ホワイトモアの天使
学生時代に文芸部で書いた作品を少し改稿したものになります。ワードからの投稿を試してみました。
――あるハーレクィンを思い出す。私がセーレから聞いた、好きな女とあまりにも馬鹿げた逃避行をした道化師のようなあの男を。独善であれ、女の幸福に命を懸けたあの男を。
私の用意した最後の大一番に彼は乗った。実に薄い勝ち目だと気づいておきながら、勝敗が決まるまで、彼が決意を揺るがすことはなかった。その意志は、覚えておく価値があるだろうから。
――私という客は呼べたが、彼は大根役者だったろうか千両役者だったろうか。
***
葉擦れと小鳥の声が店の中にまで届く。もうすぐ初夏だ。リチャードはこの村が気に入っていた。空気も水も土も綺麗だ。体が弱ってしまった婚約者も、この村に招くことができた。きっと回復するだろう。静けさと平穏を手にしたのだから。
石造りの食堂で、リチャードは友人のツケを店主に支払った。店主は言った。
「確かに。わしからも礼を言わせてもらおう。お前さんが来なければ、明日には息子らとやつの所へ取り立てに行くつもりだったんだからな」
「ロン、せっかく君もこの町に来てくれたんだ。もう、そういうことは、やめておいてくれないかな。それに、あいつは前はいいやつだったし、妻子が急に轢き殺されれば、誰だって心を病んでしまうよ」
「だから、わしにそれをさせずに済ませたお前さんは、もっといいやつだよ。わしだってここまで高額でなければ、そうしようとしなかっただろう」
店の前に、パステル・グリーンのひどく古い車が入って来た。
「しかし、リチャード。リチャード・ホワイトモア。今言った通り、このツケはかなりの額だ。ホワイトモア夫人の誕生まで、また遠ざかったな。そちらはいいのか?」
「……ああ、うん、ロン。彼女と話して決めたんだ。今まで僕たちはとても長く障害に立ち向かってきた。もう少し長くなっても大して気にしない。それに――」
食堂の店主のロンが先に言った。
「それに『その障害を乗り越えさせてくれたあの人を見捨てるなんて、とてもできない。まだ全く恩をかえせていないのに!』か? 未来のホワイトモア夫人がそう言ったか? 言い直そう。お前さんたちがいいやつだよ」
リチャードはどういう顔をしたらよいのか迷って、曖昧な笑みを浮かべた。そして、すぐにその笑みは曇った。これまで全く経験がなかった『悪寒』がしたのだ。
店の戸をくぐって、ダーク・ブルーの華奢な女が入って来た。陽光が少しずつ翳り出した。
***
ダーク・ブルーのスーツの女は、ごく普通にカウンターに座ってBLTサンドとカフェオレを頼んだ。悪寒も消えていた。
当然、リチャードは先ほどのおぞ気を気のせいと思ったし、見慣れない青い女を、たまたまこの村を通っただけのオフィスワーカーだろうと思った。ロンも同じように考え、いそいそと調理に取りかかった。その姿を見て、リチャードは自分もランチがまだだったことに気づいて、注文をしようとしたが、また別のことに気づいた。そして、財布の軽さを自覚した。向こう一ヶ月は昼食を控えなければなるまい。
ふと気づくと、リチャードを青い女が見ていた。彼の失望感を見て取ったようだった。なぜかはさっぱり分からなかったが、彼はそう思った。そう的外れの予測ではない。青い女が彼に声をかけた。
「ランチをとらないのですか? もう正午をとうに回ったようですが」
青い女の言葉にはおかしなところがあったが、リチャードは大しては気にしなかった。しかし、一部の奇矯さに戸惑いながら言った。
「ええ、まあ」
「懐が寒い、といったところですかね」
青い女は言い当てた。リチャードは最初の印象を改めた。そして、疑問に思った。どうしてこの女は自分をそこまで知っていて、自分にそこまで聞いてくるんだ? 青い女は続けた。
「今回の件で、幸福円満な家庭まで、随分遠のきましたな。さしずめ、一年半でしょうか。彼女の父君がそこまで待って下さればよろしいのに」
確かに、目下、リチャードと愛しい同居人との最大の障害は紛れもなく同居人の父親だ。カチリ、とリチャードはホワイトモアとしてのスイッチを入れた。
「あなたは、その彼女の父親から何か言われて来たのか?」
「いえ、会ったこともありません」
青い女はあっさりと否定した。
「なら――」
