森の中、姉姫と執事、そしてもう一人:ルーフス
「イリス……」
ルーフスは呆然とつぶやいた。逃がした亜神のことなど、頭から消えうせていた。
暗い森の中、冴え冴えとした月光を浴びて、イリスは楽しげに微笑んだ。その後ろにはラフィンがひかえている。銀髪の執事の顔にはいつもの過剰な笑みはなく、かすかに口角を上げただけの微笑を浮かべてルーフスを見ていた。
「探しちゃったわ。見つかってよかった。さ、行きましょ」
イリスが、陶磁器のように白く美しい手を差し伸べてくる。ルーフスがその手を取ると信じて疑わないしぐさだった。
……頭がぼんやりする。
何も考えられない。
まるでまだ夢の中にいるような心地で、ルーフスはうわごとのように、
「どこに?」
と答えた。
「どこかしらね。とにかく、ローザのいるところよ。ローザを迎えにいくの」
「ローザを」
では、行かなくては。ルーフスはそう思った。イリスがローザを迎えに行くと言うなら、一緒に行かなくては。
イリスへと一歩踏み出したルーフスに、
「る、ルーフスくん。ルーフスくんっ!」
背後からしがみついてくる者があった。誰だっけ。ああ、アルトちゃんだ。ルーフスはぼんやりと考えた。
「誰? 誰それ。ちゃんと人間?」
ルーフスの左腕を背後から捕まえ、アルトは一生懸命にささやきかけてくる。イリスがふいに、
「あら」
と言った。その目はまっすぐにアルトに向けられていた。
「あらあら。こんにちは」
アルトに向け、にこやかに微笑みかける。ラフィンも満面の笑みになって「こんにちは」と手を振ってみせる。アルトは相当戸惑ったようだった。
「こ、こんにちは……。ルーフスくん、この人たちって……」
「イリスとラフィンだよ」
「えっ。それって、東宮殿下の敵っていう……」
これまでの道中で、簡単ないきさつだけは伝えてきていた。
「俺、一緒に行く」
「え? え? え? 何で?」
「ローザを迎えに行かないと」
「それはそうだけど、え? 何で?」
戸惑うアルトに左腕を捕まえられたまま、ルーフスはイリスに歩み寄った。
「行こう、イリス」
「ふふ。いい子ねルーフス。
あなたも来る?」
イリスの微笑を受け、アルトは「え?」とまた相当戸惑った声を出した。
「えっと、あの、ルーフスくん、」
助けを求めるような声は、ルーフスの耳には入らなかった。ただ、さらに一歩、イリスの方へと歩み寄った。
「行こう。ローザを迎えにいかないと」
「ふふ、そうね。じゃあ行きましょうか」
イリスの手にルーフスの手が重なった瞬間、
「わ、私も行きます!」
アルトが早口に叫んだ。ぐっと強くルーフスの腕を抱え込むアルトに、イリスは少し笑ったようだった。そして、
「じゃ、みんなで行きましょ。
兄さんがあちこちに網を張らせてるみたいね。相変わらず、やたらとまめなのよね、兄さんは」
イリスは細い肩をすくめた。けわしい顔になったルーフスを見て笑い、
「大丈夫よ。私、兄さんの網にひっかかるほどおバカさんじゃないから」
「なら、早く行こう」
勢い込むルーフスに、イリスはさらに楽しげに笑った。腕にしがみつくアルトの力がぐっと強くなった。
「そうね。早くローザに会いたいもの。それじゃ――」
「ひゃっ」
アルトが裏返った声を上げた。イリスが軽く手を振ると同時に、突然落下したような感覚が襲ってきたのだった。砂に描いた絵が吹き散らされるように、周りの景色も消えうせる。
そして、その痕跡が渦を巻いて別の形を作ろうとしたそのとき、
「姫様」
「あら」
ラフィンとイリスが同時に声を上げた。
何かの形を取ろうとしていた光の渦が、ザッと崩れた。光はそのまま消えうせ、あたりは薄暗い空間と、不気味なまでの静寂だけが残った。
「な、何? どこ?」
アルトがルーフスの腕にしがみつき、震える声を上げた。
「妙な落とし穴がございましたので、その手前で立ち止まったのですよ」
ラフィンがにこやかに言う。前へと歩き出したイリスをちらりと見てその後に続きながら、
「落とし穴を掘った方に少々お説教して、それからまた移動いたします。何のご心配もいりません」
数歩だけ前に歩き、イリスはふと足を止めた。一瞬の間をおいて振り返る。
「誰? そこにいるわね」
ルーフスの背後の薄暗い空間へと言った。
「器用な罠を作っているのね。まさか、兄さん? ずいぶん腕をあげたのね」
ルーフスは思わず振り向いた。
そこに、人影があった。
「落とし穴か。だとすればお前たちはもう、その底に落ちているようなものだ」
すっと、人影が一歩踏み出した。アルトが声を漏らす。
「あの子……!」
それは、東宮ではなかった。
ルーフスより少し低いくらいの背丈。
左肩でゆるくくくった白銀の髪。守り刀。
ガラス玉をはめ込んだような、色の薄い瞳。
――――ナーヴ!
