揺らいだ結界の校舎で:フォルティシス
ぐったりと眠っている様子のエディの横でまどろむこと一つできず、夕食の知らせとともにメイが起こしに来るまで、フォルティシスは横になったまま目を開けて考えていた。
何事もなかったような顔で生徒たちと夕食をとり、明日は何をすべきか話し合う生徒たちの輪からさりげなく離れて、ひとり一階へと降りた。
辺りに人気がないことを確かめ、感知の符を発動させた。
やっぱりだ。
結界が揺らいでいる。
フォルティシスは拳を握りしめた。やはり、この結界は古すぎるのだ。
あの亜神が、すぐそばに現れたせいか。結界は一気に不安定になっていた。
「フォルテ?」
後ろから声をかけられ、ぎょっとして振り返った。
刀を提げたエディが立っていた。
「お前、なんでおりてきた」
思わず問いかけると、エディは急に困ったような顔になった。
「お前がいないって、そう思って……」
わざわざ探しに来たのか。俺を。一瞬、その紫の瞳がひどくいじらしく見えたが、
「いま、何をしてたんだ」
エディはすぐにあごを引き、じっとフォルティシスを見つめた。
「何か、あったんじゃないのか」
とっさに口をついて出そうになった『なんでもない』という言葉を、フォルティシスは飲みこんだ。
こいつの信頼を失いたくない。そう強く思ったのだ。
「……お前、どう思う」
「え?」
「ニーヴル、カスク、侍従のザイアン、それにメイ。あいつらは、一緒に戦っていけるやつらか?」
「そう思う」
即答だった。フォルティシスはうなずく。
「わかった。部屋に戻ろう。お前にも、あいつらにも話す」
「この校舎の結界も、不安定になっている」
その一言で、生徒たちの室内は静まり返った。
エディ以外の全員が、呆然と沈黙している。
「平民寮と、同じ状態ってことか? 一日持つかどうかわからないくらいの?」
「いや、そこまでじゃない。
このままの状態が保てるなら、化け物どもが消えうせるまでくらいはもつはずだ」
「でも、」
メイが言い、全員の視線がそちらに向いた。
「『でも』なんでしょ。このままの状態ってのが保てるのかどうかわからないんでしょ」
「そうだ。
化け物どもの中に一匹、ひどく強いやつがいる。やつが近くに現れたら、さらに揺らぐかもしれん。
ザコの化け物どももだ。もし、押し寄せられでもしたら、どうなるかわからん」
今度はニーヴルが口を開き、
「一匹一匹なら、ザコは大丈夫なんだな?」
「今のままならな」
フォルティシスの返答に、うなずいて黙りこんだ。
「街の人に知られたら、まずいよね」
カスクの声は震えていた。
「みんなパニックになる。校舎を捨てて逃げ出そうとするかも。そうしたら、僕たちだけじゃ抑えきれない」
「先生たちには? 話すしかないわよね」
「先生たち全員にはまずいよ。何人か、さわぎ出しそうな人がいる」
「確かにそうだけど、でも」
メイと2人、議論を始めるのを横目に考えていたニーヴルがまた口を開いた。
「ザコたちが、急にここに押し寄せてくるってことはありうるか?」
「刺激しなければ、まずないだろうな。結界が機能している間は、人間の存在を感知できないはずだ」
「じゃあ、」
「俺が行って斬ってくる」
突然言ったのはエディだった。
彼はすでに刀を握りしめ、立ち上がろうとしていた。
「あの亜神ってのを斬るのが一番安全だ。俺が行って、斬ってくる」
「ちょ……待って!」
「何言ってるんだ」
メイとカスクが左右からすがりつくようにして止めた。
「そいつ強いんでしょ? 1人で出来るわけないじゃない!」
「でも、あいつを斬らなきゃみんな死ぬ!」
いきなり声を荒げたエディに、すがりつくカスクがびくっとした。
「こうしてる間にも、あいつが現れて結界を壊そうとしてるかもしれないんだ!」
カスクの手を振り払い、ほとんどにらみつけるような目でこちらを見た。
「みんな殺される! あいつらは人間を殺したがるんだ!」
「落ち着いてよ!」
叫んだメイに、ぎらついた視線を向け、
「みんな殺されるんだぞ! それでいいのかよ!」
怒鳴ったエディのその声よりも強く、
「いいわけないだろ!」
いきなりカスクが怒鳴った。
エディは、怒鳴り返そうとしたのだろう。一瞬息を吸いこんで、ぴたりと止めた。カスクの目から涙がぼろぼろこぼれ落ちたのだ。
「いいわけないから、みんなで考えてるんじゃないか! だ、だれも死なないで済むようにって……! 必死で考えてるんじゃないか!」
それだけ叫び、うめくように泣き始めたカスクに、侍従のザイアンがあわてて寄り添い、背をさすり始める。
「エディ」
呆然と立ち尽くす紫の目が、フォルティシスの声にのろのろとこちらを向いた。
「お前だけじゃない。みんな恐怖をこらえて最善を探してるんだ。……そうできるやつらだと思ったから、このことを話した。わかるな?」
「……ごめん……」
エディは消え入るような声で言い、腰を下ろした。
「……でもさ」
黙って見ていたニーヴルがぽつりと言った。
「それしかないのは本当なんじゃないか。
あの化け物、倒しとくしかないんじゃないか」
場に重たい沈黙が落ちた。それを打ち破り、
「その通りだ」
フォルティシスは宣言した。
「俺たちでヤツを倒す。そのために、お前らの力を貸せ」
――深夜。
皆、眠れない様子だった。寝返りをうつかすかな音が、頻繁に繰り返される。
話し合い、覚悟は決めた。だが、それで不安がなくなるわけでもない。誰も声を出さないまま、教室に敷きつめられたマットの上で、眠れない夜を過ごしていた。
明日に差し支えるかもしれん。符で無理にでも眠らせるか?
フォルティシスがそんなことを考えはじめたとき、横で起き上がる気配があった。音もなく開けたドアをすり抜けて出て行ったようだ。
……エディ。
フォルティシスも起き上がった。同じようにドアをすり抜け、廊下に出て、階段を下りる背を追う。階上に声の届かない一階まで来たところで「どこに行く?」と声をかけた。
「あ……」
彼は振り返った。校舎内には、窓越しに入ってくる朧な月明かりしかない。どんな表情をしているのかまではわからなかった。
「様子を……見てこようかと思って」
「見てどうする。部屋に戻って寝ろ」
「……」
彼はだまってしまった。
「降魔を斬りに行くつもりだったんじゃないだろうな」
「……」
「自制しろ、エディ」
厳しく言うと、薄闇の中で彼の目がこちらを向いたようだった。
「……じっとしてられないんだ」
「不安か?」
うんともいいやとも、彼は返事をしなかった。うつむき加減に立ち尽くすその姿が、ひどく頼りなげに見える。歩み寄り、肩をつかんで引き寄せた。抱きしめ、なだめるように髪をなでてやる。
「大丈夫だ。俺を信じろ。俺たちならやれる」
エディの手がフォルティシスの背に回った。
「……大丈夫だよな? 心配要らないんだよな?」
「ああ、大丈夫だ」
「もう、死んだりしないんだよな?」
もう? 少し疑問がわいたが、
「ああ、大丈夫だ」
フォルティシスはそれだけを繰り返した。エディはしばらくこちらの胸に顔を押し付けていたが、やがて離した。
「わかった。もう寝る」
そう言って腕の中から見上げてくるその顔に、
「ああ、そうしろ」
フォルティシスは顔を近づけた。互いに抱きしめあって、まるで恋人同士のようにキスをした。