「私が悪魔だからですよ」
青い女は極めて奇怪なことを、先ほどよりもあっさりと口にした。
「名刺を見せましょうか? 大したことは書いておりませんが」
いつの間にか、青い女の右手には名刺があった。名刺には『悪魔、ダモネ 契約業者』とだけ書いてあった。リチャードがそれを見ると、すぐに名刺はそこになかったかのように消えた。鮮やかな手並みだった。
「まあ、悪魔と言っても、哲学や科学の悪魔の『ようなもの』ですね。それを果たす機能を持つ、というだけの役職名、コードネームみたいなものです。そう、『コードネーム』。
意味はお分かりですね? ホワイトモア王子?」
分かった。元王族の嫡子として生まれ、その元王族が、現在世界最高峰の死の商人であるリチャード・ホワイトモアには。彼は完全にホワイトモアに戻っていた。
ダモネは続けた。
「一介のものとして、あなた方には感心しています。悪魔のような生い立ちを持ちながら、この件では一人の死人も出さずにここまで来たあなたと、あなたとの受難の道を歩んで来た天使のような彼女に」
「お前は――」
リチャードは、口を開こうとしたが、ダモネが長い人差し指を彼の唇に当てて止めた。
「まあまあ、落ち着いて下さい。あなたもそれが一番だと分かっているでしょう。彼女には手を出しておりません」
「なら、何をする? 王族とは手打ちにした。その他諸々の血族の関係者たちとも」
「世界は広く、争いの途絶えたためしもありません。あなた方は過去から逃れられず、争いからも逃れることはできないでしょう」
リチャードはダモネに気づかれぬように奥歯に力を込めていた。ダモネは前の二回よりもなおあっさりと言った。
「しかし、少しすると、あなた方はそれをできるかも知れない」
***
「おいおい、どうしたリチャード。顔色が悪いぞ」
出来上がったサンドイッチとカフェオレを持って、ロンが来た。リチャードよりもダモネが先に対応した。
「どうも。おや、このカフェオレは随分とよい豆を使っていらっしゃいますね。単なるコーヒーとしてではなく、カフェオレに最適に近い豆のようです。香りで分かります。素敵なことに単なる技術と品質だけではない。このサンドイッチにも合い私の舌に合う、総和と調和を見たカフェオレだ」
ロンは破顔した。
「それがお分かりになられるとは! この小さな村で勝手に凝っていただけだというのに。この食事をただにさせていただけませんかな? いや、お断りになられてもそうさせていただきます。この喜びのお礼には他にどうしようもない!」
実際、ロンのコーヒー道楽はそれ自体では採算がとれないものだった。また、村の人もコーヒーを褒めてはくれるものの、ロンがコーヒーと客ごとに最適な豆、最適な淹れ方、最適な器具を吟味し、調理もこっそりそれに合わせていることまで指摘する者はいなかった。無論ロンも自己満足だったのだが、これは望外の喜びに間違いなかった。
「いえ、いくらなんでも……、そうですね、誰かに一品奢ってあげて下さい。そのお気持ちだけで、私は嬉しいです」
ロンは満面の笑みのまま言った。
「聞いたか、リチャード! このご婦人もとてもよい人のようだぞ! お前さんのことだ。今日のランチを抜くつもりでいたのだろう? お前さんに奢ってやる!」
詳しい説明の難しいリチャードは答えた。
「ああ、ありがとう、ロン」
「礼ならこのご婦人に言え! なんだ、今日はやたらよいことを見るな!」
そう言って、ロンは調理場へ戻った。リチャードは言った。
「どういうつもりだ?」
ダモネはカフェオレの香りを楽しみながら言った。
「ランチについてなら、信用商売だから、ですね」
「これは商売か?」
「昔から、悪魔はよく契約するものですから。名刺に書いてありましたでしょう? 契約業者の悪魔だと。契約は信用が全てですよ。
それにしても、ここのランチは本当においしいですね。安い理由が分からないくらいです。店主さんのお人柄ゆえでしょうか?」
ダモネは、サンドイッチをきめの粗いパンなのに一かけらもこぼさず口にしていた。その顔には心からの笑みがあった。リチャードにはそう見えた。
彼は、この村に至って平穏を手にしたと思うまで、何人も嘘つきを見てきた。中には純朴な人間さえ騙せなさそうなどうしようもない者もいたが、今でも真実か見抜けなさそうな神業を使う嘘つきもいた。だから、彼は信用できない者を見抜き切ろうとはしない。しかし、正直者かどうかは見抜けるように思えていた。
