ってなかったけど「フツーに大学に行って、フツーに就職して」って言う、なんとなく、みんなが至極当然のように歩む道だと。
それは動く歩道みたいな、なにも考えなくても、動かなくても、勝手に進んでいく、なんとなくな生き方が大多数だと思っていた。
そうではない「やりたいことが見えている」ことが、その考えをもつ人物が、友人が、近くにいたことが、俺にとって……静かな衝撃を与えていた。
今の俺が、消える事のないモヤモヤを吐露でできるのはーー……




