(1)漢王朝の老将
一八四年二月。
清流派知識人という派閥がある。
『党錮の禁』以降、清流派の数はめっきり減ったが、それでもなお存在している層だ。
それらと接触し、内部から漢王朝を崩す。それが、大賢良師・張角からの指示だった。
出来るだけ乱を起こさないようにする。それが張角の狙いだったが、弟である張宝、張梁の意見や、そもそも漢王朝の腐敗が日に日に悪化しているのを見て、張角自身も覚悟を決めた。
三月に反乱を起こす。それが、張角の出した結論だった。
もっとも、太平道に対する警戒心は、漢王朝の中で日に日に高まっている。
百万を超える農民集団が、一つの宗教勢力に迎合されていることなど、確かに漢王朝は良しとしないだろう。自分がもし、まだ漢軍に所属していたとすれば、恐らく同等の警戒心を抱いたことは、馬元義の想像に難くなかった。
だが、今の漢王朝は腐れ果てている。ならば、こんな王朝など、民のためにならない。
今の漢王朝の腐敗ぶりは、清流派知識人の数の問題だけではない。
帝である霊帝の堕落ぶりによって、ろくでもない宦官や役人が増えたことだ。何しろ今の帝は政治にまるで無関心であり、人物眼もろくでもない。
更に言うなれば、位を金で買えるというろくでもない制度のおかげで、金はあるが無脳という奴が集まった。結果が今の腐敗というわけだ。
こんな腐り果てた国など潰れてしまえと、反吐が出る思いで、何人かの人物と接触している。
何人か接触して感じた意見としては、おおむね今の漢王朝への腐敗を嘆いている声だった。
だが、思ったよりもそれを崩せないでいる。想像以上に清流派の人間は帝への忠誠心が篤いことが分かったからだ。
帝の堕落をそう簡単に公言しても問題になるのは目に見えているから、というのもあるかもしれない。
ならばと、少し危険な賭けではあるが、あの人物に接触してみるより他ないだろう。
そう思い、街の中でも比較的大きな屋敷の門を叩き、待たされて十分ほど。客間には誰もおらず、静かな気配を醸し出している。
「お待たせした」
老将が、入ってきて拱手した。
馬元義も立ち上がり拱手する。
盧植、字を子幹。身の丈も八尺二寸(約一九五cm)あり、老人とは思えないほど、着ている服からでも分かるほどに筋肉がふくれあがっている。
漢軍の名将の一人だ。同時に、知識人でもある。
文武両道、人はこの男をそう呼ぶし、実際自分も、かつて漢軍に所属していた頃から、その噂をよく耳にしていた。
「私のために、時間を割いていただき申し訳ありません。私は、馬元義と申します。元々漢軍におりました」
「知っているよ。君のことはね。今は太平道の大司教、といったところかな」
「私のことをご存じでしたか。ならば、話は早いです」
対岸に、盧植が座った。それにならい、自分も座る。
「私を抱き込みに来たか?」
静かな、それでいて覇気のある声をする。なるほど、武道も達人級の腕があるというのは、本当のようだ。名将の言葉に偽りはないと言えるだろう。
「率直に言えば、そんなところです。盧植殿とて、見ているでしょう、今の腐敗を」
「確かにな。正直、我が王朝は腐敗しているよ。宦官の横行、役人の不正、それは後を絶たぬ。だが、君ら太平道がそれをしないという保証は何処にある?」
「大賢良師・張角様の元であれば」
「では、その後は?」
思わず、身を乗り出しそうになった。
何故、張角が死ぬことを考える。
ふざけるなと、声に出して言いたかった。
「人間は、永久に生きることは出来ん。私とてそうだ。いつかは死ぬ。帝とて同様、張角とて同様。それが分からぬ君でもあるまい」
「あり得ぬ!」
机を、叩いていた。
憤怒が、身体を巡っている。
張角に対する侮蔑だ。そうとしか思えなかった。
「張角様は生き続ける! たとえ肉体は死んだとしても、その精神は」
「そう、肉体の死だ」
「え……?」
一瞬にして、何か鋭利な刃物で刺されたような、そんな気分になった。
何故、自分は肉体の死を認めた。
張角が死ぬ。あり得ない。
だが、肉体は? それと同時に精神が死なないと誰が決めた?
そのことが、堂々巡りで自分の中で駆け巡っていく。
「古来より、誰もが不老不死を望み、そして願った。国もまた然り。どの帝も国の不老不死を願った。だが、この中華において、腐敗をしなかった、不老不死でなかった国など、存在しない。夏、殷、周、秦、全てが既に存在しない王朝だ。そして頂点の者の肉体が死んだとしても、一代の人間のみによってなしえた物が、崩れないという保証も何処にもない。崩れるのは、いつだって一瞬だ。もう一度聞く、太平道がそうならぬ保証はあるのか? 今の帝にとって変わるだけなら、それは何一つ変化がないことと同じだ」
そう言われたとき、頭にカッと血が上った。
思わず、隠し持っていた短刀を持っていた。
そして突き刺そうとした瞬間、視界が反転した。
投げられたのだと、自分で気付いた。そして、同時に自分の腕が両方とも、物の見事にへし折れているのも、分かった。
盧植は大斧の使い手と聞いていた。だが、今使ったのは格闘術だ。それも極めて優れた、である。
そして、自分はいつの間にか、抑えられていた。持っていた短刀が離れ、その持っていた方の手首には、盧植の膝が乗っている。
完全に、馬乗りにされていた。それも、一切身動きが取れない状態で、である。
「何故だ?! 何故これ程の力を持ちながら、今の漢王朝に味方する?!」
はぁ、と、盧植がため息を吐いた。
「そうだな。君が張角に味方をし、太平道に忠誠を尽くすように、私は漢王朝に忠誠を誓っている。だがな、もう一つ、忠誠を誓っているものがある」
「何?」
「民だ。だからこそ、貴様らの行おうとしている反乱により、民が傷つくことを、私は承認できぬのだ!」
思いっきり、腹を殴られた。
意識が、遠のいていく。
何なのだ、この男は。そう思った直後、視界が、暗転した。