――彼女、悪魔を名のる青い女、ダモネは正直者だ。むしろ、嘘は苦手だろう。
彼は、ダモネの言葉をできるだけ注意して聴くことにした。
***
二人がランチを食べ終わった時、日の翳りは曇天に変わり、落ちてきそうな質量感を持っていた。ロンが食後のデザートを取りに行くと、ダモネは説明した。
「この件をこれで幕にしたいのです。戦争屋の元王族も動きが取りづらい。そうである以上、こちら、つまり私も支障が出る」
ダモネに深く訊いても無駄だろう、そうリチャードは考えた。ダモネは嘘が苦手だろうが、真実を語り過ぎないことは不得意ではないようだ。
その方が彼にとってもありがたい。知るべきではない真実まで語られては、また騒乱の渦中に陥る。今度も愛しい人が耐え切って、生き延びるとは限らない。そもそも騒乱自体が御免だ。リチャードは言った。
「どういう形で?」
「簡単なことです」
ダモネの言葉には、妙に説得力があった。彼女のあまりにもあっさりとした口調のせいだろう。
「ゲームをしていただきたい。特に凝ったものではありません。ポーカーの方が簡単な、既存のものです」
さすがにリチャードは訝しんだ。何がどうなったらゲームになるんだ? しかし、彼女は嘘は言っていないようだ。彼の考えがそうなることを見抜いていたようで、ダモネは流れるように言葉を続けた。
「『裏か表か』ですよ。コイントスはここの店主にお願いしましょう。十回投げてあなたが指定した面が一度も出なければ、あなたの負けだ。コインも店主にお願いしましょう」
リチャードは口を挟んだ。
「待て。負けたらどうなる? 勝ったとして、どうなると言うんだ? そんなゲームで」
「あなたが勝てば、これからのあなた方の人生にこちらは一切手出しをしません。こちらの力の限り万障からお守りしましょう。負ければ、まあ、人生の破滅です」
わずかな間、沈黙が場を支配した。ダモネがそれ以上話さず、リチャードが言葉を見つけられなかったからだが、ある意味大した理由ではあった。聞いただけなら、ダモネはこの先商売の支障になるような事案を、二の十乗分の一、千二十四分の一以外で見逃そうと言っているのである。
支障が小さいということはまずあるまい。兵器屋に関わっている以上、戦争で儲けているのだから。それどころか、生活の保障までした。リチャードはダモネの言葉の裏を疑わざるを得ない。
しかし、ゲームを受けざるを得なくもある。居場所が割れていて、エージェントと思しき人物が来ている。ホワイトモア家が、世界の一翼を担う一族が、二年に渡って手出しをして来なかったここに、彼女は今手出ししている。
「俺が勝てば、全て説明するか?」
そうリチャードは答えざるを得なく、彼の想像通りの答えが返って来た。
「お勝ちになられれば」
***
ほどなくしてロンが戻って来た。リチャードにとって簡単な作り話でロンには事足りた。ホワイトモア夫人誕生の足しのためちょっとしたゲームをやるのだと。ロンは、せっかくだからと言って、表が偉人の顔で裏が苺の絵のコインを財布から選んだ。曰く、苺の花言葉は「幸福な家庭」だそうだ。リチャードは、明確な目標として苺の面を指定した。
そして、ゲームが始まった。
リチャードはゲームの勝敗を気にしていなかった。時間を稼ぎ、ダモネとそのバックにいるであろうものたちの真意と何をしているかを見抜くことこそが、このゲームで最もすべきことだからだ。そして、それはそれなりに簡単なことだと分かった。彼は五回目のゲームでほぼ確信した。そう、五回目までゲームは続いていた。
偉人、偉人、偉人、偉人、偉人。
三十二分の一の事象。リチャードほど種々様々な修羅場をくぐっていなくとも分かることだろう。ダモネはゲームに勝ちに来ている。何の捻りもなく彼の破滅を狙っている。どうやるかは分からないが、ここまでできる相手ならばきっと滅ぼせるだろう。
では、勝ち方は? どうやっている? リチャードは可能な手段を検討した。
コイントスをしているのはロンだ。彼女自身が今、イカサマをしていることはない。では、すでにロンに何かしたのか? 誘拐も暗示もあり得ない。リチャードはいつも村に網を張っている。無論、ホワイトモア家関係を用心してだ。今回、ダモネの介入という形で失敗したが、村人一人どうにかするほどのことをしたならば、彼は気づいていただろう。