ルーフスが刀に手をかけると同時に、
「あら」
イリスの目が大きく見開かれ、それからいきなり声を上げて笑い始めた。ひどく滑稽なものを見て、笑いが止まらないといった様子だった。
「まあ、こんなところで会うなんて。しかもそんな格好で」
「会うつもりはなかったが、ちょうどいい」
ナーヴの声は、いつも通り冷たいままだった。
「王冠をもらうぞ」
「い、や、よ」
イリスは突然、舌をべーっと突き出した。そしてすぐ、それがおふざけであったかのように笑い転げた。
「ああおかしい。ね、ルーフス」
いきなり話を振られてルーフスは戸惑った。振り返った先で、イリスはさらに笑う。
「ふふ、ごめんなさい。あなたはこの人が誰なのか知らないものね。
でも、紹介はしてあげられないわ。こんな人にあなたを紹介するなんて、まっぴらごめんだもの」
「ナーヴだ。ナーヴだよ。知ってるよ、俺。
皇帝の弟の息子だろ。ローザとイリスのいとこだ」
イリスはすっと笑い声を止め、口元にわずかに笑みを残した顔でルーフスを見た。
「そう。とっくにルーフスにちょっかいをかけていたのね」
イリスの後ろで、ラフィンがちょいちょいとルーフスを手招いた。
「ぼっちゃま、こちらにおいでなさいまし」
とまどって、イリスとナーヴの間で左右を見比べていると、イリスが笑った。
「こういう言い方は好きではないけど、そんな人と遊んじゃダメよ。ルーフスまで不良になっちゃうわ」
「ぼっちゃま」
ラフィンがにこやかな笑顔でまた手招く。
「こいつ、亜神なのか?」
ルーフスは身を固くして問いかけた。手は刀のつかをにぎりしめ、左腕をつかまえたままのアルトを、無意識に背後にかばおうとしていた。
ナーヴは黙っている。ラフィンは、イリスの言葉を待つようにほほえんだままだ。そしてそのイリスは、
「どうかしらね」
ナーヴに挑戦的な目を向けた。
「本人はそう思ってるみたいだけど?」
「どうでもよいことだ。
私はこれから王冠を取り戻し、亜神の王となる。それだけだ」
王冠。前にも聞いた。……そうだ、前にも……。
そうだ、森の中で、妙な老人に攻撃された時だ。
ローザとイリスの母上だけが、王冠を持つ者を産むことができたと、そう言っていた。
王冠を持つ者とは、イリスのことだ。
こいつは、イリスを傷つけようとしているんだ。
燃え上がるような憎悪がわいた。刀を抜こうとしたその時、
「あの、」
突然、ルーフスの肩にしがみついているアルトが、本当に突然に言った。
「皇帝陛下ですか」
ナーヴの目がアルトに向いた。イリスも、ちらりとアルトを振り返った。
「ですって。ばれちゃったわね、お父さま?」
楽しげに言ったイリスに、ナーヴはただ冷たい目を向けただけだった。
「皇帝? こいつが?」
ルーフスは戸惑いを隠せなかった。
皇帝。この帝国の主。イリスと、そしてローザの父親。
「そうよ」
イリスはこらえきれないような笑いを漏らした。
「魂の一部だけが勝手に動き回っているのね。道理で、お父さま本人が伏せったままなわけだわ」
「魂の一部って」
「お父さまの魂の、亜神の部分だけが切り離されて実体化しているのよ。本体であるお父さまは、魂の一部を失った状態なんだから、だいぶつらいわね」
