イラハル神殿を囲む森で、戦いと再会:ルーフス
夜半。
猟師小屋で眠っていたルーフスは、突然水面にすくい上げられたように目を覚ました。
たき火をはさんだ向かい側で、アルトが横になっている。ぐっすり眠っているようだった。
意識に引っかかったのは、それではなかった。
「――――!」
息をのむようにしてさやごとの刀をつかみ、足早に猟師小屋を出る。大きな月が天にかかり、森を照らしていた。
その月光の中に、歩いている人影がある。
音を立てたつもりはなかったのに、人影はすっとこちらを振り返った。
それは、ごく普通の男のように見えた。どこにでもありそうな古いロングコートを着た、どこにでもいそうな普通の男に見えた。
だが、
……なんだ、このぞっとするかんじ……。
ルーフスは全身を包む寒気とともに、その男から目が離せなくなった。
「何だ、お前」
男が急に声を発した。
「変なやつだな。何だお前は」
気の抜けた声だった。そして、外見に不釣り合いな、やけに甲高い声だった。ルーフスは危うく取り落しかけた刀をしっかり握り直し、
「お前こそなんだ。騎士じゃないよな」
できる限り強い声を出した。男は返事をせず、目が悪い人間が遠くの文字を読もうとするときのように眉間にしわを寄せてじろじろとルーフスを見ると、
「気味が悪い。関わりたくないや。じゃあな」
それだけ言い放ち、男は軽く手まで振ってルーフスに背を向けた。その、背を向けた仕草でなぜか勘付いた。
「お前、亜神だな」
刀にかけた手に力がこもる。男は笑って振り返り、両腕を広げてみせた。
「そう、そうなんだよな。人間にはこの姿が人間に見えるんだ。
面白いよな。俺たちからすりゃ、俺たちと人間は似ても似つかないってのに」
それから首を傾げ、まじまじとルーフスを見た。
「お前は分かんないんだよな。なんなんだ、お前」
ルーフスは取り合わなかった。
「お前、イリスの手下か」
「イリス? ……ああ。
当たり前だろ。俺たちはみんな、王の臣だ」
「どこに行く。何が目的だ」
「王の元へ。王が俺たちを呼び集めておられる」
……イリスが、亜神を……!
「おまえさあ、しつこいよ。気色悪いから見逃してるけど、いい加減にしないとこっちも気が変わるよ?」
ルーフスは一歩、前に進んだ。
「イリスはどこにいる」
亜神はじっとルーフスを見、すっとコートの内側に手を入れた。
――腰に、刀をつるしている。
見えた瞬間、ルーフスは地面を蹴っていた。
「寄こせ、それ!」
自分でも恐ろしいほどの速度が出た。斬りかかったと気付くより早く斬りかかった刀が、重い音とともに亜神の刀に止められる。
「本当になんだ、お前……」
至近距離で刀を押し合いながら、亜神の顔からは笑みが失せていた。
「イリスはどこだ、イリスは……」
ルーフスは取りつかれたようにうめいた。狼のような牙があったら、亜神の頭にでも腕にでもかみついていただろう。
亜神の重心がわずかに動く。察知し、ルーフスは相手が動く前に鋭く身を返した。
押し合っていた刀が離れ、亜神の上体が前に倒れる。ルーフスの左足がその胸めがけて叩きこまれ、それを防いだ亜神の腕が戻るより早く、ルーフスの刀が亜神の脇腹に深々と突き立った。
「ぐっ!」
亜神は低く声を漏らし、ルーフスの首へと鋭い突きを見舞った。地を蹴って距離を取り、ルーフスは亜神からひきぬいた刀のきっさきを見つめる。
「殺せないか……。どこだよ、核は……!」
「なんだ、お前」
亜神もまた、大きく一歩後退して距離を取っていた。ダメージは、決して小さくはないようだった。余裕の消え失せた声で、
「俺たちの仲間じゃない。だが、人間でもない。なんなんだ、お前は……!」
「俺は、」
答えようとして、ルーフスは息をのんだ。
……俺は……。
「ルーフスくん?!」