リチャードもまたホワイトモア。世界の死神たち相手に十年間死者なしで闘争してきた。ホワイトモア家の血筋からの才覚と実力は非常に大きく開花している。
ただし、ダモネの侵入くらいならされてしまうという事実もある。彼の腑には落ちないが、ごく簡単なイカサマがありはする。彼は言った。
「コインを確認させてくれないかな?」
舞台装置へのイカサマ。コインのみなら簡単だ。リチャードが店に来る前に店のコインを全てすり替える。不可能ではない。キャッシュレジスターは中身を入れ替え、ロンの財布は財布自体を入れ替える。難点は、証拠が残ることだ。ダモネは言った。
「当然の権利です」
ロンからリチャードへコインが手渡された。ロンも緊張しているようだった。例え事情を知らなくても、三十二分の一には異常を感じるだろう。リチャードはコインを吟味した。そして、予想通り、ただのコインだった。こんなあからさまなことをするのに、足跡を残すような真似はしまい。
では、どうやって? リチャードはこれに解答を出せなかった。コインへの細工は下策だ。その確認は、大掛かりなイカサマを封殺していて、小細工も多数見てきた彼の、本当に苦肉の一手だった。
リチャードからのイカサマもできなかった。彼にコインへの仕込みの用意はなく、それ以上にダモネの観察が尋常ではなかった。ここに乗り込んでくるだけのことはある。彼女は真実、手練れだ。彼女のイカサマに勝つまでには、残り五回だ。
「見たよ、ロン。ごめん。続けてくれ」
「あ、ああ。分かった」
コインの面は三人の想像通りだった。
偉人、偉人、偉人。
二百五十六分の一の事象。後二回。イカサマは分からない。
ロンが震える手でコインを投げた。
偉人。
五百十二分の一の事象。後一回。
その時、それまでも曇りだしていた空から大きな雷と雹が落ちて、店の駐車場に止まっていたパステル・グリーンのひどく古い車を壊した。ロンは驚いた。普通の反応をした。リチャードは驚かなかった。こちらのゲームを優先した。ダモネは小さく毒づいた。
「チィ、セーレめ、気づいたか」
リチャードは毒づきに気づき、意味を理解し、言葉を紡いでいた。
「『セーレ』だと? お前、まさか本当にあく――」
辺りから全ての光が消えた。
***
リチャードは、ジャングルで椅子にかける自分を見出した。ここは戦時中のジャングルのように見えるどこかだ。むせ返るほどの血と自然発生する有毒物質の香り。そして、騒々しい。だが火薬と銃器の香りはしない。とりあえず銃弾は飛んで来ないように思える。
ダモネが向かいに立っていた。ダーク・ブルーのスーツを着た女がジャングルにいれば浮くはずだが、彼女にそんなことはなかった。つまり、彼女はそんなものではないのだろう。彼女が口を開いた。
「真実へようこそ、人間」
「真実が悪魔だったとはな。神は生きているのか?」
リチャードも応じた。彼はここがどこか知る努力を放棄した。数々の宗教団体も兵力として差し向けられたが、神秘は生化学と生理学と心理学止まりだった。今回は違う。ダモネが言った。
「さて? 私は知る由もないな。興味もない。
しかし、お前には興味がある。実に胆力がある。では、景観を変えよう」
ダモネが何かした風はなかったが、周囲から密林が消え、石造りの部屋に変わっていた。
「静かで臭くない。話すには悪くない。それにしても、セーレはあまり知られていない悪魔だと思っていたが。すぐに気づくとは、意外だな」
「地球上でマイナーな方だろう。ダモネ(Damone)は悪魔(daemon)のアナグラムか? 俺はお前が嘘をついたことが一番意外だよ」
ダモネはリチャードの言葉に苦笑して言った。
「悪魔が私の名前のアナグラムなのだよ。
虚言など私と最も縁遠い行為だとも。私は、適正価格の悪魔なのだから」
「分かるように言え」
「つまり、『私は等価交換で願いを叶える』という機能を持ち働く存在なのだよ。科学、哲学における悪魔だろう? ぼったくりのマモンや大安売りのセーレと会わなくて、君、幸せだよ?」