ルーフスには、まるで意味がわからなかった。
「帝都の結界に内側から穴を開けたり、ただの人間を降魔に侵食させたり。てっきり叔父さまがやっているんだと思っていたわ。糸をひいていたのはお父さまだったのね」
「やったのはバサントゥめだ。どれもこれも、中途半端に」
何が楽しいのか、イリスは声を上げて笑った。
「……それで、自分の弟のことも、降魔に食わせてみたってこと?」
「バサントゥか? 降魔に食わせたりはしてない」
ナーヴは冷たく言った。
「侵食させただけだ」
そしてすっとローブのポケットに手を入れ、何かを引き出した。
長い紙のようだった。無造作に押し込んであったのを、端を持って広げながら引き出したのだ。ナーヴの指がつまむ先端は、人の髪があり、ひらひらと揺れていた。
「イリスリール、ひかえよ」
震える声がして、
「ひっ!」
アルトののどが鳴った。
ルーフスは目を疑った。ナーヴがポケットからつまみ出したのは、青白く、紙のように薄っぺらくなり、たたまれてポケットに詰め込まれていたのは、確かに人の姿だった。
見たことがある。ルーフスはぞっと粟立った自分の腕を抑えた。ザイン砦に行く途中で出会った、ナーヴを息子と呼んでいた粗暴な男。皇帝の弟で、ローザの叔父であるはずの男。
薄っぺらい紙になっていたが、確かにそうだった。
死人のように青白い顔で、ひらひらと揺れながら、人らしきものはぎらぎらと光る目だけを動かした。
「ひかえよ。われは、こうていとなったぞ」
寒さにこごえきった者が、回らない舌で喋るような言葉だった。
「あらあら、叔父さま」
イリスが、何の感動もなく言った。
「ずいぶんスリムになってしまったわね。私が小さかったころみたいだわ」
「降魔に浸食させた。だが、こんなものになってしまった。こやつは、どこまでも私を失望させることしかしない」
ナーヴはため息をつき、躊躇のないしぐさで弟をポケットに押し込んだ。
「ひかえ、」
震える声がとだえる。それでも、ルーフスは身動きができなかった。悪夢のように思えた。
「……お前はずいぶんとうまくやったようだな」
ナーヴの色の薄い目が、すっとルーフスに向いた。ぞっとすくみ上ったルーフスの胸を、
……痛い、心臓が……!
えぐるような痛みが貫いた。
「ルーフスくん?! どうしたの!」
思わず胸を抑えて座りこみそうになった耳に、アルトのあわてた声が届く。そして、ゆっくりとした衣擦れの音も。
「王冠をこの手に戻さねば、こやつ程度の人形も満足に作れぬ」
激痛の中、ルーフスは顔だけを上げた。目の前をナーヴが通り過ぎようとしている。
イリスの方へと。
イリスを傷つけるために。
「イリスに近寄るな!」
自分が叫んでいるとの自覚もないまま、ルーフスはナーヴにつかみかかった。ルーフスが動くことなど考えてもいなかったらしいナーヴが振り向く前に、上質のローブのすそを、確かにわしづかみにした。腕を抱え込んだままのアルトが引きずられて悲鳴を上げ、そしてナーヴの見開いた目がこちらを向いた。
「触れるな、下賤めが!」
その腕が、強く一振りされた。




