冷蔵庫の中身
「ちょっと、いい加減にしてよ。マヨネーズ買いに行って、3日も帰って来ないって、どうゆうこと?意味分かんない。ハッキリしてよ」
留守電に吹き込んで、あたしは電話を切った。
緑の屋根の小さなアパートの住人、あたしの同居人であるケイタはもう3日も帰って来ていない。
3日前の晩御飯の時。
「あれ?ルカ?マヨネーズないの?」
ケイタが冷蔵庫を覗いて声をかけて来た。
「ないよ。こないだケイタが買ってくるって言って忘れてたじゃん」
あたしは今日のカレーとサラダをテーブルに運びながら、答えた。
「えー。サラダにはマヨネーズだろ」
「しょうがないじゃん。ないもんはないんだから。ドレッシングで我慢しなさい」
しばらく、和風ドレッシングを手に取り考え込んでいたかと思うと、おもむろに立ち上がった。
「ダメだ!マヨネーズじゃなきゃダメだ。俺、買ってくる」
・・・こうなったら聞かない。
返事をする前に、ケイタは玄関を飛び出して行った。
・・・あれから3日。
ケイタが生きているのは知っていた。ケイタの友人から生存確認は出来ていたから。
いつになったら帰って来るのだろうか。
帰って来ない。
そんな気もしている。
知っていた。ケイタが、あたしに隠れて知らない女と会っていること。
もう付き合って4年だ。分からないことは何もない、と思っていた。それに、ケイタもあたしだけが大切だと思っていた。空気のように。
だけど、ケイタはあたしを空気のように感じていたのかもしれない。大切という感情ではなく、いつも何となく傍にあるだけのもの。
ケイタがマヨネーズを抱えて玄関を開ける想像と、永遠に帰って来ない想像。その2つが共に競い合っている。
あたしは冷蔵庫を開けた。冷たい空気が顔を覆う。
そこには何もなかった。
干からびたレタスと、空になったマヨネーズ。
「明日、二人で冷蔵庫の中身、買いに行くって約束してたのに」
あたしの声は、一人では広すぎるダイニングに静かに落ちていった。
ねぇ、ケイタ。覚えてる?
4年前、ケイタはあたしをお台場の観覧車に誘ってくれたよね。
サークルの皆で遊びに行って、皆に内緒で二人だけで乗ったよね。
あたしが夜景に照らし出された黒くて大きな海を見ているとき、ケイタはおかしいくらい無言だったよ。あたし、気づいてたんだ。何も知らないフリして、はしゃいだフリして外ばっかり見てたけど、あたしだってケイタと同じ気持ちだったんだから。
「ルカ・・・」
名前を呼ばれて目が覚めた。
ダイニングの木製のイスに、ケイタが座っていた。
目の前には、スーパーのビニール袋にぱんぱんに詰まったミカン。
ミカンの明るいオレンジ色とは反対に、ケイタの顔は暗かった。
「・・・帰って来たんだ」
寝ぼけたままの掠れた声が出た。
「うん」
泣いているのかと思うくらい、小さな声でケイタは頷く。
「ミカン、どうしたの?」
「隣のおばちゃんが、くれた」
そう、と返事して、あたしは風呂場へ向かう。
「冷蔵庫の中身、買いに行く約束だったでしょ。行かないと、何も入ってないから」
背中ごしに伝え、あたしは風呂場のドアを閉めた。
帰って来て欲しかったのに。帰って来て欲しかったのに、何だか複雑な気分だった。
ケイタはどんな思いなんだろう。
分かってるフリして何も分かってなかったのは、あたしの方だったのかもしれない。
さっとシャワーを浴びて、部屋に戻るとダイニングテーブルの上にはミカンの横に新品のマヨネーズが転がっていた。
「マヨネーズだけあってもしょうがないから」
「・・・そうだよね」
あたしはケイタに外に出ることを催促した。
始終無言だったケイタが、やっと口を開く。
買い物帰りの長い上り坂。この坂を、こうして二人で何回も上り下りした。
あたしとケイタの間には、パンパンに詰まったスーパーの袋。
「・・・何も聞かないのな」
「聞いて欲しいの?」
冬が来る前の、少し冷たい風が吹いている。
「・・・ごめんな」
何が。何に対して謝ってるの?そう、大声で叫びたかった。
でも、あたしがどうあがいても、ケイタの気持ちは変わらないだろう。
「冷蔵庫にものがいっぱい入ってると、なんだか安心するよね」
あたしは大丈夫。
一人ででも、この坂を上り続けることだって出来る。
「今日は、天気よくてよかったね」
薄い青の空を眺める。
ケイタは何も答えなかった。
あっという間に部屋に着く。
あたしはケイタの手からビニール袋を受け取った。
「ケイタ、今度荷物取りに来てね。来る前に連絡して、纏めておくから」
そう言うのが精一杯だった。
ケイタが何か言いたそうにこっちを見ている。
「ルカ・・・」
「あたし、知ってたの。好きな人いるんでしょ?そういうのはどうしようもないよ」
ケイタが図星だと俯く。
「じゃあ」
あたしはケイタを残して、玄関の厚いドアを閉めた。
どうしようもないよ。
緑の屋根の小さなアパート。
長くてきつい坂があって、春には桜が咲いている。
もうすぐ冬だけど、あたしは冷蔵庫の中身が入っていれば生きていける。