二つの悪魔の共通項は、出典が有名な点だ。マモンは富を意味し、セーレは瞬きするだけで何でもできると伝えられていると、リチャードは記憶を参照した。どれほどあてになるかは、期待すべきではない。
「お前がほざくな」
「ふむ、口の利き方を教えてもいいが、私はゲームの結果が気になる。
それに、あいつらと同列以下に置かれるのは心外だな。もし、マモンに出会っていたら、君の支払いは小国の一つや二つ分では利かなかっただろう。セーレとなら、一粒の苺で君の幸福だけを買えただろう。当然、しわ寄せはよそへ行く。被害はこの国で済めばよい方だろうな。君の恋人の趣味だろうが、偏執的に死者を出さなかった君たちとしては不本意ではないかね?」
「勝負に勝てばだろうが。端から負けるはずのゲームを、ゲームとは言わない」
またダモネは笑った。今度は嘲笑だった。
「嘘はつかないと言っただろう。適正価格の悪魔としては戦争を増やして欲しいが、そこはそれ、コインは表か裏かがちゃんと出る。私の敗北も確率として用意してある。
君らの逃避行に心を打たれて出てきたんだ。それに敬意を表し、全人類の平均的能力の二人を本気のホワイトモア家が逃がす程度に、きちんとある」
つまり、ほとんどゼロだ。ダモネは続けた。
「報奨も確かだとも。私は適正価格の悪魔なのだから。君らの人生を賭けたこのゲーム、勝てば君らは、これから送るはずだった人生分の幸福をさらに手に入れ、不幸は半分に減じる。君のホワイトモア家との手打ちは確かだったから、実に実に平穏で円満な人生が手に入る。
君の言う通り、勝てば、だがね」
ホワイトモアとしてのスイッチは振り切られ、リチャードは冷め切った声音で言った。
「つまりは、お前がどことも知らない地獄から出て来なければ、全てがうまくいったのだろう? どう言おうと、お前は一般的な悪魔だ」
三たびダモネは笑った。今度は冷笑だった。
「私が、その一般的な悪魔の名の元だからな」
光が射した。
***
リチャードは先ほどの自分を見出した。ロンの店で瀬戸際にいる自分を。時間は経っていないようだった。
コイントスの回数は後一度。苺の面が出る確率は普通なら二分の一。だが、現実はゼロと言って差し支えないほどに小さい。
リチャードは祈るようにロンを見つめた。ロンは一瞬にして質量を増した空気を感じた。ダモネは楽しそうにリチャードを見つめた。
果たして、コインは投げられ、落ちた。
苺。
「なんだと? こんなことが? こんなことが!」
ダモネは叫んだ。リチャードは苺を出したコインを手に取って、ルールを言った。
「店のコインで十回のコイントス、一度でも俺が指定した面が出れば俺の勝ち。俺が指定した面は苺の絵の描いてある面。それだけだろう? 虚言から最も縁遠い悪魔め」
ダモネは認めざるを得なかった。リチャードはコインを裏返して言った。
「つまり、このイカサマは許容される。俺たちをなめるな」
そのコインの裏には、表と同じ苺の絵が描かれていた。
ダモネはロンを見た。かつてリチャードに救われたベテランペテン師の顔を見ても無駄だった。リチャードが告げた。
「俺はな、この村を作ったんだ。ホワイトモア家から彼女を守るためにな。ここは、災厄が差し迫るまではどこにでもあるただの村だ。差し迫ったなら、大国が有するありとあらゆる力が災厄を仕留める」
「どこかの国の女王を殺すくらいのつもりでやらなければ、君のお姫様はどうにもできない、か」
ダモネが力なく、しかしどこか心地良さげに言った。リチャードが宣告した。
「失せろ悪魔。俺たちは繋がっている。お前などに負けなかった」
ダモネは笑った。微笑みだった。そして、彼女の姿が透けだした。
「さすがは、リチャード・ホワイトモア。王国の始祖によく似ている。あいつも好きなやつのためと言う理由だけで王国を築き、お前にまで繋げた。なるほど、人間は繋がっている。あいつに負けた時に気づけなかった私がまた負けるのは当然か。
いや、まあ、あいつは気づかせないようにしていたんだろうな。いつか好きなやつの子孫が、私に負けないよう」
もうダモネは背後の背景が見えるほどに薄れていた。なお薄れながら言った。
「敗北は久しぶりだが、不思議と悪くない気分だ。君らとの勝負では。
なぜだろうな?」
消えかけた声帯の許す限り彼女は叫んだ。
「――君らの道に幸あれ!」
ダモネは消えた。温かな光が店内を照らしていた。