突然背後から飛んだ声に、心臓がはねるほど驚いた。
「だ、大丈夫? なに? それ誰?」
「アルトちゃん……」
つぶやいた自分の声が、自分のものではないようだ。心臓に杭を打たれたような痛みが走り、刀を取り落しそうになった。必死で声を張り上げる。
「大丈夫! 小屋に隠れて――」
「ルーフスくん!」
アルトの叫びが気づかせた。目の前に、亜神の刀があった。
「死ね」
小さな声が耳に届いた瞬間、心臓が燃えるように熱くなった。
体が、勝手に動くように思えた。人間では決して追いつけないはずの亜神の刀、それが身に届くより早く、ルーフスの刀が亜神の片腕を斬り飛ばしていた。
「なにっ……」
亜神の顔が驚愕にゆがむより早く、ルーフスの刀はその胸の中心を刺し貫いた。ありえないほどの力で亜神の体を突き倒し、刀ごと倒れた亜神は、仰向けに地面に串刺しになった。
背後で、アルトが悲鳴を上げた。血を流す斬り合いなど縁がないであろうメイドがどれほどのショックを受けたか、その時のルーフスの頭には浮かばなかった。
「イリスはどこだ……!」
息が荒い。おさえようとしても、空気を求めてあえぐような呼吸が止まらない。亜神の体の横にひざをつき、刀のつかに掛けた手に力ばかりがこもる。
「イリスはどこだ! 答えろ!」
「ルーフスくん、やめて! 誰それ!」
アルトが駆け寄ってきた。背後からルーフスの肩にしがみつき、
「ルーフスくんを追ってきた人?! やめて、死んじゃうよ!」
必死で刀から手を離させようとする。そっちを振り返りもせず、ルーフスは叫んだ。
「こいつはイリスの手下の亜神だ! イリスがどこにいるか、こいつに吐かせる!」
「亜神……?! この人が?」
とまどったように、アルトの手から力が抜けた。と同時に、亜神が低く笑った。胸を刀で貫かれたままだ。背後のアルトが息をのむのが分かった。
「そうか、お前、王の……。
手を出した俺がバカだったな」
ルーフスは完全に油断していた。こいつにイリスの居場所を吐かせるのだと、もうそれしか頭になかった。だから、突然に動いた亜神の腕への反応が遅れた。
手刀が、ルーフスのわきに叩き込まれた。そう知覚したときにはルーフスはその場を吹き飛ばされ、横手の地面に倒れこんでいた。亜神の手が、己を串刺しにしている刀を抜き、投げ捨てる。
「じゃあな、気味悪いやつ」
最後にまた余裕のある声だけを残して、亜神の姿は糸がほどけるように消える。
「ルーフスくん!」
アルトが悲鳴を上げて駆け寄ってきた。亜神どころか、降魔の一撃でも、まともに受ければ起き上がれないはずが、ルーフスは苦鳴を漏らしながらも土の上に起き上がることができた。
「大丈夫?! ごめん、私が止めたりしたから……!」
「……そんなことはいい!」
手を差し伸べようとしたアルトを、ルーフスは強く押し返した。脇腹を抑えながら、何とか立ち上がる。
「近くにイリスがいるんだ……! 探さないと」
「待って、無理だよ、一度座って」
「邪魔するな!」
怒鳴りつけると、アルトの体がびくっとはねた。
メイドはしばらく絶句し、荒い息をつきながら暗い森を見回すルーフスを見ていた。
「どうしちゃったの、ルーフスくん……」
おびえ、戸惑っている。アルトちゃんを困らせているとわかりはしたが、自分を抑えられなかった。
「どうしても何も、とにかく行かなきゃダメなんだ!」
もう一度怒鳴ったとき、
「ふふ……」
小さな笑い声が耳に届いた。
「わかるわよ、ルーフス。
私に会いに来てくれたのよね?」
涼やかな声が続く。
さあっと、砂が風に吹きあつめられるようにそこに粒子が集まった。2人分の人影を作り出す。
長い髪を柔らかく揺らした少女と、背の高い銀髪の男の姿を。
「イリス……!」
ルーフスはかすれた声でつぶやいた。